2011/11/28
邪馬台国と卑弥呼-174 纒向遺跡 邪馬台国と卑弥呼

纒向遺跡のイメージ図
纒向遺跡は奈良県の三輪山の麓に位置し、日本書紀によれば、第十代祟神天皇の宮は「磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)」=現在は奈良県桜井市金屋、第十一代垂仁天皇の宮は「纒向珠城宮(まきむくたまきのみや)」=現在は奈良県桜井市穴師周辺、第十二代景行天皇の宮は「纒向日代宮(まきむくひしろのみや)」=現在の奈良県桜井市穴師、と記述しており、いずれも三輪山の麓に位置しています。

2011/11/27
邪馬台国と卑弥呼-173 箸墓伝説 邪馬台国と卑弥呼

三輪山と大神神社

能 「三輪」
崇神紀十年の条に、孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は大物主神の妻となるが、大物主の本体が蛇であることを知って驚き、倒れこみ、箸が陰部に刺さって死んだという、箸墓伝説が記されています。
箸墓古墳は、彼女の墓と伝わっており、従来は箸墓古墳の築造年代は3世紀末〜4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代と合わないとされていましたが、最近、年輪年代学や放射性炭素年代測定による科学的年代推定により、卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半である事が分かり、卑弥呼の墓の最有力とされています。
また、この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160メートルであり、「魏志倭人伝」の「卑弥呼死去 卑弥呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述とも一致。

2011/11/26
邪馬台国と卑弥呼-172 橿原宮と纏向 日本・天皇・神道・記紀神話
神武天皇が大和に入る前に、既にニギハヤヒ(出雲物部系)が大和の地に入っており、三輪山の大神神社のご祭神、大物主大神として鎮座していた事が知られています。
神武東征において、大和を平定したのなら、三輪山を治めているはずですが、神武天皇が即位したのは、三輪山の南西にある橿原宮(かしはらのみや)であります。 という事は、神武天皇は大和を平定したのではなく、橿原宮だけであったということです。
後に、三輪山の麓の纏向に歴史の中心は移ってゆきますが、天皇家が三輪山の出雲勢力と政略結婚もしくは、出雲勢を攻め滅ぼしたものと考えられます。
神武天皇は実在していなかったという説もありますが、それなら初代天皇はカッコよく、大和にいた旧勢力を攻め滅ぼしたと記述すべきであると思うので、この橿原宮での即位というのは変なリアリティがあり、神武天皇は実在していたのではないでしょうか。

2011/11/25
邪馬台国と卑弥呼-171 八咫烏と高皇産霊神 邪馬台国と卑弥呼

八咫烏(やたがらす)
神武東征の際、高天原にいる高皇産霊神(たかみむすひのかみ)は、荒ぶる神が多いので、御子のことをご心配になり、八咫烏を遣わせ、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)を導かせました。 神倭伊波礼毘古命は八咫烏の後について進むと、吉野河の下流につき、次々と土地の豪族たちが従うようになりました。
これで、神倭伊波礼毘古命は長い東征を終え、橿原宮にて初代の天皇に即位し、神武天皇と呼ばれるようになります。 日本書紀は神武天皇の即位を紀元前660年元旦と伝えており、これを根拠に、太陰暦を太陽暦に換算したニ月十一日を「建国記念の日」としています。

2011/11/23
邪馬台国と卑弥呼-170 神武東征 邪馬台国と卑弥呼
鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の子が、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)で、後の神武天皇です。 神倭伊波礼毘古命は兄の五瀬命(いつせのみこと)と相談し、南九州を出発し、東征しました。
途中で、兄は戦死してしまいますが、高天原の応援を得て、各地を平定し、橿原宮(かしはらのみや)にて、初代天皇に即位されました。

2011/11/22
邪馬台国と卑弥呼-169 日向三代 邪馬台国と卑弥呼
古事記によれば、邇邇芸命は山の神の娘、木花咲耶姫と結婚し火遠理命(ほおりのみこと)をもうけ、火遠理命は海の神の娘、豊玉姫神と結婚して、鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)をもうけました。
これにより、鵜葺屋葺不合命は、天津神だけでなく、山の神と海の神の系統を受け継ぐことになり、こうして地上世界を統治する者としての正統な系統を整えられてゆきました。
邇邇芸命から鵜葺屋葺不合命までを日向三代といいます。

