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2021/6/30

シドニー・ワインバーグと米政財界  財閥(日本・世界)




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ゴールドマンサックスとは
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2898.html

本Blogで、ゴールドマン・サックスのシリーズの情報の出所は、「Goldman Sachs」の著者である女性のリサ・エンドリック(Lisa Endlich)氏を中心に、収集したものです。
Lisa Endlich プロフィール
-------------------------
MITでマネイジメントと都市計画の修士号を取得後、ゴールドマン・サックスに入社、外国為替部門のトレーダーとなり、VP(ヴァイスプレジデント)の肩書を得る。 退社後は夫と三人の子供とロサンゼルスに在住。

日本に関する記事は、主に国際ジャーナリスト堤未果氏の著作物を中心に取集したものです。 インターネトでデービッド・アトキンスを敵視する三橋貴明氏と藤井聡氏ですが、彼ら自身も言っていますが、彼女(堤未果)が先生と述べています。彼女の著作物・記事・情報がベースになっているケースが多く見られます。
堤未果 プロフィール
-------------------
東京生まれ、NY度立大学大学院国際関係論学科修士号。 国連、野村證券などを経て、米国の政治、経済、医療、教育、農政、公共政策、エネルギーなどをテーマに、現場取材と公文書による調査報道で活躍















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Marcus Goldman (December 9, 1821 – July 20, 1904)
ゴールドマン・サックスの創始者


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マーカス・ゴールドマンが1869年に最初のオフィスを置いたパイン・ストリートのビル
このビルの地下一階から世界最強の投資銀行の歴史は始まりました。
マーカス・ゴールドマン商店が入っていたビル、30 Pine street , New Yoork

















シドニー・ワインバーグと米政財界


ペテン師に騙されたワインバーグ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2947.html

からの続き




ワインバーグは、1932年と1936年も大統領選挙でルーズベルトを支持したウォール街では数少ない一人でした。

大統領は、非公式の顧問として、彼に頻繁にアドバイスを求めました。 ニューディールの資本主義攻撃に手加減が加えられたのは、ワインバーグのしっかりしたアドバイスのおかげだと考える人が金融界には多くいます。


第二次世界大戦と朝鮮戦争の期間、戦時生産委員会副会長の肩書で、ワインバーグはルーズベルト、トルーマン、アイゼンハワー各大統領の、個人的な人材スカウト係として活躍しました。

国が戦時体制に入ると、彼は実業界のリーダーを「年収一ドル」で政府に奉仕するようスカウトを続け、「人さらい」のあだ名をつけられました。

白羽の矢を立てられた人々は、会社ではたっらくことを通じて国に奉仕していると反論を試みたが、ワインバーグは耳を貸しませんでした。

彼にとってそれは利己的な言い訳にしか聞こえませんでした。 ある会社の幹部が政府のある仕事にうってつけだと考え、彼は圧力をかけました。


相当の圧力をかけても彼が動かないと分かると、彼は躊躇せず、大統領に間に入ってほしいと頼みました。

ワインバーグに楯突くことを恐れる人々は、彼の餌食になりました。 楯突く事を何とも思わない人でも、大統領に対してはノーとは言えませんでした。

いずれにしても、ワインバーグの人材調達は大きな成功をおさめました。 ルーズベルトはワインバーグにソ連大使になってくれないかと一度打診しています。

シドニーは、最初その気になって、任務の準備としてロシアに関する勉強のためワシントンに通い始めました。

しかし、彼はこの話を後に断っています。 「私はロシア語を話せない。 向こうでいったい誰と話せばいいんだ」と言って断ったと言われています。

ワインバーグは妻と子供を後に残す気が無く、かといって教育熱心な彼としては、子供たちを海外で家庭教師をつけて教育することを望まなかったというのが本音のところのようでした。




トルーマン政権下で証券界にとっての最大の危機は、司法省が当時の上位17銀行を反トラスト法違反で訴えた事件でありました。

1947年に発表されて1953年に結論が出るまで、ウォール街はこの事件に振り回されました。 上位銀行が共謀して他社の参入を排除していることを証明しようとして、

政府は引受額による投資銀行のランキング表を作成しました。 この表は後にリーグ・テーブルと呼ばれるようになります。

ワインバーグをはじめとするパートナーたちは、ゴールドマン・サックスがこの事件に巻き込まれるのではないかと懸念しました。

そうなれば生活の道がおびやかされ、多大な時間と労力が何年も費やされることになります。 当時のジョン・ホワイトヘッドのように若く将来性のある人間にとっては、

訴訟に巻き込まれることは、悪いことばかりではありませんでした。 無視されてしまえば、世間に対して会社がたいした存在でないと発表するようなもので、不名誉極まりないことであります。


1937年から1947年の間、引受のマーケットシェアで見ると、ゴールドマン・サックスは12位にランクし、シェアは1.4%でした。

それに対し、モルガン・スタンレーは16%、ファースト・ボストンは13%のシェアを占めていました。この2社は破格の存在と見られていました。

ディロン・リードとクーン・ローブもトップグループの一員で、主だったシンジケート団には幹事として入り、注目を集める企業買収の案件の全てに加わっていました。



諮問に対し、ハロルド・メディナ判事のために作成されたランキング表では、ゴールドマン・サックスの実力は過大評価されていました。

1950年の時点では、ゴールドマン・サックスは主幹事の上位17社には入っていませんでした。

同社はこの時、少数の優良顧客と大きな夢を持つ、番外の会社でしかありませんでした。メディナ判事は、投資銀行業界には主要な会社が多数存在し、十分な競合状況が存在すると歴史的な判決を下しました。

そして、ゴールドマン・サックスとリーマン・ブラザーズの競合関係は、ウォール街の会社間に存在する激しい競争を物語る好例である、と例にあげています。

この訴訟はパートナーの時間をとっただけでなく、訴訟費用の負担も大きなものでした。1948年のパートナーの資本合計がわずか750万ドルであった時に、訴訟費用60万ドルから70万ドルは手痛い出費でした。


ウォルター・サックスはこの判決に関してこう書いています。
「メディナ裁判が終わったときには、何年も空を覆っていた暗雲がかき消え、久しぶりに青空を仰いだ気分だった」

1940年代から、1990年代の間に投資銀行の業界図は一変しています。 ゴールドマン・サックスの上位に位置していた会社のうち6社は消滅しており、2社は流れから取り残され、もはや脅威ではなくなっています。

ゴールドマン・サックスに伍するのは、モルガン・スタンレーとファースト・ボストンのみ。

再び蘇ったリーマン・ブラザーズが時によって対抗してくる程度です。 1990年代に大手の一角を占めるメリルリンチは、この時のリストには影も形もありませんでした。

ワインバーグの天才的才能、ウォルター・サックスとハワード・サックスの不屈の精神、そして彼らの後に続く優秀な人々の力がなかったなら、ゴールドマン・サックスは1929年の大恐慌を記述する歴史の本に、脚注で触れられる程度で終わっていたかも知れません。




1947年1月、シドニー・ワインバーグはヘンリー・フォード2世と出会い、2人は1つの案件に乗り出しました。

その後、何年もの努力の結果、ついにその案件は成立し、おかげでゴールドマン・サックスは一流銀行の一員に加えられることになりました。

父エドセルと祖父ヘンリーを失い、若きフォードの後継者は、このアメリカ最大の非公開企業のトップの座につきました。

55歳のワインバーグは、ビジネス界のリーダーとして全米にその名を知られ、敬意を集めていました。

フォードは次第に彼のアドバイスを仰ぐようになっていました。 二人は非常に親しい関係となり、フォードは後にワインバーグを親友と呼んでいます。

ワインバーグは頻繁にフォード家の総本山、ミシガン州ディアボーンを訪問するようになり、エドセル・フォードの未亡人、4人の子の母であるアーネスト・キャンスラーが、自宅でパーティを開く時もゲストで呼ばれるようになりました。

この女家長は全ての会議を議長として取り仕切る、押しも押されぬ一家の大御所でありました。

ヘンリーが信認をおいていたため、ワインバーグは彼女から特別な待遇を受けました。 フォード・モーター社はアメリカ最大の会社ではありましたが、非公開であったため、その財務状況に関してはほとんど何も知られていませんでした。




巨額の相続税を軽減しようと、ヘンリー・フォード1世は会社の株の9割がたを財団に移していました。

それは議決権をもたない株式であり、財団は配当を受け取らず、何の機能も果たしていませんでした。


財団のルーツ ピーボディ財団
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議決権、すなわち会社の経営権はそっくり家族の所有する株に残されていました。 若き社長はこの状態を懸念し、ワインバーグに相談しました。

表面上は単純な問題のように見えました。 財団は手元の資金を作るために株を売却したいと考え、フォード家は株の持ち分を増やすことを望み、証券取引所は上場する株には議決権のある株式を要求し、税務当局は相応の分け前の税収を狙っていました。




2年間、ワインバーグはホワイトヘッドの力を借りて秘密裡に作業を進めて、フォード・モーター社の資本構成変更案を50通り作成しました。

実質的には、ワインバーグはフォード家のアドバイザーとなっていました。 財団も同様に、ワインバーグにアドバイザーとなることを要請しましたが、ヘンリー・フォード2世は、彼をフォード家専任だと財団の理事長に言い渡しました。

フォード家のために働いている間、二人の間には正式な合意書、契約書は取り交わされておらず、ゴールドマン・サックスに支払われるべき手数料の話も一切されていません。

ゴールドマン・サックス社内でこのプロジェクトが進行していることを知る者もほとんどいませんでした。

ワインバーグとフォードは互いに電報で交信する時の暗号を編み出しました。 フォード家は「アリス」、ワインバーグは「イーデス」、財団は「グレース」、フォード社は「アグネス」でした。

ワインバーグはこの件に関する手紙もメモも、秘書に口述せず、すべて自分の手で書きとめました。

秘密のベールが剥されたのは、社交界のゴシップ蘭のコラムニストに、慈善パーティでワインバーグとフォードがウィンザー公夫妻と談笑しているところを目撃されたときでした。

最終的に、フォードは6億5000万ドルの株式上場を行う事を決定しました。 それは当時史上最大の株式公開でした。

ゼネラル・モーター社を顧客とするモルガン・スタンレーを除き、ほとんどすべての投資会社が引受団に招かれました。

その数は722社にのぼります。 1956年1月、株式公開の朝、ミューヨークタイムズ紙の一面には丸顔のシドニーの笑顔の写真が掲載されました。 彼が裏の立役者であると新聞は報じました。

彼の友人であり、ボストンの名門銀行家であるポール・キャボットと共に、シドニーはフォード社の最初の社外取締役に就任しました。

長い間、フォード社は他の投資銀行を使わず、ゴールドマン・サックスの最も重要な顧客となりました。

フォード株上場により、ゴールドマン・サックスは一躍スポットライトを浴びる事になりました。 ワインバーグの長く輝かしいキャリアの中でも、これは最高の瞬間でした。

















ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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モルガン財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2894.html

デュポン財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2919.html

ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2917.html

日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ
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4

2021/6/29

ペテン師に騙されたワインバーグ  財閥(日本・世界)









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日本に関する記事は、主に国際ジャーナリスト堤未果氏の著作物を中心に取集したものです。 インターネトでデービッド・アトキンスを敵視する三橋貴明氏と藤井聡氏ですが、彼ら自身も言っていますが、彼女(堤未果)が先生と述べています。彼女の著作物・記事・情報がベースになっているケースが多く見られます。
堤未果 プロフィール
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Marcus Goldman (December 9, 1821 – July 20, 1904)
ゴールドマン・サックスの創始者


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マーカス・ゴールドマンが1869年に最初のオフィスを置いたパイン・ストリートのビル
このビルの地下一階から世界最強の投資銀行の歴史は始まりました。
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ペテン師に騙されたワインバーグ


ミスター・ウォール街
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からの続き



ワインバーグの論文を読んだ人の中には、悪名高きドナルド・コスタ―もいることが分かるでしょう。

彼は製薬会社マッキーソン・アンド・ロビンスの社長でした。 コスターはワインバーグの主張に高い感銘を受け、彼を役員に迎えました。

ワインバーグは丁重に、その申し出を受け入れました。 ところが、後に、彼は本名フィリップ・ミュージカというペテン師であることが判明します。

彼はコスターの別名でダミー会社をいくつも使い、2100万ドルの資産をでっちあげていたのでした。

ミュージカの犯罪が明らかになると、ウォルター・サックスはどうもこの名前に聞き覚えがあるように思い、昔のファイルを引っ張り出して、ミュージカ・アンド・サンズ社訪問記録の古いメモを見つけ出しました。

この会社は税関から不正行為で訴えられており、サム・サックスは、この会社とはいっさい取引すべきではないと赤ペンでファイルに書き込みをしていました。

ミュージカは捕まらずにコスターを装い、サム・サックスが引退した後、ゴールドマン・サックスに近づいて、以前断られた資金調達を再度持ち込んでいたのでした。

マッキーソン・アンド・ロビンスの役員全員、監査役、そしてシドニー・ワインバーグはミュージカにころっと騙されていたのです。

犯罪が露見した後、ワインバーグを含むマッキ―ソンの役員が集まり、彼を正式に解雇するための会議を開きました。会議の途中メモが入りました。

ミュージカが自殺を遂げたというニュースでした。 しばらく気まずい沈黙が続いた後、ワインバーグがこう言いました。

「さて諸君。 ともかく彼の罪状に基づいて、彼を解雇しようではないか」 ワインバーグとマッキーソン・アンド・ロビンスの役員は、自発的に個人の金を出し合って会社の支払い債務60万ドルに当て、訴訟を免れました。

ワインバーグが分担した金額は7万5,000ドルでした。後にワインバーグはホワイトヘッド
の力を借りて、このスキャンダルについてハーバード・ビジネス・レビューに平然と寄稿しています。

「マッキーソン・アンド・ロビンスの件で取り調べが行われました。 弁護士は私の書いた論文を持ち出して、なぜ私がその論文で主張したように。すべての企業情報に通じていなかったのかと問いただしました。 私は彼に次のように反論した。モーゼはシナイ山で十戒を授けられました。 われわれは誰もが十戒を信じます。 が、残念ながらそれをすべて守って生活する人はいないでしょう 」

ユーモアで切り返したものの、その実ワインバーグはマッキーソン事件に深く傷つきました。

その後、役員を務める会社の数を減らし、役員として残ると決めた会社には今まで以上に精励するようになりました。

彼が役員を務めた会社はすべてゴールドマン・サックスの顧客か、後に顧客となっています。

ワインバーグの献身的な努力は伝説となっています。 彼は自分の関係する会社の製品以外は使わないと固く決めていました。

チーズはクラフトでなければ食べないし、電球はゼネラル・エレクトリック、家電製品はシアーズで購入するものと決めていました。

チャンピョン・ペーパー・アンド・ファイバー社の役員に就任すると、彼はゴールドマン・サックスが社内で使用する紙はすべて同社から購入しなければならないと指示を出しました。

フォードの役員になると、彼はキャデラックとオールズモビルを売却し、リンカーンとマーキュリーに替えました。

ナショナル・デアリー・プロダクツの役員仲間、ポール・C・キャボットとヨットの旅に出たとき、そのヨットにはライバル社ボーデンのインスタント・コーヒーしか積まれていませんでした。

それを知って、彼はがっかりしました。 ワインバーグは休暇の最中ですら、会社を裏切る事を潔しとしませんでした。

おかげで、彼を招いたキャボットは、次の港でマックスウェル・ハウスを買い込む羽目になりました。

マックスウェルの瓶が空になると、キャボットはボーデンのコーヒーを瓶に詰め替えました。


一緒にヨットで航海した人はこう語っています。 「ワインバーグは有頂天で、一日に何杯もコーヒーを入れては、仲間に、どうだ、こんなにおいしいコーヒーを飲んだことはないだろう、と言ったものでした」。


















ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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2021/6/28

ミスター・ウォール街  財閥(日本・世界)









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ミスター・ウォール街


1930〜940年代、ゴールドマン・サックスの低迷期
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からの続き



ワインバーグは、30社以上の会社の取締役を努めました。 その活動は最初、GSTCの失敗で傷ついたゴールドマン・サックスの名声を取り戻す一手段と考えられていましたが、

その必要性がなくなった後もずっと、彼は活動を続けました。 ワインバーグの使命は、ゴールドマン・サックスの名声を守ること、信用を築く事でした。

しかし、実際には、社名よりも彼の名前のほうが知られた期間の方が長く、実業界への親善大使の役割をになって、25年間、ワインバーグは1年間に平均250の役員会や委員会に出席しました。

フォーチュン誌は彼を「役員の中の役員」と書きましたが、一般には「ミスター・ウォール街」のほうが通りは良かったのが現実です。


















ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ
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3

2021/6/23

1930〜940年代、ゴールドマン・サックスの低迷期  財閥(日本・世界)








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日本に関する記事は、主に国際ジャーナリスト堤未果氏の著作物を中心に取集したものです。 インターネトでデービッド・アトキンスを敵視する三橋貴明氏と藤井聡氏ですが、彼ら自身も言っていますが、彼女(堤未果)が先生と述べています。彼女の著作物・記事・情報がベースになっているケースが多く見られます。
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ゴールドマン・サックスの創始者


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1930〜940年代、ゴールドマン・サックスの低迷期


サム・サックスの逝去(せいきょ) 
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1930年代、そして1940年代の後半、ゴールドマン・サックスにはほとんど仕事がなく、利益を上げる事が出来ませんでした。

会社の信用は失墜し、アメリカ経済は不況にあえいでいました。 のちに共同シニア・パートナーとなったジョン・ホワイトヘッドは、この時期の終わり頃に入社いていますが、

1930年から1945年の間の利益は累計ゼロだっただろうと推定しています。 1930年代、ワインバーグは獅子奮迅の活躍ぶりをみせ、利益の1/3を一人で稼ぎ出していました。

しかし、60年以上経った後、彼の息子ジョン・ワインバーグが指摘したように、ゼロの1/3は所詮ゼロでしかありませんでした。

ゴールドマン・サックスが将来を楽観的に見ていたことの良い証拠に、同社は果敢にも1932年にCP業務の最大のライバル会社を買収して、勢力を中西部に拡大しています。

後にはボストンの競争相手も買収し、その会社が顧客に抱えていた南部の繊維会社を取り込んでいます。

当時、これらの動きは無鉄砲と考えられましたが、おかげで同社はアメリカのCP業務で確固たる地位を築くことになります。

マーカス・ゴールドマン(創業者)は、CP業務を決してぞんざいに扱ってはならないと息子と義理の息子に諭しましたが、その心配はまったく無用でした。


1940年代に入ると、ウォール街は一変して静かになり、何も仕事のない時代が長く続きました。

夏の間は、とりわけ静かで、若い社員たちは夏の午後、ブリッジやポーカーに興じて時を過ごしました。

時間に追われることなく、ゴールドマン・サックスのパートナーたちは、景気が回復した時に備えて、将来の基礎固めとなる大胆な経営を行いました。

sの一つに、トレーディングの世界に参入するためにガス・レビーを雇い入れた事が挙げられます。

彼は時をおかずして裁定部門を作り出し、投資銀行部門がぱっとしない間の稼ぎ頭となりました。


裁定の二字ネスは、ヘンリー・ゴールドマンが40年前に着手した後、放置されていた分野であります。

ポジションを張って鉄道債券、dン江力債券を売買するところから、ゴールドマン・サックスの中の高収益部門、リスク裁定部門は生まれました。

大恐慌時代に鉄道会社の多くは会社更生法の適用を申請しました。 しかし、第二次大戦中、鉄道はフル回転で操業し、法的には倒産していたものの、手元には現金をたっぷり持っていました。

したがって、k金利支払いが滞った鉄道債は割安となっていました。 これら市場で過小評価されている債権の価値を正しく評価することにかけて、レビーは天才的でした。

後に、彼はこの才覚を電力会社や企業合併時にも応用しています。 レビーは江ホール街の偉大な裁定取引者として知られるようになり、

後にアシスタントだったボブ・ルービンと共に、ゴールドマン・サックスを世界にっ冠たる裁定取引業者の地位に引き上げました。


ゴールドマン・サックスは、また、この低迷期に地方債部門と個人営業部門(大きな資産を持つ富豪を対象に株や債券を売買する部門)を新設しています。

一般投資家は不正の状態か、いたとしても非常に神経質でありましたが、将来引受業務に再び参入するとなれば、販売先を確保することが不可欠となります。

これはそのとkに備えた動きでありました。 当時の投資銀行業務は単純なもので、買い専門の部署と売り専門の部署の二つしかありませんでした。

買いの部門が部署が発行体から証券を買い取り、売りの部署がそれを機関投資家や個人投資家に売ります。

投資銀行のコツは、証券を買い取る前に買い手を見つけておくことでした。 レビーは
「半分買い予約の入ったものは良い買いだ」 というしゃれt言い方をしていました。

それが当時の仕事の進め方であり、引受の損失から会社を守る方法でした。 1940年代、慎重なワインバーグは大きな損失をかぶらないように細心の注意で経営しましたが、同時に利益もあまり上がらずじまいでした。



