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2021/6/15

歴史的背景 2/3:第一次大戦前後とロスチャイルド・モルガン・ロックフェラー  財閥(日本・世界)



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【バルフォア宣言とアラビアのロレンス】


歴史的背景 1/2:第一次大戦前後とロスチャイルド・モルガン・ロックフェラー
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からの続き


アラブの指導者やパレスチナの人々が関わることなく、ロスチャイルド家の影響下で草案は作成され発表されました。

ウォルターを議長に、パリのジェームズ家も参加して、ロンドンのオペラ座でユダヤ人大会が開催され、バルフォア宣言が正式に発表されました。

興奮するユダヤ人聴衆に、ウォルターは「この1800年のユダヤの歴史で最も偉大な出来事」と、ジェームズは「イギリス政府は曽ニズムを承認したのです」と宣言しました。

背か中のユダヤ人を勇気づけ、パレスチナへの移住が勢いづきますが、第一次世界大戦後
パレスチナは、ひとまず国際連盟によってイギリスの委託統治領とされました。

さらにバルフォア外相は、ユダヤ人向けの国立宿泊所の設立も表明。 ドイツのルーデンドルフ参謀長は、一連のバルフォアのユダヤ政策の有効性を認め、ドイツが先になさなかったことを悔やみました。


アラビア半島では歴史が示す通り、第一次世界大戦における対トルコ(オスマン帝国)戦争のヒジャーズ鉄道に沿った戦いやアカバの戦いはすべて、トーマス・ロレンスが率いたアラブの軍勢だけで行われました。

アラブの奮闘がなければ、イギリスはトルコ勢力をアラビアおよびパレスチナから一掃することはできませんでした。

しかしイギリス政府はアラブ人との交渉や取り決めの中で「ユダヤ人郷土」の事は一度も言及しませんでした。 アラブの立場から見ると裏切りです。

映画にもなったイギリス人将校、アラビアのロレンスはオックスフォード大学出身の考古学者、かつ工作員です。

1918年110月1日、ロレンスのアラブ軍がダマスカスに入城し、砂漠の戦いにイギリスが完全勝利を収めると、オスマン・トルコ帝国は崩壊し、1914年の石油協定が無効となり、ドイツが確保していたメソポタミアの石油利権はすっかりイギリスの手に渡りました。

戦争終結後、ロレンスは、アラブの指導者でその後初代イラク国王となるファイサルT世の調査団の一員としてパリ講和会議に出席しています。

1921年1月からは、植民地中東局のアラブ問題顧問として、ロスチャイルド家と緊密な同省大臣ウィストン・チャーチルの下で働きました。


1918年から1948年(イスラエル建国の年)までのイギリスによるパレスチナ委任統治の30年間に、イギリスの力により多くのユダヤ人がぺレスチナに入植したしたため、1918年には少数であったユダヤ人が、1948年にはアラブの領域に国を樹立する事となります。










【第二次ロシア革命 2月革命・10月革命】

レーニン、トロッキー、スターリンの3人は、ソ連を建国した革命における最大の推進力でした。

レーニンは「知の人」で思想的計画性を有する理論家、トロッキーは「情の人」、スターリンは「独でした。

トロッキーは、スイスのチューリッヒに住み、「無賠償」「全ての国民の自決権」「王国、常備軍がなく、封建的特権階級のないヨーロッパの連邦組織」の実現を謳う『戦争とインターナショナル』と題するパンフレットを出版しました。

「王国のない」「ヨーロッパの連邦組織」などは、ロスチャイルド家が目指す新世界秩序の一端を言い表しています。


ユダヤ教とグルーバリズム、そして軍需産業
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2897.html


1914年、だ一次世界大戦が起こると、レーニンはお0ストリア政府に逮捕されて、スイスに
追放され、1917年までチューリッヒに留まっていました。

資金を提供してレーニンを操ったのは、ロシアと戦っていたドイツや中立国スイスにおけるロスチャイルド家傘下の大富豪や官僚たちであるとされ、ドイツの秘密警察長官だったとの説があるマックス・ウォーバーはそのキーマンでした。

この時期、ウォーバーグ家はチューリッヒを本拠地の一つとしていました。 モルガンやろックフェラーらが出資して1915年にニューヨークに設立したアメリカン・インターナショナル・コーポレーションも、レーニンやグルゴリー・ジノヴィエフを首領とするポリヴェシキに財政支援したとされています。

ポリヴェシキは、第一次世界大戦を「帝国主義が領土や植民地などの権益を奪い合う帝国主義戦争」とみなしました。 その通りだと思います。

フランスは植民地を保持するとともにアルザス・ロレーヌとライン左岸を占領したがり、イギリスはドイツの植民地とトルコの領土を奪いたがっていました。

ロシアはガリツイア、アルメニアとコンスタンチノープルを欲しがり、加えてツアーは戦争を国内の不満を外に転じ、増大しつつある革命運動を抑止する手段としました。

ドイツの帝国主義者は、イギリスやフランスが植民地を譲りさへすれば即座にベルギーを放棄するつもりでした。


レーニンらは、この強欲な領土取り合いの帝国主義戦争を「祖国防衛の国民戦争」と位置づけることはできないとし、戦争を内戦化しして革命とすることを目指しました。

一方、ロシアの保守派、自由主義者、メンシェヴィキの大部分そしてアレクサンドル・ケレンスキー以下の社会革命党員は、愛国主義的な「四国防衛戦争」論を揚げ、対ドイツ戦に賛成していました。

