2009/9/30
マキアヴェリ -1 プロフィール マキアヴェリ

ニッコロ・マキアヴェリ(Niccolò Machiavelli, 1469年5月3日 - 1527年6月21日)
マキアヴェリは、ルネッサンス期の政治思想家で、著書に、「君主論」、「ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考」「戦術論」などがあり、理想主義的な思想の強いルネサンス期に、現実主義的な政治理論を展開した事で知られています。 彼の思想の独創的なところは、政治を宗教・道徳から切り離して考えたところにあります。

2009/9/25
ローマ帝国の物語-100 まとめ ローマ帝国の物語
2009/9/24
ローマ帝国の物語-99 コンスタンティノポリスの陥落 ローマ帝国の物語

Historic Areas of Istanbul
西ローマ帝国が滅亡して以降、東ローマ帝国は大きく変化し、公用語はギリシア語となり、キリスト教やイスラム教の影響を強く受けました。 しかしながら、東ローマ帝国は優れた皇帝に恵まれたため繁栄を続け、西ローマ帝国の滅亡から1000年近くも存続し続けました。 その東ローマ帝国もついに滅びる日がきて、1453年4月にオスマン帝国のスルタンであるメフメト2世が10万の大軍を引き連れ、コンスタンティノポリスへの進軍開始、5月29日、夜明け前とともにオスマン帝国軍の総攻撃が陸海両面から始まり、コンスタンティノポリスは陥落し、ローマ帝国の歴史は終わりを告げました。
Constantinopolis
http://www.geocities.jp/whis_shosin/bizan.html

2009/9/23
ローマ帝国の物語-98 ウルバン砲 ローマ帝国の物語

ポーツマス王立兵器庫保管の青銅のウルバン砲
ウルバン砲とは、オスマン帝国が1453年のコンスタンティノポリスを陥落させた時に使用した巨砲で、名前は開発者であるハンガリー人、ウルバンにちなみます。
ウルバンは当初東ローマ帝国側に大砲を売り込みましたが、拒絶され、しかも牢獄に送られたためにオスマン帝国側に、この最先端兵器を売却し、オスマン帝国はコンスタンティノポリスの難攻不落のテオドシウスの城壁を打ち破りました。

2009/9/23
ローマ帝国の物語-97 ムハンマド ローマ帝国の物語
東ローマ帝国は、1453年にイスラム勢力のオスマン帝国により滅亡させられますが、イスラム教の創始者ムハンマドは、東ローマ帝国が衰退をはじめた570頃、アラビア半島の商業都市メッカで生まれました。
当時、アラビア半島は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とササン朝ペルシャの両大国にはさまれ、時には一方の勢力圏になり、時には他方の勢力圏になるということを繰り返していましたが、ムハンマドの登場する頃には少し状況が変わり、大国同士の戦場になりやすいメソポタミアやコーカサス、東アナトリアを通るルートを避けて紅海を通る商人が増えてきたために、ヒジャーズ地方(メッカ・メディナのあるところ)が発展し始め、大国の力が衰え始めたときに、独立を目指して新しい勢力(イスラム教)が台頭してきても不思議ではありません。

2009/9/22
ローマ帝国の物語-96 帝国最後の皇帝 ローマ帝国の物語

ローマ皇帝 ユスティニアヌス1世(在位527−565年)
東ローマ帝国が滅亡するのは、1453年オスマン帝国により、コンスタンティノポリスが陥落された時なので、ユスティニアヌスが本当の意味での最後の肯定ではありませんが、一時的とはいえ、往年のローマ帝国の版図を回復し、その後の東ローマ帝国が持ち続けた「ローマ帝国」と言うイデオロギーをもてる根拠となり、帝国を精神的に支えたからであります。

2009/9/20
ローマ帝国の物語-95 教会音楽 ローマ帝国の物語
クラシック音楽のルーツは、教会音楽のグレゴリオ聖歌であると言われています。 ローマ帝国がキリスト教を国教として定めて以来、音楽は宗教色の強いものでしたが、神中心から人間中心という思想が台頭したルネサンス期に、ミサ曲は神への祈りから、作曲家によって創作された 「音楽作品」 として意識されるようになりました。

2009/9/18
ローマ帝国の物語-94 西ローマ帝国の滅亡 ローマ帝国の物語
ローマ帝国滅亡原因となったのは、テオドシウスが死に際して、ローマ帝国をコンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国と、ミラノを首都とする西ローマ帝国に分割し、二人の息子をそれぞれの皇帝につけた事にあり、テオドシウスが亡くなり、二人の息子が帝位を継いだ395年が、ローマ帝国の東西分裂の年とされています。
不幸な事に二人の息子は、ともに愚者でありました。

2009/9/16
ローマ帝国の物語-93 クリスマス ローマ帝国の物語

クリスマスツリー
誰もが毎年、12月に飾るクリスマスツリーですが、天辺にある大きな星が何を表しているのか知っている人は、そんなに多くありません。 これはベツレヘムの星で、イエスキリストが生まれるときに、空に大きく輝いた星で、この星を頼りに東方の三博士は生まれたばかりのイエスのもとにやってきました。

2009/9/14
ローマ帝国の物語-92 ローマ帝国を飲み込んだキリスト教 ローマ帝国の物語

コンスタンティヌス皇帝(在位306-312) キリスト教の洗礼を受けた初めての皇帝
5世紀の歴史家ソゾメンによると、コンスタンティヌスはガリアまたはブリタンニアの辺りに駐在している間、現地で広まっていたキリスト教の洗礼を受けたとしていますが、洗礼の時期については、当時の風習に従い死の直前だったという説もあります。 コンスタンティヌスは自らキリスト教を信仰しただけではなく、宮殿でもキリスト教を広めようとし、コンスタンティヌスがキリスト教を広めた理由について、哲学者バートランド・ラッセルを始めとする多くの歴史家は、キリスト教の持つ組織力に目をつけたためだと指摘しています。
