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2009/7/31

ローマ帝国の物語-74  パンとサーカス  ローマ帝国の物語

地中海を制覇したローマ帝国は、広大な属州を有し、それらの属州から搾取した富により、ローマ市民は働く必要がなくなっていました。 また、大きくなりすぎたローマ帝国の権力を維持するために、権力者はローマ市民が反乱を起こさないよう「パンとサーカス(ラテン語: panem et circenses)」により、市民の政治的無関心を作り出しました。  この「パンとサーカス」という言葉を最初に用いたのは、古代ローマ時代の弁護士、かつ風刺詩人であるデキムス・ユニウス・ユウェナリス(紀元60-130年)で、サーカスはあくまでも後世の英語読みで、「キルケンセス (circenses) 」は古代の競技場で戦車競争が行われたところですが、拡大解釈して剣闘士競技、また娯楽という意味です。


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2009/7/30

ローマ帝国の物語-73  ポンペイ最後の日  ローマ帝国の物語
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■ The last Day of Pompeii (1827-1833)
   Karl Briullov(1799-1852)
   465.5x651cm │ The State Russian Mueseum │ Saint Petersburg │


ナポリの南東およそ20キロのところにポンペイという町があり、土地が肥沃で、交通の要でもあったため、紀元前8世紀頃からギリシア人が移り住み、町は飛躍的発展を遂げました。 ポエニ戦争ではカルタゴ側についたものの、ポンペイはローマの支配下に入り、ローマ市民権を得る事を条件に、ポンペイはローマの属州となりました。
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2009/7/29

ローマ帝国の物語-72  第二次ユダヤ戦争  ローマ帝国の物語

第一次ユダヤ戦争で、徹底的にエルサレムを破壊されたユダヤ人の反ローマ感情は高まる一方で、戦争後も周辺諸国に散ったユダヤ人たちは各地で暴動を起こしていました。

バル・コクバの乱(紀元132年〜135年)は、ユダヤ人のローマ帝国に対する2度目の大きな反乱で、第二次ユダヤ戦争とも呼ばれています。  この戦争でユダヤ人の抵抗があまりに大きかったので、ローマ皇帝ハドリアヌスは徹底的にユダヤ的なものの根絶を目指し、属州「ユダヤ」の名前を廃して、属州「シリア・パレスチナ」としました。 

パレスチナの語源は、「ペリシテ人の土地」という意味で、紀元前13世紀頃にペリシテ人が住み着いたことに由来します。 この土地は、旧約聖書では「カナン」と呼ばれたところです。 ユダヤ人の祖アブラハムがこの地に入植し、ペリシテ人を追い出し古代イスラエル王国をつくったわけですが、ハドリアヌスはパレスチナというユダヤ人の嫌がる名前をつけ、ユダヤ人が帰ってこないようにしたのです。

以後、祖国を失ったユダヤ人たちは、世界中に離散(ディアスポラ)する事になりました。


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2009/7/27

ローマ帝国の物語-71  消えたエルサレム教団   ローマ帝国の物語

第一次ユダヤ戦争(ユダヤvsローマ帝国)の時に、エルサレムを拠点とし、ソロモン第二神殿で祈りを捧げていた 「エルサレム教団」 がエルサレムから姿を消すという大事件が起こりました。

ユダヤ人ユダヤ教徒たちの立場になって考えると、ユダヤ民族が一致団結して、強大なローマ帝国と戦い、エルサレムを守ろうとしているのに、その場を逃げ出すとは、とても許せないという気持ちが、 「エルサレム教団」 に対する憎しみとなりますが、これが、ユダヤ人ユダヤ教徒が、原始キリスト教徒に対する憎しみの火に油を注ぐ結果となり、戦争が終わってから、ユダヤ人ユダヤ教徒による、エルサレム教団のキリスト教徒に対する迫害はさらに大きなものとなりました。

こうして、ローマ帝国、ユダヤ教徒、異邦人キリスト教徒たちから迫害を受ける 「エルサレム教団」 は、ペラから帰る場所がなくなり、孤立を深めていくことになり、そうして、原始キリスト教の主導権は、 「アンティオキア教団」 に移ってゆきます。

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2009/7/26

ローマ帝国の物語-70  第一次ユダヤ戦争  ローマ帝国の物語
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マサダ要塞 

マサダは砂漠の中にそそり立つ、標高約400メートル級の岩山。 紀元前120年ごろ、この地形を利用して要塞が築かれ、その後ヘロデ王が難攻不落の要塞と宮殿に仕上げました。 遺跡からは、大浴場、貯水槽、食料庫などの設備はもとより、モザイクやフレスコ画などの装飾にも優れた大施設だったことがうかがえます。


