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2021/6/9

ゴールドマン・サックスのパートナーとなったワインバーグ  財閥(日本・世界)









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ゴールドマンサックスとは
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2898.html

本Blogで、ゴールドマン・サックスのシリーズの情報の出所は、「Goldman Sachs」の著者である女性のリサ・エンドリック(Lisa Endlich)氏を中心に、収集したものです。
Lisa Endlich プロフィール
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MITでマネイジメントと都市計画の修士号を取得後、ゴールドマン・サックスに入社、外国為替部門のトレーダーとなり、VP(ヴァイスプレジデント)の肩書を得る。 退社後は夫と三人の子供とロサンゼルスに在住。

日本に関する記事は、主に国際ジャーナリスト堤未果氏の著作物を中心に取集したものです。 インターネトでデービッド・アトキンスを敵視する三橋貴明氏と藤井聡氏ですが、彼ら自身も言っていますが、彼女(堤未果)が先生と述べています。彼女の著作物・記事・情報がベースになっているケースが多く見られます。
堤未果 プロフィール
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東京生まれ、NY度立大学大学院国際関係論学科修士号。 国連、野村證券などを経て、米国の政治、経済、医療、教育、農政、公共政策、エネルギーなどをテーマに、現場取材と公文書による調査報道で活躍














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Marcus Goldman (December 9, 1821 – July 20, 1904)
ゴールドマン・サックスの創始者


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マーカス・ゴールドマンが1869年に最初のオフィスを置いたパイン・ストリートのビル
このビルの地下一階から世界最強の投資銀行の歴史は始まりました。
マーカス・ゴールドマン商店が入っていたビル、30 Pine street , New Yoork
















ゴールドマン・サックスのパートナーとなったワインバーグ


ゴールドマン・サックスを蘇らせた男、シドニー・ワインバーグ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2939.html


彼のウォール街での最初の仕事は、1907年(明治40年)の銀行危機のときに、混乱状態に陥ったトラスト・カンパニー・オブ・アメリカの前で行列する仕事でした。

必死の預金者たちがウォール街で押し合いへしあいする中で、彼は銀行の支払い窓口に並んで順番を確保して、5ドルでその権利を売りました。

その年、もっと安定した職を求めて、彼はニューヨークで一番背の高いビル、43エクスチェンジ・プレイスの25階建てのビルに行きました。

エレベーターで、最上階まで登り、職はないかと尋ねながら、彼は一階ずつ降りて行きました。


23回断れた後、ワインバーグは2階にあったゴールドマン・サックスのオフィスにやってきました。

ゴールドマン・サックスの総務部長は、掃除人の手助けとして週3ドルの給料で彼を矢追入れました。

彼がゴールドマン・サックスで最初に責任ある仕事は、痰壺を洗い、パートナーのシルクハットにブラシをかけ、パートナーのゴムのオーバーシューズの泥をふき取ることでした。

最初の昇進で、彼はパートナーのオフィスの雑用係になりました。 毎週インク壺の銀の蓋を磨きました。

何年もの間、ヘンリー・ゴールドマンもサム・サックスも彼の名前を知らずに「坊や」と呼んでいました。

ポール・サックスのハーレムの自宅に旗竿を配達したときに、ワインバーグは共同創業者の息子と話す機会を得ました。

ポール・サックスはこの若い男に勉強を続ける様にと強く勧め、ニューヨーク大学での講義を受けられるように25ドルを手渡しました。

「ポール・サックスは私を人間としてまともに見てくれた最初のパートナーだった。 彼の指導を受けるまで、私はひどい悪ガキだった。頑固で未熟でね」。

とワインバーグは後に語っています。 ポール・サックスは、ハーバード大学で教職に就く為に会社を去った後も、ワインバーグ一家と付き合いを続けました。

ワインバーグの二人の息子がハーバードで学んだとき、彼はしばしば二人をケンブリッジの自宅に食事に招いています。


ワインバーグは、郵便の仕分けをするメール・ルームを近代化し、効率改善する提案をしました。

その提案に感心したサックスは、この若い男を担当に据えました。 普通の人には、これはありがたい話でした。

しかし、ワインバーグは刺激に乏しい仕事に退屈し、事務員の椅子に鋲を置いたり、たちの悪いいたずらをして時を過ごしました。

ある時は、サム・サックスが新しいブロードウェー・ショーのキャストを募集していると古新聞に公告を出しました。

志望者の若い女性たちは次々とゴールドマン・サックスの本社にやってきて、威風漂うパートナーの個室で面接を受けようとしました。

冗談だと知って彼女たちはがっかりして、ビルから出て行きました。 保守的で知られる業界で、誰もが生真面目な顔を装う中、自分や他人をからかって楽しむワインバーグは異色でした。

彼の場違いな態度は、ウォール街の人々にとって新鮮でした。 ワインバーグはユーモラスに本音を語り、世間の目を気にすることはありませんでした。

「畜生呼ばわりされなくては一人前と言えない」と彼はよく言ったものでした。高等教育に大いなる敬意を払ってはいたものの、教育が知性を授けない事を彼は見抜いていました。

どうも感心しない社員がいると、成績優秀な学生しか入会を許されないアメリカの大学のクラブ組織、ファイ・ベータ・カッパのクラブハウスの鍵を質屋で買い込み、「ほら、おツムのいい坊や、これが役に立つかも知れんぞ」と茶目っ気たっぷりに言いながら、その社員の手に渡しました。



第一次世界大戦の間、ワインバーグはゴールドマン・サックスを離れて海軍に入り、料理人となってヘンリー・ゴールドマン2世の船に乗り込みました。

後には、海軍諜報部で荷物検査部門に移動しています。 戦争が終わると、シドニーはすでにゴールドマン・サックスを離れていたヘンリー・ゴ-ルドマンに仕事はないかと尋ねました。

彼はヘンリーこそゴールドマン・サックスを支えた天才だと信じ、彼が新規事業を手掛けるのなら何か手伝いしたいと考えていました。

ヘンリーは投資銀行業務を再び手掛けるつもrはなく、ゴールドマン・サックスに戻る方が君の将来は明るいだろうとワインバーグを諭しました。


ワインバーグは彼の忠告に従い、CPの営業員として週28ドルの給料で戻る事にしました。 徐々に彼は責任ある仕事をこなすようになり、1920年にヘレン・リヴィングストンと結婚したした時には、年収5,000ドルを稼ぐまでになっていました。

ヘレンとシドニーの間には、二人の息子が生まれていました。 二人とも後にゴールドマン・サックスのパートナーとなっています。

企業金融部門で働くようになると、彼の財務に対する炯眼(けいがん)が次第に表面に現れてきました。

やがて、彼は引受のシンジケート団を組成し、新規発行証券の値決めをし、トレーディングを管轄するようになりました。

1927年(昭和2年)、35歳のとき、ワインバーグは、ゴールドマン・サックスのパートナーとなりました。 入社後20年のことでした。

















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