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2021/7/28

三井と住友の合弁、そして住友金属工業の「白水会」脱退  財閥(日本・世界)





三井と住友の合弁

住友銀行や住友海上火災保険などは三井グループ企業との対等合併で生き残りを図りました。 この背景には、1999年8月のみずほファイナンシャルグループの誕生(=富士銀行、第一勧業銀行、日本興業銀行の経営統合)があります。

都銀という寡占業態で、しかも巨大銀行同士の合併が成立した場合、当然、他行は同様の経営統合を敢行し、追随する他ありません。

1999年10月、住友銀行とさくら銀行(旧三井銀行)は2002年4月をメドに合併すると発表しました。 (2001年4月に両行は合併し三井住友銀行となり、2002年12月に金融持株会社・三井住友フィナンシャルグループを設立しています)

三井・住友という旧財閥同士の経営統合は、不可能なものと誰もが考えていたため、世間を驚かせました。

それから数日経たぬうちに三井海上火災保険、日本火災海上保険、興亜火災海上保険の3社が経営統合を発表しました。







三井家と住友家は縁戚関係

実は三井家と住友家は縁戚関係にある事はあまりしられていませんが、この事実も三井グループと住友グループの企業間合併に一因あるのは容易に推測される事です。

三井物産初代社長・三井武之助高尚(1855-1913)に当時の住友家当主の妹が嫁いでいます。


住友財閥では「浮利」は追わずという方針があり、商事部門設立はタブーとされ、戦前は三井物産に貿易を委ねていました。 住友財閥七代目の総理事・古田駿之介(188601953)が復員していた社員の職業安定の見地から商事部門の設立を企画し、住友財閥ではタブーとされた商事部門への進出を決断しました。






住友金属工業の「白水会」脱退

「住友御三家」の一角・住友金属工業は、2012年の新日本製鉄との合併で、「住友」商号を外して新日鉄住金と称し、「白水会」から脱退してしまいます。 1990年以降、世界的な製鉄メーカーの再編・統合が相次ぎ、規模拡大のため、国内の五代炉メーカーは経営統合や提携を急ぎました。 2001年12月、住友金属工業は新日製鉄との連携を発表し、2012年に合併しました。

「『白水会への出席は継続したい』」(友野宏社長=当時、2011年9月の記者会見)との意向を持っていました。 新会社名に住友の名を残すため『新日鐵住友』への社名変更を模索しますが、新日鐵側が拒否。 新日鐵はどの企業グループにも属さず、三菱系や三井系の企業とも取引があります。 当時の売り上げで約3倍の開きがある新日鐵との合併を選択した時点で、住金側の意向が通る可能性は低いのは当然の事でした。

「『』血判状』 白水会に出席するグループ企業の社長が、そう例える書類があります。 住友精神の順守などが定められるこの書類に押印しなければ、白水会への出席は認められません」 「住金は結局、血判状に押印することができず、白水会を去った」(『週刊ダイヤモンド』2016年4月2日号)


住友金属工業の子会社・住友軽金属工業も2013年に古河スカイと合併してUACJ(United Aluminum Company Japan)と改称し、「白水会」から脱退しています。 また、住友石炭鉱業は業績不振から、2008年に住石マテリアルズと改称して「住友商号を外して「白水会」から脱退しました。

住友系企業は、「住友」商号への過度の執着から、合併後も商号を名乗れるように、主導権を握れる合併でなければ応じませんでした。 しかし、そういった選択ができなくなるほど、素材産業を取り巻く状況が厳しくなっていったのでした。















日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
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財閥解体
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財閥解体と再結集、そしてグループ化
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住友銀行の暴走と磯田会長の辞任
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2021/7/28

住友銀行の暴走と磯田会長の辞任  財閥(日本・世界)




住友の社風を変えた「安宅産業事件」

1975年12月に「十大総合商社」の一角・安宅産業が倒産しました。安宅産業の従業員は3600人(関連会社を含めると2万人)、取引先3万5000社。 昭和金融恐慌を再現するような連鎖倒産の発生が関係者の脳裏をよぎりました。

