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2021/2/11

トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜大平天国の乱〜  財閥(日本・世界)






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明治維新の大功労者 トーマス・グラバー フリーメーソンとしての活躍
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トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜初恋の人との別れ〜
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トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜フレーザーバラを離れる〜
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トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ 〜ギムナジウムへ入学〜 
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トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜海の向こうに何がある〜
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トーマス・グラバー 生まれ故郷との別れ〜内部の矛盾を抱える〜
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トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜 活気に満ちたアバディーン〜 
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トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜 ジャディ・マセソン商会〜 
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トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜アヘン戦争で飛躍したJM商会〜 
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トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜船舶中買業に就職〜
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トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜不快な大都市上海〜
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大平天国の乱

そんな考えに浸り始めたグラバーに、さらに拍車をかけるような事態がおひざもとの清朝内で惹起し始めていた。

それは「太平天国の乱」である。 「太平天国」の母体は一八四三年(グラバーは五歳)清朝広東省花県出身の農民、洪秀全が創設した「拝上帝教」という宗教団体。

洪秀全は科挙(髄から清の時代まで続いた官史登用の画家試験)に落第、そのショックの余り病に伏せ、あるユメを見た。

それはローマカトリック教会に対して反旗を翻したプロテスタントと同様、堕落し、列強の餌食となりつつある清朝を救う者はこの自分しかいない。

一切の差別を失くし対立、抗争のない平和を樹立すべしとの主張を打ち上げたのである。(拝上帝教という)。

彼の主張、思想は貧困にあえいでいた多くの農民達の支持を得、旧秩序の上にアグラをかいていた地元勢力、清朝官憲達との衝突に発展したばかりか、やがては清国を属国にしようとするイギリス、フランス列強との対戦にまで発展した。

一八五二年、多数の参加者を得た拝上帝教は教祖、洪秀全を「天王」と仰ぎ、同九年国号を「太平天国」とした。

貧民の太平天国への支持は、これを機に急増、湖南、湖北、江西、安寧を抜き、一八伍三年には大都南京をも占領した。

この頃の太平軍は数十万人に膨張、清朝転覆の噂さえ内外に流された。 しかし、ここまでが太平天国のポークであった。

一八五六年には軍隊派閥の長の権力闘争が始まり、太平軍は急速に衰退し始めた。 一時は太平軍に加担し、清朝(女帝西太后)を打倒するかに思えたイギリス、フランス軍は、

一八六〇年以降当初の「中立政策」を放棄した。


この時イギリス、フランス軍は理屈のうえでは長年に渡り腐敗堕落を続ける清朝を改変しようとしていた洪秀全の政策に賛成していた。

しかし清朝が滅びることは是としながらも、洪秀全が新しい国王となり、太平天国の思想で清朝を統一されては列強の出番はばくなってしまう。


そう判断したイギリス、フランスは清朝を引き続き属国にすつためにも太平天国の乱を静めようと決心した。

一八六〇年以降、中立政策を放棄したイギリス、フランス軍は天京以東の江蘇、江省に活路を求めて進出してきた太平軍に武力攻撃を加えた。

一八六四年六月、リーダーの洪秀全の病死もあり、それ以後はあっけなく太平軍も滅亡してしまったのだ。








マッケンジーの誘い

JM商会の上海支店でクソ面白くない徴募をつけたり、在庫管理をしていたグラバーの耳にも、もちろん太平天国の乱を近く英仏両軍が討伐しようとしている情報は入ってきた。

そして近代兵器を持ち軍事教練に卓越した英仏軍と、近代兵器を持たず、軍事教練にも慣れていない中国軍が対戦した場合、英仏軍が勝利することは、軍事に素人は素人のグラバーでさえ、すぐにも理解できた。

グラバーは当初、太平天国の洪秀全の思想を高く評価していた。 このため腐敗しきった西太后の清朝が崩壊すれば、太平天国の新しい治世のもと、JM商会も、そしてグラバー自身も何か面白い展開が期待されそうに思えた。


しかし、近く英仏の列強が太平天国と対戦するとの情報を得たグラバーは列強の勝利は火を見るよりも明らかなため、このまま上海に留まって仕事を続けようとの意思が急速に吹き飛んでしまった。

