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2021/2/8

トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜 活気に満ちたアバディーン〜  財閥(日本・世界)





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明治維新の大功労者 トーマス・グラバー フリーメーソンとしての活躍
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2816.html






明治維新の大功労者 トーマス・グラバー フリーメーソンとしての活躍
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トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜初恋の人との別れ〜
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2817.html
トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜フレーザーバラを離れる〜
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2818.html
トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ 〜ギムナジウムへ入学〜 
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2819.html
トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜海の向こうに何がある〜
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2820.html
トーマス・グラバー 生まれ故郷との別れ〜内部の矛盾を抱える〜
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活気に満ちたアバディーン

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さて、グラバー家が新しく移り住んだブリッジ・オブ・ドンのアバディーンは、ハイランドの中では最も活気あふれる港町で、小さな造船所もいくつかあり、漁船、貨物船などを建造していた。


学校の旋盤技術で器用さを存分に発揮していたトーマス・グラバーは、造船建造の現場を見学するのが楽しくてたまらず、暇さへあれば頻繁に見に行った。

この頃はようやく蒸気船(蒸気機関を用いた船)の建造が相次ぎ始めた。 しか、従来の帆船と蒸気を用いた帆船併用も多く、グラバーが見学した多くは、この帆船併用であった。



ちなみに、1853年(嘉永六年六月)米国ペリー提督の率いる東インド艦隊四隻は突如、浦賀沖に現れ、徳川幕府以下、江戸の町民たちを大騒動させた、と歴史書に記されている。

この時のペリー艦隊を日本人は「蒸気船」、「黒船」と呼んでいるが、実は四隻とも帆走を併用した船であったことは意外と知られていない。

しかも四隻は全て現在のスクリュー(プロペラ)船ではなく、「外車推進」といい、船舷に大きな水車のようなものをくっつけて、それを回転させながら走行していたのだ。



それはともあれ、鉄製の船が色々な部品の組み合わせから出来上がり、完成すると数十人の人々を乗せ、白波を蹴立てて外界へと乗り出していく光景を見たトーマス・グラバーは

「いつかは自分も大きな船に乗り、エリザベートと共に外国に渡ってみたい」 とのユメを抱くようになっていた。

しかし、その一方「いやそうではなく、自分はエリザベートを忘れるために海外に行くのだ」。 との思いが彼の心を支配し始めてた。



ブリッジ・オブ・ドンへ移住し、十四歳(1853年)を迎えたトーマスに、ショッキングな出来事が起きた。

それは彼のすむ家から、さほど離れていないアバディーン湾内で、蒸気船のデューク・オブ・サザーランド号が難破し、何人もの溺死者を出すという惨事が起きたのだ。



この時グラバーも噂を聞き、急いで現場に駆け付けた。 船の海難事故の話は、これまで何度も父から聞かされていたが、実際に現場を目のあたりにしたのはこの時が初めてである。

大自然の前には人も船もいかに弱い存在であるかをグラバーは思い知らされた。 しかし十四歳の若さに満ち溢れるグラバーは恐怖よりも

「スコットランド生まれの自分は、大自然の力にも打ち勝って、成功を勝ち取ってみせる」と、強い決意を顔面に張らせていた。







ジャディ・マセソン商会

幸いなことに彼の大きな希望を達成してくれそうな会社が身近に存在した。 その会社名を「ジャディ・マセソン商会(以下、JM商会」と記す)という。


同社の設立は1832年というから、日本の歴では天保三年になる。 後にグラバーと深い関係のある人物として本書にも登場する三菱の創始者岩崎弥太郎、慶応義塾の創始者、

福沢諭吉の誕生が、天保五年(1834年)であるから、日本が開国に踏み切る二年前の幕末時代、すでにイギリスでは株式会社、総合商社が誕生し活動していたのである。


JM商会は二人のスコットランド出身者によって設立された。 一人はW・ジャディーンといい、もう一人はJ・マセソンといった。 二人の名前の頭文字をとって「ジャディ・マセソン商会」と名乗ったもの。





次の投稿に続く










財閥(日本・世界)シリーズ のここまでのまとめ
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トーマス・グラバー 生まれ故郷との別れ〜内部の矛盾を抱える〜  財閥(日本・世界)




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明治維新の大功労者 トーマス・グラバー フリーメーソンとしての活躍
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内部の矛盾を抱える

1603年、絶えず争いを繰り返していたイングランドとの間に「同君連合」(両国の君主を頂く)を実現、その後1688年のイギリスの産業革命を経て、1707年両国は議会合同により合邦を実現した。

しかし、合邦はしたものの、スコットランドは宗教に関する内部対立(カトリック派とプロテスタント派)、英国への根強い反感などが長期にわたり継続された。

また、スコットランドは一つの国ではないと言われているように「ハイランド」(高知地方)と「ローランド」(低地地方)では土地柄も全く違えば人物も大きく異なると言われている。



即ち、ハイランド地方はスコットランドの北ないし、北西に広がる高地地方と小さな島々から成立、寒冷多雨、深い谷と入江で分断されている。

このため人口も少なく、これといった産業もない。 牛と羊による遊牧で細々と暮らしている人が多い。



これに対し、ローランド地方は、スコットランド王国時代の首都だったエジンバラやグラスゴウを有しており、ハイランドよりはるかに気候にも恵まれている。

農業の産業化も早く、所得水準も高い。 このため教会、修道院、裁判所、大学などは全てこのローランドに集中している。



トーマス・グラバーや兄弟が生まれ育ったフレーザーバラも次に移転したドン川近くのブリッジ・オブ・ドンも残念ながら貧しいハイランド地方に属する。

トーマスを始めグラバー家の兄弟達が「脱スコットランド」を目指したのも、同地の生まれであったことが大きく影響しているといえよう。



それでも当地へ移転してきた時のトーマスの年齢は未だ十二歳。 学校の勉強、ヨット、海、川での釣り、夏は水泳、山岳での狩猟などを大きな楽しみとしていた。

この頃トーマスは夜、睡眠中、エリザベートのユメを良く見た。


フレーザーバラで教会学校に通っていた時には、一度も彼女のユメを見たことはなかったのに、これは何としたことであろう。

毎日のように会えていた時には、ユメでなくても現実で会えた。 しかし会えなくなってしまった今、せめてユメでもいいから会いたい、
との気持ちがエリザベートをひんぱんにユメに登場させることになったのであろう。








活気に満ちたアバディーン

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さて、グラバー家が新しく移り住んだブリッジ・オブ・ドンのアバディーンは、ハイランドの中では最も活気あふれる港町で、小さな造船所もいくつかあり、漁船、貨物船などを建造していた。


学校の旋盤技術で器用さを存分に発揮していたトーマス・グラバーは、造船建造の現場を見学するのが楽しくてたまらず、暇さへあれば頻繁に見に行った。

この頃はようやく蒸気船(蒸気機関を用いた船)の建造が相次ぎ始めた。 しか、従来の帆船と蒸気を用いた帆船併用も多く、グラバーが見学した多くは、この帆船併用であった。



ちなみに、1853年(嘉永六年六月)米国ペリー提督の率いる東インド艦隊四隻は突如、浦賀沖に現れ、徳川幕府以下、江戸の町民たちを大騒動させた、と歴史書に記されている。


この時のペリー艦隊を日本人は「蒸気船」、「黒船」と呼んでいるが、実は四隻とも帆走を併用した船であったことは意外と知られていない。






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