トップの座にある間、ワインバーグは実業界での広い人脈を生かして会社のために実によく働きました。

彼の個人的な友人には、GE(ゼネラル・エレクトリック)、オーエンス・コーニング・ファイバーグラス、ナショナル・デアリー・プロダクツ、フォード、P&G(プロクター・アンド・ギャンブル)など大企業の会長が多く挙げられます。

永い間m、個人的な人間関係からビジネスが生まれることはありませんでしたが、ワインバーグは粘り強く、

アメリカのトップ企業をずらりと顧客に抱えるようにならなければ会長の将来はないことを、彼は熟知していました。

彼が会社に遺産として残したものは顧客でした。 ゴールドマンの顧客リストの顔ぶれに匹敵する顧客を抱えるのはモルガン・スタンレーくらいのものでした。

幅広い顧客層が、その後同社の驚くべき高収益を生み出す礎となりました。















ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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デュポン財閥 ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ
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2021/6/22

サム・サックスの逝去(せいきょ)  財閥(日本・世界)





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ゴールドマン・サックスの創始者


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マーカス・ゴールドマンが1869年に最初のオフィスを置いたパイン・ストリートのビル
このビルの地下一階から世界最強の投資銀行の歴史は始まりました。
マーカス・ゴールドマン商店が入っていたビル、30 Pine street , New Yoork













歴史的背景 1/3:第一次大戦前後とロスチャイルド・モルガン・ロックフェラー
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歴史的背景 2/3:第一次大戦前後とロスチャイルド・モルガン・ロックフェラー
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歴史的背景 3/3:第一次大戦前後とロスチャイルド・モルガン・ロックフェラー 
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サム・サックスの逝去(せいきょ)


ゴールドマン・サックスのパートナーとなったワインバーグ
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からの続き



キャッチングスが去った後、ゴールドマン・サックスの資本のほとんどがサックス家の出資によるものとなっていました。

アーサー・サックスは、いとこや弟たちと将来の方向性に関して意見を異にしたとき、ビジネスから手を引きました。

アーサーは縮小計画を提案しますが、ウォルター・サックスとハワード・サックス、そしてワインバーグは1930年代の不況期にもかかわらず、拡大計画を支持しました。

ウォルターとハワードが利益の出ない時期にも出資金を引き上げず、不屈の精神で耐えたおかげで、今日のゴールドマン・サックスがあると言っても過言ではありません。

1931年、古くからのパートナーは新任パートナーの資本口座がマイナスになると、彼らに救済の手を差し伸べました。

パートナー一人当たりの負担額は20万ドルから30万ドルで、当時としては巨額の金でした。

ゴールドマン・サックスは、血縁関係にあろうとなかろうとパートナー制であります。 債務を負ってパートナーとなることは断じて許されませんでいた。


サックス一族はキャッチングスの後任にワインバーグを選びました。 それは彼らが健全なビジネス判断力を持っていたことの何よりの証拠であります。

彼らが自意識過剰で知性に乏しい輩であったなら、自らそのポジションにつき、20世紀最大の投資銀行家が自分たちの眼の前にいることに気付かなかったことでしょう。

最初にワインバーグを認めたのはウォルター・サックスでした。 「この会社は3人の天才を輩出した。 ヘンリー・ゴールドマン、ワディル・キャッチングス、そしてシドニー・ワインバーグだ。その中で、水火も辞せず、試練に耐える男はシドニー・ワインバーグただ一人だった」

会社が黒字に転じるまでには10年以上の歳月が必要とされました。 1930年前半、会社は毎年損失を計上し続けました。

1934年4月、会社の共同王業者、サム・サックスが世を去りました。 彼は死の直前まで、息子のウォルターに、ゴールドマン・サックスの名前がどう思われているかと何度も尋ねました。

サム・サックスにとって、これは何よりも大事な事でした。 生涯を終える最期の年、暗雲がようやく掻き消え、息子は父に、父が聞きたいと願っている返事をしてあげる事が出来ました。















ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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モルガン財閥 ここまでのまとめ
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デュポン財閥 ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ
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2021/6/18

歴史的背景 3/3:第一次大戦前後とロスチャイルド・モルガン・ロックフェラー   財閥(日本・世界)



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歴史的背景 1/3:第一次大戦前後とロスチャイルド・モルガン・ロックフェラー
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歴史的背景 2/3:第一次大戦前後とロスチャイルド・モルガン・ロックフェラー 
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【第一次大戦と軍需産業、そして市の商人ザハロフ】

戦争を連合国側、同盟国側の双方から扇動した軍需産業にとって、だ一次世界大戦は途方もなく大きなビジネスの場となりました。

1914年に第一次世界大戦が始まると、アメリカのベツレヘム製鋼会社のユダヤ人社長チャールズ・M・シュワブは、直ちにイギリスに渡ってイギリス海軍提督と会い、要望があった潜水艦25隻をすみやかに建造して納入しました。 同社は、百万発の砲弾と1万9千門の鉄砲も提供しました。

ノーベル・ダイナマイト・トラストは、開戦と同時にトラストを分解し、敵味方に分かれた各国のノーベル社をそれぞれ独立させました。 イギリスのノーベル爆薬社は後にイギリス・ノーベル産業となり、モンド社と合併して有名なインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)と社名を変えます。

20世紀初頭に、N・M・ロスチャイルド&サンズが新株を発行して設立し、アーネスト・カッセル卿が莫大な金を投じて育てたイギリスの鉄砲メーカー、ヴィッカース&マクシム社が、ユダヤの「市の商人」ザハロフを代理人として台頭しました。 カッセル卿は、ドイツ系ユダヤ人大銀行家で、エドワード7世と親しく、ロスチャイルド一族に連なるゴールドシュミット商会の最高幹部でした。



ロスチャイルド財閥の始まり 放たれた5本の矢(子供達)
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ロスチャイルド家の4つの家訓とM・A・ロスチャイルド&サンズ会社 
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世界の長者番付とロスチャイルドの資産
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金の価格はこうやって決まる 黄金の間でのフィキシング
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ザハロフは人音で言えば、機関銃商売での成金です。 彼はヴィッカース&マクシム社だけでなく、ドイツのクルップ(鉄鋼会社)、フランスのシュナイダー、ロシアのプチロフや、ロスチャイルド家のル・ニッケルとも敵味方なく資本関係を結んでいました。

加えて、オーストリアのスコダともがっり組んで、ヨーロッパ各国の武装と戦争準備に邁進していたのでした。 ドイツの新聞にはロシアやフランスの軍備拡張を誇大に書きたてさせ、ロシアの新聞にはドイツの軍備を大袈裟に宣伝させ、各国での更なる軍拡予算の議会通過に貢献しました。

ザハロフは、第一次世界大戦が勃発した時は、各国に入り込んで戦争を徴発した自分の巧みな工作と準備が実ったと得意の絶頂でした。


ザハロフはフランスのパリ・ユニオン銀行の大株主となり、エクセルシオール紙を買収して戦火をさらに煽り、一方ではロシアのプチロフ兵器工場の資金源を押さえ、そこに同じ連合国側の資本連合国側のフランス資本を導入して工場を操りました。

彼は、中立国ギリシャの親独的な王を策謀で退位させ、中立を守ろうとするギリシャを戦争に巻き込みました。

さらに彼は、ギリシャとトルコ双方に武器を売り込んだだけでなく、トルコにヴィッカースの子会社を設立するように工作し、自らトルコの銀行もいくつか買収し、いつでも戦乱を起こせるように準備しました。 彼の作戦は的中し、バルカン半島の戦火は激しく燃え上がり、ギリシャは英仏側で参戦しました。

さらにザハロフは、戦争を長引かせる工作を行い、交戦国が互いに武器の部品や装具を供給し合うメカニズムを生み出しました。

フランスと独逸の国境近くに所有していた製鉄所は、戦争の帰趨ヲ左右する鍵でしたが、開戦と共にフランス軍は自発的にこの製鉄所を放棄してドイツ軍に手渡しました。

しかも交戦国同士が戦火の中でこの製鉄所の譲渡の協定を締結するという念が入ったもので、この協定を仲介したのがザハロフです。

終戦までこの工場はドイツのクルップの大砲のために鉄を清算し続け、無傷でした。 また、ロレーヌ地方にある大兵器工場は、独仏両軍の争奪の的でしたが、一発の砲弾も見舞われず、ドイツ軍占領中はドイツ軍に、ふランス軍占領中はフランス軍に兵器を供給していました。

フランスとドイツの間では、この種の話が他にもたくさんあります。 要するに、欧米の兵器メーカーは、ザハロフを介してことごとく互いに資本関係を結びあっていたのです。

ザハロフが暗躍し、国際金融資本家が統制していました。 政治家達も国際金融資本家がバックにいるザハロフには逆らえず、ザハロフはフランスに市民権を取得して深く食い込み、同国の政界において、フランス首相ジョルジュ・クレマンソー(在位1906〜1909、1917〜1920)を育てたと言われています。

クレマンソーは、断固とした対独強硬論者でしたが、フランス秘密警察が情報源として利用していたユダヤ人ナデルはザハロフの手下でした。 当初、各国の多くの政治家たちは、1年以内に戦争を終えるつもりでしたが、ザハロフはヨーロッパ中を走り回り、「急激な兵器の増産は無理」との口実をつけて工場の能力をを少し抑え、早期決戦を避けるように工作し、戦争を長引かせました。

連合国側が和平のために開いた会議には必ず彼が出席し、豊富な機密情報を背景にした説得によって、和平案を潰しました。 彼は敵方のドイツにも潜入していたので、双方の軍人たちの戦略が彼に筒抜けになっていたのです。


戦争が長引き休戦風が吹くたびに、彼は新聞を利用し、各国の政治家を動かし、あくまでも戦えと、常に主戦論を鼓舞すたのでした。 その結果、第一世界大戦は4年を超える長期戦となり、ザハロフの本拠地であり、ロスチャイルド家が背後から動かしたヴィッカース&マクシム社が最大の利益を上げて、世界のトップ兵器会社となりました。

同社は、1927年、アームストロング・ホイットワース社と合弁し、ヴィッカース・アームストロング・リミテッドとなります。

アメリカ、イギリス、フランス等の兵器会社は、どこも記録的な利益を叩き出し、莫大な配当を実施しました。 ザハロフは、「欧州大戦の父」と呼ばれ、31ケ国から298個の勲章を受け、イギリス王室からは「サー」の貴族称号を授けられました。



ロスチャイルドのネットワークとザハロフ

もちろん、ザハロフひとりだけが東西奔走して画策したわけではありません。 大戦中、ウィルソン大統領の指導者ハウス大佐も、ドイツを含めてヨーロッパ各国を何ら差し支障なくスパイ旅行し、ベルリンでも賓客として歓迎され、軍事上の詳細な機密情報を得ていたのです。

独墺が優勢となった局面では、英仏やドイツのフリーメーソンに属する有力政治家や軍人たちが通じ合ってドイツ軍の足を引っ張ったとか、ドイツ国内に反戦運動を起こそうと密かに工作を行っていたとの話もあります。

1917年、4月にパリで開かれたフリーメーソン大会では、ドイツとオーストリアでの君主制打倒が最大テーマでした。

ドイツ国会で最大勢力であった社会民主党は戦争に協力していましが、1918年に入ると、ドイツ国内での革命の準備と戦場での兵士の離脱工作が進行していました。

ザハロフ、ハウス大佐、そしてフリーメーソンのこれらの動きを支えたのは、ロスチャイルド家の広汎で強力なネットワークでした。



アヘン戦争 と フリーメーソン中国進出 
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クリミア戦争(トルコ vs ロシア)  と 明治維新
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2649.html

第一次世界大戦とモルガン財閥 
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2682.html

第一次世界大戦と日本の財閥(新興財閥の台頭)
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2719.html









【第一次世界大戦の終結、そしてFRB】

1917年10月、ウィルソン大統領は重大な演説を行いました。
「アメリカ合衆国の銀行準備を完全に戦時体制化する必要があることは、明白に避けれないことである。 連合国融資の負担と特権は国内のすべての金融機関によって共有されなければならない。 銀行による共同作業は、今や愛国って気義務であり、連邦準備制度の会員である事は、紛れもなく意義深い愛国主義の証拠であると私は信じる」。

参戦後に、連邦準備銀行は外国為替を規制し、金融力を集中して、世界大戦のための資金調達に万全を期しました。 もし戦時下において、以前のような分散した旧式の銀行制度だったなら、そのような事はできなかったし、参戦することもできなかったでしょう。

ポール・ウォーバーグは、連邦準備制度と財務省が「自由公債」を何十億ドルも発行して、アメリカの未発達な軍需産業が急成長するための資金調達をすることに没頭しました。 彼の第一次大戦への貢献?は極めて大きいものがありました。

1918年1月、ウィルソン大統領はいわゆる「14ケ条演説」でオーストリア=ハンガリー帝国の諸民族の自決と国際連盟創設などを提案しました。

ロスチャイルド家と傘下のロックフェラー家が握るアメリカ合衆国が、世界の新秩序を主導する構図です。 世界単一政府主義を目指すグローバリズムを本格的に推進し始めたのです。



ユダヤ教とグローバリズム、そして軍需産業
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【第一次世界大戦の終結と犠牲】

ドイツ帝国は、イギリスが仕掛けた外交・宣伝戦に負けて、アメリカ合衆国の参戦を招き、戦争の長期化によって、経済活動が停滞し、石油・食糧が欠乏し、国民が困窮しました。

アメリカは連合国側の石油を8割以上提供し、十分な兵員を続々とヨーロッパ大陸に送りました。

西部戦線の戦局悪化とともに戦争に反対する気運が社会で高まり、平和とパンを求めるデモや暴動が頻発し、ロシア革命に刺激された革命運動を惹起してしまいます。

1918年11月5日、キール軍墺で水兵・労働者たちが挙げた革命の火の手は、兵士たちの反乱とユダヤ人革命家たちに指導された大衆蜂起としてたちまちドイツ全土に燃え広がり、

事態は皇帝ヴィルヘルム2世の退位とドイツ帝国の滅亡へと進んでいきました。 この間、ドイツ政府は事態の鎮静化を図ろうと、休戦条約の締結と、政体の民主化を国民に約束しました。

そして、11月11日、フランスにあるコンピエーニュの森の列車にて、ドイツと連合国の停戦協定が締結されました。

精鋭ドイツ軍は広大なロシアの領土を占有し、首都ペテルグラードをも脅かす勢いでした。

ドイツ軍は結局、東からも西からも敵を一歩もドイツ国内に入れませんでした。 ドイツ軍には、決定的な敗北感がなかったのです。

ドイツはイギリスの知恵とアメリカの国力、そしてロシア革命の影響を受けた国内の改革の動きに敗北したのでした。









【第一次世界大戦による、夥しい死者と国際金融資本家のぼろ儲け】

第一次世界大戦が終結してみると、アメリカ合衆国は債務国から債権雄国へと変わり、世界一の金保有国となっていました。

アメリカは、経済力・金融力において、世界の覇権国家となり、国際政治での発言力も極めて大きくなりました。

このアメリカでの戦時成金の7割強はユダヤ人でした。 一方イギリスの国家債務は、1914年の6.5億ポンドから、5年後には国内分だけでも約61億ポンドと約10倍になっており、加えて対外債務はこの額を上回りました。

大部分は中長期債で、それらは証券取引所に上場されている全証券の額面の1/3にも達していました。

どの国でも巨額の戦債はプロレタリアートと無産階級がとが夥しい戦死者を捧げた上で、国民が挙げて向こう数十年間、国際金融資本家に対して支払わなければならない貢物のようなものです。

ロスチャイルド・ロンドン家は戦時貸付などにより、1千億ドルを稼いだと言われています。 まさに世間で言われる通りの戦争男爵です。



第一次世界大戦は、金銀ダイヤと石油など資源の略奪戦でもありました。 ドイツが敗戦で全てを失い、戦勝国のイギリスやフランスなどがこれを奪いました。

ロスチャイルド家と南アフリカのデビアスとの関係については有名ですが、ドイツ出身でロンドンのダイヤモンド商に入社して頭角を現した野心家アーネスト・オッペンハイマーは、

第一次世界大戦末期の混乱のなかの1917年、J・P・モルガンとともに南アフリカの金塊の採掘と販売のために、 アングロ・アメリカン社(英米の意)を設立しました。


同社はロスチャイルド家系ラザール・フレールなどから資金を借りて事業を拡大し、世界一の金塊業者となります。

オッペンハイマーは、全世界の鉱山に詳しいハーバート・フーバー(後のアメリカ合衆国大統領)とも親しくなりました。

フーバーは、各地で金鉱採掘に成功した山師で、しかもダイヤの研磨産業が集積していたベルギーの利権に深く関与する立場にあったので、ダイヤにも手を出しています。

ロスチャイルド家から支援を受けて大事業家になったフーバーが、オッペンハイマーにモルガンを紹介したとされています。

1919年には、アングロ・アメリカン社は、敗戦国ドイツの南西アフリカ領にあったダイヤモンド利権を獲得します。

イギリスが中東で得た石油利権や兵器で稼いだ軍需産業のの莫大な利権は、イングランド銀行やモルガン家はもちろんのこと、それらを支配するロスチャイルド家に滔々(とうとう)と流れ込んだのでした。


第一j世界大戦での戦没者は700万人、戦傷者は2千万人、併せて犠牲者はおよそ3,700万人と言われています。

これは人類史上、最も犠牲者数が多い戦争のひとつと位置付けられています。 アメリカも大きな代償を払っていました。

12万人が戦死し、23万人が負傷しました。 直接的な戦費は550億ドルに達し、間接的な戦費は、計り知れません。




ウィルソン大統領は、1919年10月に脳梗塞を発症し、1921年に大統領職から離れた後、1924年2月に死去しました。

生前、第一次世界大戦を支えた連邦準備制度設立に加担したことを後悔して、こう言い残しました。


「私はうっかりして、自分の国を滅亡させてしまいました。 大きな産業国家は、その国自身の通貨と信用システムによって管理されています。 わたしたちの通貨と信用のシステムは一点に集結しました。 したがって国家の成長と私たちの全ての活動は、ほんのわずかの人たちの手の中にあります。 私たちは文明開化した世界においての支配された政治、ほとんど完全に管理された最悪の統治の国に陥ったのです」。











【第一次世界大戦後のアメリカ】

第一次世界田戦が終わり、世界の覇権がヨーロッパからアメリカに移り、アメリカは空前の好景気、黄金の20年代(1920年代)を迎えます。



第一次世界大戦とモルガン財閥 
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FRBを設立し、ただ同然の紙きれに印刷しただけでドル紙幣となる、ドル発行権を手に入れた国際金融資本家たち(モルガン財閥、クーン・ローブ財閥、ロスチャイルド財閥、ロックフェラー財閥)は戦争で巨額の金(マネー)を手に入れます。

1932年にバーリとミーンズが会社における所有と経営の分離の論文を発表。 会社は地道な研究開発・製造・販売しなくても、株式を所有することで会社を所有することができるようになりました。

うまく出来すぎています。 そして空前のM&A、投資ブームが起こり、我らがモルガン・ゴールドマン・サックスなどの投資銀行が大活躍する時代に入ります。


信じられないかもしれませんが、モルガン財閥は金融支配で、GE、GM、ATT、USスチール・カーネギー・NY鉄道など巨大企業を所有するまでになり、影のアメリカ政府といわれるようになります。 噓だと思ったら自分で調べてごらんなさい。



そして1930年の世界大恐慌が起こり、ゴールドマン・サックスはキッチングスの強気の放漫経営により潰れかけになります。 これを救ったのが、最終学歴がブルックリンの公立小学校卒の、シドニー・ワインバーグです。 彼はゴールドマン・サックスの中興の祖と呼ばれています。


そしてワインバーグの活躍について紹介している途中が、私のBlog財閥シリーズの中のゴールドマン・サックス、シリーズです。




話は変わりますが、ご存知の通りアメリカの国家財政は天文学的赤字です。 国家の金庫は空っぽです。 にもかかわらず、米民主党政権では環境問題だけでも100〜200兆円、コロナ対策の金融緩和も1〜200兆円、資本主義社会にとって敵である筈の共産・独裁政権国家やアフリカ等お金が戻ってくる筈のないアフリカや東欧などに援助するのでしょうか?