レーニンは1916年の春、『資本主義の最高の段階としての帝国主義』を著し、改めて次のように主張しました。

「帝国主義は資本主義発展の最高段階を現すものである。 資本主義は蓄積の途上で、全産業部門のカルテル化、トラスト化して、これをニ、三の超富裕者の手中に置くほどに発達した。 ほとんど地球全体が資本権力者の間に分配されている」。

「植民地の形において、あるいは財政的搾取の糸で海外諸国を縛り付ける事によって、競争および自由貿易に、独占や資源の占有が取って代わった」。


「資本主義は封建主義に対する闘争の時代には、諸国民の解放者だったのが、帝国主義時代には諸国民の最大抑圧者となった」。

「銀行は控えめな仲介的企業から金融資本の独占者に転化した。 最も先進的な資本主義国家のなかの任意の一国か三つか五つくらいの最大の銀行が、産業資本と金融資本との人的結合を実現し、全国の資本および貨幣所得の大部分を占める幾十億の金(マネー)の支配権をその手に集中した。

現代ブルジョア社会の、例外なしにすべての経済的および政治的機関の上に、従属関係の濃密な網を張り巡らしている金融寡頭体制が、独占の最も顕著な現象形態である」。


レーニンは、マルクスを超えて、国際金融資本家を正面から捉えて、表現しています。 彼は一途でした。 後々、このことが命取りになってゆくのです。

独占資本主義は植民地搾取を徹底し、原料を極めて安価に獲得し、その生産品を植民地に輸出することによって利益を獲得する。 利益の源泉は、植民地労働者の搾取です。

そして国内の労働者階級はより厳しく搾取されていくことになります。 1900年頃には、全世界が分割され、アフリカは9割が奪取され、再分割の闘争も激化していました。

最も富強な少数の資本家による世界中の弱小民族の搾取。 この帝国主義により国際金融資本家はますますの資本輸出と利息からの莫大な儲けを獲得しながら、全体として資本主義を一層急速に発展させていきます。

このように、資本主義はその最高段階である帝国主義に入ると同時に、その進歩的役割は終焉し、今後はむしろ反動となったのです


ところがここで、革命のターゲットを国際金融資本家とせず、ツアー(ロシア皇帝)とする論理の飛躍が行われます。

「旧時代の封建的制度は、再び最善の武器となって現れ、資本主義の発展途上にあったツアー・ロシアは、かえって独占資本主義的となり、有力な帝国主義国家として出現する」。

レーニンは、資本主義の発展途上にあったrツアー(ロシア帝政)を、革命のターゲットとしたのでした。

レーニンはその理由を、「ロシアは帝国主義戦線の一番弱い部分であるから」としています。

レーニンは、革命は金次第であることも理解していて、彼はシフなどのアメリカにいるユダヤ人銀行家から多額の資金を得るべく、「ロシアのユダヤ人を虐待から救う」というスローガンを最全面荷揚げます。

これに応じてシフは、ロシア革命の軍資金として、1200万ドルを提供したと公表しています。

1916年頃から、クーン・ローブ商会のジェイコブ・シフ、オットー・カーンやグッゲンハイムなどのユダヤ人資本家がロシア革命の準備に参画していきました。

また、レーニンはユダヤ人が生来持つ時代を主導する運動に対する敏感さと国際性に目をつけました。 各国に分散したユダヤ人の運命に関する相通じる意識が、世界主義・国際主義に通じ、それが、共産主義や自由主義あるいはシオニズムの形をとった国際的な運動に結び付きやすかったのです。

レーニンは、資本家のみならず、多数のユダヤ人を革命の同志として積極的に味方に取り込んでいきました。

逆にユダヤ人たちは、レーニンをはじめとするロシア人革命勢力wp利用しました。 レーニンは一般 的にはろしあじんですが、母方にユダヤ人の血が入っていた関係もあり、厳密な意味でロシア人と言えるのかは不明とされています。

革命は金とともに数であり、共鳴し後援する民衆の数が革命の成否を決定します。 ユダヤ人だけ、主義と金の力だけでは、ロマノフ王朝を倒す革命はなし得ません。 レーニンははユダヤ人を利用し、ユダヤ人はレーニンを利用したのです。

ユダヤ人ジノヴィエフは、「レーニンの影」と言われるほどレーニンに近づき、レーニンの論文や演説原稿を代筆しました。

そのため、まず何よりも労働者と農民の開放を叫ばねばならないはずのボリシェヴィキが、ユダヤ人解放の要求を党則の第一条に掲げました。







2月革命

1916年、国際社会主義大会がスイスで開催され、各国の社会主義グループが統一されて、帝国主義戦争への内戦への転化、自国の帝国主義政府の壊滅など、ボリシェヴィキが示した方針を決定しました。

ボリシェビキは、ロシアにおいて、自国軍の敗戦、戦争による社会の混乱、戦争に反対する労働者や農民の革命的行動の組織化を計画し、ツアーと戦争利得を求めるブルジョア体制を倒して、共産主義革命を成就させ、無賠償・無侵略の即時和平、真の平和を実現することを求めたのでした。