ネロ皇帝が自殺する2年前、ネロ皇帝在位中の紀元66年にユダヤ社会全体が古代ローマ帝国に対して宣戦を布告したのを、「第一次ユダヤ戦争」 と呼びます。  

この戦争によって、ユダヤの牙城であったエルサレムは陥落し、紀元70年にソロモン第二神殿は完全に破壊されてしまいます。 それでも、激しく抵抗するユダヤ人たちは、ヘロデ王がつくったマサダ要塞にたてこもりますが、紀元74年の春、ローマの司令官フラウィウス・シルウァがマサダ要塞を陥落させ、この要塞に立てこもっていた960人のユダヤ人は、2人の女性と5人の子供を残し、全員が集団自殺して果てるという壮絶な幕切れで、第一次ユダヤ戦争は終結しました。


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2009/7/26

ローマ帝国の物語-69  皇帝ネロの自殺  ローマ帝国の物語

紀元55年のブリタンニクスの殺害に始まり、59年に母(アグリッピナ)、62年に妻(オクタウィア)、65年にセネカ(副臣)を殺害、加えて64年に発生したローマ大火の犯人として罪のないキリスト教徒たちを迫害(猛獣の餌、十字架にかけ火を放ち大松化)し、そのやり方の残虐性から、ローマ市民は我慢の限界に達していました。


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2009/7/25

ローマ帝国の物語-68  Quo Vadis (主よいずこへ)  ローマ帝国の物語
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Domine quo vadis? │CARRACCI, Annibale1 601-02│
Oil on panel │ 77,4 x 56,3 cm │ National Gallery, London │


紀元64年に、ローマで大火が起こり、全市の70%が焼けてしまう惨事がありましたが、人々の間では 「 ネロガ放火させた 」 という噂がたったので、この風評をもみ消そうとして、ネロはキリスト教徒にその罪をなすりつけようとして迫害し、

おびただしい数のキリスト教徒たちは、なぶりものとされ、野獣の皮をかぶされ犬に噛みさかれたり、燃えやすいように仕組まれた十字架にかけられて、夜の灯火代わりに燃やされました。

ペトロは迫害の激化したローマから逃れようとアッピア街道を急いでいると、人っ子ひとりいない街道のかなたから、光のようなものが音もなく近づいてくるのが見えましたが、それは、イエスでありました。  ペトロが、 「主よ、どこに行かれるのですか?」 (Domine, quo vadis?) と問うと、イエスは、 「お前がわたしの民を捨てるなら、私はローマに行ってもう一度十字架にかかろう。」 と答えられました。


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2009/7/25

ローマ帝国の物語-67  皇帝ネロ  ローマ帝国の物語
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ローマ帝国代5代皇帝ネロ (Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus; AD37-68)


紀元41年1月24日、第三代ローマ皇帝カリグラは副官カレアスとサビヌスによって暗殺され、第四代皇帝には叔父のクラウディウスが就任しました。 クラウディウスには元妻メッサリナとの間にブリタンニクスという男の子がおり、彼を後継に指名しようとしたところ、妻アグリッピナは自分の息子ネロを皇帝にするために、彼に毒入りのキノコを食べさせ、彼が全て吐き出しても介抱すると見せかけ、再び彼の口に毒を注ぎ込みました。 クラウディススは一晩中もだえ苦しみ、夜明け前に息を引き取りますが、紀元54年10月13日、享年64歳でありました。 そうして、アグリッピナの望みどおり、ネロは、紀元54年わずか17歳の若さで皇帝の座に就く事になります。  



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2009/7/24

ローマ帝国の物語-66  教会の誕生  ローマ帝国の物語

イエスの昇天後40日立ったペンテコステ(五旬節)の日、イエスの弟子達の上に神の霊が下り、弟子達は世界中の言葉で神の偉大な業を語り始めました。 弟子たちは、イエスの復活に立ち会ったと確信し、自分が信じるだけでなく、人にも語り伝えずにはいられなくなり、宣教活動をはじめ、使徒たちとその周りに集まった人々は、その活動がし易いように、自然発生的にエクレシアと呼ばれる教会ができました。 これが、キリスト教の最初の教会であります。



教会の誕生
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/457.html





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2009/7/23

ローマ帝国の物語-65  エルサレム教団 と アンティオキア教団     ローマ帝国の物語

紀元1世紀の中頃、原始キリスト教には、2つの教団がありました。
ペトロが率いる 「エルサレム教団」 と、パウロが率いる 「アンティオキア教団」 です。



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