話は簡単で、モルガンら国際金融資本家は、政治家に寄学予算を組ますことができれば、政府は国債を発行します。 そして何度も言いますがたの紙切れに印刷したらドルの化ける通貨は貢献をつ民間(モルガン、クーン・ローブ・ロスチャイルド・ロックフェラーは)所有の中央銀行FRBはお金を印刷し、アメリカ政府の国債を購入します。 当たり前ですが国債の所有者には時期が来ると利子をつけて国際所有者にお金を返さなければなりません。

そのお金はアメリカ国民の税金です。 こうしてアメリカ政府の財政赤字は膨らむ一方で、国際金融資本家たちはぼろ儲け、アメリカ国民はますます貧乏になり格差が広がると言う構造です。


よって、米民主党政権である限りはアメリカの財政赤字は膨らむ一方でしょう。 救いはドルは世界の基軸通貨だからアメリカという国は国民が貧困に陥ろうが、国家が潰れる事はありません。


だから、阿呆のMMT論者にの言う事を芯いていたら、国際的基軸通貨でない日本がやるとい事になります。 あえて、MMTを肯定するなら世界の基軸通貨米ドルを持つアメリカだけでしょう。


まだ、理解できない人のために詳しく事例を用いて分かりやすく説明してあげますので、何が間違っているか反論してみてください。




アホの一つ覚えMMT信者は馬鹿ばかり
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ロスチャイルド財閥の始まり 放たれた5本の矢(子供達)
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ロスチャイルド家の4つの家訓とM・A・ロスチャイルド&サンズ会社 
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世界の長者番付とロスチャイルドの資産
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金の価格はこうやって決まる 黄金の間でのフィキシング
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ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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モルガン財閥 ここまでのまとめ
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デュポン財閥 ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ
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2021/6/15

歴史的背景 2/3:第一次大戦前後とロスチャイルド・モルガン・ロックフェラー  財閥(日本・世界)



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【バルフォア宣言とアラビアのロレンス】


歴史的背景 1/2:第一次大戦前後とロスチャイルド・モルガン・ロックフェラー
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からの続き


アラブの指導者やパレスチナの人々が関わることなく、ロスチャイルド家の影響下で草案は作成され発表されました。

ウォルターを議長に、パリのジェームズ家も参加して、ロンドンのオペラ座でユダヤ人大会が開催され、バルフォア宣言が正式に発表されました。

興奮するユダヤ人聴衆に、ウォルターは「この1800年のユダヤの歴史で最も偉大な出来事」と、ジェームズは「イギリス政府は曽ニズムを承認したのです」と宣言しました。

背か中のユダヤ人を勇気づけ、パレスチナへの移住が勢いづきますが、第一次世界大戦後
パレスチナは、ひとまず国際連盟によってイギリスの委託統治領とされました。

さらにバルフォア外相は、ユダヤ人向けの国立宿泊所の設立も表明。 ドイツのルーデンドルフ参謀長は、一連のバルフォアのユダヤ政策の有効性を認め、ドイツが先になさなかったことを悔やみました。


アラビア半島では歴史が示す通り、第一次世界大戦における対トルコ(オスマン帝国)戦争のヒジャーズ鉄道に沿った戦いやアカバの戦いはすべて、トーマス・ロレンスが率いたアラブの軍勢だけで行われました。

アラブの奮闘がなければ、イギリスはトルコ勢力をアラビアおよびパレスチナから一掃することはできませんでした。

しかしイギリス政府はアラブ人との交渉や取り決めの中で「ユダヤ人郷土」の事は一度も言及しませんでした。 アラブの立場から見ると裏切りです。

映画にもなったイギリス人将校、アラビアのロレンスはオックスフォード大学出身の考古学者、かつ工作員です。

1918年110月1日、ロレンスのアラブ軍がダマスカスに入城し、砂漠の戦いにイギリスが完全勝利を収めると、オスマン・トルコ帝国は崩壊し、1914年の石油協定が無効となり、ドイツが確保していたメソポタミアの石油利権はすっかりイギリスの手に渡りました。

戦争終結後、ロレンスは、アラブの指導者でその後初代イラク国王となるファイサルT世の調査団の一員としてパリ講和会議に出席しています。

1921年1月からは、植民地中東局のアラブ問題顧問として、ロスチャイルド家と緊密な同省大臣ウィストン・チャーチルの下で働きました。


1918年から1948年(イスラエル建国の年)までのイギリスによるパレスチナ委任統治の30年間に、イギリスの力により多くのユダヤ人がぺレスチナに入植したしたため、1918年には少数であったユダヤ人が、1948年にはアラブの領域に国を樹立する事となります。










【第二次ロシア革命 2月革命・10月革命】

レーニン、トロッキー、スターリンの3人は、ソ連を建国した革命における最大の推進力でした。

レーニンは「知の人」で思想的計画性を有する理論家、トロッキーは「情の人」、スターリンは「独でした。

トロッキーは、スイスのチューリッヒに住み、「無賠償」「全ての国民の自決権」「王国、常備軍がなく、封建的特権階級のないヨーロッパの連邦組織」の実現を謳う『戦争とインターナショナル』と題するパンフレットを出版しました。

「王国のない」「ヨーロッパの連邦組織」などは、ロスチャイルド家が目指す新世界秩序の一端を言い表しています。


ユダヤ教とグルーバリズム、そして軍需産業
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1914年、だ一次世界大戦が起こると、レーニンはお0ストリア政府に逮捕されて、スイスに
追放され、1917年までチューリッヒに留まっていました。

資金を提供してレーニンを操ったのは、ロシアと戦っていたドイツや中立国スイスにおけるロスチャイルド家傘下の大富豪や官僚たちであるとされ、ドイツの秘密警察長官だったとの説があるマックス・ウォーバーはそのキーマンでした。

この時期、ウォーバーグ家はチューリッヒを本拠地の一つとしていました。 モルガンやろックフェラーらが出資して1915年にニューヨークに設立したアメリカン・インターナショナル・コーポレーションも、レーニンやグルゴリー・ジノヴィエフを首領とするポリヴェシキに財政支援したとされています。

ポリヴェシキは、第一次世界大戦を「帝国主義が領土や植民地などの権益を奪い合う帝国主義戦争」とみなしました。 その通りだと思います。

フランスは植民地を保持するとともにアルザス・ロレーヌとライン左岸を占領したがり、イギリスはドイツの植民地とトルコの領土を奪いたがっていました。

ロシアはガリツイア、アルメニアとコンスタンチノープルを欲しがり、加えてツアーは戦争を国内の不満を外に転じ、増大しつつある革命運動を抑止する手段としました。

ドイツの帝国主義者は、イギリスやフランスが植民地を譲りさへすれば即座にベルギーを放棄するつもりでした。


レーニンらは、この強欲な領土取り合いの帝国主義戦争を「祖国防衛の国民戦争」と位置づけることはできないとし、戦争を内戦化しして革命とすることを目指しました。

一方、ロシアの保守派、自由主義者、メンシェヴィキの大部分そしてアレクサンドル・ケレンスキー以下の社会革命党員は、愛国主義的な「四国防衛戦争」論を揚げ、対ドイツ戦に賛成していました。

レーニンは1916年の春、『資本主義の最高の段階としての帝国主義』を著し、改めて次のように主張しました。

「帝国主義は資本主義発展の最高段階を現すものである。 資本主義は蓄積の途上で、全産業部門のカルテル化、トラスト化して、これをニ、三の超富裕者の手中に置くほどに発達した。 ほとんど地球全体が資本権力者の間に分配されている」。

「植民地の形において、あるいは財政的搾取の糸で海外諸国を縛り付ける事によって、競争および自由貿易に、独占や資源の占有が取って代わった」。


「資本主義は封建主義に対する闘争の時代には、諸国民の解放者だったのが、帝国主義時代には諸国民の最大抑圧者となった」。

「銀行は控えめな仲介的企業から金融資本の独占者に転化した。 最も先進的な資本主義国家のなかの任意の一国か三つか五つくらいの最大の銀行が、産業資本と金融資本との人的結合を実現し、全国の資本および貨幣所得の大部分を占める幾十億の金(マネー)の支配権をその手に集中した。

現代ブルジョア社会の、例外なしにすべての経済的および政治的機関の上に、従属関係の濃密な網を張り巡らしている金融寡頭体制が、独占の最も顕著な現象形態である」。


レーニンは、マルクスを超えて、国際金融資本家を正面から捉えて、表現しています。 彼は一途でした。 後々、このことが命取りになってゆくのです。

独占資本主義は植民地搾取を徹底し、原料を極めて安価に獲得し、その生産品を植民地に輸出することによって利益を獲得する。 利益の源泉は、植民地労働者の搾取です。

そして国内の労働者階級はより厳しく搾取されていくことになります。 1900年頃には、全世界が分割され、アフリカは9割が奪取され、再分割の闘争も激化していました。

最も富強な少数の資本家による世界中の弱小民族の搾取。 この帝国主義により国際金融資本家はますますの資本輸出と利息からの莫大な儲けを獲得しながら、全体として資本主義を一層急速に発展させていきます。

このように、資本主義はその最高段階である帝国主義に入ると同時に、その進歩的役割は終焉し、今後はむしろ反動となったのです


ところがここで、革命のターゲットを国際金融資本家とせず、ツアー(ロシア皇帝)とする論理の飛躍が行われます。

「旧時代の封建的制度は、再び最善の武器となって現れ、資本主義の発展途上にあったツアー・ロシアは、かえって独占資本主義的となり、有力な帝国主義国家として出現する」。

レーニンは、資本主義の発展途上にあったrツアー(ロシア帝政)を、革命のターゲットとしたのでした。

レーニンはその理由を、「ロシアは帝国主義戦線の一番弱い部分であるから」としています。

レーニンは、革命は金次第であることも理解していて、彼はシフなどのアメリカにいるユダヤ人銀行家から多額の資金を得るべく、「ロシアのユダヤ人を虐待から救う」というスローガンを最全面荷揚げます。

これに応じてシフは、ロシア革命の軍資金として、1200万ドルを提供したと公表しています。

1916年頃から、クーン・ローブ商会のジェイコブ・シフ、オットー・カーンやグッゲンハイムなどのユダヤ人資本家がロシア革命の準備に参画していきました。

また、レーニンはユダヤ人が生来持つ時代を主導する運動に対する敏感さと国際性に目をつけました。 各国に分散したユダヤ人の運命に関する相通じる意識が、世界主義・国際主義に通じ、それが、共産主義や自由主義あるいはシオニズムの形をとった国際的な運動に結び付きやすかったのです。

レーニンは、資本家のみならず、多数のユダヤ人を革命の同志として積極的に味方に取り込んでいきました。

逆にユダヤ人たちは、レーニンをはじめとするロシア人革命勢力wp利用しました。 レーニンは一般 的にはろしあじんですが、母方にユダヤ人の血が入っていた関係もあり、厳密な意味でロシア人と言えるのかは不明とされています。

革命は金とともに数であり、共鳴し後援する民衆の数が革命の成否を決定します。 ユダヤ人だけ、主義と金の力だけでは、ロマノフ王朝を倒す革命はなし得ません。 レーニンははユダヤ人を利用し、ユダヤ人はレーニンを利用したのです。

ユダヤ人ジノヴィエフは、「レーニンの影」と言われるほどレーニンに近づき、レーニンの論文や演説原稿を代筆しました。

そのため、まず何よりも労働者と農民の開放を叫ばねばならないはずのボリシェヴィキが、ユダヤ人解放の要求を党則の第一条に掲げました。







2月革命

1916年、国際社会主義大会がスイスで開催され、各国の社会主義グループが統一されて、帝国主義戦争への内戦への転化、自国の帝国主義政府の壊滅など、ボリシェヴィキが示した方針を決定しました。

ボリシェビキは、ロシアにおいて、自国軍の敗戦、戦争による社会の混乱、戦争に反対する労働者や農民の革命的行動の組織化を計画し、ツアーと戦争利得を求めるブルジョア体制を倒して、共産主義革命を成就させ、無賠償・無侵略の即時和平、真の平和を実現することを求めたのでした。

ツアー政府の戦争敗北は、労働者や農民にとっての開放です。 そして、国境を超えて交戦国の労働者とも連携します。

1917年になると、ロシア帝政は、断末魔的な危機に陥りました。 ドイツ軍に敗退を重ね、国内において物資が底をつきました。

労働運動は、経済ストから政治ストに変わり、ロシア全土に広がりました。 ロシアの労働者の数は、1905年に150万人、1917年には200万人に過ぎませんでしたが、ストの数はどの国にもないほど多くなりました。

レーニンはスイスから地下組織を通じて、ペトログラード、モスクワ、キエフ等で革命の檄文の配布を行いストや暴動を指導しました。

ツアー政府は、ストの影響で兵器生産が不可能となり、同盟国に武器、弾薬などの援助を仰ぎます。

多くの兵士は銃も食糧もなく戦闘に駆り出されたので、反政府的な雰囲気を帯びてきました。

1917年2月、ペトログラードで、約20万人の労働者がストに参加。 赤旗が翻り、「ツアーを倒せ!」「戦争反対!」「パンをよこせ!」のスローガンが溢れ、鎮圧するはずの兵士は群衆に向けて発砲しませんでした。

兵士は次第に民衆に加担し、民衆も武装を始めました。 労働者に加え、数百万の農民も武装しました。

軍は分裂し、大方の兵は反乱軍となり、ペトログラードを占領。 この勢いの前に政治犯は釈放されました。

ツアーは最後の手段として、ユダヤ人に対する完全な自由と平等を与える法律を発布しましたが、時既に遅く、飢えた群衆がペトログラード全市で放棄しました。

全市に戒厳令が敷かれましたが、政府閣僚は総辞職し、ここに2月革命が達せられました。




この2月革命は、よほど前から用意されていたようです。 革命の第一日目に、首都ペトログラードに会った全ての自家用自動車が数時間のうちにものの見事ぬ徴発されました。

対向の豪華な自動車も直ちにsy姿を消し、その後は臨時政府の指導者が乗り回し、また帰国して駅に到着したレーニンの出迎えにも使われました。

しかし、ボリシェヴィキはせいぜいストを訴える檄文を配ったにすぎません。 レーニン、ジノヴィエフは亡命中であり、カメーネフやスターリンは流刑中、トロッキーもアメリカにいました。

他の政党も2月革命を指導した形跡はなく後追いでした。 誰が、この武装2月革命を実際に計画し指導したのか。 これまでの経緯から、ユダヤ人資本家などの世界戦略が背景にあったことは間違いなさそうです。

臨時政府が「自由公債」を公募すると、ロスチャイルド家は即座に100万ルーブルを応募し支援しました。

シフも、ユダヤ人を迫害するロシア帝政が崩壊したことで、2月革命を「奇跡に近い快挙・・・我々先祖たちをエジプト人の奴隷から解放したことよりもずっと偉大と言ってよい快挙」と褒めたたえ、臨時政府は、社会革命党(エス・エル)やメンシェヴィキが加わっていますが、十月党や立憲民主党(カデット)が主体で、前述の通り、あくまでも地主政権でありかつブルジョアジー政権でした。


彼らは基本的には反革命の立場であり、可能ならばツアー制さえ維持しようとしていました。 さらには第一次世界大戦を継続して革命の動きを外敵に向けながら、莫大な戦時利潤んを獲得しつつ、地中海への出入り口ダーダネルス海峡確保の必要性を論じたのでした。

プロレタリアートはまだ意識と組織が不十分であったために、政権を地主やブルジョアジーに渡してしまったのです。


これに対して、ボリシェヴィキはあくまでもプロレタリアートによる政権獲得を目指して革命の継続を主張しました。 労働者および革命側についた兵士の代表たちは、労働者兵士代表ソヴィエート(ロシア語で評議会の意味、ソヴィエトとも表記)に参集し、臨時政府に対抗しました。 ここに二つの政権、臨時政府(地主・ブルジョア主体)とソヴィエト(プロレタリア主体)が並立しました。

ソヴィエトの力は増大して民衆もソヴィエトの方が真の実力機関であると認識し始めました。 母がドイツ系ユダヤ人であり、レーニンと同郷シンビルスク生まれのアレクサンドル・ケレンスキー(1881ー1970)は、野心的な政治家であり、3月に社会革命党の一員となり、その巧みな弁舌によって、臨時政府からもソヴィエトからも支持を受けました。

2月革命直後、多くの民衆の支持された社会革命党は、マルクス主義的なプロレタリアート独裁革命には反対し、民主主義的社会革命を掲げてました。 3月になると、ロシア全土の都市や工場にどんどんソヴィエトが設立されていきました。 ペトログラード・ソヴィエトはそれらの中心となり、国家統一機関として位置づけられたのでした。

ペトログラード・ソヴィエトでは、当初、社会革命党とメンシェヴィキが優勢でした。 そのペトログラード・ソヴィエトにおいて、執行委員会が政治的・軍事的主導権を握ります。 執行委員会は、議長にチヘーゼ(メンシェヴィキ)、副議長にケレンスキーが就きました。 委員は合計15名で、ユダヤ人9名、ロシア人3名、ジョージア人1名、不明2名と、ユダヤ人勢力が圧倒しました。

特に、ステクロフ・ナハムケスやスハノフ・ギンメルなどはユダヤ人勢力の指導者であり、これらユダヤ人委員が実質上、執行委員会の意思決定を仕切りました。また、ブンド(ロシアとポーランドにおける全ユダヤ労働組合)が執行宇委員会の中で力を持ち、ユダヤ人の平等権に関する法令を発議しました。



執行委員会のユダヤ人たちは、やがてケレンスキー副議長の温和な路線は、ユダヤ王国の樹立と多民族への復讐には役立たないと、見切りをつけ始めます。

加えて、ケレンスキーは連合国側に立っっての対独戦継続を閣僚として宣言して、資本家を設けさせるだけの戦争にうんざりしていた農民や労働者を敵に回すことになります。
ケレンスキーは、ニコライ2世をイギリスに亡命させようとする動きさえも見せました。

彼はブルジョア的であり、帝国主義の片棒を担いでいるとさえ見なされるようになります。 ユダヤ人勢力は、ケレンスキーを見限り、ペテログラード・ソヴィエトで優勢な社会革命党とメンシェヴィキを見限り、多額の軍資金を持ってドイツ経由で帰国するレーニンが率いるボリシェヴィキに乗り換えてゆきます。

ロシア民衆は、そもそもボリシェヴィキに馴染まず歓迎していませんでした。 そこでボリシェヴィキは、まずユダヤ人たちに支持を求めました。 2月革命が成功すると同時に、各国からはおびただしい数のユダヤ人が、次なるユダヤ的革命を期待してロシアに殺到していました。 これらユダヤ人の大部分は、インテリあるいは半インテリで、ユダヤ人は民族圧迫から自らを開放するために、国家の拘束を否定するインターナショナリズムを主張し、民族平等の原則の下に世界革命を実現しようと試みました。

国際的なダヤ人勢力は全ての国家権力の上に大きな支配権をふるうことを考えていました。


ノアの呪い 黒人差別と支配者ユダヤ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2656.html
マフィアの上に君臨するユダヤ資本
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2656.html


この世界は、旧約聖書のノアの呪いにあるように、現実、黒人は呪われ奴隷となり、白人が支配し、その上に必ずユダヤがいる構造になっているのです。


マルクス主義を理論的かつ科学的に見せたぼりしゃヴィキの宣伝は、多くのユダヤ人のインテリや半インテリを共鳴させ、運動の施先とすることに成功しました。








レーニンとトロッキーの帰還

スイスにいたレーニンは、ボリシェヴィキを直接指導すべく祖国を目指しましたが、戦争によりほとんどの帰国ルートは封鎖されていました。 スイスの情報網を通じてレーニンの帰国意志を掴んだドイツ政府やドイツ軍のルーデンドルフ参謀長は、「ドイツ政府の資金とドイツ軍の手でレーニンをロシアへ送り、ロシア政府を転覆させよう」と企て、彼を「封印列車」に乗せ、秘密裏にドイツ領内を通過させ、帰国できるよう手はずを整えました。

レーニンがドイツの計らいでロシアに送られることが決まると、社会主義者や革命家たちの間では賛否両論が起こりました。 彼は多くの賛同者から赤旗を振られ、反対者からは「ドイツのスパイ」と罵られながら、ベルンの駅で封印列車に乗り、ドイツ士官3人と共に悟られることなく、ドイツを通過して北部を移動した後、船でヘルシンキへ向かい、そこから列車でペトログラードに向かいました。

この封印列車の手配には、ロスチャイルド家の下で働きドイツ政府の右腕となっていたフェリックスなどウォーバーグ兄弟が一役買ったとされています。 1917年4月3日未明、ペトログラードに着いたレーニンは、駅頭で歓呼する数千人のボリシェヴィキの労働者や兵士を前に、臨時政府を厳しく非難するとともに、プロレタリア革命を訴えました。

彼は、封印列車内で書き上げた『4月テーゼ』を党の綱領として発表しました。 臨時政府はツアー政府と同程度に帝国主義的であると断定し、ブルジョア革命をプロレタリア革命へ転化して、プロレタリア政権を樹立、ドイツなどとの資本家的戦争の即自和平、2千万人の組織化された人々を代表するソヴィエトの権力集中、産業と銀行の国有化、国家による地主の土地収用などを提唱しました。