ツアー政府の戦争敗北は、労働者や農民にとっての開放です。 そして、国境を超えて交戦国の労働者とも連携します。

1917年になると、ロシア帝政は、断末魔的な危機に陥りました。 ドイツ軍に敗退を重ね、国内において物資が底をつきました。

労働運動は、経済ストから政治ストに変わり、ロシア全土に広がりました。 ロシアの労働者の数は、1905年に150万人、1917年には200万人に過ぎませんでしたが、ストの数はどの国にもないほど多くなりました。

レーニンはスイスから地下組織を通じて、ペトログラード、モスクワ、キエフ等で革命の檄文の配布を行いストや暴動を指導しました。

ツアー政府は、ストの影響で兵器生産が不可能となり、同盟国に武器、弾薬などの援助を仰ぎます。

多くの兵士は銃も食糧もなく戦闘に駆り出されたので、反政府的な雰囲気を帯びてきました。

1917年2月、ペトログラードで、約20万人の労働者がストに参加。 赤旗が翻り、「ツアーを倒せ!」「戦争反対!」「パンをよこせ!」のスローガンが溢れ、鎮圧するはずの兵士は群衆に向けて発砲しませんでした。

兵士は次第に民衆に加担し、民衆も武装を始めました。 労働者に加え、数百万の農民も武装しました。

軍は分裂し、大方の兵は反乱軍となり、ペトログラードを占領。 この勢いの前に政治犯は釈放されました。

ツアーは最後の手段として、ユダヤ人に対する完全な自由と平等を与える法律を発布しましたが、時既に遅く、飢えた群衆がペトログラード全市で放棄しました。

全市に戒厳令が敷かれましたが、政府閣僚は総辞職し、ここに2月革命が達せられました。




この2月革命は、よほど前から用意されていたようです。 革命の第一日目に、首都ペトログラードに会った全ての自家用自動車が数時間のうちにものの見事ぬ徴発されました。

対向の豪華な自動車も直ちにsy姿を消し、その後は臨時政府の指導者が乗り回し、また帰国して駅に到着したレーニンの出迎えにも使われました。

しかし、ボリシェヴィキはせいぜいストを訴える檄文を配ったにすぎません。 レーニン、ジノヴィエフは亡命中であり、カメーネフやスターリンは流刑中、トロッキーもアメリカにいました。

他の政党も2月革命を指導した形跡はなく後追いでした。 誰が、この武装2月革命を実際に計画し指導したのか。 これまでの経緯から、ユダヤ人資本家などの世界戦略が背景にあったことは間違いなさそうです。

臨時政府が「自由公債」を公募すると、ロスチャイルド家は即座に100万ルーブルを応募し支援しました。

シフも、ユダヤ人を迫害するロシア帝政が崩壊したことで、2月革命を「奇跡に近い快挙・・・我々先祖たちをエジプト人の奴隷から解放したことよりもずっと偉大と言ってよい快挙」と褒めたたえ、臨時政府は、社会革命党(エス・エル)やメンシェヴィキが加わっていますが、十月党や立憲民主党(カデット)が主体で、前述の通り、あくまでも地主政権でありかつブルジョアジー政権でした。


彼らは基本的には反革命の立場であり、可能ならばツアー制さえ維持しようとしていました。 さらには第一次世界大戦を継続して革命の動きを外敵に向けながら、莫大な戦時利潤んを獲得しつつ、地中海への出入り口ダーダネルス海峡確保の必要性を論じたのでした。

プロレタリアートはまだ意識と組織が不十分であったために、政権を地主やブルジョアジーに渡してしまったのです。


これに対して、ボリシェヴィキはあくまでもプロレタリアートによる政権獲得を目指して革命の継続を主張しました。 労働者および革命側についた兵士の代表たちは、労働者兵士代表ソヴィエート(ロシア語で評議会の意味、ソヴィエトとも表記)に参集し、臨時政府に対抗しました。 ここに二つの政権、臨時政府(地主・ブルジョア主体)とソヴィエト(プロレタリア主体)が並立しました。

ソヴィエトの力は増大して民衆もソヴィエトの方が真の実力機関であると認識し始めました。 母がドイツ系ユダヤ人であり、レーニンと同郷シンビルスク生まれのアレクサンドル・ケレンスキー(1881ー1970)は、野心的な政治家であり、3月に社会革命党の一員となり、その巧みな弁舌によって、臨時政府からもソヴィエトからも支持を受けました。

2月革命直後、多くの民衆の支持された社会革命党は、マルクス主義的なプロレタリアート独裁革命には反対し、民主主義的社会革命を掲げてました。 3月になると、ロシア全土の都市や工場にどんどんソヴィエトが設立されていきました。 ペトログラード・ソヴィエトはそれらの中心となり、国家統一機関として位置づけられたのでした。

ペトログラード・ソヴィエトでは、当初、社会革命党とメンシェヴィキが優勢でした。 そのペトログラード・ソヴィエトにおいて、執行委員会が政治的・軍事的主導権を握ります。 執行委員会は、議長にチヘーゼ(メンシェヴィキ)、副議長にケレンスキーが就きました。 委員は合計15名で、ユダヤ人9名、ロシア人3名、ジョージア人1名、不明2名と、ユダヤ人勢力が圧倒しました。

特に、ステクロフ・ナハムケスやスハノフ・ギンメルなどはユダヤ人勢力の指導者であり、これらユダヤ人委員が実質上、執行委員会の意思決定を仕切りました。また、ブンド(ロシアとポーランドにおける全ユダヤ労働組合)が執行宇委員会の中で力を持ち、ユダヤ人の平等権に関する法令を発議しました。