この時、住友銀行はメインバンクの責任で安宅産業の破綻処理を遂行し、信用不安を回避すると発表。 副頭取・磯田一郎(1913-1993)を中心としたプロジェクト・チームを編成して精鋭部隊を送り込み、安宅産業を「生体解剖」して不採算部門を切り離し、1977年10月に伊藤忠商事に吸収合併させました。

住友銀行は同年9月決算で、1,132億円の不良債権を一挙に償却し、11年守っていた収益トップの座を降り、都銀13行の中で8位に陥落しました。決算発表の席で、頭取に昇格していた磯田は「1,000億円をドブに捨てた」と発言、さらに「3年後にはトップを奪回する」と宣言して世間を驚かせました。

傲慢はビジネスの大敵ですが、このような経営Topがいるのは珍しい事ではありませんが、多くの場合、失敗しています。 何事も失敗の原因の本質は、根拠なき楽観です。

京大のラガーマン出身らしく「向こう傷は問わない」と宣言。 減点主義から加点主義へと舵を切りました。 住友銀行「モーレツ商法」時代の到来です。 それまでの住友銀行は「逃げの住友」と呼ばれていましたが、1980年代終盤には「営業姿勢が強引すぎる」「あまりにも強引すぎて、目先の利益を追求し過ぎる」という評価に変わっていきました。
(『週刊ダイヤモンド』1989年6月10日号)






住友銀行の暴走

1990年代中盤まで、金融機関は規制が厳しく、店舗の出店・統合すら認可を受けなければなりませんでした。 そうした中、住友銀行は1986年10月に平和相互銀行を吸収合併して首都圏の店舗を一気に増やす離れ業に打って出ました。

平和相互銀行は首都圏を中心に駅前一等地に103店舗を持っていましたが、創業者一族の内紛、関係会社の破綻などの不祥事が相次ぎ、信用不安に陥っていました。 大蔵省(現 財務省、金融庁)は平和相互銀行をどこかの銀行に吸収合併することで事態を収拾しようと模索。

住友銀行だけでなく、シティバンク銀行や三和銀行(UFJ銀行を経て、現在の三菱UFJ銀行)など複数の銀行が手を挙げました。

そこで暗躍したのがイトマン社長・河村良彦です。河村は高卒にもかかわらず住友銀行常務まで上りつめ、経営不振に陥ったイトマン再建のために派遣された「磯田の腹心」であります。

住友銀行はイトマン経由で平和相互銀行の株式を手に入れ、吸収合併に成功しました。
しかしその代償は大きく、平和相互銀行は政治家がらみのダーティな案件が多く、住友銀行もトラブルに引きずり込まれました。

先のイトマンが不動産事業にのめり込み、自称「組(暴力団)のスポンサー」伊藤寿永光をスカウトし常務に抜擢、果てしない闇の世界に飲み込まれ、住友銀行もその余波をかぶり、多額の不良債権を抱えました。 いわゆる「イトマン事件」です。

1990年、磯田一郎は騒動の責任を取って須見富銀行会長を辞任。 1993年に一部上場会社のイトマンは非上場会社・住金物産に吸収合併され、110年の歴史に幕を閉じました。













日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
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2021/7/24

山口財閥・三和グループ  財閥(日本・世界)



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山口財閥とは、大阪を拠点とする山口家が設立した株式会社山口銀行(株式会社三和銀行、株式会社UFJ銀行を経て、現 三菱UFJ銀行)や日本生命保険株式会社(現 相互会社)などからなる関西に金融財閥です。 現在、山口県に山口銀行がありますが、資本的には無関係です。

山口家の先祖・山口半兵衛(1761-1813)は、1770年代に奈良の山口村(現 葛城市)から大阪に出てきて呉服店を興しました。

半兵衛の子、初代・山口吉郎兵衛(1797ー1867)は「布屋」の屋号を名乗って、舶来反物商をはじめ、養子の二代目・山口吉郎兵衛(1819ー1871)が積極的な商法で家業を拡大、のちに両替商に転身しました。

三代目・山口吉郎兵衛(1851ー1887)は、1879年に第百四十八国立銀行を設立。1896年に国立銀行の私立銀行への転換が可能となったため、山口家は1898年に個人経営の山口銀行を設立し、第百四十八国立銀行の営業を引き継ぎました。