さらに彼は、ペテログラード・ソヴィエトにおいて社会革命党とメンシェヴィキとが臨時政府に協力姿勢を示していることを革命への裏切りとして糾弾。 彼は唐名称を「共産党」
と改める事を主張しました。 4月18日、ボリシェヴィキは、挙げてレーニンの『4月テーゼ』を採用しました。 ソヴィエトはますます勢いを増し、4月中には全国の農村につくられました。 一方、メンシェヴィキはロシアがまだ社会主義社会に移行する段階に達していないと主張し、「レーニンは誕生したばかりの新しい共和国を内戦へと導こうと試みている」と非難しました。

臨時政府はレーニンを「ドイツのスパイ」「ヴィルヘルム2世の代理人」と呼んで攻撃しました。


戦術家トロッキーは、1914年に第一次世界大戦が始まると、スイスからフランスに移住し、反戦を唱え、戦争支持のドイツやフランスの社会主義政党を批判しました。 彼は1916年にフランスからも追放され、スペイン経由でアメリカ合衆国へ亡命しました。

彼は、ニュージャージー州にあるロックフェラー家のスタンダード石油の製油所内で革命私兵集団を訓練して毎日を送ったとか、ニューヨークでシフの支援を受け大邸宅に住み、護衛隊までついていたと言う話があります。 ニューヨークでは、ロシア語新聞にロシア情勢を書いています。

2月革命を知ると、トロッキーはシフから貰った多額の革命資金を持ってニューヨークを発ち、1917年5月、レーニンに1ケ月遅れてペテログラードに到着。 ドイツのユダヤ人資本家マックス・ウォーバーもトロッキーに資金を提供しました。 トロッキーは、7月、ボリシェビキに入党し、やがてペテログラード・ソヴィエト議長に数人します。

ドイツのルーデンドルフ参謀長は、後の1931年2月、ボリシェヴィキの背後にyダヤ人国際金融資本家がいて、ロシア帝国とドイツ帝国への闘争を指揮していたと暴露しました。
彼は「トロッキーは国際資本家の莫大な金を持ってアメリカからスウェーデンを経てペテログラードに到着した。 別の金はドイツから、ユダヤ人ゾルムビンによって、ボリシェヴィキに与えられた」と述べています。

こうして2月革命後に、レーニンやトロッキーをはじめとして、スターリンを含めて数千万の革命家がペテログラードに帰ってきました。 世界各地から帰還した亡命ユダヤ人革命家たちは、直ちに、ボリシェヴィキのユダヤ人指導者たちと合流したのでした。





ボリシェヴィキへの弾圧

5月5日、臨時政府はソヴィエトからの政権参加を認め、8人の資本家、ケレンスキーを含む2人の社会革命党員、2人のメンシェビキ、そして2人のその他社会主義者からなる改造内閣をつくりマシタガ、ボリシェヴィキは加わりませんでした。 依然としてブルジョアジー中心の政権でした。 野心家のケレンスキーは司法大臣から軍務相(陸相)となりました。 6月上旬、第一回全国ロシア労働者兵士代表ソヴィエト大会が開催され、ボリシェヴィキの兵士や労働者がレーニンを支持したものの、多数を占める社会革命党とメンシェヴィキが、これ以上の革命とその後の反動を恐れてケレンスキーを支持し、結局大会は臨時政府の戦争継続方針を支持しました。 ケレンスキーは、国内闘争を外敵(ドイツ)に対する総攻撃に転化し、戦争によって国内の反対勢力を粉砕することを企図しました。

ところが、スターリンらによる新聞やポスターなどでの呼びかけが奏功し、6月18日、ペテログラードで50万人の労働者と兵士が「戦争反対!」「ケレンスキー反対!」「全権力をソヴィエトへ!」と叫ぶデモが勃発しました。

7月4日にも40万人の労働者と兵士によるデモが起こりました。 地主やブルジョワジーに背中を押された臨時政府はこれを鎮圧し、社会革命党やメンシェヴィキは臨時政府を支持しました。 さらに、「レーニンやボリシェヴィキは、ドイツから資金を受け取っている。 ドイツのスパイだ!」との嫌疑を世間に流布させたために、ボリシェヴィキは苦しい立場に追い込まれました。

捜査で押収されたレーニン筆跡の手紙や逮捕された資金の運び屋の供述からして、ドイツから引き続きレーニンやボリシェヴィキに資金が流れていた事は事実です。 臨時政府はさらに踏み込んで、トロッキーたちボルシェヴィキ指導者を逮捕しました。 レーニンは変装して逃れ、10月下旬までフィンランドの郊外の草むらやヘルシンキの隠れ家に身を潜めていました。

7月7日に首相兼軍務相となったケレンスキーは、詰襟服を着てナポレオンを真似た独裁者となり、ボリシェヴィキ弾圧と戦争継続を断行していきました。

一方、戦争の前線ではボリシェヴィキのスローガンが浸透して反戦の空気が広がり、兵士たちの敵意は失われていきました。 ロシア軍はドイツ軍に敗北と後退を重ねて行きます。
ロシア国内では、長引く戦争の影響で、民衆は極度の栄養不足に陥り、生活必需品は激減し、配給のための輸送は燃料不足のために止まり、壊れた鉄道馬車が軍用貨物を運んでいました。 莫大な国債発行と紙幣の増発によって極度のインフレとなり、ルーブルはどんどん無価値になっていきました。







10月革命とユダヤ人

8月、ボリシェヴィキの第6回大会で、党中央委員会の新委員として獄中のトロッキー、ヨッフェなど5名のユダヤ人が選ばれ、中央委員会のユダヤ人比率は40%に達しました。

この頃になると、ロシアの国内事情を反映して、ようやくロシア民族のボリシェヴィキへの支持は広がりを見せ、その指導下に労働者たちは武装して「赤軍」となっていきました。 ペトログラードやモスクワの司会選挙では、ボリシェビキが大躍進し、メンシェビキと社会革命党は激減しました。 いよいよボリシェビキの時代となります。

9月1日、ケレンスキー首相は、「ロシア協和国」に国号を変更。 社会主義を称さなかったためにユダヤ人勢力は激怒しました。 しかも、この時すでにケレンスキー首相は信頼できる軍を失っていました。 9月4日、臨時政府は大勢に押されトロッキーを釈放。 一方で臨時政府はなおも強硬に出て、革命的なペテログラード・ソヴィエト執行委員会を非合法化しました。 9月中旬、レーニンは党中央委員会に手紙を送り、すみやかに武装蜂起の準備に着手させました。 この頃には、ボリシェビキは、ペテログラードおよびモスクワのソヴィエトにおける労働者や兵士の過半数に勢力を広げていきます。 9月23日、ペテログラード・ソヴィエトは臨時政府の反革命性を言った絵、遂に革命決起を決議しました。

ほとんどすべての兵士たちも敗戦に次ぐ敗戦に疲労困憊し、食料にも事欠き、平和を望みました。 前線から兵士たちの代表者がペテログラードに集合し、「即時和平、司令官更迭、ボリシェヴィキ圧迫の廃止、革命政府建設」を要求しました。ペテログラード守備隊は、バルチック海沿岸への敵軍侵入を迎え撃つための臨時政府の出動命令を拒否しました。


10月初め、ボリシェヴィキは、「戦線にては平和、後方にては戦争」のスローガンを掲げ、戦争を内戦化する方向へと激しい宣伝活動を開始。 10月7日、レーニンはペテログラードに侵入。 ボリシェビキは、人民の広汎な支持を獲得していることを踏まえ、いよいよ武装蜂起を日程に上らせました。

10月10日、レーニンの提議によりボリシェヴィキ革命の断行が党内で正式決議され、党内に革命断行最高幹部会を組織しました。 幹部会は合計12名中、ユダヤ人7名、ロシア人2名、その他2名、不明1名とユダヤ人勢力が絶対多数を占めました。

12名の名は、レーニン(母方ユダヤ人)、ジノヴィエフ(ユダヤ人)、スウェルドルフ(ユダヤ人)、カメーネフ(ユダヤ人)、トロッキー(ユダヤ人)、ウリッキー(ユダヤ人)、コロンタイ(ユダヤ人)、ソコリニエフ(ユダヤ人)、ブプのフ(ロシア人)、露モフ(ロシア人)、ロモフ(ロシア人)、スターリン(ジョージア人)、ジエルジンスキー(ポーランド人)です。 ちなみにカメーネフの夫人はトロッキーの妹でした。

同日、さらにボリシェヴィキの最高統帥権を握る政治局が組織され、合計7名中、ユダヤ人4名、ロシア人1名、その他1名、不明1名とユダヤ人が過半を占めました。 7人の名は、レーニン(母方ユダヤ人)、トロッキー(ユダヤ人)、ジノヴィエフ(ユダヤ人)、
カメーネフ(ユダヤ人)、ソコリニエフ(ユダヤ人)、ブプノフ(ユダヤ人)、スターリン(ジョージア人)です。

10月16日、ボリシェヴィキ党中央委員会の指令によって、軍事行動を統括する軍事革命委員会がペテログラード・ソヴィエトの下に組織されました。 軍事革命いいんかいの中核には、スターリンらの党中央部がありました。 軍事革命委員会は18人からなり、トロッキー、ヨッフェ、スウェルドルフ、モロトフ、ウリツキーなど10人のユダヤ人、5人のロシア人、およびレーニン(母方ユダヤ人)とジェルジンスキー(ポーランド人)、の他1人のコーカサス人というようにやはりユダヤ人が大勢を占めました。

10月17日、軍事委員会はペテログラードおよび近郊の軍隊に革命の通告を発し、大多数の
部隊は武装蜂起に賛成しました。 ペテログラード守備軍は、もはや臨時政府を認めず、ペテログラード・ソヴィエトが自分たちの政府であるとの決議を行いました。 同17日、トロッキーはアメリカ人ジャーナリストのジョン・リードに革命に対する考え方を語っています。 その中で彼は、「ロシア革命の圧力は無併合・無賠償・人民の自決権の講和とヨーロッパ連合共和国の実現の方向に向けられるであろう」「この戦争の終わりにはヨーロッパはプロレタリアートによって改造されると思う。 ヨーロッパ連合共和国(ヨーロッパ合衆国)、これにならねばならぬ」。と述べています。 ヨーロッパ連合共和国(ヨーロッパが州国)はまさにロスチャイルド好みの言葉です。


ユダヤ教とグローバリズム、そして軍需産業
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10月21日には、トロッキーが、ペテログラード・ソヴィエト議長と軍事革命委員会委員長の両方に選ばれました。 このことはレーニンにとって武装蜂起に向けての大きな力となりました。

10月23日、ボリシェヴィキ中央委員会は、トロッキーが率いるペトログラード・ソヴィエト軍事革命委員会の名でペトログラード市民に対して布告を出して、治安維持ならびに行政機能が事実上、中央委員会に移った事を宣言し、政府への宣戦布告を行いました。

10月24日の寒い朝、ボリシェヴィキはスモーリヌイ修道院を占領して要塞化しました。 その3階にはトロッキーを中心とした軍事革命委員会の部屋があり、革命をめぐるあらゆる情報が集まり、会議が休むことなく続けられていました。

ケレンスキー首相は、ロシア共和国臨時会議での演説で、ボリシェヴィキとレーニンを「革命の裏切り者」「ドイツのスパイ」と呼んで激烈に弾効しました。ケレンスキー首相は、武装蜂起クーデターの切迫を察知し、再びボリシェヴィキ指導者の逮捕を試みましたが、もはや事態を好転させることは出来ませんでした。 臨時政府の枢要機関にはボリシェヴィキが浸透し、軍は臨時政府から離反していました。


10月24日の夜、レーニンは、歴史的文書「中央委員会メンバーへの手紙」を書き、武装蜂起の即時決行を指令しました。 既にラトビアのリガを占領していたドイツ軍は、ロシアの首都ペテログラードを脅かす勢いでした。

このような情勢下、前夜のレーニンの即時決行命令を受けて、1917年10月25日、トロッキー式の下、武装蜂起による10月革命が始まりました。 鉄道駅・印刷所・郵便局・発電所・銀行など市内の重要な施設は、ほとんど無抵抗で混乱なくボリシェビキに引き渡されました。

臨時政府が立て籠もる冬宮への軍の砲弾による攻撃も始まり、ケレンスキーは、アメリカ大使館からアメリカ国旗がついた自動車を借りて逃亡。 1917年12月25日の午前1時、軍事革命委員会は全ロシアに次の布告を発しました。

「臨時政府は倒壊した。 国家権力は労働者および兵士の代表から成るペトログラード・ソヴィエトの機関、軍事革命委員会の手に帰した。 民主的平和の即時申し入れ、土地に対する地主の所有権の撤廃、労働者による生産の支配、ソヴィエト政府の樹立、民衆のこれからの要求は確保されることとなった。 労働者・兵士および農民の革命万歳!」。

午後2時半にはペトログラード・ソヴィエトの臨時会議が開かれトロッキーが臨時政府の倒壊を正式に宣言。 ブルジョアジー体制からの解放と、レーニン、トロッキーらとボリシェヴィキに集まったユダヤ人勢力による完全な単独政権の樹立を実現しました。 ソヴィエトの革命政権のためにボリシェヴィキの指導下に労働者・農民によって、編成された赤衛軍(赤軍の前身)の指導者はトロッキーであり、その幕僚もユダヤ人でした。

午後10時15分、第二回全ロシア労働者・兵士・農民代表者ソヴィエト大会がボリシェヴィキが大勢を占めるなかで開催されソヴィエト政府の樹立、英和と土地に対す関する布告が宣言されました。 これにより大地主の土地は没収されることになりました。











革命を利用し、ロシアを牛耳るユダヤ人

全ロシア労働者・兵士・農民代表者ソヴィエトの中央執行委員会(ツェー・イー・カー)は、法律の制定・交付や、政府布告の取り消し・変更の権限を持ちました。 最初のソヴィエト政府組織として人民委員会会議がつくられました。 レーニンは、「大臣」「内閣」
の古臭い名称に替えて、革命の匂いがする「人民委員」「人民委員会議」の名称を使うことにしました。 人民委員会議議長にはレーニン、外務人民委員にはトロッキー、民族人民委員にはスターリンが就きました。

人民委員15人の内訳は、レーニンおよび11人のロシア人、トロッキーら2人のユダヤ人、そしてスターリン(ジョージア人)から成っていて、ロシア人が多数を占めました。 しかしながら、政治の実権は、表看板の人民委員会ではなく、最初からボリシェヴィキ中央委員会が牛耳りました。 中央委員会の委員長にはユダヤ人スウェルドルフが1919年3月にロシア人に暗殺されるまで在籍し、かつ党の書記長も兼ねました。中央委員会はユダヤ人が牛耳ります。

後の1928年、フランスに亡命していたケレンスキーは、ドイツのスパイであったロシア人将校の告白を基に、「レーニンとボリシェヴィキはドイツ政府の手先であり、ドイツ参謀本部と関係があり、ドイツから資金を支給されて、ロシア軍の敗北と国家の崩壊を企てたドイツの秘密命令を実行した」という暴露本を出しますが、ボリシェヴィキを支援したユダヤ資本家には言及していません。 あくまでも、レーニンとボリシェヴィキを矮小化し貶めたかったのでしょう。

ボリシェヴィキは、労働者や農民のための革命を行いましたが、ユダヤ人を含む指導者たちを除くと、党員のほとんどは、当時、身教養であぶれ者と言われていたロシア人たちでした。 10月革命によって、ロシアの役場の役人たちは虐殺されたり追放されたりしていなくなっていました。 そこに2月革命後にロシアに殺到したユダヤ人たちが乗り込み、町長や村長以下のポストに就いて地方行政を壟断(ろうだん)し、さらに勝手にボリシェヴィキの代理人となったのでした。

ユダヤ人たちは、地方行政だけではなく、首都の市長や公共機関・軍隊などの重要な地位からロシア人を追い払い、その後釜に座りました。また野次馬的なロシア人たちの集まりであった各地方のソヴィエトにもユダヤ人たちは入り込み、書記や会計と言ったインテリ向けのポストに就きました。 知識人に欠乏していた革命ロシアはたちまちユダヤ人に席巻されました。 彼らはボリシェヴィキを利用してユダヤ民族の生活権を確保したのでした。
新入りのユダヤ人が土着のロシア人を支配する構図となり、従来のロシア人とユダヤ人との支配・被支配の関係が逆転しました。 人工の数%に満たない260万人のユダヤ人が革命を通じてロシアを牛耳る時代となったのです。



ボリシェヴィキは、1915年以来、モルガン家やロックフェラー家からの財政支援を受けていましたが、10月革命以降、ボリシェヴィキ政権へのロックフェラー家からの財政支援はさらに大きくなったといいます。 ニューヨークからは医師団や銀行家の集団が派遣されたようです。 第二次世界田戦後の話ですが、ロックフェラー家の第四代当主デイヴィッドがソ連を訪問すると、まるで建国の父のように歓迎されたという話もあります。

ドイツのユダヤ人資本家マックス・ウォーバーグも、ボルシェヴィキ政権の形成期に多額の資金を出したと言われています。 ロスチャイルド家が引き受けた臨時政府の「自由公債」につては、後継のボリシェヴィキ政権からは1ルーブルの償還もなかったとされており、すなわちロスチャイルド家は贈与したということです。

10月26日、ボリシェヴィキは、ドイツなどの交戦国の政府と人民に「無併合、無賠償の即時平和」「秘密条約と秘密外交の禁止」を訴えました。 12月、革命政権の明暗をかけた対独和平交渉が始まりました。 その全権団は10人で、やはり代表のヨッフェやトロッキーなどユダヤ人が掌握しました。 戦場で血を流したロシア国民の代表はロシア人ではありませんでした。 この頃、「革命政権はユダヤ人政権」という言葉が、ロシアの民衆の間での合言葉となりました。

1917年12月1日、レーニンは全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会で「抵抗を抑圧せずして、プロレタリア独裁なくして、旧世界に弾圧を加えることなくして、プロレタリアの勝利を得ることは不可能であるということをひていするものはない」と言明しました。 ここが共産主義者のいい加減なところで、言論の自由を訴えて民衆を利用し革命を起こしたのに、革命が成功すると民衆を弾圧しブルジョアのようにふるまおうとする。 結局は、共産主義ならぬ自己中心主義であったと言う事です。

この時以来、ロシアにおいては独立的な新分野雑誌はなくなりました。 革命家たちが闘い取った言論の自由は失われたのでした。 レーニンは「反革命、投機、怠業に対する闘争を目的とする特別委員会」、すなわち秘密警察ゲー・ペー・の前身チェ―カーを設立しました。 全ての反ボリシェヴィキの動きを察知すると、捕縛/処刑し、赤色恐怖政治による膨大な犠牲者を生み出していきます。 冷酷な初代長官フェリックス・ジェルジンスキーら多数のユダヤ人幹部が実権を握り、戦慄的な脅威・恐怖をロシア民衆に与えていきました。

10月革命後のロシアの国内経済は混乱の中に推移して崩壊の一歩手前でした。 レーニンは従来の経済機構をなるべく壊さずに、しかし同時に国有化を含む社会主義的建設を進めるという難しい舵取りを強いられました。 次に、工業の国家統制、原料の中央集中的配分、そして軍需優先の体制づくりに取り掛かりました。

12月15日には、ソヴィエト政府は、国債廃棄令を公布し、特に外債はすべて無条件に廃棄することとしました。 1918年1月、第3回全ロシア労働者・兵士・農民代表者ソヴィエト大会が開催され、民族人民委員のスターリンが報告を行いました。 そこで彼は、改めて「下層民による独裁」「少数者に対する多数者の支配」の重要性を強調しました。

1918年2月以降、ドイツは厳しい条件提示によってソヴィエト政府との和平交渉を難航させ、その間、ドイツ軍は圧倒的な火力、航空機そして装甲車によってロシアを広域にわたり占領し、いよいよペテログラードをも占領する勢いでした。 レーニンは。ペテログラードからモスクワに首都を移しました。 そしてモスクワで開催された第7回党大会で、党名を正式に「ボルシェヴィキ」から「ロシア共産党」へと改称しました。

ドイツ軍のロシア奥深くへの侵攻を目の前にして、ロシア国内は一挙に祖国防衛の気運に統一され、士気が高まった赤軍はドイツ軍の前身を止めました。 そして遂に、1918年3月3日ドイツとソヴィエト政府とはブレスト・リトフスにて講和条約を締結することになり、ロシアは第一次世界大戦から離脱しました。 ドイツ側の一番の狙いは西部戦線への兵力天洋でした。