執行委員会のユダヤ人たちは、やがてケレンスキー副議長の温和な路線は、ユダヤ王国の樹立と多民族への復讐には役立たないと、見切りをつけ始めます。

加えて、ケレンスキーは連合国側に立っっての対独戦継続を閣僚として宣言して、資本家を設けさせるだけの戦争にうんざりしていた農民や労働者を敵に回すことになります。
ケレンスキーは、ニコライ2世をイギリスに亡命させようとする動きさえも見せました。

彼はブルジョア的であり、帝国主義の片棒を担いでいるとさえ見なされるようになります。 ユダヤ人勢力は、ケレンスキーを見限り、ペテログラード・ソヴィエトで優勢な社会革命党とメンシェヴィキを見限り、多額の軍資金を持ってドイツ経由で帰国するレーニンが率いるボリシェヴィキに乗り換えてゆきます。

ロシア民衆は、そもそもボリシェヴィキに馴染まず歓迎していませんでした。 そこでボリシェヴィキは、まずユダヤ人たちに支持を求めました。 2月革命が成功すると同時に、各国からはおびただしい数のユダヤ人が、次なるユダヤ的革命を期待してロシアに殺到していました。 これらユダヤ人の大部分は、インテリあるいは半インテリで、ユダヤ人は民族圧迫から自らを開放するために、国家の拘束を否定するインターナショナリズムを主張し、民族平等の原則の下に世界革命を実現しようと試みました。

国際的なダヤ人勢力は全ての国家権力の上に大きな支配権をふるうことを考えていました。


ノアの呪い 黒人差別と支配者ユダヤ
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マフィアの上に君臨するユダヤ資本
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2656.html


この世界は、旧約聖書のノアの呪いにあるように、現実、黒人は呪われ奴隷となり、白人が支配し、その上に必ずユダヤがいる構造になっているのです。


マルクス主義を理論的かつ科学的に見せたぼりしゃヴィキの宣伝は、多くのユダヤ人のインテリや半インテリを共鳴させ、運動の施先とすることに成功しました。








レーニンとトロッキーの帰還

スイスにいたレーニンは、ボリシェヴィキを直接指導すべく祖国を目指しましたが、戦争によりほとんどの帰国ルートは封鎖されていました。 スイスの情報網を通じてレーニンの帰国意志を掴んだドイツ政府やドイツ軍のルーデンドルフ参謀長は、「ドイツ政府の資金とドイツ軍の手でレーニンをロシアへ送り、ロシア政府を転覆させよう」と企て、彼を「封印列車」に乗せ、秘密裏にドイツ領内を通過させ、帰国できるよう手はずを整えました。

レーニンがドイツの計らいでロシアに送られることが決まると、社会主義者や革命家たちの間では賛否両論が起こりました。 彼は多くの賛同者から赤旗を振られ、反対者からは「ドイツのスパイ」と罵られながら、ベルンの駅で封印列車に乗り、ドイツ士官3人と共に悟られることなく、ドイツを通過して北部を移動した後、船でヘルシンキへ向かい、そこから列車でペトログラードに向かいました。

この封印列車の手配には、ロスチャイルド家の下で働きドイツ政府の右腕となっていたフェリックスなどウォーバーグ兄弟が一役買ったとされています。 1917年4月3日未明、ペトログラードに着いたレーニンは、駅頭で歓呼する数千人のボリシェヴィキの労働者や兵士を前に、臨時政府を厳しく非難するとともに、プロレタリア革命を訴えました。

彼は、封印列車内で書き上げた『4月テーゼ』を党の綱領として発表しました。 臨時政府はツアー政府と同程度に帝国主義的であると断定し、ブルジョア革命をプロレタリア革命へ転化して、プロレタリア政権を樹立、ドイツなどとの資本家的戦争の即自和平、2千万人の組織化された人々を代表するソヴィエトの権力集中、産業と銀行の国有化、国家による地主の土地収用などを提唱しました。

さらに彼は、ペテログラード・ソヴィエトにおいて社会革命党とメンシェヴィキとが臨時政府に協力姿勢を示していることを革命への裏切りとして糾弾。 彼は唐名称を「共産党」
と改める事を主張しました。 4月18日、ボリシェヴィキは、挙げてレーニンの『4月テーゼ』を採用しました。 ソヴィエトはますます勢いを増し、4月中には全国の農村につくられました。 一方、メンシェヴィキはロシアがまだ社会主義社会に移行する段階に達していないと主張し、「レーニンは誕生したばかりの新しい共和国を内戦へと導こうと試みている」と非難しました。

臨時政府はレーニンを「ドイツのスパイ」「ヴィルヘルム2世の代理人」と呼んで攻撃しました。


戦術家トロッキーは、1914年に第一次世界大戦が始まると、スイスからフランスに移住し、反戦を唱え、戦争支持のドイツやフランスの社会主義政党を批判しました。 彼は1916年にフランスからも追放され、スペイン経由でアメリカ合衆国へ亡命しました。

彼は、ニュージャージー州にあるロックフェラー家のスタンダード石油の製油所内で革命私兵集団を訓練して毎日を送ったとか、ニューヨークでシフの支援を受け大邸宅に住み、護衛隊までついていたと言う話があります。 ニューヨークでは、ロシア語新聞にロシア情勢を書いています。