総理事・町田忠治の改革

山口銀行は「銀行」の看板を掲げてはいましたが、行員は和服で前垂れ掛けという、江戸時代の両替商と変わらぬ前近代的な経営でした。 支配人の越野嘉は丁稚時代から山口家に仕え、学はありませんでしたが、この状況を憂いていました。

1899年にストライキ事件で日本銀行の理事、支店長らが十数人規模で辞任すると、越野は日本銀行OBの日本生命保険社長・片岡直温に人材のあっせんを依頼。 元大阪支店次長各の
町田忠治(1863−1946)を山口銀行総理事に迎えました。

町田は人材の招聘、店舗の増設、預貸率の見直しなどの改革を実施。 山口銀行は順調に業績を伸ばし、1910年頃には大阪を代表する銀行の一つになりました。 山口銀行は1917年に株式会社山口銀行に改組し、株式公開して資本金を100万円から2000万円に増資しました。

町田忠治は後任に日本銀行OBの菅沼達吉(俳優・森繁久弥の実父)を考えていましたが、片岡直温が菅沼を大阪電燈会社(現 関西電力株式会社)の重役に抜擢したたため、片岡と意見の齟齬を来しました。 当時、片岡は大阪財界の有力者だったので、町田は苦しい立場に追い込まれ、1910年に山口銀行を辞しました。

町田の後任には、三菱合資銀行部(のち株式会社三菱銀行を経て、現 株式会社三菱UFJ銀行)大阪支店長の坂野兼道(1863-1931)が選ばれました。 なお、坂野は、NHK朝の連続ドラマ小説『べっぴんさん』の主人公・坂野すみれのモデル、坂野敦子の義父(夫・坂野通の父)にあたります。

坂野は持ち株会社として1920年に山口合資を設立。 銀行以外の金融部門に多角化し、持ち株会社を頂点とした財閥形成を目論みました。 山口財閥は銀行を中心に発展し、1910年代以降には生命保険、損害保険、貯蓄銀行、信託銀行に多角化していきましたが、戦時下の合併で支配力を失っていきました。




山口財閥の多角化

国内最大の生保・日本生命保険は、実は山口財閥の傘下企業でした。 もっとも、創業者は山口家ではなく、日本生命保険は、1889年に滋賀県彦根の資産家・弘世助三郎(1843ー1913)により、有限会社日本生命保険会社として創設されました(1888年に日本生命保険株式会社に改組)。

創業当時、生命保険業は世間に認知されていなかったため、大阪きっての大富豪・鴻池善右衛門を社長に据え、信用補完を図りました。 ところが、1900年初頭に鴻池家が堅実路線に転換し、日本生命保険の株式を売却しました。 町田は生命保険業の将来性を考え、片岡友相談してその株式を取得し、山口家を筆頭株主としました。

こうして1919年に四代目・山口吉郎兵衛(1883ー1951)が日本生命保険会長に就任しましたが、実質的な経営は弘世一族が担っていました。 損害保険分野では、第一次世界大戦による開運・保険ブームで急成長を遂げたのを受け、共同火災保険株式会社(1906年設立)の株を徐々に買い増し、1917年に筆頭株主となり、山口銀行から会長を送り込みました。

大阪貯蓄銀行株式会社は、1890年に元日本銀行大阪支店長・外山集造が設立。 信用補完のため、鴻池善右衛門を初代頭取に迎えましたが、ここでも鴻池家は撤退したため、株式を買い増し、1916年に四代目・吉郎兵衛が大阪貯蓄銀行頭取に就任しました。

関西信託株式会社は1912年に設立されましたが、投機的な経営が批判を浴び、1916年に創業者が退陣。 翌年に山口家が過半数の株式を押さえ、その支配下に置きました。

意外なところでは、カーペット製造の東洋リノリウム株式会社(現 東リ株式会社)の創業を支援し、その株式を取得し傘下に収めています。

山口財閥は、自ら企業を設立するのではなく、既存企業を買収して多角化していきました。 そのため、持ち株会社・山口合資は傘下企業を支配するにあたって、必要最低限の株式を曽有するにとどめ、山口家からトップを派遣し、専門経営者に経営を任せる手法を取りました。