ドイツの圧倒的な優勢下で講和条約が結ばれたため、ポーランド・フィンランド・バルト海沿岸・白ロシア(今日のベラルーシ)・ウクライナ・クリミア・コーカサス・ドンなどがロシアから分離されて、それぞれ王国や共和国となってドイツの勢力圏に入りました。
ロシアはこれら広大な地域の人口と生産物を失ったのです。このとき、ドイツは戦勝気分に沸き返りました。

1918年7月、シベリアで勢力を盛り返していた反革命勢力や帝政派に略奪される危険があったため、エカテンブルグに幽閉されたいたニコライ2世以下ロマノフ一家は、ユダヤ人スウェルドルフとレーニンの了解の下に惨殺されました。


こんな残酷な最期はひどすぎる…ニコライ2世とその家族の悲劇
https://wondertrip.jp/101204/



同月、レーニンは「反ユダヤ人運動撲滅戦争に関する告示」を交付し、ユダヤ人のロシア人に対する大復讐戦の進軍ラッパを鳴らしました。 スウェルドルフらは、チェーカーや各地方のソヴィエトなどを使って反ボリシェヴィキ的・反ユダヤ的と思われるロシア人約140万人を虐殺しました。

イギリスの『タイムズ』紙は、革命当初から1920年までに当局の手で処刑されたロシア人は、農民82万人、有産階級37万人、労働者19万人、医師9千人、大学教授以下教師7千人、僧侶など宗教関係者2千人、合計約140万人という数字を報じています。 農民や労働者の多くは、無知故に伝統的な憎悪をユダヤ人に向けていたので殺されたと言われています。

レーニンは公然と個人的暗殺、階級全体の集団的虐殺を容認し、その後、スターリンが一層これを拡大させたため、ロシア国内における虐殺はさらに規模を拡大してゆきました。



次の投稿に続く

















ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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モルガン財閥 ここまでのまとめ
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デュポン財閥 ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ
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2021/6/11

歴史的背景 1/3:第一次大戦前後とロスチャイルド・モルガン・ロックフェラー  財閥(日本・世界)


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ゴールドマン・サックスシリーズを書いていますが、創業者のマーカス・ゴールドマン (December 9, 1821 – July 20, 1904)が、江戸時代後期の1848年にアメリカに渡り、明治・大正・昭和・平成でのゴールドマン・サックスの物語りを中心に紹介しています。


第一次大戦にアメリカ参戦により、大戦後は世界の覇権が欧州から米国に移り、アメリカでは1920年代の空前の好景気、黄金の0年代を迎えました。 そして1930年の世界大恐慌により、キッチングスのGSTCの成功と崩壊。

最終学歴が小学校卒のブルックリンで生まれ育ったユダヤ人、シドニー・ワインバーグが活躍し、ゴールドマン・サックスを蘇らすまでを書いているところです。




GSTC (ゴールドマン・サックス・トレーディング・カンパニー)
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2934.html
空前の成功 GSTC(ゴールドマン・サックス・トレーディング・カンパニー)
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2935.html
20世紀最大の証券界の惨事 GSTC
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2936.html
GSTCの崩壊とキャッチングスの辞任
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2937.html
ゴールドマン・サックスを蘇らせた男、シドニー・ワインバーグ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2939.html
ゴールドマン・サックスのパートナーとなったワインバーグ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2940.html




さらにゴールドマン・サックスに関する投稿は続けますが、今回の投稿は第一次大戦と、ロスチャイルド財閥、クーン・ローブ財閥、モルガン財閥、ロックフェラー財閥、ウォーバーグ財閥、オッペンハイマー財閥、等について、

歴史的背景を説明したいと思います。 少々長くなりますが、重要と思われますので、お付き合い願います。









【ロシアのロスチャイルド、ユダヤ系グンツブルグ財閥】

1903年、旅順とウラジオストックを結ぶロシアの鉄道網が完成しました。 ロシアは朝鮮の獲得を目指し、極東総督府を設立。

さらにこの頃、鴨緑江(おうりょくこう)方面(中華人民共和国東北部と朝鮮民主主義人民共和国との国境となっている川)で金鉱が発見され、ロシアの資本家は朝鮮半島から広大な森林利権を得得ました。

当時、旅順は、ロシア軍と資本家が栄え、中国人たちが住む街とは、華美と不潔、奢侈と欠乏の対比が著しくありました。

贈賄によるロシア軍との取引やロシアとの貿易で巨利をなしたのは、ロスチャイルド家と親しいグンツブルグをはじめとするユダヤ商人でした。

世界で最大級の富豪と言われたロシアのツアーは、世界の王の中で、最も多く宮殿を持っていました。

ツアーが一度も行った事が無い離宮もアズ多くあったほどです。 冬宮は、ヨーロッパ最大の建築物と言われ、大広間の間に1500以上の部屋があり、至るところ黄金や宝石や名画で飾られ、舞踏室は5千人以上を収容できました。


一方で、ロシアの国内事情は厳しさを増していました。 1901年から1903年までに、メーデーのデモやストが多くの都市で行われ、軍隊と衝突しながら赤旗を振って「8時間労働」「政治的自由」を要求し、次第に「専制ツアー打倒」の大衆的闘争にまで発展してゆきました。

コーカサスでは、スターリンがグルジア人、アルメニア人、ロシア人の団結による闘争を呼びかけました。

ロシアのユダヤ人による革命運動の準備のための資金は、主としてシフなどのロスチャイルド家系列の在米宇ダヤ人資本家から大西洋を渡ってきました。

ロシア帝政がユダヤ人を迫害していたことだけではなく、ロスチャイルドの大英帝国が、アフガニスタン、トルコ、フィンランド、チベット、満州など世界各地で、ロシア帝政と激しく鎬(しのぎ)を削っていたこともあります。

1903年、黒海近くでユダヤ人の大虐殺が起き、ユダヤ同法を思うシフは、セオドア・ルーズベルト大統領に働きかけてロシアに抗議させました。


シフは1904年にナサニエル・ロスチャイルドに、「ロシアはこの4、5年来、様々な時期にアメリカ市場でロシア国債を引き立ててもらおうおうと、いおいろ画策してたが、自慢じゃないが、私はそれを失敗に終わらせることができた」と述べています。

シフはアメリカ・ユダヤ人協会会長でもありました。 この頃、ユダヤ人の地位改善をめぐるツアーっとウィッテ首相の懸念がアルフレッド・ロスチャイルドに伝えられています。

それによると、皇帝も閣僚たちもそしてロシア世論も「ロシアのユダヤ人たちが、公正で温情主義の政府を侮ろうとしている。、社旗主義と革命運動の立役者となっている」ことを悲しんでいるというのです。


そしてロスチャイルド家がツアーに多額の資金を融通するなら、ロシア国内のユダヤ人の状況は改善するだろうと、交換条件を持ち出してきたのでした。

ロスチャイルド家は、このようなツアーの態度をあざ笑ったでしょう。 当時、世界で最大の金保有者と噂されかつユダヤ人を迫害していたロシアのロマノフ王朝を、ロスチャイルド家は徹底的に嫌い、シフを通じてレーニンやユダヤ人レオン・トロッキー(1879年〜1940年)と言った革命家たちを資金援助し、ツアー体制の転覆を背後で支援します。









【日露戦争】

レーニンをはじめ革命勢力は、ツアーの強大な力に圧せられ、しかも、ドイツ・フランスの列強は事実上、ロシア帝政を支援していたため、革命実現の突破口は見いだせない状況にありました。

ココニ1904年2月、日露戦争が始まりました。 戦争が始まると、ポリシェヴィキは「ツアーを敗戦させ、自分たちの革命を実行する」という敗戦革命政策を決めました。

レーニンは日露戦争こそツアー専制の根底を掘り崩す最大の景気になるとして無条件に日本の勝利を願いました。

彼は日露戦争下でのロシア・プロレタリア革命の切迫を予言し、1905年1月1日の旅順陥落時には「旅順の降伏は、ツアーリズム降伏の序曲」と歓喜を持って祝賀文を書き、ロシアを打倒した最大の革命勢力日本に賛辞を捧げました。

スターリンも、コーカサスの労働者たちに「およいよツアー打倒」と訴えました。 日露戦争とロシア革命は一帯でした。









【クーン・ローブ財閥、ジェイコブ・シフから日露戦争戦費調達】

ナサニエル・ロスチャイルドとシフは先ず。日本による戦艦購入費を用立てました。 しかし日本政府の心配は、軍事費全般の欠乏でした。

当面の必要外貨は1億5千万円相当でしたが、国庫には5200万円しかありませんでした。 円は国際通貨としては認められていませんでした。

日本は不足分約1億円すなわち、1000万ポンドの戦時外債の発行が必要でした。 しかしタカハシ・コレキヨ日銀副総裁が必死にロンドンを走り回ったものの半分の500万ポンドしか目途が立ちませんでした。

彼は老チャイルド邸を訪問しましたが、支援を断られました。 ロスチャルド家は、ツアーの許可によって当時世界最大の石油産出量を誇っていたバクー油田の利権を有していたので、ロシアに敵対する日本に表立って戦争資金を与える事は得策ではなかったのです。

ロンドンでタカハシが親交を結んだ人物が、エドワード7世の財政顧問アーネスト・カッセル卿でした。

卿はドイツ生まれのユダヤ系資本家であり、シフと盟友で、ロスチャイルド家とは以心伝心の間柄でした。

ロスチャルド家は、タカハシにニューヨークのクーン・ローブ商会のシフを紹介しました。

シフは日本への借款供与を強く主張していました。 シフはロンドンに赴いてタカハシと会い、「ニコライ2世のロシアほどの残虐行為のできる体制は人類のため、ロシア国民のた全世界のため、罰を受けなければなりません」と語りました。

1904年5月、遂に日本政府がロンドンとニューヨークでの外債募集で、1000万ポンドを手にしました。

半分はシフが引き受け、残り半分は、シフの世話で、M・M・ウォーバーグ商会らユダヤ人銀行家が引き受けました。

日本にとって発行条件は、ロシア阿の場合と比較しても有利とはいえず、年利6%、発行価格は100ポンドにつき93ポンド10シリング、7年償還で、関税収入が担保という屈辱的なものでした。

ロシアの歳入は日本の7倍、日本はあくまでも信用力が低い小国でした。 ナサニエル・ロスチャイルド自身も、タカハシらを指導しながら、日本に軍事費を提供し、3回目と4回目の起債ではロンドン家とパリ家が揃って引き受けに参加しました。

イギリス政府とイングランド銀行も日本国債の引き受けに保証を与えました。 最大級の日本へのバックアップです。

日露戦争における日本の戦費合計は19億円。 うち16億円が国債および一時借り入れ金で、国内債での調達が4.3億円、外債での調達が5本で8.8億円でした。

外債の半分以上をユダヤ人銀行家が引き受けました。 日本は彼らに多額の金利を払い続け、シフは後に「日露戦争で最も儲けた」と述べています。


ロシア政府は、戦費総額13億ルーブルのうち、パリ取引所からの借款で12億ルーブルを調達しました。 やはりここにもロスチャイルド家は関与します。

日露戦争では、日露双方に、ロスチャイルド家が支援していたクルップと、ロスチャイルド傘下のザハロフが代理人であるヴィッカース&マクシム社の兵器が大量に売り込まれました。

アメリカの南北戦争でも、日本の戊辰戦争でも、南アフリカのボーア戦争でも、双方に大量の兵器が売られました。

お金がなければ戦争はできませんし、兵器が無ければ戦争はできません。 ロスチャイルド家らは、戦争資金を貸し付け、兵器を販売し、莫大な利益を上げました。









【日露戦争前から行われていた革命工作】

日本陸軍の明石元二郎大佐は、日露戦争前から、ロシア帝国公使館付陸軍武官としてロシア国内の情報を収集し、

ロシアの反政府分子との接触を試み、レーニンと共同して革命工作を行うまでになりました。 その資金もシフが出したとされています。

日露戦争中、日本軍が明石大佐の下に送った資金は、ロシアの革命勢力の軍資金となり、スイスからの小銃1万6千挺、弾300万発の購入にも役立ちました。

1904年7月、ユダヤ人を含む諸民族と革命家たちを弾圧したロシアのプレーヴェ内相が青年革命家に暗殺されました。

彼の死は、続く日露戦争の遼陽会(りょうようかい)戦での敗北と相まって、ロシア国内の革命ムードをますます助長しました。


同月、明石大佐は、ロシア革命勢力の首領たちが集うスイス・ジュネーブ郊外に向かいました。

ロシアの穏健な改革派勢力は、警察政治の廃止、西欧的な個人の権利、信教・言論・出版・新聞報道の自由、独立の司法官による裁判、そして憲法を国会が制定することを要求しました。 しかし、ツアーは、譲歩する姿勢を見せませんでした。

ロシアでは貧困農村の青年の1/3、場合によっては半分以上を軍隊に招集され、農業生産に大きなダメージを受けていました。

日露戦争に動員するために招集した数千人の予備兵はドイツやオーストリアに逃亡し、逃げ遅れた人々が銃剣に脅かされながらシベリア鉄道で前線に送られていく有様でした。

「猿」と見下していた日本軍に敗色濃厚な戦争は、国内経済を圧迫し、数十万の労働者は失業し、凶作も重なり、さらには官憲による兵站(へいたん)品の横領が横行し、ロシア国民の憤激は極度に達します。

帝都ペテルブルクやモスクワの学生たちは「独裁打倒」「戦争即中止」を絶叫しデモに繰り出し始めました。

1904年12月、スターリンが指導するバクーのボリシェヴィキ委員会は、全労働者によるスト(ゼネスト)を決行しました。

スターリンのバクーの闘争が口火となり、遂に1905年1月2日(旧暦)全ロシアの労働者がストに入りました。 ペテルブルクでスト入りした労働者は12万人以上に上りました。








【第一次ロシア革命】

1月9日(旧暦)、皇帝のいる冬宮の前庭で、ロシア正教会の司祭がポンに先導され「パンと正義」を求め穏やかに直訴に集まった労働者たち千人以上を、警察が銃撃する「血の日曜日事件」が置きました。

労働者たちが思いもよらない攻撃を受けた流血のニュースは、たちまちロシア全土に伝わり、「ツアーを倒せ!」と叫ぶスト参加者は50余万人に上りました。

第一次ロシア革命がここに勃発。 コーカサスなどでは多くの官史が暗殺されました。 ツアー政府は、イギリスや日本がロシア内外の出版物や新聞などで革命を扇動していると宣伝し、挙国一致の防衛戦争を国民に呼びかけました。

実際、イギリスや日本による宣伝句作は行われていました。 フランスの各左翼系新聞もツアーに対して侮辱的な言葉を弄しました。

さらにツアー政府は、ユダヤ人が国内の矛盾を煽っているとみなし、スケープゴートとして残虐なポグロム(ユダヤ人虐殺)を実行しました。

これを受けて、シフらドイツ系ユダヤ人の大物たちが発起人となり、アメリカ系ユダヤ人をひとつにまとめる最初の組織、アメリカ・ユダヤ人委員会(AJC)を設立し、全世界のユダヤ人を支援し始めました。


ロシアにおける多くの政治運動は、しばしばユダヤ人の指導と援助を受け、ほとんどがユダヤ運動と同一とさえ言われました。

革命運動家の80%はユダヤ人であったと言われています。 ちなみにシフは、日頃から「私は、アメリカ人であり、ドイツ人であり、ユダヤ人である」と、

先ずアメリカ社会への同化と愛国心を力説し、ユダヤ人国家樹立を目指すシオニズムには与(くみ)していませんでした。


彼は婿のフェリックス・ウォーバーグとともに、父祖の地パレスチナを将来の国家ではなくユダヤ人の精神的故郷とみなし、農業実験場や技術研究所などの建設に資金援助しました。

1905年4月、プロレタリアート主体の武装革命を目指すボリシェヴィキがロシア社会民主労働党第3回大会をロンドンで開き、一方、穏健革命派のメンシェヴィキは独自にジュネーブで大会を開きました。

翌月には、モスクワの北東で、約7万人の労働者が参加して、労働者代表ソヴィエト(ロシア語で「会議」「評議会」の意味)が樹立されました。

これは、既存の枠組みにとらわれない労働者直接参加の政治組織です。首都ペテルブルクにおいても最初の祖ヴィエトが結成されました。







【講和交渉に追い詰められたロシア】

日本軍が奉天会戦に大勝したとの報が流れると、ドイツのヴィルヘルム2世は、配下の首相に宛てた手紙で「ロシア皇帝が英仏と通じて、日露戦争の講和交渉を開始したとのヴォルフ社(ドイツの通信社)の密報によれば、ロスチャイルドは、これ以上、戦争の資金を供給する意思がないものと考えられる。 英王は英仏露同盟を締結し、チベットとアフガニスタンを自らのポケットに納める目算である」と述べています。

ロシア側の戦争資金をロスチャイルド・ロンドン家が提供していたこと、そしてそれなしではロシアは戦えないことの証です。

ロシア政府は、ほとんど借金によって戦争を遂行していて、、しかも資源をほとんど消耗していました。

もし、ロシアが戦争を継続するとなれば、既に紙幣を印刷して流通額を倍にしていたものを、さらに増刷することで賄うしかなく、これは国家経済の破綻を意味していました。

ロシアは海陸で連敗しました。 唯一の兵站戦としては1万2千キロの単線のシベリア鉄道があるのみです。

ロシア財政の信用は失墜し、同盟国フランスの金融市場での借款の条件は不利になっていました。

強まる革命の圧力を前に、遂にニコライ2世は合衆国大統領セオドア・ルーズベルトによる講和の勧奨の受け入れを検討します。


1905年5月の日本海海戦で日本が大勝利を収めると、7月、ロシアの前首相セルゲイ・ウィッテが講和のため、イギリスのポーツマスに首席全権として赴き、日露交渉が始まりました。

8月、そのウィッテの元を、シフたちユダヤ人資本家がニューヨークから訪れ会談しました。

ウィッテは、宇ダヤ人の地位向上w約束し、本国に次のように報告しています。
「予は昨夜、アメリカのユダヤ人の主たる指導者と会見した。 彼らはアメリカの世論の動向に「大なる勢力を有し、巨額の資金を持ち、金融工作で日本を援助している連中である」。

彼は、アメリカのユダヤ人指導者への働きかけに傾注し、その傘下にあるニューヨークの新聞等を取り込んで国際世論w誘導することに成功、講和交渉を有利に導いて日本の買収請求を諦めさせたのでした。

日本は、領土的な要求はほぼ達成されましたが、賠償金は全くっれなかったのです。 日本の陸海での完勝に、小草金融資本家たちに日本への警戒心がいささか芽生えてきたことが背景にあります。

1905年9月5日、ポーツマスで日露の講和条約が調印されました、









【日本の一方的な協定取り消しに、アメリカの鉄道王ハリマン「が激怒】

日露交渉の小村寿太郎全権(外務大臣)がまだ帰国前、アメリカの鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンが来日して、元老、内閣と交渉し、

ミン三満州鉄道を日米共同経営にするという予備協定を桂首相との間に結びました。 呼び協定の内容は、

「南満州鉄道および附属炭鉱経営のため、ひとつの日米シンジケートが組織されるべく、鉄道および炭抗その他一切の附属財産に対しては、日米両当事者において共同かつ均等の所有権を有すべく、シンジケートにおける代表権および管理権もまた日米均等たるべく、さらにまた満州の諸般の企業に対しても原則として日米均等の権利たるべし」。

ハリマンは、この協定覚書を以て、大きな将来的構想を描いていました。 しかし、彼と入れ違いで帰国した小村は、、この協定を「1、2億の金で南満州鉄道と満州の利権とをほとんど彼に支配させてしまうものである」と警戒して、桂首相らを説得して撤回させたのでした。

ハリマンの船がサンフランシスコ港に着くと、日本の領事が彼の船室を訪れ、協定取り消しを伝えました。 ハリマンと背後の国際金融機資本家たちの怒りは激しい物でした。










【日露戦争後のロスチャイルド】

ロスチャイルド家は、ロンドン家・パリ家・ウィーン家など、貸借対照表も会計帳簿も共通の「一つの銀行」を形成していました。

しかし、1905年頃、遂に各家間のパートナーシップ契約が更新されず、sレぞれの家は完全に別々の独立した企業となりました。

マイヤーに続くロスチャイルド家第二世代が築き、百年弱続いた多国籍パートナーシップに基づく独特の連邦システムが終わりを告げたのでした。

より独立的となったロンドン家とパリ家ですが、世界戦略を展開してゆく上での連携は強まってゆきます。

日露戦争での日本の勝利後も、しばらくの間、英米と日本との紐帯(ちゅうたい)は、外交面でも金融面でも強化され、っさらに、日本は戦争中に引き続き、ロスチャイルド家に支えられます。