グラバーがそんな気持ちでいた時、JM商会の大先輩、ケアス・マッケンジー(五十歳代)という男が「グラバー君、日本という国を知っているだろう。 今後清朝などよりも間違いなく大発展する国は世界広といえども日本をおいてどこにもない。

わしはすでにJM商会の横浜店と長崎店を開店させたが、君も長崎で伊一発勝負してみる気はないか」と強く誘われた。






次の投稿に続く











アヘン戦争 と フリーメーソン中国進出 
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ジャーディン・マセソン商会と阿片そしてHSBC
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ジェームス・サッスーン卿
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サッスーン財閥と阿片そして上海
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国での阿片貿易を元々仕切っていてのはベアリングズ兄弟商会
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ベアリング財閥
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ラッセル商会
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2808.html
ラッセル商会とスカル&ボーンズそれと米民主党とCIA 結局は阿片
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2809.html
ハインツ財閥
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2810.html





PS.この時期、アメリカや日本で何が起こっていたかというと、1837年、アメリカのジョージ・ピーボディが、ベアリング家の親戚であるブラウン家のブラウン・ブラザーズを通じてロンドンのビジネスに参入し、

ロスチャイルド・ロンドン家のネイサン・ロスチャイルドの代理人となっています。 これが、ロスチャイルドがアメリカの金融に参入するきっかけとなりました。

このジョージ・ピーボディは、キダー・ピーボディ証券の中心人物で、ピーボディ基金の設立者です。

ところが、彼には子どもがいなかったので、自分の後継者にジューニアス・モルガン(JPモルガンの父)を指名し、このことでモルガン商会がロスチャイルド・ロンドン家のアメリカの代理人となります。

















財閥(日本・世界)シリーズ のここまでのまとめ
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2021/2/11

トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜不快な大都市上海〜  財閥(日本・世界)





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明治維新の大功労者 トーマス・グラバー フリーメーソンとしての活躍
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不快な大都市上海

父ベリーは長らく沿岸警備隊長を務めていたと言っても、熟知してるのは、せいぜい本国のみ。 このため、トーマスを同伴しこれまで一度も見たことのない他国を見学できることをトーマス以上に喜んでいた。

また当時は蒸気汽船(帆船併用)といえども燃料は石炭や薪であり、数十キロ走ると各港に立ち寄り、燃料を補給しなければならなかった。

グラバー父子は、先ずはイギリス本土を南下、ドーバー海峡を経て、イギリス海峡へ、さらにフランス、ポルトガル、西アフリカ、南アフリカの喜望峰を経て、ようやくインド洋へと顔を出した(この頃スエズ運河は未完成)。

JM商会の本社がある香港へ親子が現れたのはアバディーンを出発して実に六ケ月後の六月と言われている。

タフで好奇心の旺盛な親子は長い船旅の疲れも見せず、翌月にはグラバーの勤務地となるJM商会の上海店に向けて出発した。

初めて香港へ降り立った時のグラバーは、とても小奇麗でにぎやかな町だと好感を持った。 それから二日後に着いた上海の街は、香港よりもさらに賑やかで外国人も多数いた。


しかし、なんとなく不潔感のある町で事実、嫌な臭いがグラバーの鼻孔をついた。 ただし、彼が勤める事になっていたJM商会の上海店は海岸通りに面した外国人慰留地の一角にあり、嫌な臭いはいつの間にか消えていた。

当時の清朝はアヘン戦争の敗戦により、南京条約全十三条を締結、イギリスは五つの港の開放と多額な賠償金、新たな英・清朝間の外交通商関係などを勝ち取った。


グラバー父子が初めに立ち寄った香港はこの戦勝により奪い取ったものであり、清朝の最大の港、上海開放も戦勝によるもの。 父ベリー・グラバーはジャディとマセソンの二人に、

「くれぐれもトーマスを宜しく頼みます。 しかし、決して甘やかすことなく、厳しく仕事を教えて欲しい。 スコットランド魂を吹き込んでほしい」。 そう言い残してスコットランドに戻って行った。

