2012/3/30
邪馬台国と卑弥呼-218 まとめ 邪馬台国と卑弥呼
邪馬台国と卑弥呼について、述べてきましたが、ここらで一区切りのまとめをしたいと思います。
邪馬台国と卑弥呼-121 魏志倭人伝 まとめ
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1456.html
邪馬台国と卑弥呼-45 滇(てん)王国
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1292.html
邪馬台国と卑弥呼-55 卑弥呼の踊り
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1303.html
邪馬台国と卑弥呼-78 デルフォイの神託と卑弥呼
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1331.html
邪馬台国と卑弥呼-46 高床式建築
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1293.html
邪馬台国と卑弥呼-24 稲作と海人族
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1271.html
邪馬台国と卑弥呼-25 苗(みゃお)族
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邪馬台国と卑弥呼-27 苗族の天岩戸伝説
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邪馬台国と卑弥呼-28 自ら太伯の後と謂う
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邪馬台国と卑弥呼-29 苗族の芦笙祭
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邪馬台国と卑弥呼-30 倭人と刺青
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邪馬台国と卑弥呼-31 苗族の結婚と日本神話
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邪馬台国と卑弥呼-32 安曇(あずみ)氏
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邪馬台国と卑弥呼-33 素戔嗚尊(スサノオノミコト)
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邪馬台国と卑弥呼-34 苗族と鹿信仰
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邪馬台国と卑弥呼-35 海照大神
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邪馬台国と卑弥呼-36 犬頭人
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邪馬台国と卑弥呼-37 苗族の闘牛
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苗家美
http://www.youtube.com/watch?v=_hLaJFjqjPQ&feature=related
Legend of Xixi EVO (Miao Folk Song), Ayouduo
http://www.youtube.com/watch?v=Xgp86bg2mW8&feature=related

2012/3/24
邪馬台国と卑弥呼-217 国譲りと藤原氏 邪馬台国と卑弥呼
出雲国風土記には、スサノオのヤマタノオロチ退治の伝説はなく、またオオクニヌシノミコトの名前すら出てこず、国譲りの話もでてきません。
これらの話は、古事記に書かれたもので、そこには藤原氏の天才的なズルさが隠されており、自分が国譲りの最大の功労者であるとし、後の権力を手に入れるための正当化を行っているのです。

2012/3/19
邪馬台国と卑弥呼-216 豊受大神と台与 邪馬台国と卑弥呼

奈具神社 天の羽衣伝説が伝わる神社で、ご祭神は豊宇賀能賣命(天女)
伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)に祀られているのは豊受大神ですが、伊勢神宮外宮の社伝の「止由気宮儀式帳」によれば、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国に遷宮されました。
そして、毎日朝夕の二度、天照大御神に神饌をたてまつるお祭りが、ご鎮座以来、一日も絶えることなく行われています。

2012/3/17
邪馬台国と卑弥呼-215 記紀神話と魏志倭人伝 邪馬台国と卑弥呼
2012/3/15
邪馬台国と卑弥呼-214 卑弥呼と海部氏系図 邪馬台国と卑弥呼

海部氏系図(本系図)巻頭
海部氏系図(あまべしけいず)は、京都府宮津市に鎮座する籠神社の社家、海部氏に伝わる系図であり、「籠名神社祝部氏係図」1巻(本系図と称す)と「籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記」1巻(勘注系図と称す)とからなり、1976年に国宝の指定を受けています。
実は、この日本最古の一つである家系図に、邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。
系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。 この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されているのです。

2012/3/14
邪馬台国と卑弥呼-213 土師連(はせのむらじ) 邪馬台国と卑弥呼
大和政権に於いて、出雲臣氏からは、中央の顕官は一人もでておりませんでしたが、出雲国出身で中央に入って名を残したのは、野見宿禰(のみのすくね)からでたと称する土師連であります。
日本書記の垂任紀によれば、野見宿禰は畿内で天下無双を誇っていた当麻村の蹴速(けはや)と相撲をとり、勝利します。
彼は、そのまま留まって大和朝廷に仕えますが、垂仁皇后の日葉酢媛の葬儀に当たり、それまで行われていた近親者の殉死に代わり、埴(はにつち)でつくった人馬などの埴輪を陵墓に納める方法を提案しました。
天皇は大いに喜び、野見宿禰に土部の管掌者という職を与えますが、そして彼は本姓を改め、土師臣と称し、これが土師連の祖となります。
以来、土師氏は天皇家の葬儀や陵墓をつかさどる家となり、まさに出雲に割り当てられた「死」の世界の管理を行う事になります。

2012/3/13
邪馬台国と卑弥呼-212 出雲国造神賀詞 邪馬台国と卑弥呼

出雲地方の地図
古事記が撰上された712年頃に、出雲氏が祭政の拠点を意宇郡から杵築に移しますが、出雲国果安(708-721)の時でありました。
出雲果安が出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)を奏上したのが716年で、息子の広嶋に国造を譲ったのが721年。
出雲国造神賀詞とは、新任の出雲国造が天皇に対して奏上する寿詞であります。
記紀神話が編纂されたときに、この出雲国造神賀詞がはじまり、天皇家をほめたたえ、永遠の繁栄の呪詞「出雲国造神賀詞」を朝廷で奏上し始めますが、古事記のヒーロー、スサノオとオオムナチが登場します。