先ず、日露戦争への資金援助の功績に報いるために、1906年春に、日本政府はシフを招待して、明治天皇が午餐会で歓迎し、勲一等旭日大綬章を贈りました。

シフはタカハシ・コレキヨの娘の和喜子を連れて帰り、シフ家で3年間預かりました。 タカハシの方はハンブルグを訪問し、マックス・ウォーバーグに感謝を伝えました。

1906年、ロンドン家とパリ家は、日本への2500万ポンドの借款に関わりました。 1907年には、両家はさらに1200万ポンドの借款を引き受けました。

日本は、戦争景気の後の不況期に財政が逼迫し、政府はロスチャイルド家をバックとした外資による資金調達に頼わざるを得なかったのです。

クーン・ローブ商会やM・M・ウォーバーグ商会も参画しました。 この頃、ウォーバーグ家はロンドン家と互いに息子たちの金融の主業の場を提供し合うほどの間柄になっていました。

クーン・ローブ商会は、延べ5回にもわたって日本向け借款を行いました。 シフは、エドワード7世にアーネスト・カッセル卿とともに、昼食に招かれ労をねぎらわれました。

同商会の取引先は、今や、ロイヤル・ダッチ石油、シェル・トランスポート・アンド・トレーディングや、日本、ドイツ、スウェーデンをはじめとする各政府を網羅していました。

敬虔なユダヤ教徒のシフは、「憎きキリスト教会を破壊する」という野望を持っていたといいます。

それは、ロスチャイルド家の夢であったのかもしれません。 そしてこの野望を達成するために、ジョン・D・ロックフェラー(ロックフェラーT世)に石油で稼いだ莫大な資金を使って組織的な動きを開始させたといいます。









【孤立するドイツ、第一次大戦の足音】

当時は大英帝国が世界を支配していましたが、工業力を付けたドイツが無謀にも大英帝国に挑戦しようとした時期であります。

日露戦争勃発直後の1904年4月に英仏協商が締結され、イギリスはフランスのモロッコ支配を認め、フランスはイギリスのエジプト支配を認めました。

植民地政策をめぐって、英仏が提携し、英独協約は頓挫しました。ドイツのヴィルヘルム2世がイギリスを公式訪問している間、あるフレッド・ロスチャイルドに不躾な扱いをして怒らせたことが、ロンドン家をフランスに近づけたといいます。

イギリスのエドワード7世もフランスびいきでした。 ロスチャイルド家の意向が英独関係に大きく影響し、新興列強として植民地の再配分を目指すヴィルヘルム2世を英仏露で包囲する第一次世界大戦の構図がはっきりしえきました。

さらにロスチャイルド家はイタリアを味方につけ、ヴィルヘルム2世のドイツを一掃孤立させ追い込んでいきました。

1906年、イタリア国債の借り換えが、ドイツの銀行ではなくパリ家が主導する借款団によって引き受けられたことで、イタリアはフランスよりとなり、イタリア・ドイツ・オーストリアの三国同盟は終わりを告げました。

ロスチャイルド家は、自ら仕掛けた英仏協商の路線に沿って、イングランド銀行およびフランス銀行のパートナーの立場から両行を支えるとともに、金本位制の維持のために中央銀行同士の協力を促しました。

こうして金融的にも、英仏が結び、孤立したドイツに対抗するという第一次世界大戦の構図がほぼ完成しました。

ドイツは、イギリスによるフランス、ロシア、そして日本への接近で完全に孤立し、結局大戦に敗れました。










【アメリカの中央銀行(FRB)構想】

ロスチャイルド家によって開発された国債制度は、ヨーロッパの戦争を財政的に支えました。

1887年から1913年にかけて、国の借金残高は、イギリスは横ばい、フランスもそれほど増えませんでしたが、ドイツやロシアは軍事費のために約2倍となりました。

1900年までの多くのヨーロッパ諸国は、多数の常備軍と近代兵器を備えながら借金過多や破産に近い近い状態にあって、国家経済は新たな大戦争の費用を支える事ができなくなっていました。

だからこそ、ロスチャイルド家をはじめ国際金融資本家たちは来るヨーロッパ諸国間の戦争に、アメリカ合衆国の巨大な経済力を背景とした資金供給ができるように、合衆国に民間所有の中央銀行を作る事を企画し続けてきたと言われています。

通貨と信用をコントロールする権限を持ち、彼ら自身が支配する中央銀行をアメリカにもつくろうとしていました。


そのような中央銀行の創設は、アメリカ合衆国が憲法により保障された主権を放棄することになります。

1902年、M・M・ウォーバーグ商会のパートナーシップを維持しつつ、ロスチャイルド家の新たな代理人として渡米したウォーバーグ家の次男ポールは、シフに誘われて、クーン・ローブ商会の共同経営者となりました。

同商会のパートナーは、それまで原則としてアメリカ国民でした。 ポールがクーン・ローブ商会とM・M・ウォーバーグ商会の両方のパートナーであることは、兄マックスが経営するM・M・ウォーバーグ商会の国際的な力を一層高めました。


ポールは、ヨーロッパ各中央銀行、特にドイツ帝国銀行(ライヒスバンク)について熟知していました。

ロスチャイルド家が、第一次世界大戦前にアメリカ合衆国に民間所有の中央銀行をつくるためにポールをアメリカに送り込んだとされています。

アメリカでは1832年にジャクソン大統領が第二合衆国銀行の公認更新を無効にして以来、中央銀が存在していません。

ポールは、ロックフェラー家や、フランクリン・ルーズベルトにも接近し、4年後の2906年に、ポールはニューヨーク州商工会議所で、「現状を変えなければ、それもすぐに変えなければ、国内が恐慌状態になり、それに比べれば、以前にも起きた恐慌など児戯に等しく見えよう」と、予言あるいは脅迫めいたことを語りました。

彼の予言あるいは脅迫通り、1907年に恐慌が起きました。 ロスチャイルド家は、1839年から1840年の恐慌でイングランド銀行の中央銀行化を完成させたように、今度は1907年の恐慌で、アメリカに民間所有の中央銀行をつくろうとしたのです。

1907年の恐慌の仕掛けは次のようです。 国際金融資本家たちの息がかかったニューヨークの各銀行が、預金者である地方銀行に通貨を支払うことを渋り、地方銀行は預金者が引き出して金庫が空になった後、預金者に支払いを拒否せざるを得ない状況に追い込まれたと言います。

結果、商業活動は停滞し、賃金と物価は暴落し、悲惨な恐慌となりました。 この恐慌を受けて大衆紙は、ポール・ウォーバーグ、ジェイコブ・シフらを、恐ろしい目で睨みつける詐欺師、悪徳銀行家として描きました。

証券取引所も一時的に閉鎖されましたが、その間にJ・P・モルガンが音頭を取って、どうにか政府と金融機関による救済案をまとめました。


ここから、「恐慌の再来を防止できる通貨および信用取引の制度をつくる」という大義名分の下、ロスチャイルド家など国際金融資本家たちが、一元的に通貨を牛耳り、操作次第で不況や恐慌をつくりだす事が出来る制度、すなわち民間市所有の中央銀行づくりが始まります。

国際金融資本家による支配を危惧するポピュリストたちが最も恐れていた事態です。 もちろん、諸産業の要求に応じた十分な貨幣量を求め、現状の問題点を打開し、制度の改善を願うと言う正直な面もありました。

このような声を受けて、画集国議会は、先ずは各国の銀行制度を研究するべく、共和党の最高実力者で、ジョン・D・ロックフェラー・Jr.(ロックフェラー2世)の義理父であるネルソン・オールドリッチ上院議員を委員長とする通貨委員会を設置しました。

ポール・ウォーバーグは、1907年の金融危機を教訓として、危機の再発を防ぐためと称して、銀行改革の必要性を連日のようにマスコミを通じて、シナリオ通り主張しました。

彼はニューヨークの主要銀行家たちを招いて、イングランド銀行と実質的に同じ内容の銀行・通貨制度への改革プランを提案し、主要銀行家たちはこれを熱狂的に支持しました。

このような中央銀行創設をめぐる動きの最中も、ロスチャイルド家傘下で、モルガン、クーン・ローブ、ロックフェラーの動きは活発です。


1910年、ロンドンのJ・S・モルガン商会がモルガン・グレンフェルに改称されました。エドワード・グレンフェルが行動経営者として参加して5年が経ち改称したのでした。

グレンフェルはロスチャイルド家に連なる一族であり、エドワードは1881年から1883年までイングランド銀行総裁だったヘンリー・グレンフェルの息子であります。

モルガン・グレンフェルというマーチャント・バンクは、モルガンと、ロスチャイルド家が再度合体した巨大な投資銀行で、日本、アジア全域、アフリカ、南米などの経済進出を進めていきます。

モルガン・グレンフェルは、東西ドイツ統一の前年の1989年にドイツ銀行に買収されましたが、実質的には逆にドイル銀行を乗っ取ったとも言われています。

1911年にはクーン・ローブ商会はロックフェラー家と共同で、後にチェース銀行と合併するエクイタブル・トラストを買収しました。











【ジキル島の秘密会議】

1910年11月にJ・P・モルガンが所有するジョージア州のジキル島で通貨委員会の委員による秘密会議が開催されました。出席者は次の7人です。

1、ポール・ウォーバーグ
(ロスチャイルドの代理人、クーン・ローブ商会の共同経営者、中央銀行業務に精通)

2、ヘンリー・デイヴィソン
(J・P・モルガン商会の共同経営者)

3、フランク・ヴァンダーリップ
(ロックフェラー系のナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークの頭取)

4、チャールズ・ノートン
(J・P・モルガン系のファースト・ナショナル・バンク・オフ・ニューヨークの頭取)

5、ベンジャミン・ストロング
(バンカーズ・トラスト・カンパニーの社長、1914年にモルガンおよびクーン・ローブ
商会の共同推薦で「ニューヨーク連邦準備銀行」初代総裁)

6、ネルソン・オールドリッチ
(共和党上院議員で院内幹事、通貨委員会委員長、J・P・モルガンの投資パートナー、
ジョン・D・ロックフェラー・Jr.の義理父)


7、エイブラハム・アンドリュー
(連邦財務省次官、通貨委員会特別補佐官)



この秘密会議で、7人はあるフレッドから任されて中央銀行計画案を作成したと言われています。

それは、アメリカ合衆国の通貨と信用の独占権を、中央銀行的な機能を持つ「制度」を通じて、特定の銀行家たちに付与するものでした。

アメリカでは「中央銀行」n批判的な意見が強かったので、ポールは「中央銀行」という名称を避け、「連邦準備制度」「連邦準備銀行」という複雑な制度とわかりにくい名称にしました。

「民間企業が所有する」中央銀行ですが、「連邦」を名乗っています。 秘密会議7人の背後には、アメリカの基礎的産業や資源の多くを支配していたというシフやモルガンやロックフェラーが控え、さらにはその後ろにはロスチャイルド家の地球規模の金融パワーがありました。

実は編めるか合衆国の主な銀行系持ち株会社は、クーン・ローブ商会、J・P・モルガン。ブラウン・ブラザーズ・ハリマンなど特定の銀行の手中にありました。

これら特定の銀行は、表面上はアメリカの企業で、ロスチャイルド家の本拠地であるロンドンに支店をもっていました。 単にロンドンに支店を持っていたのではなく、ロンドンからの指示を受けていたと言われています。

一方、ヨーロッパの特定の銀行であるN・M・ロスチャイルド&サンズ、M・M・ウォーバーグ、ラザール・フレールなどはすべてウォール街に支店または子会社を持っていました。

アメリカが州国やヨーロッパの特定の銀行は、本店がどこにあろうが、世界の金市場と国際金融市場をコントロールするロスチャイルド家の傘下にあったということです。 世界の金価格は毎日、N・M・ロスチャイルド商会の事務所で決定されていました。




ロスチャイルド財閥の始まり 放たれた5本の矢(子供達)
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2631.html
ロスチャイルド家の4つの家訓とM・A・ロスチャイルド&サンズ会社 
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2632.html
世界の長者番付とロスチャイルドの資産
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2633.html
金の価格はこうやって決まる 黄金の間でのフィキシング
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2634.html










【連邦準備制度に全米で反対運動】

錬ピ準備制度をつくり、貨幣を発行しその規模を管理する主権を銀行家たちに付与する共和党の「オールドリッチ法案」の内容が伝わると、全米で大反対が起こり、その議論を続けている間に、なんと共和党が議会選挙に敗れてしまいました。

この新たに生じた事態に対処するために、あるフレッド・ロスチャイルドは何でも言うこと聞く政治学者でニュージャージ―州知事のウッドロー・ウィルソン(1856-1924)を民主党の大津両候補に引っ張り出しました。

1912年のアメリカ大統領選挙に出馬することになったウィルソンにとって「銀行・通貨制度の改革」は大きな争点でした。 彼は広く票を集めて当選するために、「貨幣発行権を政府に留保し、信用供与のための地方分散的な銀行制度を樹立する」と公約しました。

この大統領選挙では、今のトランプの様に圧倒的人気を誇る、現職大統領のウィリアム・タフト(共和党)の再選が確実でした。 そこへ、共和党の表を割るために元大統領セオドア・ルーズベルトが共和党を離れて革新党なるものを結成して立候補。

どうしても民間企業が所有するアメリカの中央銀行FRBを設立するためにモルガン財閥がありとらゆるところ(政府・マスコミ・民主党・共和党・など)にお金をばらまき買収工作をしていまたのです。

その結果、タフトとルーズベルトを破り、ウィルソンが大統領(在任1913~921)が誕生しました。このとき、ウィルソン大統領を応援したのが、ポール・ウォーバーグとジェイコブ・シフでした。

タフト候補を応援したのが、ポールの従兄弟のフェリックス・ウォーバーグ。 そしてルーズベルトを応援したのがオットー・カーンでした。

各候補を応援した4人は皆クーン・ローブ商会の共同経営者です。 4人が大統領選挙をお膳立てし、上手くウィルソンを当選させたのでした。

ウィルソン候補の中心的スポンサーは、やはり同商会のクリーヴランド・H・ドッジでした。 彼はふたつお兵器会社の社長で、1914年2月ウィルソン大統領がメキシコへの武器輸送を解禁したとき、大量の兵器と弾薬をメキシコへ送って大儲けしました。 クーン・ローブ商会はメキシコ革命を画策し、ドッジが演出したのです。

アルフレッドの指示に基づいてウィルソンを政治家として育て、大統領就任後も彼の指導者であったマンデル・ハウスは重要な人物です。 ハウスは次のように語っています。

「1912年12月19日、私は通貨改革に関して、ポール・ウォーバーグと電話で話をした。 私はワシントンに旅行し、そこで作業手順を整えるために「行った事を話した。 上院議員はウォーバーグがきぼうすることを行うのを切望しているように見え、当選した大統領ウィルソンはその問題に関して変更なしに行なうことを考えているようだと、私はウォーバーグに伝えた」。

彼はワシントンで、上院議員、下院議員そして当選したウィルソンが、「連邦準備制度」「連邦準備銀行」の計画を予定通りに遂行するつもりであることを確認したのでした。


ウィルソン大統領の取り巻きは、ロスチャイルド家の代理人で固められました。 マンデル・ハウス、ポール・ウォーバーグ、バーナード・バルーク、ユージン・マイヤー、ジェイコブ・シフなどです。



マンデル・ハウス(1858-1938

エドワード・マンデル・ハウスは、ウィルソンがもう一人の私と呼んだほどの仲で、ウィルソン大統領を政治・政策面で指導しました。 彼は軍隊経験はありませんが、選挙で世話になったテキサス州知事から「ハウス大佐」という尊称を与えられました。

彼は、そもそもはロスチャイルド家の代理人として、テキサスの石油業者との間をつなぐ役割を担っていた人物です。 彼には『Philip Dru:Admonistrator』(統治者フィリップ・ドルー)という渾身の著書があり、体裁は小説ですが、中身は将来の政府の在り方を示しています。 それは「カ0ル・マルクスによって描かれた社会主義を成立させるもの」でした。 そこでは、累進所得税、過剰利益税、失業保険、社会保障そして「弾力的な」通貨制度(連邦準備制度の構想)が書かれていました。 これは後のウィルソンとルーズベルトの両大統領の政策の青写真だったのです。 本は匿名で出版され、政府の官僚の間で広く読まれました。 彼はあるフレッドの指示の下、シフ、ウォーバーグ、カーン、モルガン、ロックフェラー、などと連携して連邦準備制度の創設を主導しました。



ポール・ウォーバーグ(1868-1932)

ウォーバーグ家も、ロスチャイルド家と同じユダヤ教徒で、元々はフランクフルト・ゲットー出身。 ポールは1902年、ハンブルグを本拠地とする一族の銀行M・M・ウォーバーグ商会のパートナーシップを保持しながら、ロスチャイルド家の代理人として渡米、ニューヨークのクーン・ローブ商会の創業者ソロモン・ローブの娘ニーナと結婚し、ジェイコブ・シフ同様、クーン・ローブ商会の共同経営者となった。 彼は中央銀行設立を進める動きのなかで、ドイツ国籍が障害となったので1911年にアメリカに帰化。 1918年12月付の合衆国海軍情報部(諜報部)の報告書には次のように記載されている。 「ポール・ウォーバーグ ニューヨーク市 ドイツ人。 彼は1911年にアメリカ市民権を取得、12年にドイツ皇帝より叙勲。合衆国連邦準備制度理事会副議長(議長代理)を努めた富裕にして有力な銀行家。 ドイツからレーニンおよびトロッキーに供与された大金を扱った。 同人には(ドイツの)スパイ組織の指導者である兄弟がいる」。尚、彼は1918年5月に連プ準備制度理事を退職。



マックス・モーリッツ・ウォーバーグ(1867-1946)

マックスはポールの兄で、M・M・ウォーバーグ商会の最高経営者(在任1910-38)。 第一次世界大戦が始まるまでの間、ドイツのユダヤ人銀行家たちは手厚く国家から保護されていた。 彼らは自分たちの愛国心を証明して皇帝に取り入り、ドイツ帝国の資金調達を担った。 その中でもM・M・ウォーバーグ商会は、ドイツ帝国の積極的な外交政策に深く関与し急激に一流の国際銀行になり、資産は1900年〜1914年にかけ3倍に膨れ上がる。同商会はドイツ外務省の緊密な指導の下、植民地経営活動に隠密裏に加担。 ドイツ国民はウォーバーグ家が秘かに帝国を羽後アしているのではないかと疑念を抱いていた。 ウォーバーグ家は秘密情報をフルに活用し莫大な利益を得ていた。 彼らはロスチャイルド家のドイツにおける代理人のような存在。 第一次大戦の間、マックスはヴィルヘルム2世の顧問を努め、敗戦後のベルサイユ条約の交渉では代表団に参加。 マックスは戦前・戦中・戦後もドイツを牛耳っていいた。 マックスはロシア革命への関与も噂されており、ロスチャイルド家の意を受けて、レーニンらを操りロシア国内の皇帝反対派を組織させたのは」、ドイツやスイスのロスチャイルド傘下にある大富豪や官僚たち。 マックスがドイツの皇帝直属の秘密警察として、動いていたという話もある。 レーニンらを封印列車に乗せて密かにスイスからドイツ経由でロシアに送り込んだ。 レーニンは1917年、スイスチューリッヒから「封印列車」と呼ばれる秘密の貸し切り列車で移動。 ドイツ領内を通過中、レーニンらは列車から離れてははならず、ドイツ市民と接触しないことを条件とされ、列車のj車両の乗降口には施錠がなされえいた。



フェリックス・ウォバーグ(1871ー1937)

フェリックスはポールの弟でドイツのプロイセン生命保険会社の重役であった。 ポールより先にアメリカに移住し、クーン・ローブ商会の一員となりジェイコブ・シフの娘フリーダと結婚。 後にユダヤ教のアメリカ長老会の会長に就任。 彼も兄マックスと同様、ロシア革命に関与し、レーニンに革命資金を与え、レーニンを封印列車に乗せてロシアに送り込む際に一役買った。フェリックスの娘フェリシア・シフ・ウォーバーグ(1927生まれ)は、フランクrン・ルーズベルトの息子ルーズベルト・ジュニアと結婚して3番目の妻となる(1970結婚、1976年離婚)。 ポールの息子ジェームズ・ポール・ウォーバーグ(1896-1969)は、ルーズベルト大統領一期目の金融財政顧問。



バーナード・バルーク(1870-1965)

バルーク家もユダヤ教徒で、ロスチャイルド家、シフ家、ウォーバーグ家、カーン家とともにフランクフルト・ゲットーに住んでいました。 バーナードは、ウォール街の伝説の相場師であり、かつウィルソン、ハーディング、クーリッジ、フーバー、ルーズベルト、トルーマンと連続した6人もの大統領の顧問として歴代大統領を指導する立場でした。 第一次大戦時には、戦時生産局長官となり、合衆国のすべての軍備工場を掌握し、彼自身が軍事予算から巨万の利益を得た。 第一次大戦前に100万ドルであった彼の資産は戦争終結時には200倍の2億ドルとなったとされている。 ベルサイユ会議では、ドイツに法外な賠償金を支払うように決めた賠償委員会の委員長。 彼はその後、歴代大統領を指導する立場となり、ソ連の育成、第二次大戦、戦後の冷戦構造などの壮大な戦略を描いた。 第二次大戦後も国連の原子力委員会の米国首席代表を務めた他、トルーマン政権をはじめとして各政権に隠然たる得雄協力を保持した。