2月革命を知ると、トロッキーはシフから貰った多額の革命資金を持ってニューヨークを発ち、1917年5月、レーニンに1ケ月遅れてペテログラードに到着。 ドイツのユダヤ人資本家マックス・ウォーバーもトロッキーに資金を提供しました。 トロッキーは、7月、ボリシェビキに入党し、やがてペテログラード・ソヴィエト議長に数人します。

ドイツのルーデンドルフ参謀長は、後の1931年2月、ボリシェヴィキの背後にyダヤ人国際金融資本家がいて、ロシア帝国とドイツ帝国への闘争を指揮していたと暴露しました。
彼は「トロッキーは国際資本家の莫大な金を持ってアメリカからスウェーデンを経てペテログラードに到着した。 別の金はドイツから、ユダヤ人ゾルムビンによって、ボリシェヴィキに与えられた」と述べています。

こうして2月革命後に、レーニンやトロッキーをはじめとして、スターリンを含めて数千万の革命家がペテログラードに帰ってきました。 世界各地から帰還した亡命ユダヤ人革命家たちは、直ちに、ボリシェヴィキのユダヤ人指導者たちと合流したのでした。





ボリシェヴィキへの弾圧

5月5日、臨時政府はソヴィエトからの政権参加を認め、8人の資本家、ケレンスキーを含む2人の社会革命党員、2人のメンシェビキ、そして2人のその他社会主義者からなる改造内閣をつくりマシタガ、ボリシェヴィキは加わりませんでした。 依然としてブルジョアジー中心の政権でした。 野心家のケレンスキーは司法大臣から軍務相(陸相)となりました。 6月上旬、第一回全国ロシア労働者兵士代表ソヴィエト大会が開催され、ボリシェヴィキの兵士や労働者がレーニンを支持したものの、多数を占める社会革命党とメンシェヴィキが、これ以上の革命とその後の反動を恐れてケレンスキーを支持し、結局大会は臨時政府の戦争継続方針を支持しました。 ケレンスキーは、国内闘争を外敵(ドイツ)に対する総攻撃に転化し、戦争によって国内の反対勢力を粉砕することを企図しました。

ところが、スターリンらによる新聞やポスターなどでの呼びかけが奏功し、6月18日、ペテログラードで50万人の労働者と兵士が「戦争反対!」「ケレンスキー反対!」「全権力をソヴィエトへ!」と叫ぶデモが勃発しました。

7月4日にも40万人の労働者と兵士によるデモが起こりました。 地主やブルジョワジーに背中を押された臨時政府はこれを鎮圧し、社会革命党やメンシェヴィキは臨時政府を支持しました。 さらに、「レーニンやボリシェヴィキは、ドイツから資金を受け取っている。 ドイツのスパイだ!」との嫌疑を世間に流布させたために、ボリシェヴィキは苦しい立場に追い込まれました。

捜査で押収されたレーニン筆跡の手紙や逮捕された資金の運び屋の供述からして、ドイツから引き続きレーニンやボリシェヴィキに資金が流れていた事は事実です。 臨時政府はさらに踏み込んで、トロッキーたちボルシェヴィキ指導者を逮捕しました。 レーニンは変装して逃れ、10月下旬までフィンランドの郊外の草むらやヘルシンキの隠れ家に身を潜めていました。

7月7日に首相兼軍務相となったケレンスキーは、詰襟服を着てナポレオンを真似た独裁者となり、ボリシェヴィキ弾圧と戦争継続を断行していきました。

一方、戦争の前線ではボリシェヴィキのスローガンが浸透して反戦の空気が広がり、兵士たちの敵意は失われていきました。 ロシア軍はドイツ軍に敗北と後退を重ねて行きます。
ロシア国内では、長引く戦争の影響で、民衆は極度の栄養不足に陥り、生活必需品は激減し、配給のための輸送は燃料不足のために止まり、壊れた鉄道馬車が軍用貨物を運んでいました。 莫大な国債発行と紙幣の増発によって極度のインフレとなり、ルーブルはどんどん無価値になっていきました。







10月革命とユダヤ人

8月、ボリシェヴィキの第6回大会で、党中央委員会の新委員として獄中のトロッキー、ヨッフェなど5名のユダヤ人が選ばれ、中央委員会のユダヤ人比率は40%に達しました。

この頃になると、ロシアの国内事情を反映して、ようやくロシア民族のボリシェヴィキへの支持は広がりを見せ、その指導下に労働者たちは武装して「赤軍」となっていきました。 ペトログラードやモスクワの司会選挙では、ボリシェビキが大躍進し、メンシェビキと社会革命党は激減しました。 いよいよボリシェビキの時代となります。

9月1日、ケレンスキー首相は、「ロシア協和国」に国号を変更。 社会主義を称さなかったためにユダヤ人勢力は激怒しました。 しかも、この時すでにケレンスキー首相は信頼できる軍を失っていました。 9月4日、臨時政府は大勢に押されトロッキーを釈放。 一方で臨時政府はなおも強硬に出て、革命的なペテログラード・ソヴィエト執行委員会を非合法化しました。 9月中旬、レーニンは党中央委員会に手紙を送り、すみやかに武装蜂起の準備に着手させました。 この頃には、ボリシェビキは、ペテログラードおよびモスクワのソヴィエトにおける労働者や兵士の過半数に勢力を広げていきます。 9月23日、ペテログラード・ソヴィエトは臨時政府の反革命性を言った絵、遂に革命決起を決議しました。