トーマスはタビオ余韻に浸る間もなく、貿易商社マンとしての第一歩を踏み出した。 しかし、働く場所こそ変わったものの、仕事の内容はアバdh-んで体験した帳簿の作製、複写、

船荷証券の作成など、グラバーにとっては全く魅力を感じることのない仕事であった。 「こんな仕事で一生を棒に振るなど、まっぴらごめんだ」。

仕事を初めて十日も経たない間にグラバーは帳簿作成に嫌気がさし始めた。 「自らは大きな仕事に取組み帳簿の作成は部下にやらせる。 自分は人の上に立つ大物なのだ」。

とグラバーは早くも次の人生のユメを見始めていた。








大平天国の乱

そんな考えに浸り始めたグラバーに、さらに拍車をかけるような事態がおひざもとの清朝内で惹起し始めていた。

それは「太平天国の乱」である。 「太平天国」の母体は一八四三年(グラバーは五歳)清朝広東省花県出身の農民、洪秀全が創設した「拝上帝教」という宗教団体。

洪秀全は科挙(髄から清の時代まで続いた官史登用の画家試験)に落第、そのショックの余り病に伏せ、あるユメを見た。

それはローマカトリック教会に対して反旗を翻したプロテスタントと同様、堕落し、列強の餌食となりつつある清朝を救う者はこの自分しかいない。





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ハインツ財閥
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PS.この時期、アメリカや日本で何が起こっていたかというと、1837年、アメリカのジョージ・ピーボディが、ベアリング家の親戚であるブラウン家のブラウン・ブラザーズを通じてロンドンのビジネスに参入し、

ロスチャイルド・ロンドン家のネイサン・ロスチャイルドの代理人となっています。 これが、ロスチャイルドがアメリカの金融に参入するきっかけとなりました。

このジョージ・ピーボディは、キダー・ピーボディ証券の中心人物で、ピーボディ基金の設立者です。

ところが、彼には子どもがいなかったので、自分の後継者にジューニアス・モルガン(JPモルガンの父)を指名し、このことでモルガン商会がロスチャイルド・ロンドン家のアメリカの代理人となります。

















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トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜フレーザーバラを離れる〜
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トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜海の向こうに何がある〜
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2820.html
トーマス・グラバー 生まれ故郷との別れ〜内部の矛盾を抱える〜
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2821.html
トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜 活気に満ちたアバディーン〜 
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トーマス・グラバー 生まれ故郷を後へ〜 ジャディ・マセソン商会〜 
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船舶仲買業に就職

十六歳でギムナジウムを卒業したトーマス・グラバーは兄達、チャールズとジェームズの勤める船舶仲買業へ就職したと言われるが、はっきりとした事は分からない。

ただグラバーは伝票付けや、在庫管理等の事務の仕事には全く興味がなかった。 同じ船舶仲買業でも、自らの会話と営業力で大きな船舶の売買、或いは鯨や、大量の魚の売買などに直接タッチできる仕事に大きな魅力を感じていた。

若い男としてそれは当然ともいえることだろう。 しかし細かな伝票付を嫌い、万事経営に大雑把だった彼の性格は、後に自らの会社、グラバー商会を大破綻させることになる。


さて、ここからは筆者の推測が入る。 グラバーが細かな伝票付けに飽き飽きしていた時、グラバーの心をときめかせる魅力的な話が舞い込んできた。

JM商会の事はすでに前述したが、トーマスの父ベリー・グラバーは、スコットランドのフレーザーバラで勤務中、既に大商社として名を馳せていたJM商会代表者の二人、即ちジャーディンとマセソンに会っている。


総合商社のJM商社としては北海沿岸の警備隊長であるベリー・グラバーに会っていても損はない。

しかし、この時ベリーがスコットランド出身の二人に会ったのは、自分と同じく二人が「フリーメーソン」の仲間であることが分かったからである。

世界を動かすフリーメーソンの事は後に詳述するが、ベリー・グラバーはフリーメーソンの本拠地と言われるロンドンにおいて二〇台に入会、JM商会の二人は生まれ故郷、スコットランドにおいて入会している。