山口財閥の消滅と三和グループの形成

1927年の昭和金融恐慌で多くの銀行が業績不振に陥り、その局面打開のため、1932年、大阪の有力銀行であった三十四銀行は、山口銀行、鴻池銀行との参考合併の斡旋を日本銀行大阪支店に申し入れました。

1933年12月に三行は合併し、当時国内最大規模の銀行・三和銀行(現 三菱UFJ銀行)が誕生しました。 頭取には、合併を推進した日本銀行大阪支店長・中根貞彦(1878-1964)が着任しました。 中根は新銀行の融和を重視し、旧行意識の排除・刷新を進めていきました。 そのため山口銀行は筆頭株主ではありましたが、三和銀行に対する支配力を急速に失っていくことになります。

大阪貯蓄銀行は、1945年の貯蓄銀行9行の合併に合流し、日本貯蓄銀行となり、山口家の支配から離れました。 なお、日本貯蓄銀行は1948年に普通銀行へ転換し、協和銀行(あさひ銀行を経て、現りそな銀行)となりました。

関西信託は、三和銀行の合併に伴い、1941年に鴻池信託、共同信託と合併して三和信託となり、最終的には三和銀行に級数合併されてしまいます。

共同火災保険は、1944年に横浜家裁保険、神戸海上保険、朝日海上保険と合併し、同和火災海上保険(現 あいおいニッセイ同和損害保険)となっています。 山口家は共同火災保険の筆頭言いながら株主とはいいながら、15%程度の株式しか持っておらず、経営への関与も積極的ではなかったため、合併後は旧神戸海上保険のオーナーであった岡崎家に支配権を奪われてしまいました。


唯一、大型合併を経験しなかった日本生命保険は、戦後、GHQの指導で相互会社に転換し、山口家は大株主の座から追われました。 日本生命保険は戦前、山口家が筆頭株主として君臨し、弘世家が実質的な経営を担っていました。 しかし、戦後、弘世現は1948年から1982年まで社長に就任し、長期政権を樹立。 日本生命保険は「弘世家の会社」になっていき、山口色は完全に払拭されてしまいました。 ただし、旧山口財閥の関係で、三和銀行と日本生命保険、日本生命保険と同和火災海上保険との間に親しい関係が保持されていました。




三和グループの形成

三和銀行は六大都市銀行の一角を成し、戦後、三和グループを形成しました。 三和グループは財閥的な出自をほとんど持っておらず、都市銀行(三和銀行)が融資先の企業を集めて企業集団を形成いたものです。 その点では芙蓉グループの富士銀行(旧安田銀行)の立場に近いものがありますが、三和グループの中核を担っていた三和銀行は、富士銀行ほど戦略的に企業集団形成を企画していたわけではありませんでした。

富士銀行や第一銀行が親密企業を結集させ、企業集団を形成していく中で、三和銀行とその親密企業が焦って社長会を設け、企業集団の体裁を整えようとしたに過ぎません。
1966年12月、三和銀行の本館と別館の落成式に、有力取引先の会長や社長を招いて講演会が開かれました。 その席上で出席者のなかから「相互の連絡を密にし、お互いの啓発をはかるために継続的な会合を持ちたい」という提案が期せずして起こりました。 これに応えて、1967年1月、三和銀行が有力企業トップを集めて会合を催したのが、社長会「三水会」(毎月第三水曜日に開催)のはじまりとされています。




クローバー会の結成

通常、社長会に参加する企業が企業集団の構成企業と認識されています。 しかし。三和グループの場合は、日本生命保険、日立製作所、日本通運、日商岩井(現 双日)など本当に三和グループとして見なして良いものか、疑問符が付く企業が多くありました。
日本通運と日商岩井は、一勧グル-プの社長会にも参加し、比日立製作所は芙蓉グループと一勧グループに参加しています。