ほとんどすべての兵士たちも敗戦に次ぐ敗戦に疲労困憊し、食料にも事欠き、平和を望みました。 前線から兵士たちの代表者がペテログラードに集合し、「即時和平、司令官更迭、ボリシェヴィキ圧迫の廃止、革命政府建設」を要求しました。ペテログラード守備隊は、バルチック海沿岸への敵軍侵入を迎え撃つための臨時政府の出動命令を拒否しました。


10月初め、ボリシェヴィキは、「戦線にては平和、後方にては戦争」のスローガンを掲げ、戦争を内戦化する方向へと激しい宣伝活動を開始。 10月7日、レーニンはペテログラードに侵入。 ボリシェビキは、人民の広汎な支持を獲得していることを踏まえ、いよいよ武装蜂起を日程に上らせました。

10月10日、レーニンの提議によりボリシェヴィキ革命の断行が党内で正式決議され、党内に革命断行最高幹部会を組織しました。 幹部会は合計12名中、ユダヤ人7名、ロシア人2名、その他2名、不明1名とユダヤ人勢力が絶対多数を占めました。

12名の名は、レーニン(母方ユダヤ人)、ジノヴィエフ(ユダヤ人)、スウェルドルフ(ユダヤ人)、カメーネフ(ユダヤ人)、トロッキー(ユダヤ人)、ウリッキー(ユダヤ人)、コロンタイ(ユダヤ人)、ソコリニエフ(ユダヤ人)、ブプのフ(ロシア人)、露モフ(ロシア人)、ロモフ(ロシア人)、スターリン(ジョージア人)、ジエルジンスキー(ポーランド人)です。 ちなみにカメーネフの夫人はトロッキーの妹でした。

同日、さらにボリシェヴィキの最高統帥権を握る政治局が組織され、合計7名中、ユダヤ人4名、ロシア人1名、その他1名、不明1名とユダヤ人が過半を占めました。 7人の名は、レーニン(母方ユダヤ人)、トロッキー(ユダヤ人)、ジノヴィエフ(ユダヤ人)、
カメーネフ(ユダヤ人)、ソコリニエフ(ユダヤ人)、ブプノフ(ユダヤ人)、スターリン(ジョージア人)です。

10月16日、ボリシェヴィキ党中央委員会の指令によって、軍事行動を統括する軍事革命委員会がペテログラード・ソヴィエトの下に組織されました。 軍事革命いいんかいの中核には、スターリンらの党中央部がありました。 軍事革命委員会は18人からなり、トロッキー、ヨッフェ、スウェルドルフ、モロトフ、ウリツキーなど10人のユダヤ人、5人のロシア人、およびレーニン(母方ユダヤ人)とジェルジンスキー(ポーランド人)、の他1人のコーカサス人というようにやはりユダヤ人が大勢を占めました。

10月17日、軍事委員会はペテログラードおよび近郊の軍隊に革命の通告を発し、大多数の
部隊は武装蜂起に賛成しました。 ペテログラード守備軍は、もはや臨時政府を認めず、ペテログラード・ソヴィエトが自分たちの政府であるとの決議を行いました。 同17日、トロッキーはアメリカ人ジャーナリストのジョン・リードに革命に対する考え方を語っています。 その中で彼は、「ロシア革命の圧力は無併合・無賠償・人民の自決権の講和とヨーロッパ連合共和国の実現の方向に向けられるであろう」「この戦争の終わりにはヨーロッパはプロレタリアートによって改造されると思う。 ヨーロッパ連合共和国(ヨーロッパ合衆国)、これにならねばならぬ」。と述べています。 ヨーロッパ連合共和国(ヨーロッパが州国)はまさにロスチャイルド好みの言葉です。


ユダヤ教とグローバリズム、そして軍需産業
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10月21日には、トロッキーが、ペテログラード・ソヴィエト議長と軍事革命委員会委員長の両方に選ばれました。 このことはレーニンにとって武装蜂起に向けての大きな力となりました。

10月23日、ボリシェヴィキ中央委員会は、トロッキーが率いるペトログラード・ソヴィエト軍事革命委員会の名でペトログラード市民に対して布告を出して、治安維持ならびに行政機能が事実上、中央委員会に移った事を宣言し、政府への宣戦布告を行いました。

10月24日の寒い朝、ボリシェヴィキはスモーリヌイ修道院を占領して要塞化しました。 その3階にはトロッキーを中心とした軍事革命委員会の部屋があり、革命をめぐるあらゆる情報が集まり、会議が休むことなく続けられていました。

ケレンスキー首相は、ロシア共和国臨時会議での演説で、ボリシェヴィキとレーニンを「革命の裏切り者」「ドイツのスパイ」と呼んで激烈に弾効しました。ケレンスキー首相は、武装蜂起クーデターの切迫を察知し、再びボリシェヴィキ指導者の逮捕を試みましたが、もはや事態を好転させることは出来ませんでした。 臨時政府の枢要機関にはボリシェヴィキが浸透し、軍は臨時政府から離反していました。


10月24日の夜、レーニンは、歴史的文書「中央委員会メンバーへの手紙」を書き、武装蜂起の即時決行を指令しました。 既にラトビアのリガを占領していたドイツ軍は、ロシアの首都ペテログラードを脅かす勢いでした。