ユージン・マイヤー(1875-1959)

ユージンは、第一次大戦時には、戦時軍需品・財政委員会や戦争産業委員会で活躍。 その後、1930年に連邦準備制度理事化の議長に就任、31年には大恐慌対応として再建金融公社の会長。 さらに1964年には初代世界銀行総裁に就任。 彼の父親はロスチャイルド系投資銀行ラザール・フレールの共同経営者で、娘のキャサリン・グラハムはワシントン・ポストの社主として日本を含めて内外に影響力をちました。





1912年、アメリカではシフ一党の横暴が目に余るという世間の厳しい非難を受けて、議会で論争が巻き起こり、就任後間もないウィルソン大統領も、シフ傘下のいわゆるユダヤ銀行トラスト(銀行連盟)にメスを入れる調査委員会の設立を認めざるを得ませんでした。

調査委員会の報告書によれば、ユダヤ銀行トラストは実在していて「5行の巨額銀行より成り、この5行は他の112行の重要銀行を管理し、これらの銀行は、全米は言うに及ばず、遠く海外の重大工業カルテル、金融カルテルの支配権を、完全にその掌中に収める。 ユダヤ銀行トラストの資本総額は約222億ドル(約600億円、1912年当時フランスの富の2/3に達する)」との事でした。

そして、シフのユダヤ銀行トラストの上には、「ロスチャイルド王朝」があったので、国際ユダヤ財閥の富は、おそらく世界の富の河畔に及ぶと推定され、全米が震えあがりました。

この年、ロンドンに於いてあるフレッドの弟レオポルドは、N・M・ロスチャイルド&サンズがあるニューコートから車で出てきたところを銃で5発撃たれ、本人は無事でしたが、警護の警官が重傷を負う事件が起きました。 犯人は狂人であったと伝えられましたが、様々な憶測が流れ、ロスチャイルド家の警護は厳重を極めました。

ウィルソン大統領は「貨幣発行権を政府に留保し、信用供与のための地方分権的な銀行制度を樹立する」と公約して当選しました。

したがって当然、国民から大反対があった共和党の「オールドリッチ法案」を修正して、骨子を残しながら、見かけはウィルソン大統領と民主党の選挙公約に沿ってカムフラージュを施すことが必要でした。

そうして苦心惨憺して出てきたのが、民主党法案としての「オーウェン・グラス法」という名の連邦準備法でした。

「オーウェン・グラス法」は、民主党が反対していた「オールドリッチ法」とは、事実上は名前以外はほとんど同じという方案でした。

しかも、この「オーウェン・グラス法」に対し、共和党のオールドリッチなどが激しく非難の声をあげるという茶番付きでした。

「オーウェン・グラス法」という名の連邦準備法を実質的にまtめたのも、ポール・ウォーバーグとされています。 黒幕はたはり、アルフレッドでした。

マスコミはこぞって議会の勇断を賞し、それに騙され国民はアメリカの政治いまだ健全なりと安堵したのでした。

1913年12月、連邦議会に於いて、民主党が提出した「オーウェン・グラス法」を、徹底反対する上院議員たちがクリスマス休暇に入った23日を狙って強引に通過させ、ウィルソン大統領が署名しました。

1844年の「ピール銀行条例」と1913年の「オーウェン・グラス法」とは、ともにロスチャイルド家が主導したことに加え、法律の趣旨がぼかされていることでも、二大政党の談合で生まれた事でも似ています。 百年スパンの計画的行動です。

歴史的にアメリカ国民は中央銀行創設に反対していましたから。準備は少数の銀行家たちによって密かに進められ、成功しました。










【民間所有の中央銀行、「連邦準備制度銀行」】

連邦準備制度は、ワシントンDCにある連邦順制度理事会(FRB;FederalReserve Boad)が
全国の主要都市に散在する連邦準備銀行(FRB;Federal Reserve Bank)を統括する形をとっています。

連邦準備制度理事会は、一応連邦議会の下にある政府機関ですが、予算の割り当てや人事の干渉wぷけません。

12の地区に設立された各連邦準備銀行は、民間の金融機関が出資する法人です。 政府や個人や非金融機関の法人は連邦準備銀行に出資できません。

実は、アメリカ合衆国の金融政策である金利、通貨の数量と価格および債券の販売などは、連邦準備制度理事会という表看板ではなく、12ある各連邦準備銀行のなかでの実力No.1の「ニューヨーク連邦準備銀行」(第2地区)によってきめられていきます。

「ニューヨーク連邦準備銀行」が、連邦準備制度の下で事実上の実権を持っています。
そして、ナショナル・シティ・バンク、ナショナル・バンク・オブ・コマース、ファースト・ナショナル・バンク、ハノーヴァー・ナショナル・バンク、チェース・ナショナル・バンクの5行が、この「ニューヨーク連邦準備銀行」の約40%を占める大株主であったことは知られています。

その後、この「上位5行」の持ち株比率は50%を超えていきます。 この上位5行の主な株主たちは、ロスチャイルド家、モルガン家、クーン・ローブ商会、シフ家、ロックフェラー家、ウォーバーグ家、リーマン・ブラザーズ、ラザール・フレールなどです。 後にクーン・ローブ商会はリーマン・ブラザーズと合併。

どれもロンドン・コネクション、すなわちロスチャイルド家につながっています。 ロンドンのシティで、マーチャントント・バンクとしての許可を受けている17行のうちの、

N・M・ロスチャイルド&サンズ、モルガン・グレンフェル(モルガン家のロンドン支店)、ラザール・フレール、シュローダー銀行、ブラウン・シップレイ(ブラウン・ブラザーズ・ハリマンのロンドン支店)の5行が、ニューヨーク連邦準備銀行の支配権を握っているニューヨークの「上位5行の主な株主たち」を巧みな資本関係によって操っていたとされています。

このアメリカ統治の多重構造の中心地がN・M・ロスチャイルド&サンズでした。

ニューヨーク以外の11の地区の連邦準備銀行も、似たような株主構造となっていますが、各地区の主要産業を所有または支配している地元の一族によっても株式が所有されています。

地元の一族は、ロスチャイルド家やロックフェラー家の影響下にある外交問題評議会、日米欧三極委員会などの地区評議会も設立していました。

このような状況だったので、ロスチャイルド家やロックフェラー家のアメリカ国内の地方での政治的な展開を妨害することは、ほとんど不可能であったと言います。

12の地区連邦準備銀行は、金融政策について連邦準備制度理事会に諮問するために、「連邦諮問評議会」の委員を一人ずつ選出し、年4回ワシントンで連邦準備制度理事会と会合を開くことになりました。 各委員がそれぞれの地区を代表し、かつ同等の投票権を持っていたので、民主主義が穂書されたかのように見えました。


しかしながら、委員に選ばれた地方銀行の一頭取が、ポール・ウォーバーグやJ・P・モルガンたちと正面から意見を衝突させることは土台無理な話でしたし、そもそも彼らの息がかかった委員が選出されていたのです。

「連邦諮問評議会」で、ニューヨーク連邦準備地区を代表した委員はJ・P・モルガンで、後任はその10年間にわたってポール・ウォーバーグであり、彼は「連邦諮問評議会」の副会長や会長を努めました。

ふたりは、連邦準備制度理事会の会合に、最初の4年間一緒に出席していました。 1920年代を通じて、ポール・ウォーバーグは連連邦準備制度理事会の支配的な存在でありました。












【連邦準備制度と第一次世界大戦】

1910年11月に、J・P・モルガンが所有するジキル島でFRB創設の秘密会議があり、1913年にロスチャイルド、クーン・ローブ、モルガン、ロックフェラーが背後の民主党のウィルソン大統領が誕生。

そして1913年12月に「オーウェン・グラス法」という名の連邦準備法が、徹底反対する上院議員たちがクリスマス休暇に入った23日を狙って強引に通過させ、ウィルソン大統領が署名しました。

さらに、大半のアメリカ国民が欧州の戦争に巻き込まれるのを反対し、ウィルソン大統領自身も戦争には参加しないと言っていたのに、1917年4月に参戦。ここから、モルガン財閥や我らゴールドマンサックスの大活躍が始まります。

第一次大戦が終わると、欧州の覇権はアメリカに移り、空前の景気で、黄金の1920年代を迎えます。

特に、1932年にバーリとミーンズが、会社における所有と経営の分離の論文を発表し、会社の地道な経営活動をせずとも株式による金融支配で会社を所有することができるようになりました。

そして空前のM&Aブームとなり、モルガン財閥はなんと、GE、GM、ATT、USスチール、NY鉄道、カーねぎーなどを所有し、影のアメリカ政府と言われるまでになります。第一次大戦にに話を戻します。



偶然かも知れませんが、話が出来すぎているようにも思います。FRB創設により。資金の面で準備が整ったところで、1914年7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告し第一次世界大戦が始まります。

1914年6月28日にオーストリア皇太子(50歳)が、オーストリアが併合したボスニア・ヘルツェゴビナセルビアセルビアを訪問して暗殺されたことを契機として、

セルビアなどを支援するロシアのスラブ主義とドイツ・オーストリアの拡張主義とが激突し、ロシアの同盟国のフランスとともにイギリスも参戦して欧州大戦そして世界大戦に発展しました。 金本位制は大戦勃発で停止されました。

ロシアでは大戦前は、金融や重要産業の3/4以上、石油産業も半分がロスチャルド家などの英仏資本の勢力下に置かれていました。

ツアーは、英仏資本下で代理人として戦時体制として戦争体制に入っていました。 ちなみにロシア皇帝ニコライ2世は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の従弟でした。

フランスは、40年前の普仏戦争敗北の屈辱を晴らそうとの機運が醸成されました。イギリスでは、早々に、ロスチャイルド家系の『タイムズ』紙が社説で「イギリスはセルビアを支援しなければならばい!」と叫び、有力政治家たちも参戦を煽るなか、ドイツがベルギーに侵攻したことで、国論は参戦で統一されました。

皇太子の暗殺については、ユダヤ系フリーメーソンが暗躍し実行犯(愛国的な少年)らを支援したことが裁判で明らかになっています。



ところで、19世紀後半から1914年までの間、ロンドンを中心とした国際金融ネットワーク。国際金本位制が発展し、イングランド銀行はその管理者、ポンドは基軸通貨、国際的な準備通貨となっていました。

国際金融市場に参加するために、各国の銀行はロンドンに支店を開設しています。 しかし、これは第一次世界大戦でご破算になり、ポンドは下落し、ロンドンの決裁機能、債券発行や割引市場の機能は停止しました。

一方、第一次大戦は、アメリカ合衆国をさらに飛躍的に経済発展させ、ドルの地位を高め、国際金融センターとしてニューヨークを台頭させました。

ポール・ウォーバーグは、アメリカが最も重要な債権国になるという喜びに満たされ、「大国アメリカは動きだそうとしている」「アメリカ合衆国は、今や世界の金融を動かす国家の一つであり、今後もその地位を守るだろう」と内外で講演しました。


ちなみに、当時報告されたアメリカ合衆国の主要銀行の資産合計額ハ160億ドル以上の達し、英・仏・独・伊・西・ノルウェー・デンマーク・スイス・日本の主要銀行の資産合計額よりも多かったのです。

1916年8月には、ウィルソン大統領は、「ドイツ系」ユダヤ人のポール・ウォーバーグを連邦準備制度理事会の副総裁に任命。 ポールが入念につくりあげた連邦準備制度は、彼の故郷ドイツとの戦いで、極めて有力で破壊的な武器となりました。

連邦準備制度は、イギリスをはじめ、連合国に250億ドルを資金提供し、その結果、人類史上稀に見る大戦争が実現しました。 貸付金は結局返済されませんでしたが、多額の利息が、連邦準備銀行の出資者たるニューヨークの銀行の株主たちに支払われました。


ポール・ウォーバーグは、連邦準備制度の大仕事の傍ら、フランクリン・ルーズベルトに近づき、深く交わりました。 第一次大戦中、ポール夫妻は、大がかりな夕食会をワシントンで何度も開き、農務長官や内務長官、最高判事たち、そして最も打ち解けた仲のフランクリン・ルーズベルト海軍次官夫妻を招きました。

ルーズベルトはポールの連邦準備制度の仕事を高く評価し、ウォーバーグ家とルーズベルト家は数々の絆で結び付きました。 ルーズベルトの息子のジミー・ジュニアは、ハバード大学時代ポールの弟フェリックスの末子エディと寮で同室。 フェリックスの長男、フレディは、ルーズベルトの娘と結婚したカーチス・ドールとリーマン・ブラザーズでの同僚。 ドール夫妻はフェリックス・ウォーバーグの別荘の敷地の離れ家に住みました。

ポールたちは巧みにフランクリン・ルーズベルトを株式投資失敗に追い込み、それを救済することにより、彼を言いなりにし操ります。 来るべき次の戦争に備え、後年大統領に仕立て、第二次大戦を起こさせるためです。











【大きな戦争に必ず関与するロスチャイルド財閥とモルガン財閥】

ロスチャイルド家は、ここ150年に起きた大半の戦争の仕掛け人あるいは推進役で、二度の世界大戦にも大きく関わりました。

第一次世界大戦中の1914年10月から1917年10月までの間、フランスはイギリスから6億ポンド、アメリカ合衆国から7億ポンドを借り入れました。

英仏合わせて合衆国から約16億ポンド以上借り、その多くを連邦準備制度が担いました。
大戦の資金調達の鍵は、ロンドンではなく、ニューヨーク、すなわち連邦準備制度でありました。

ロスチャイルド・パリ家のエドウアールは、J・P・モルガンに、フランス政府への1億ポンドの緊急の資金支援を電話で頼んでいます。

1917年までに、モルガン家とクーン・ローブ商会は15億ドルの支援を連合国に対して行いました。

戦争では実際の兵士は勿論の事、国際銀行家たちの戦い?の影響も大きく、特に銀行家たちは大戦争の継続にも尽力?しました。

イギリス政府がモルガン商会やモルガン・グレンフェルなどから借り入れた戦争資金は、員鵜ランド銀行にプールされました。


モルガン・グレンフェルの会長はヴィヴィアン・スミス。 父と伯父がいずれもイングランド銀行総裁、 従兄のエドワード・グレンフェルは、モルガン・グレンフェルの創業者。

息子のランダル・スミスはモルガン・グレンフェル、シェル石油、そして兵器メーカーのヴィッカースの役員でもありました。



ロスチャイルド家は、どの戦争でも敵・味方双方に融資しています。 第一次世界大戦では、傘下のクーン・ローブ商会は、イギリス・フランスの国債を買い入れ、フランスの各金融機関へ融資し、連合国を支援する一方で、ドイツ帝国銀行へも融資していました。

クーン・ローブ商会のパートナーであるユダヤ人おっちー・カーンは、主にイギリス・フランスへの武器売り込みに尽力しましたが、ドイツにもオットー・カーン社を持ち、ヴィルヘルム2世を戦争に煽りました。

非ユダヤ教徒が荒廃する戦争によって、ユダヤ人が古楽の利益を転移しています。 そして戦局もユダヤ人次第。

イギリス国内でドイツへの恐怖を煽り開戦をさんざん挑発したのは、ロスチャイルド系の『タイムズ』紙でした。


そして、世界は、旧約聖書にあるように、ノアの呪いの如く、この世界は黒人は奴隷となり、白人が世界を支配しますが、その上には必ずユダヤがいる世界が実現しているのです。



ノアの呪い 黒人差別と支配者ユダヤ
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マフィアの上に君臨するユダヤ資本
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ちなみにモルガン一族は英国ウェールズ出身のWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)の敬虔なキリスト教徒ですが、ロスチャイルドはユダヤ人差別でアメリカ市場に参入できなかったので、モルガンがロスチャイルドの代理人となり金融業界で大活躍しました。











【孤立主義だったはずのアメリカの第一次大戦への参戦】

一次世界大戦が始まると、アメリカ合衆国は、連合国への軍需物質や食料の一大供給基地となり、貿易代金としてロンドンからニューヨークへ金(ゴールド)が大量に送られました。

さらにイギリスはおびただしい額の戦費を戦時国債で集めましたが、これをウォール街は大量購入しました。

この結果、イギリスはアメリアに対して純債務国に転落し、大戦後の国債の償還も金での支払いを強いられました。

連合国はアメリカ合衆国自体を参戦させようとしますが、アメリカ国民が反戦平和で固まっていたので上手くいきませんでした。

イギリスのサイクスとフランスのピコたちは、シオニストたるユダヤ人にパレスチナの地を約束すれば、アメリカのみならず各国の力あるシオニスト・ユダヤ人から協力を仰ぐことができると考えました。

当時、世界全体のユダヤ人工は約1,500万人と推定され、そのうち500万人がアメリカに住んでいて、世界経済の中枢となったニューヨークの人口の25%がユダヤ人でした。







【客船ルシタニア号事件とアメリカ参戦】

客船ルシタニア号がドイツ潜水艦の魚雷で沈没させられ、ロスチャイルドの代理人ハウス大佐がウィルソン大統領にアメリカ参戦の圧力をかけた事にあります。

客船といいながら、砲を構え、補助駆逐艦として登録されていたイギリス船籍で最大の客船ルシタニア号が、1915年5月、多量の火薬、軍需品と旅客を混載してニューヨークから出港し、南部アイルランド沖でドイツの潜水艦から魚雷攻撃を受け沈没、128名のアメリカ人を含む乗客1200名が死亡しました。

在米ドイツ大使館が出港前に、新聞広告を使って盛んに航海の危険を呼びかけていたにも関わらず起きた惨事でした。

この機を捉えて、ロスチャイルド家の代理人ハウス大佐は、ウィルソン大統領にアメリカ参戦の圧力をかけました。

それでもウィルソン大統領は1916年に再選されるまでは戦争回避の姿勢を守り、「中立堅持」をスローガンに再選されたのです。

しかし、アメリカのみならず各国のシオニスト・ユダヤ人からの参戦要請は強く、ウィルソン大統領は、再選されるとすぐに方針を変え、1917年3月5日の就任演説では、外交上の目下の危機に国民の注意を喚起し、アメリカ合衆国参戦の不可避を説き「連合軍を支援する」とイギリス政府に約束しました。

3月9日、ウィルソン大統領は、ドイツの潜水艦に対抗するとして、議会の協賛を待たずに、アメリカ商船を武装し海軍砲手を乗船させることを決めました。

ウィルソン大統領を指導していたイギリスMI6のウィリアム・ワイズマンによると、ユダヤ人のルイス・ブランダイス最高裁判所判事が窓口となり、ウィルソン大統領はロスチャイルド家側と連絡を取っていたことが分かっています。

これを掴んだ『シカゴ・トリビューン』紙は、痛烈に「ブランダイスが極秘の電話をかけてホワイトハウスを支配した」と批判しています。

ブランダイスは、チェコからケンタッキー州に移住したユダヤ人の両親に生まれ、ハーバード・ロー・スクールを経て、ボストンで活躍する弁護士でした。

彼は元来ユダヤ的生活とは無縁で、ユダヤ文学や伝統にも疎かったのですが、テオドール・ヘルツルの協力者に感化され、1914年から2年間、アメリカのシオニズム運動の指導者に就きました。

ブランダイスが指導者になると、アメリカのシオニズム運動は大きく成長し、彼は世界シオニスト同盟の暫定総裁に就任します。 同同盟は、本質的に非宗教的なユダヤ人の政治組織でした。

このような彼が、1916年にウィルソン大統領によって最初のユダヤ人最高裁判所判事に任命されました。 後には、1939年に退職するまで、最高裁でルーズベルト大統領のニューディール政策立法を合憲と主張する役割を担います。









【アメリカ参戦に向けた巧妙なプロパガンダ】

実のところ、アメリカ国民にはドイツ国民に対して政治的、ケ尾剤的に反目する理由が思い浮かびません。

加えて、アメリカ合衆国はドイツ出身で構成される世界最大の国家となっていて、半分近くの国民のルーツがドイツであったとも伝えられています。

イギリスの新聞王アルフレッド・ハームズワース(ノースクリム卿)は、統帥部を説いて、宣伝戦の司令官に就き、『タイムズ』などの記者を総動員し、全世界に向けて、特にアメリカ合衆国に向けて、ドイツ軍の残忍性を徹底的に宣伝しました。