2012/3/12
邪馬台国と卑弥呼-211 熊野大社 邪馬台国と卑弥呼

熊野大社(熊野坐神社) 島根県松江市八雲町熊野
「出雲国風土記」には熊野大社と記され、その後「延喜式神名帳」では熊野坐神社と記された神社が、出雲東部の意宇郡にありました。 この神社こそ、出雲で最も歴史と権威がある神社であり、出雲西部にある杵築大社(明治4年から出雲大社と呼ばれる)は記紀神話編集の時代に創られたものです。
出雲国は行政も杵築大社の祭祀もずっと出雲臣(出雲国造家)が支配してきました。 その居住地も、出雲国の行政を司る国庁の所在地も、すべて出雲東部の意宇郡にあり、杵築大社(出雲大社)のある西部の出雲郡ではありません。
出雲西部は開発の遅れた地域で、豪族ではなく、小族長や農民達のいた地域でしたが、大和王権の命令で大社がつくられ、オオムナチが祀られる事になります。
出雲氏が祭政の拠点を意宇郡から杵築に移したのは、出雲国造果安(はたやす)のとき(708-721)で、その時期に古事記も撰上されています。

2012/3/11
邪馬台国と卑弥呼-210 古事記で創られた大国主命 邪馬台国と卑弥呼
何度も言うので、島根県の方々は気分を悪くされるかも知れませんが、「出雲国風土記」に
は、スサノオのヤマタノオロチ神話もなければ、アマテラスにまつわる話も、因幡の白兎の話、オオクニヌシの国譲りの話もありません。
それどころか、オオクニヌシという名前も一切なく、あるのはオオナムチ(大己貴)であり、上記の出雲神話と言われているものは、全て古事記が編纂されるときに、過大に脚色され、オオクニヌシは古事記で創られたものです。
その理由は、藤原(中臣)氏による祭政の掌握のためのストーリーづくりにあり、彼らはそのためにつくられたメインキャストであるといえます。 これについては、次以降の投稿で説明します。
三輪山の西麓や南麓には出雲の名が残っており、出雲系の支族が住んでいた事が知られております。 島根県を支配した出雲族のルーツは、奈良の三輪山(さらにいうなら中国江南からやってきた海人族で、阿波・淡路島を経由してやってきた?)にあり、
大和朝廷との戦いに敗れ、根の国(出雲国)に流された、もしくは大和朝廷に取り入り、出雲国を支配するために派遣されたものと、私は考えています。
実際、出雲を支配していたのは出雲大社(明治4年までは杵築大社と呼ばれている)のある西側ではなく、東側の意宇郡に出雲氏は行政官と神宮司をかねて支配してきたのです。 すなわち、オオムナチと出雲系の豪族を封じこめるために、杵築大社をつくり、出雲氏が管理監督していた可能性も高いと思います。
スサノオは、島根の須佐神社に祀られた実在の人物でさほどビッグでもなく、オオムナチは三輪山に最初に入った人で、そのオオムナチを破ったのが、大和朝廷で、そのオオムナチを
出雲の杵築大社(明治4年から出雲大社)に島流しにして封印したのだと思います。
また、そしてオオクニヌシは既に全国にいた地方豪族の総称(国津神)であり、既に武力・話し合いで破った彼らの恨みの霊魂をすべて祀るために創ったのが杵築大社だと思います。
伊勢神宮や杵築大社が創建されたのは、記紀神話がつくられたた時期であり、三輪山から見て太陽が昇る東に伊勢神宮、太陽が沈む西(=根の国)に杵築大社を古事記編纂にあわせて
創ったのではないでしょうか。
そして、旧勢力を全て杵築大社に封じ込めた。 だから全国にオオクニヌシを祀る神社があり、また出雲には全国の神々が集まる神在月がある。 そして、古事記でオオクニヌシをハデに大きくみせ、旧勢力の神社に祀る事で、その地方の人々に優越感を持たせ納得させる。
と同時に、そんな素晴らしい神から、天津族は国譲りを受けたとし、さらに天津族、大和朝廷の権威をさらに高めようとしたに違いありません。
しかしながら、古事記をよく読んでみると、藤原(中臣)氏の巧みさが見え隠れします。 それは、大国主命から国譲りを受けさせた最大の功労者は建御雷神(たけみかずち)であり、彼は藤原(中臣)氏の祖先で、鹿島神宮のご祭神で、白い鹿に乗って奈良の春日大社にやってきて、春日大社のご祭神でもあります。
以後、鹿は神の使いとされ保護され、今では奈良公園には約1200頭生息しています。
そして、天皇家に対する最大の功労者と正当化された藤原氏が、影で天皇家を操り、我が世を謳歌してゆくのです。

2012/3/10
由紀さおり 女性を考える

由紀さおり
http://www.emimusic.jp/pmsy1969/index.html
米国の実力派ジャズオーケストラグループであるピンク・マルティーニのリーダー、トーマス・M・ローダーデールが地元の米オレゴン州・ポートランドの中古レコード店で、由紀さおりのLP盤「夜明けのスキャット」のジャケットに魅かれて入手。
由紀の透明感ある歌声に魅かれたのがキッカケで、共演することになり、由紀さおり&ピンク・マルティーニ「1969」が世界23ケ国に配信され、大ヒット。 米iTunesジャズチャートで11月2日付で1位を獲得。カナダのiTunes チャート「ワールドミュージック」でも1位を記録しています。
アルバム発売直後の10月17日には、英・ロンドンの「ロイヤルアルバートホール」で開催されたピンク・マルティーニのコンサート(7000席がソールドアウト)に由紀さおりが参加し、この模様はBBCラジオで放送され、12月11日〜20日までの、北米6ケ所でのツアーでも、由紀さおりの円熟し、透明感のある歌声が高く評価され、人気急上昇中。
今年あたり、全世界で大ヒットの予感です。 このような本格派の日本人歌手が世界で活躍するのを見れるのは嬉しい限りです。
欧米でのコンサートで、現地の人からの由紀さおりの評判は、美人で上品で、洗練された雰囲気と、優しく包み込まれるような透明感のある美しい歌声に完全に魅了されてしまったと、絶賛しております。