このような情勢下、前夜のレーニンの即時決行命令を受けて、1917年10月25日、トロッキー式の下、武装蜂起による10月革命が始まりました。 鉄道駅・印刷所・郵便局・発電所・銀行など市内の重要な施設は、ほとんど無抵抗で混乱なくボリシェビキに引き渡されました。

臨時政府が立て籠もる冬宮への軍の砲弾による攻撃も始まり、ケレンスキーは、アメリカ大使館からアメリカ国旗がついた自動車を借りて逃亡。 1917年12月25日の午前1時、軍事革命委員会は全ロシアに次の布告を発しました。

「臨時政府は倒壊した。 国家権力は労働者および兵士の代表から成るペトログラード・ソヴィエトの機関、軍事革命委員会の手に帰した。 民主的平和の即時申し入れ、土地に対する地主の所有権の撤廃、労働者による生産の支配、ソヴィエト政府の樹立、民衆のこれからの要求は確保されることとなった。 労働者・兵士および農民の革命万歳!」。

午後2時半にはペトログラード・ソヴィエトの臨時会議が開かれトロッキーが臨時政府の倒壊を正式に宣言。 ブルジョアジー体制からの解放と、レーニン、トロッキーらとボリシェヴィキに集まったユダヤ人勢力による完全な単独政権の樹立を実現しました。 ソヴィエトの革命政権のためにボリシェヴィキの指導下に労働者・農民によって、編成された赤衛軍(赤軍の前身)の指導者はトロッキーであり、その幕僚もユダヤ人でした。

午後10時15分、第二回全ロシア労働者・兵士・農民代表者ソヴィエト大会がボリシェヴィキが大勢を占めるなかで開催されソヴィエト政府の樹立、英和と土地に対す関する布告が宣言されました。 これにより大地主の土地は没収されることになりました。











革命を利用し、ロシアを牛耳るユダヤ人

全ロシア労働者・兵士・農民代表者ソヴィエトの中央執行委員会(ツェー・イー・カー)は、法律の制定・交付や、政府布告の取り消し・変更の権限を持ちました。 最初のソヴィエト政府組織として人民委員会会議がつくられました。 レーニンは、「大臣」「内閣」
の古臭い名称に替えて、革命の匂いがする「人民委員」「人民委員会議」の名称を使うことにしました。 人民委員会議議長にはレーニン、外務人民委員にはトロッキー、民族人民委員にはスターリンが就きました。

人民委員15人の内訳は、レーニンおよび11人のロシア人、トロッキーら2人のユダヤ人、そしてスターリン(ジョージア人)から成っていて、ロシア人が多数を占めました。 しかしながら、政治の実権は、表看板の人民委員会ではなく、最初からボリシェヴィキ中央委員会が牛耳りました。 中央委員会の委員長にはユダヤ人スウェルドルフが1919年3月にロシア人に暗殺されるまで在籍し、かつ党の書記長も兼ねました。中央委員会はユダヤ人が牛耳ります。

後の1928年、フランスに亡命していたケレンスキーは、ドイツのスパイであったロシア人将校の告白を基に、「レーニンとボリシェヴィキはドイツ政府の手先であり、ドイツ参謀本部と関係があり、ドイツから資金を支給されて、ロシア軍の敗北と国家の崩壊を企てたドイツの秘密命令を実行した」という暴露本を出しますが、ボリシェヴィキを支援したユダヤ資本家には言及していません。 あくまでも、レーニンとボリシェヴィキを矮小化し貶めたかったのでしょう。

ボリシェヴィキは、労働者や農民のための革命を行いましたが、ユダヤ人を含む指導者たちを除くと、党員のほとんどは、当時、身教養であぶれ者と言われていたロシア人たちでした。 10月革命によって、ロシアの役場の役人たちは虐殺されたり追放されたりしていなくなっていました。 そこに2月革命後にロシアに殺到したユダヤ人たちが乗り込み、町長や村長以下のポストに就いて地方行政を壟断(ろうだん)し、さらに勝手にボリシェヴィキの代理人となったのでした。

ユダヤ人たちは、地方行政だけではなく、首都の市長や公共機関・軍隊などの重要な地位からロシア人を追い払い、その後釜に座りました。また野次馬的なロシア人たちの集まりであった各地方のソヴィエトにもユダヤ人たちは入り込み、書記や会計と言ったインテリ向けのポストに就きました。 知識人に欠乏していた革命ロシアはたちまちユダヤ人に席巻されました。 彼らはボリシェヴィキを利用してユダヤ民族の生活権を確保したのでした。
新入りのユダヤ人が土着のロシア人を支配する構図となり、従来のロシア人とユダヤ人との支配・被支配の関係が逆転しました。 人工の数%に満たない260万人のユダヤ人が革命を通じてロシアを牛耳る時代となったのです。



ボリシェヴィキは、1915年以来、モルガン家やロックフェラー家からの財政支援を受けていましたが、10月革命以降、ボリシェヴィキ政権へのロックフェラー家からの財政支援はさらに大きくなったといいます。 ニューヨークからは医師団や銀行家の集団が派遣されたようです。 第二次世界田戦後の話ですが、ロックフェラー家の第四代当主デイヴィッドがソ連を訪問すると、まるで建国の父のように歓迎されたという話もあります。