アメリカの参戦の大義名分は「人道のため」でもありました。 宣伝ビラは敵に向けても洪水のように散布され、ユーゴスラビアやチェコスロバキアの独立運動を煽りました。

ドイツ軍参謀総長エーリヒ・ル0伝ドルフは、「我にヒンデンブルグ(タンネンベルグの戦いでロシア軍に大勝利を収め、ドイツの国民的英雄となった軍人パウル・フォン・ヒンデンブルグのこと)あるも、一人のノースクリフ卿無きを如何せん」と回想しています。

戦争へ駆り立てるプロパガンダは巧妙で権威的に見せます。 1917年、イギリスの歴史学者アンーノルド・トインビーは、「フランスにおけるドイツの恐怖ー歴史的記録」と題した
プロパガンダ論説をニューヨークで発表。

この論説は、ウィルソン大統領が「民主主義のために」アメリカをヨーロッパの戦争に参戦させ、若者をフランスに送り込む論拠となりました。

トインビーは、この後、パリ講和会議のイギリス代表団の一員に任ぜられます。 彼はまた、ロンドン・スクール・オブ・エコにミクス教授、王立国際問題研究所理事となります。

1929年には、彼はロックフェラー家肝煎りで日本を追い込むことを企画した太平洋問題調査会の調査員として、京都で行われた太平洋会議に出席します。

彼は庇護者であるロスチャイルド家やロックフェラー家に対して批判的なことを言うことはありません。


ドイツ出身のポール・ウォーバーグの息子ジェームス(1896-1969)は、ハーバード大学で、ドイツに対する参戦に求める運動を求めるうんづを始め、ハーバード連帯の創設まで呼びかけました。

彼の運動はハーバード大学全体の学生に軍隊志願を促す効果があったとされています。 ほとんがユダヤ資本の影響下にある全米有力紙もアメリカ参戦を扇動しました。

これらの結果として、そもそもアメリカ国民の87%が反対していたにも関わらず、最終的にイギリスが主導した戦争を煽るプロパガンダに軍配が上がり、アメリカ合衆国はヨーロッパの戦争に参加することになります。


ドイツの無制限潜水艦戦(ドイツ潜水艦による無警告の通商破壊作戦。 イギリス海戦に商船の立ち入金糸水域を設け、違反する商船はすべて無警告で撃沈すると宣言)の開始を触接のきっかけとして、ウィルソン大統領は1917年4月2日に臨時議会に開戦教書を送り、「軍事侵略的な独裁主義者」に対する「平和を愛する民主主義者」の十字軍に参加するよう呼びかけ、ハウス大佐のレトリックに従って、「アメリカは、ドイツ国民とではなく、その支配層と戦う」と演説しました。

この中で彼は、ツアー専制を倒したロシア革命に賛辞を与え、ドイツの専制政治を非難しました。 アメリカのセオドア・ルーズベルト元大統領は、わざわざウィルソンを訪ねて演説に賛意を表しました。

モルガンの作戦通り、共和党の表を割ってウィルソンを大統領に当選させた張本人ルーズベルトは、やはり参戦を支持しました。 FRBを創設し、大きな戦争で、政府に大きな予算を組ませる。 そしてただ同然の紙に印刷するだけで紙幣に化ける権利を法律で、ウィルソン大統領は、モルガン、クーン・ローブ、ロスチャルド、ロックフェラーなどの国際金融財閥に法的権限を与えました。

そしてアメリカ政府国債をは巨額の国債を発行し、国際金融財閥がそれを購入し、政府は利子をつけて国際金融財閥から買い戻す。 このお金は結局はアメリカ国民が支払うはめとなり、世界一裕福だったアメリカ国民は現在大半が貧困状態、そして国際金融財閥関係者だけがボロ儲けし超リッチとなる現在のアメリカの超格差時代はこの時生まれたのです。

そしてアメリカ政府は天文学的赤字であるにも関わらず、気候問題や途上国、さらには敵対する共産主義国や独裁国家にも巨額の経済支援。 本来であれば、政府の財源は空っぽなのにどうして予算を組めるのか?

それはFRBという天才て詐欺システムで、国際金融財閥はボロ儲けできる、そして最後はアメリカ国民が税金で将来支払うという巧妙なシステムによるものです。ですからアメリカの格差はますます広がるでしょう。

よって、米民主党政権と国際金融財閥の癒着とFRB中央銀行制度とそれに気づかないお馬鹿なアメリカ国民が存在する限り、アメリカ政府の天文学的赤字はなくなるとはなく国民の格差はとてつもなく広がり、企業で働く中間層はますます貧困に陥っていきます。 既にコンピューターのプログラマーがホームレスになっている現実があります。


こうして戦争で巨額のお金を得たモルガンは、1932年バーリとミーンズが企業における所有と経営の分離の論文を発表して以来、M&Aブームが起こり、企業の株を購入するだけで、研究開発・製造・営業という経営活動をしなくても企業を所有する事が出来、GE、GM、ATT、USスチール、カーネギー、NY鉄道など超巨大企業を所有し、アメリカの影の政府とよばれるまでになりました。

モルガンやゴールドマン・サックスの投資銀行が大活躍する時代に突入し、アメリカはマネーゲームが盛んとなり、あの最強だった製造業は衰退してゆきます。



第一次世界大戦のアメリカ参戦の話に戻ると、議会で戦線決議案は可決され、ウィルソン大統領が署名し、遂にアメリカ合衆国がドイツに宣戦布告しました。

クーン・ローブ財閥のユダヤ人シフは、1917年4月にアメリカが参戦すると、「全世界の悪の根源となっているドイツ軍を完全かつ永久に抹殺する!」と連合国側の全面的勝利を期し、強烈な半ドイツの立場をとりました。









【バルフォア宣言とアラビアのロレンス】

イギリス政府は、パレスチナに「ユダヤ人郷土」をつくるという約束で、ユダヤ人たちを味方につけ、ウィルソン政権やユダヤ資本傘下の報道機関などを動かしました。

ウィルソン大統領は、連合国側で勇敢に戦ってきたアラブを裏切り、狭い荒野のパレスチナをユダヤ人に与えるために、アメリカ国民を戦争に引きずり込み、12万人の青年を死に追いやり、23万人の青年を負傷させ、550億ドルの税金をつぎ込んでいくことになります。

実は、信心深いユダヤ教徒は「郷土は救世主の再来まで実現し得ない」と認識していたの江、パレスチナに「ユダヤ郷土」を建設する計画に対して異議を唱えていました。


1917年5月、ワイツマンは、反シオニスト的な信心深いユダヤ人の見解を抑え込むべくロンドンで演説し、イギリス政府にはパレスチナに対するシオニストの計画を支援する準備があるようだと断言しました。

ワイツマンから「小さな少数派」と呼ばれた信心深いユダヤ人の中心にいたのは、ユダヤ名家モンテフィオーレ家でした。 彼らはプロパガンダの犠牲となり、あらぬ攻撃を受けました。

モンテフィオーレとイギリス・ユダヤ人協会会長は『タイムズ』紙に1917年5月24日同紙に記載された書簡を送り、シオニストの論理に抗議し、ユダヤ人は宗教だけが唯一確かな基準である事を明らかにしました。

また、パレスチナのユダヤ人入植者が特権を得れば、既にユダヤ人が権利を得ている国での地位を揺るがせ、かつパレスチナでアラブ人との激しい対立が起こると警報を鳴らしました。


これに対し、ウォルターも『タイムズ』紙に書簡を送り、「パレスチナにユダヤ人国家をつくることは、生まれ育った国への忠誠を減じる」という見解を否定しました。 イギリスのユダヤの伝統的な団体「ボード・オブ・デピュティーズ」(ユダヤ人代表委員会)もこのウォルターの考えを支持し、ウォルターは「ボード・オブ・デピュティーズ」の副代表に選ばれ、1925年には代表に選ばれています。

シオニズム運動はロスチャイルド家に支えられ、イスラエルが同家の王国として建国されていきます。 1917年11月、ウォルターは外相バルフォアから次のような手紙を受け取ります。

「親愛なるロスチャイルド教 政府を代表して、ユダヤ・シオニストの切望に共感の意を示す以下の宣言を閣議に提出し、承認されたこと、其大なる喜びのうちにご報告申し上げます。 『陛下の政府は、パレスチナにユダヤ民族のナショナル・ホーム(郷土)の建設に賛同し、(中略)政府はこの目標達成が促進されるよう最善の努力をするものである』この声明をあなたからシオニスト連盟に知らせて頂ければ幸いです。 アーザー・ジェイムズ・バルフォア」

これが世に言う「バルフォア宣言」であります。 「パレスチナに『ユダヤ人郷土』をつくる」という約束が、「親愛なるロスチャイルド卿」で始まる手紙という形の宣言となりました。

これについては、まず、ロンドンで英仏政府やユダヤ代表者達による9ケ月に及ぶ討論の末に法案がつくられ、次にイギリス陸軍省ルートでルイス・ブランダイスが議長を務めるシオニスト一般問題暫定委員会に送られて必要な修正がなされた後、ハウス大佐の指導の下ウィルソン大統領が承認し、それからバルフォアに電信で送られたとされています。

イギリスは既にアメリカに頼った戦争をしていたので、ウィルソン大統領に文言の承認をもとめていました。 そして最後に、バルフォアからウォルターへの手紙として発表されました。

次投稿に続く





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2021/6/9

ゴールドマン・サックスのパートナーとなったワインバーグ  財閥(日本・世界)









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ゴールドマンサックスとは
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2898.html

本Blogで、ゴールドマン・サックスのシリーズの情報の出所は、「Goldman Sachs」の著者である女性のリサ・エンドリック(Lisa Endlich)氏を中心に、収集したものです。
Lisa Endlich プロフィール
-------------------------
MITでマネイジメントと都市計画の修士号を取得後、ゴールドマン・サックスに入社、外国為替部門のトレーダーとなり、VP(ヴァイスプレジデント)の肩書を得る。 退社後は夫と三人の子供とロサンゼルスに在住。

日本に関する記事は、主に国際ジャーナリスト堤未果氏の著作物を中心に取集したものです。 インターネトでデービッド・アトキンスを敵視する三橋貴明氏と藤井聡氏ですが、彼ら自身も言っていますが、彼女(堤未果)が先生と述べています。彼女の著作物・記事・情報がベースになっているケースが多く見られます。
堤未果 プロフィール
-------------------
東京生まれ、NY度立大学大学院国際関係論学科修士号。 国連、野村證券などを経て、米国の政治、経済、医療、教育、農政、公共政策、エネルギーなどをテーマに、現場取材と公文書による調査報道で活躍














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Marcus Goldman (December 9, 1821 – July 20, 1904)
ゴールドマン・サックスの創始者


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マーカス・ゴールドマンが1869年に最初のオフィスを置いたパイン・ストリートのビル
このビルの地下一階から世界最強の投資銀行の歴史は始まりました。
マーカス・ゴールドマン商店が入っていたビル、30 Pine street , New Yoork
















ゴールドマン・サックスのパートナーとなったワインバーグ


ゴールドマン・サックスを蘇らせた男、シドニー・ワインバーグ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2939.html


彼のウォール街での最初の仕事は、1907年(明治40年)の銀行危機のときに、混乱状態に陥ったトラスト・カンパニー・オブ・アメリカの前で行列する仕事でした。

必死の預金者たちがウォール街で押し合いへしあいする中で、彼は銀行の支払い窓口に並んで順番を確保して、5ドルでその権利を売りました。

その年、もっと安定した職を求めて、彼はニューヨークで一番背の高いビル、43エクスチェンジ・プレイスの25階建てのビルに行きました。

エレベーターで、最上階まで登り、職はないかと尋ねながら、彼は一階ずつ降りて行きました。


23回断れた後、ワインバーグは2階にあったゴールドマン・サックスのオフィスにやってきました。

ゴールドマン・サックスの総務部長は、掃除人の手助けとして週3ドルの給料で彼を矢追入れました。

彼がゴールドマン・サックスで最初に責任ある仕事は、痰壺を洗い、パートナーのシルクハットにブラシをかけ、パートナーのゴムのオーバーシューズの泥をふき取ることでした。

最初の昇進で、彼はパートナーのオフィスの雑用係になりました。 毎週インク壺の銀の蓋を磨きました。

何年もの間、ヘンリー・ゴールドマンもサム・サックスも彼の名前を知らずに「坊や」と呼んでいました。

ポール・サックスのハーレムの自宅に旗竿を配達したときに、ワインバーグは共同創業者の息子と話す機会を得ました。

ポール・サックスはこの若い男に勉強を続ける様にと強く勧め、ニューヨーク大学での講義を受けられるように25ドルを手渡しました。

「ポール・サックスは私を人間としてまともに見てくれた最初のパートナーだった。 彼の指導を受けるまで、私はひどい悪ガキだった。頑固で未熟でね」。

とワインバーグは後に語っています。 ポール・サックスは、ハーバード大学で教職に就く為に会社を去った後も、ワインバーグ一家と付き合いを続けました。

ワインバーグの二人の息子がハーバードで学んだとき、彼はしばしば二人をケンブリッジの自宅に食事に招いています。


ワインバーグは、郵便の仕分けをするメール・ルームを近代化し、効率改善する提案をしました。

その提案に感心したサックスは、この若い男を担当に据えました。 普通の人には、これはありがたい話でした。

しかし、ワインバーグは刺激に乏しい仕事に退屈し、事務員の椅子に鋲を置いたり、たちの悪いいたずらをして時を過ごしました。

ある時は、サム・サックスが新しいブロードウェー・ショーのキャストを募集していると古新聞に公告を出しました。

志望者の若い女性たちは次々とゴールドマン・サックスの本社にやってきて、威風漂うパートナーの個室で面接を受けようとしました。

冗談だと知って彼女たちはがっかりして、ビルから出て行きました。 保守的で知られる業界で、誰もが生真面目な顔を装う中、自分や他人をからかって楽しむワインバーグは異色でした。

彼の場違いな態度は、ウォール街の人々にとって新鮮でした。 ワインバーグはユーモラスに本音を語り、世間の目を気にすることはありませんでした。

「畜生呼ばわりされなくては一人前と言えない」と彼はよく言ったものでした。高等教育に大いなる敬意を払ってはいたものの、教育が知性を授けない事を彼は見抜いていました。

どうも感心しない社員がいると、成績優秀な学生しか入会を許されないアメリカの大学のクラブ組織、ファイ・ベータ・カッパのクラブハウスの鍵を質屋で買い込み、「ほら、おツムのいい坊や、これが役に立つかも知れんぞ」と茶目っ気たっぷりに言いながら、その社員の手に渡しました。



第一次世界大戦の間、ワインバーグはゴールドマン・サックスを離れて海軍に入り、料理人となってヘンリー・ゴールドマン2世の船に乗り込みました。

後には、海軍諜報部で荷物検査部門に移動しています。 戦争が終わると、シドニーはすでにゴールドマン・サックスを離れていたヘンリー・ゴ-ルドマンに仕事はないかと尋ねました。

彼はヘンリーこそゴールドマン・サックスを支えた天才だと信じ、彼が新規事業を手掛けるのなら何か手伝いしたいと考えていました。

ヘンリーは投資銀行業務を再び手掛けるつもrはなく、ゴールドマン・サックスに戻る方が君の将来は明るいだろうとワインバーグを諭しました。


ワインバーグは彼の忠告に従い、CPの営業員として週28ドルの給料で戻る事にしました。 徐々に彼は責任ある仕事をこなすようになり、1920年にヘレン・リヴィングストンと結婚したした時には、年収5,000ドルを稼ぐまでになっていました。

ヘレンとシドニーの間には、二人の息子が生まれていました。 二人とも後にゴールドマン・サックスのパートナーとなっています。

企業金融部門で働くようになると、彼の財務に対する炯眼(けいがん)が次第に表面に現れてきました。

やがて、彼は引受のシンジケート団を組成し、新規発行証券の値決めをし、トレーディングを管轄するようになりました。

1927年(昭和2年)、35歳のとき、ワインバーグは、ゴールドマン・サックスのパートナーとなりました。 入社後20年のことでした。

















ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2904.html

モルガン財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2894.html

デュポン財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2919.html

ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2917.html

日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2815.html


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2021/6/6

ゴールドマン・サックスを蘇らせた男、シドニー・ワインバーグ  財閥(日本・世界)






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ゴールドマンサックスとは
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本Blogで、ゴールドマン・サックスのシリーズの情報の出所は、「Goldman Sachs」の著者である女性のリサ・エンドリック(Lisa Endlich)氏を中心に、収集したものです。
Lisa Endlich プロフィール
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MITでマネイジメントと都市計画の修士号を取得後、ゴールドマン・サックスに入社、外国為替部門のトレーダーとなり、VP(ヴァイスプレジデント)の肩書を得る。 退社後は夫と三人の子供とロサンゼルスに在住。

日本に関する記事は、主に国際ジャーナリスト堤未果氏の著作物を中心に取集したものです。 インターネトでデービッド・アトキンスを敵視する三橋貴明氏と藤井聡氏ですが、彼ら自身も言っていますが、彼女(堤未果)が先生と述べています。彼女の著作物・記事・情報がベースになっているケースが多く見られます。
堤未果 プロフィール
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東京生まれ、NY度立大学大学院国際関係論学科修士号。 国連、野村證券などを経て、米国の政治、経済、医療、教育、農政、公共政策、エネルギーなどをテーマに、現場取材と公文書による調査報道で活躍

















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Marcus Goldman (December 9, 1821 – July 20, 1904)
ゴールドマン・サックスの創始者


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マーカス・ゴールドマンが1869年に最初のオフィスを置いたパイン・ストリートのビル
このビルの地下一階から世界最強の投資銀行の歴史は始まりました。
マーカス・ゴールドマン商店が入っていたビル、30 Pine street , New Yoork

















ゴールドマン・サックスを蘇らせた男、シドニー・ワインバーグ


GSTCの崩壊とキャッチングスの辞任
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ワインバーグはこの事件の責任から逃げる事はありませんでした。 財務担当者としての責任の釈明を求められたとき、彼は「私が愚かだったのです」と言っています。

この経験がワインバーグのリスクやパートナーの資本金に対する考え方の根本となり、信用の価値の重要性をいやというほど思い知らせたといってよいでしょう。

ゴールドマン・サックスを蘇らせたのは、一人の男でした。 中学校を中退した、ごく普通の男、シドニー・ワインバーグ。

まだ330代だった彼は、その後40年間ゴールドマン・サックスでリーダーシップをとる事になります。


シドニー・ワインバーグはまぎれもなく、近代ゴールドマン・サックスの父であります。
1930年から他界する1969年まで会長として経営を続け、大恐慌の後始末をこなし、

同社を全米に知られる存在とし、揺るぎない名声を打ち立てました。 彼の存在は、死後も
消えることなく、今日でもその影響は社内で感じ取る事がでいます。 身長5フィート4インチ。 彼は小柄な男でした。

彼が絶頂期にあった1956年(昭和31年)、ニューヨーカー誌はこう書いています。「ワインバーグは、一流大手投資銀行、ゴールドマン・サックスのシニア・パートナーである。

と同時に、他に例を見ないほど多数の大手企業の社外取締役を努め、さまざまな財界人のアドバイザーであり、彼の言葉には大統領も熱心に耳を傾ける。

ウォール街の外ではその名前はあまり知られていないが、彼は全米でも有数の影響力を持つ男である」。


国を愛し、自分の勤める銀行に忠誠を尽くしたワンバーグは、当時の主要財界人のほとんど親しい関係にありました。

三つ揃えのスーツを着こなし、ベストのポケットから金鎖をのぞかせた彼は、自分が叩き上げでのし上がった来たことを大きな誇りにしていました。

トップレベルの商談などで小賢しい言いまわしが続くと、彼は得意の平易な言葉に流れを変えようと、皮肉っぽくブルックリン訛で、

「私はブルックリンの公立第13小学校しかでていないものですからね」というのが常でした。

シドニー・ジェ−ムズ・ワンバーグはは、ささやかな酒の卸業を営む移民、ピンカス・ワンバーグの11人の子供の3番目に生まれました。

1891年(明治24年)に生まれ、ブルックリンで育ち、公立第13小学校で教育を受けました。


彼は生涯、この小学校に愛着を持っていました。 ホレーショ・アルジャーの物語に出てくるような苦学生の様に、彼は10歳のときから働きはじめました。

マンハッタン島とブルックリンを往来するフェリーの発着所で新聞を売ったり、牡蠣の貝殻を剥いたり、婦人用の帽子屋のために鳥の羽を運んだりして生活を支えました。

13歳のとき、夏休みの間に証券会社の使い走りとして雇われましたが、一つの職だけでは飽き足らず、一社でしか働いてはいけないという古くからのしきたりを破って、

彼は他の2社でも同様の仕事を得ました。 銀行の窓口係がこれを見つけたために、ワインバーグ3つの職を一度に失ってしまました。 1906年(明治39年)春、中学を2年で中退しました。

これが彼の最終学歴であります。
















ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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モルガン財閥 ここまでのまとめ
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デュポン財閥 ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ
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