企業集団の結束度を測る指標といわれている株式持ち合いは、比率こそ他の企業集団と遜色ありませんが、三和銀行に次ぐ大株主・日本生命保険が「当社を三和グループとみられるのは心外」(『企業系列総覧』)と語る有様。 さらに事業会社間の株式持ち合いは明らかに進んでおらず、実態がともなっていません。 そこで、1996年6月に三和銀行は三水会とは別に、新たに親密企業の企画担当専務クラスを集めて、積極的にぐル-プ活動を行う実務部隊「クローバー会」を発足させました。

グループ企業間の営業斡旋の強化や共同事業の推進を通じて、グループ結束を強めることを狙ったのです。 また当時、脚光を浴びつつあった海洋産業、情報産業、都市再開発産業といった新産業を立ち上げることで、企業集団の有効性をアピールしようとしました。

これらの新産業は、巨額の資金や多様な技術、豊富な人材を必要とするため、単独の企業では進出不可能な分野でありました。 企業集団の有効性を訴えるには好都合であり、すでに他の企業集団でも共同投資会社を設立していました。

こうして、クローバー会は共同投資会社(東洋海洋開発、東洋総合開発、東洋石油開発など)を次々と設立しましたが、1970年代後半のオイル・ショックで、すべてにブレーキがかかってしまいました。 これらの共同投資会社で、現在でも活動しているのは東洋情報システム(現 TIS)くらいでしょう。





都銀再編と三和グループの消滅

1999年の都銀再編で、三和銀行はさくら銀行(旧三井銀行)に経営統合を迫りましたが、さくら銀行は住友銀行との統合を選びました。 相手を失った三和銀行は、東海銀行、あさひ銀行連合(1998年に業務提携)に割り込み、2000年に三行経営統合を発表しました。

しかし、スーパー・リージョナル・バンク(地域に特化した大規模銀行)を志向するあさひ銀行と、総合金融グループを志向する三和銀行の路線対立が起こり、東海銀行は三和銀行に同調、ああさひ銀行は離脱しまいます。 2001年に三和銀行、東海銀行、東洋信託銀行は共同で金融持株会社・UFJホールディングスを設立してその子会社となり、翌2002年に三和銀行と東海銀行が合併し、UFJ銀個となりました。

「UFJ」とはUnited Financial of Japanの略です。 UFJを設立した2002年頃、「三水会」に東海銀行の融資先企業の一部を招聘し、新たに「水曜会」を設置しました。 しかし、三和銀行は東海銀行との経営統合にあたって、所有する三和グループ企業の株式を大幅に売却し、グループ企業と距離を置き始めました。 しかも三和グループの実質的なグループ運営を担っていた「クローバー会」を解散してしまいました。

さらに、2004年にUFJホールディングスは経営危機に陥り、三菱東京フィナンシャル・グループに救済合併され、三菱UFJフィナンシャル・グループとなってしまいました。 UFJ銀行も東京三菱銀行(旧 三菱銀行)と合併して三菱東京UFJ銀行(現 三菱UFJ銀行)となりました。

UFJ銀行では、旧三和銀行が主導権を握りましたが、三菱UFJ銀行では完全に旧三菱銀行が掌握するところとなり、以後、三和銀出身の頭取は出ていません。

盟主・三和銀行が埋没してしまった三和グループに、ビジネス上のメリットは薄く、社長会「水曜会」は存続するものの、三和グループは完全に有名無実の集団と化してしまいました。













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2021/7/22

財閥解体と再結集、そしてグループ化  財閥(日本・世界)



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1952年4月、サンフランシスコ講和条約の発効により、日本占領は終了し、公職追放や財閥称号・商標の使用禁止、角経済力集中排除法などは失効しました。 これにより、財閥企業の経営者は徐々に経済界に復帰し、社名を変更した企業の多くは旧称に戻しました。 そして旧財閥傘下にあった企業が再結集をはじめました。

1950年代中盤から日本経済は高度経済成長期へと進んでいきました。 日本企業は空前絶後の急成長を遂げましたが、それには莫大な資金調達が必要でした。 都市銀行を傘下に持つ三菱・住友は、銀行を中心に再結集して企業集団を形成しました。 三井がそれに続き。さらに都市銀行を中心に事業会社が集結して企業集団を形成していきました。