東インド会社がなくなった後、順調に業績を拡大していたJM商会は、一人でも多くの人材を求めていた。

JM商会とベリー・グラバーはフリーメーソンの仲間として会ったのだが、「人材確保」の方の要素が強かった。

そしてベリーは、自分の六人の男子のうち、とても人付き合いがうまく、直感力に優れた五男のトーマスの事を二人にPRし、JM商会の二人も「是非トーマス君をわが社にもらいたい」と、強く要請し別れたのであった。


父親ベリーはトーマスが商社事務員としての知識が一応備わったと見た十八歳の1857年一月、トーマスを伴い上海へと旅立つこととなった。

グラバーはフレイザーバラの教会学校に通っていた頃、最も親しくなった男性生徒の一人にウォーカー・スミスという友人がいた。

グラバーはブリッジ・オブ・ドンに転居してからもスミスとは時折、手紙のやり取りをしていた。

スミスに数通出した手紙の中、「エリザベートは元気にしていますか」との文章を書いたこともある。


グラバーからがるかに遠い清国のJM上海店へ勤務するとの手紙を受け取ったスムスは「もしかすると永別になるかもしれない」との思いを胸にグラバー出立ちの前日、彼の家に前泊し、教会学校時代の思い出に花を咲かせた。

その折、スミスは「そうそう、グラバー、君に話しておかねばならない事があった。 実は君から時々、彼女は元気かいと問い合わせがあったエリザベートは、ロンドン・シティの有力な銀行頭取の家へお嫁に行くことが決まったよ。 結婚式は来年挙げるそうだけどー」。

これを聞いた時のグラバーは脳天を鉄槌でぶんなぐられたような衝撃を受けた。 それでもグラバーは「そうか、それは良かったねえ。 エリザベートは器量は良いし、頭も、人柄も良い。 あれほど三拍子そろった女性はめったにいない。 きっと頭取の家に相応しい素敵なお嫁さんになるだろうね。」

スミスには何気ない様子は装ってみたものの、グラバーの顔面は引きつり思わず涙がこぼれ落ちそうになった。

「明日は早いから思いで話はこれくらいにしてもう寝ようか」。 その夜は早めにベットにもぐった。

だがエリザベートとの愛くるしい笑顔は拭っても拭ってもグラバーの脳裏から消えなかった。

ほとんど寝付かれぬままに朝ベットから起きたグラバーは「よし、これでスコットランドに何の未練を残すことなく出立ちできる。 自分は生涯海外で暴れまくり、命を燃え尽きさせよう」。

自分の心にそう誓ったグラバーは決然とした態度でアバディーンの港へと足を運んだ。







不快な大都市上海

父ベリーは長らく沿岸警備隊長を務めていたと言っても、熟知してるのは、せいぜい本国のみ。 このため、トーマスを同伴しこれまで一度も見たことのない他国を見学できることをトーマス以上に喜んでいた。

また当時は蒸気汽船(帆船併用)といえども燃料は石炭や薪であり、数十キロ走ると各港に立ち寄り、燃料を補給しなければならなかった。

グラバー父子は、先ずはイギリス本土を南下、ドーバー海峡を経て、イギリス海峡へ、さらにフランス、ポルトガル、西アフリカ、南アフリカの喜望峰を経て、ようやくインド洋へと顔を出した(この頃スエズ運河は未完成)。

JM商会の本社がある香港へ親子が現れたのはアバディーンを出発して実に六ケ月後の六月と言われている。

タフで好奇心の旺盛な親子は長い船旅の疲れも見せず、翌月にはグラバーの勤務地となるJM商会の上海店に向けて出発した。





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PS.この時期、アメリカや日本で何が起こっていたかというと、1837年、アメリカのジョージ・ピーボディが、ベアリング家の親戚であるブラウン家のブラウン・ブラザーズを通じてロンドンのビジネスに参入し、

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このジョージ・ピーボディは、キダー・ピーボディ証券の中心人物で、ピーボディ基金の設立者です。

ところが、彼には子どもがいなかったので、自分の後継者にジューニアス・モルガン(JPモルガンの父)を指名し、このことでモルガン商会がロスチャイルド・ロンドン家のアメリカの代理人となります。

















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