ドイツのユダヤ人資本家マックス・ウォーバーグも、ボルシェヴィキ政権の形成期に多額の資金を出したと言われています。 ロスチャイルド家が引き受けた臨時政府の「自由公債」につては、後継のボリシェヴィキ政権からは1ルーブルの償還もなかったとされており、すなわちロスチャイルド家は贈与したということです。

10月26日、ボリシェヴィキは、ドイツなどの交戦国の政府と人民に「無併合、無賠償の即時平和」「秘密条約と秘密外交の禁止」を訴えました。 12月、革命政権の明暗をかけた対独和平交渉が始まりました。 その全権団は10人で、やはり代表のヨッフェやトロッキーなどユダヤ人が掌握しました。 戦場で血を流したロシア国民の代表はロシア人ではありませんでした。 この頃、「革命政権はユダヤ人政権」という言葉が、ロシアの民衆の間での合言葉となりました。

1917年12月1日、レーニンは全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会で「抵抗を抑圧せずして、プロレタリア独裁なくして、旧世界に弾圧を加えることなくして、プロレタリアの勝利を得ることは不可能であるということをひていするものはない」と言明しました。 ここが共産主義者のいい加減なところで、言論の自由を訴えて民衆を利用し革命を起こしたのに、革命が成功すると民衆を弾圧しブルジョアのようにふるまおうとする。 結局は、共産主義ならぬ自己中心主義であったと言う事です。

この時以来、ロシアにおいては独立的な新分野雑誌はなくなりました。 革命家たちが闘い取った言論の自由は失われたのでした。 レーニンは「反革命、投機、怠業に対する闘争を目的とする特別委員会」、すなわち秘密警察ゲー・ペー・の前身チェ―カーを設立しました。 全ての反ボリシェヴィキの動きを察知すると、捕縛/処刑し、赤色恐怖政治による膨大な犠牲者を生み出していきます。 冷酷な初代長官フェリックス・ジェルジンスキーら多数のユダヤ人幹部が実権を握り、戦慄的な脅威・恐怖をロシア民衆に与えていきました。

10月革命後のロシアの国内経済は混乱の中に推移して崩壊の一歩手前でした。 レーニンは従来の経済機構をなるべく壊さずに、しかし同時に国有化を含む社会主義的建設を進めるという難しい舵取りを強いられました。 次に、工業の国家統制、原料の中央集中的配分、そして軍需優先の体制づくりに取り掛かりました。

12月15日には、ソヴィエト政府は、国債廃棄令を公布し、特に外債はすべて無条件に廃棄することとしました。 1918年1月、第3回全ロシア労働者・兵士・農民代表者ソヴィエト大会が開催され、民族人民委員のスターリンが報告を行いました。 そこで彼は、改めて「下層民による独裁」「少数者に対する多数者の支配」の重要性を強調しました。

1918年2月以降、ドイツは厳しい条件提示によってソヴィエト政府との和平交渉を難航させ、その間、ドイツ軍は圧倒的な火力、航空機そして装甲車によってロシアを広域にわたり占領し、いよいよペテログラードをも占領する勢いでした。 レーニンは。ペテログラードからモスクワに首都を移しました。 そしてモスクワで開催された第7回党大会で、党名を正式に「ボルシェヴィキ」から「ロシア共産党」へと改称しました。

ドイツ軍のロシア奥深くへの侵攻を目の前にして、ロシア国内は一挙に祖国防衛の気運に統一され、士気が高まった赤軍はドイツ軍の前身を止めました。 そして遂に、1918年3月3日ドイツとソヴィエト政府とはブレスト・リトフスにて講和条約を締結することになり、ロシアは第一次世界大戦から離脱しました。 ドイツ側の一番の狙いは西部戦線への兵力天洋でした。

ドイツの圧倒的な優勢下で講和条約が結ばれたため、ポーランド・フィンランド・バルト海沿岸・白ロシア(今日のベラルーシ)・ウクライナ・クリミア・コーカサス・ドンなどがロシアから分離されて、それぞれ王国や共和国となってドイツの勢力圏に入りました。
ロシアはこれら広大な地域の人口と生産物を失ったのです。このとき、ドイツは戦勝気分に沸き返りました。

1918年7月、シベリアで勢力を盛り返していた反革命勢力や帝政派に略奪される危険があったため、エカテンブルグに幽閉されたいたニコライ2世以下ロマノフ一家は、ユダヤ人スウェルドルフとレーニンの了解の下に惨殺されました。


こんな残酷な最期はひどすぎる…ニコライ2世とその家族の悲劇
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同月、レーニンは「反ユダヤ人運動撲滅戦争に関する告示」を交付し、ユダヤ人のロシア人に対する大復讐戦の進軍ラッパを鳴らしました。 スウェルドルフらは、チェーカーや各地方のソヴィエトなどを使って反ボリシェヴィキ的・反ユダヤ的と思われるロシア人約140万人を虐殺しました。

イギリスの『タイムズ』紙は、革命当初から1920年までに当局の手で処刑されたロシア人は、農民82万人、有産階級37万人、労働者19万人、医師9千人、大学教授以下教師7千人、僧侶など宗教関係者2千人、合計約140万人という数字を報じています。 農民や労働者の多くは、無知故に伝統的な憎悪をユダヤ人に向けていたので殺されたと言われています。

レーニンは公然と個人的暗殺、階級全体の集団的虐殺を容認し、その後、スターリンが一層これを拡大させたため、ロシア国内における虐殺はさらに規模を拡大してゆきました。



次の投稿に続く

















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