2011/11/20
邪馬台国と卑弥呼-168 木花咲耶姫と磐長姫 邪馬台国と卑弥呼
天孫降臨した邇邇芸命は笠沙の岬で美しい女性と出会いますが、その娘が木花咲耶姫です。邇邇芸命はすぐさま、木花咲耶姫の父、大山祇神(おおやまつみのかみ)に姫をもらいたいと申し出たところ、大山祇神はそれを喜び姉の磐長姫(いわながひめ)と共に差し出しましたが、磐長姫は醜かったので、瓊々杵命は磐長姫を返して、木花咲耶姫とだけ結婚しました。
すると、大山祇神は、「天孫が磐長姫を娶ったなら、その命は石のように長く変わらなかったのに、木花咲耶姫だけと結婚したので、天孫の命は花のようにはかなくなってしまうだろう」と言ったと伝えられています。
これは、天上界の神様であった天孫族が、人間のように寿命を持ってしまったという話で、天皇家の祖先は神様なのに、何故、寿命があるのかという説明をしているわけであります。

2011/11/20
邪馬台国と卑弥呼-167 三種の神器 邪馬台国と卑弥呼

三種の神器
古事記による天孫降臨の話は、出雲が国譲りをした後、天照大御神と高御産巣日神(たかみむすひのかみ)は、皇太子の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に、「葦原中国に降って、国を治めよ」と命じました。
しかしながら、天忍穂耳命は、「私が降る準備をしている間に、子供が生まれました。 名は邇邇芸命といいます。 この子を、葦原中国に降ろすべきでしょう。」と申し上げたので、天照大御神と高御産巣日神は邇邇芸命に、「この豊葦原瑞穂の国(葦原中国)は何時が治め、命令の通り天降りなさい。」 と命じられました。
邇邇芸命が、高天原から葦原中国に天降るにあたり、天照大御神は邇邇芸命に、八尺勾玉(やさかのまがたま)と御鏡(みかがみ)、そして草薙剣(くさなぎのつるぎ)を賜い、さらに多くの神々を同伴させ、 「 邇邇芸命は、この鏡を、私の御魂として、わが身を拝むように祀りなさい 」 と仰せになりました。
そして、邇邇芸命は高天原をお発になり、天の八雲にたなびく雲を押し分け、道をかきわけて竺紫の日向(つくしのひむか=九州南部)の高千穂のくじふる嶺(たけ)に天降りなさいました。

2011/11/19
邪馬台国と卑弥呼-166 斎庭之穂 (ゆにわのいなほ) 邪馬台国と卑弥呼

天孫降臨の際、天照大御神から斎庭之穂を授かる邇邇芸命(ににぎのみこと)
日本書紀によれば、天照大御神は、「 私が高天原に所有する斎庭之穂(ゆにわのいなほ) を持たせなさい 」 と仰せになり、邇邇芸命に神聖な稲穂を持たせて降臨したと書かれています。
また、日向風土記には、邇邇芸命が持っていた稲穂の籾(もみ)を投げ散らかしたときに、暗黒だった地上界に明かりがもたらされたとしています。
これは、稲作の起源は、天皇の先祖からもたらされた事を伝えようとしていると考えられます。 今日では、稲作は長江文明を担った、中国江南地方の苗族から伝えられた事がわかっておりますが、という事は、天皇や日本人は長江文明の末裔なのでしょうか。
また、同じく日本書紀での天孫降臨神話は巻二「神代下」の冒頭部分で、高御産巣日神(タカミムスヒ)が真床追衾(まとこおうふすま、玉座を覆うフスマ)で邇邇芸命を包んで日向の襲の高千穂の峯に天降りさせたとしています。

2011/11/18
邪馬台国と卑弥呼-165 天孫降臨 邪馬台国と卑弥呼

天孫降臨
黄泉の国から帰った、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が身を清めて、左目を洗うと天照大御神(あまてらすおおみかみ)、右目を洗うと月読命(つきよみのみこと)、そして鼻を洗うと須佐之男命(すさのおのみこと)が生まれました。
いずれも尊い神なので三貴子(さんきし)と呼ばれます。
天照大御神は、父である伊邪那岐神に高天原を治めるよう命じられ、葦原中国(あしはらのなかつくに=地上世界)では、須佐之男命の子孫に当たる大国主神(おおくにぬしのかみ)が国を造りましたが、話し合いの結果、葦原中国は天照大御神が治めることになりました。
これを国譲り神話といいます。
そこで、天照大御神は自らの孫を葦原中国(=地上世界)に御遣いになり、国を治めるよう命じますが、この命により地上に降臨したのが、邇邇芸命(ににぎのみこと)で、初代天皇である神武天皇の祖父に当たります。
天照大御神の孫が降臨したので、「 天孫降臨 」と呼ばれます。
