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2011/4/23

邪馬台国と卑弥呼-85  銅鐸のルーツ  邪馬台国と卑弥呼
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中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸

中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸が見つかっています。 

南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ており、中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」とされています。 鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いています。

同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。 日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江(揚子江)下流域の呉(?〜紀元前473)と越(?〜紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるものの、2006年に実際に中国で出土しています。 楚に滅ぼされた越から日本に逃れ、稲作の伝来と同時に、この銅鐸を日本に伝えたのでしょう。

中国南部では、越が呉をBC473に滅ぼし、呉の一部の人々は、海を渡って日本に逃れ、広島県の呉市などは、呉の人がつくった町ではないかと私は考えています。 その後、BC334には越が楚に滅ぼされますが、この時にも越の人々が日本に逃れてきて、越国(福井県・石川県・富山県・新潟県・山形県)の米どころをつくったのではないでしょうか? そして邪馬台国をつくったのは、雲南省の女性シャーマンのいる倭族がつくった填王国が紀元1世紀頃から衰退しますが、彼らが日本にやってきて礎を築いたのだと思います。


米に関わりのある越の国、また苗族(ミャオ族)の苗という漢字も気にかかるところです。


邪馬台国と卑弥呼-25  苗(みゃお)族
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1272.html
邪馬台国と卑弥呼-45  滇(てん)王国
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1292.html
邪馬台国と卑弥呼-46  高床式建築 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1293.html

邪馬台国と卑弥呼-55  卑弥呼の踊り
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1303.html
阿佤 Awa / 佤族舞蹈 Wa Folk Dance
http://www.youtube.com/watch?v=26xRKadlQRo&feature=related



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2011/4/23

邪馬台国と卑弥呼-84  呉服と蚕  邪馬台国と卑弥呼
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蚕の幼虫


応神天皇37年(306年)、日本にまだ服を作る技術が未熟な頃、呉(中国)の王様に、服を作る技術を教えて欲しいと、阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかのおみ)を使いに出し、呉の国の王様は、兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)という四人の姫を、織物、縫物の進んだ技術を日本に伝えるために日本に向かわせてくれました。  

これが呉服の語源ですが、日本の蚕は今日でも江南系であり、吉野ヶ里で発見された絹は、遺伝子分析により紀元前2世紀頃中国江南に飼われていた四眠蚕の絹であることが分かっています。 当時の中国は、蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じておりましたが、世界で最初に国外に持ち出された場所が、日本の北部九州である事が考古学的に証明されました。 

ちなみに、呉服とは、単なる服のことではなく、織物(反物)、特に絹織物の事を指します。





邪馬台国と卑弥呼-54  呉服
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1302.html




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2011/4/23

邪馬台国と卑弥呼-83  稲荷山古墳出土の鉄剣  邪馬台国と卑弥呼
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埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣は、新日鉄研究所の調査によれば中国江南地方の鉄鉱石で、技術も江南の炒鋼法(しょうこうほう)。 また、呉の赤烏(せきう:238-251)の紀年銘を持つ、画文帯神獣鏡が日本で出土しています。

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