一方、残り攘夷都市銀行は出身母体の財閥に固執せず、独自に成長戦略を描いて企業集団を形成していきました。 安田財閥の安田銀行(のちの富士銀行)、渋沢財閥の第一銀行(のちの第一勧業銀行)、山口・鴻池財閥の系譜を引く三和銀行が、新興系企業集団(芙蓉・三和・一勧)を形成していきました。

そして、銀行を持たない財閥を母体とする事業会社が、新興系器用集団に参加していきました。 古河財閥のように丸ごと一勧グループに取り込まれたものや、それぞれの企業が芙蓉・三和・@勧グループに参加した日産コンツエルンなど、事情は様々であります。

かくして、1960年代中盤には、6つの企業集団(三井・三菱・住友・芙蓉・三和・第一(後の一勧)グループが出来上がりました。


財閥は事業分野に偏りがありましたが、六大企業集団は当時の主要産業全てを網羅していました。 つまり、戦前のような事業分野の棲み分けはなくなり、至る所で三井・三菱・住友(プラス芙蓉・三和・一勧)グループがライバル心をむき出しにして競合し合う構図が出来上がりました。




企業集団と財閥の違い

財閥解体を挟んで、財閥は企業集団に再編されました。 それは看板の書き換えだえだったのでしょうか。 そもそも企業集団とは何か、そして財閥とどう違うのか。 企業集団研究の第一人者・奥村宏氏は、企業集団を定義する「標識」として次の6つを挙げています。

@社長会の結成
(住友:白水会、三井:二木会、三菱:金曜会、など)
A株式持ち合い
B都市銀行による系列融資
C総合商社による集団内取引
D包括的な産業体系
E共同投資会社による新規事業進出(公正取引委員会は三井・三菱・住友などの共通した商号・商標使用を含めて7つを列挙している)、であります。

財閥と企業集団の最大の違いは、「株式持合い」に見られる株式所有構造にあります。 財閥の株式所有構造は、創業者一族→持ち株会社→財閥直系企業→その子会社・孫会社と連なっていました。


財閥解体で創業者一族と持ち株会社の所有株式が株式市場に放出されました。 GHQが進める「証券民主化」でその株式はいったん個人の手に渡っていましたが、好不況の波に翻弄されて株式を手放すものが増え、やがて法人所有(企業による株式保有)へと収斂(しゅうれん)していきました。 なかでも親密企業による株式所有が進み、互いに株式を持ち合う「株行持合い」が支配的な流れとなりました。



この株式持ち合い比率が企業集団の結束度合いを示す指標としても散られています。 企業集団における株式持ち合いの特徴は、個別企業レベルでは数%しか株を所有しておらず、戦前の財閥本社のような親会社が存在していないことであります。

日立グループには日立製作所、トヨタグルーPにはトヨタ自動車と言った親会社が存在しますが戦後の三菱グループや三井グループには親会社が存在しません。 では三菱グループや三井グループの企業には支配的な株主集団はいないのかと言えば、たとえば1979年の三菱グループ株式所有マトリックスを見ると、三菱重工は三菱商事株式を4.7%しか持っていません。

同様に三菱銀行は7.48%、三菱電機は1.78%しか所有していません。 しかし三菱グループ20数社の所有株式を累計すると、三菱商事株の39.70%に達します。 こうなると三菱商事は、大株主である三菱グループの意向を無視できなくなってきます。 つまり、企業集団の
中核企業の社長が集まって、たとえばグループ全体の方向性などを決議すると、それら企業はその決議を尊重せざるを得なくなります。

六大企業集団にはそれぞれ中核企業の社長が就き1回くらい集まる会合があります。 それが「社長会」です。




高度成長期の結束強

財閥解体後、財閥傘下の企業は、それぞれ独立した企業として企業活動を行っており、旧財閥時代を想起するようなグループ意識を前面に出すことはありませんでした。

ところが、1960年代に入ると。三井・三菱・住友グループの各社は、統一商標のブランド・イメージを最大限に利用し始めます。 社長会の直轄下にグループ共同の広報委員会や
マーケッティング委員会を設置し、グループあげての営業推進にとりかかったのです。
特に積極だった三菱グループでは、1964年にキャッチコピーを使って、「BUY三菱(三菱商品を買いましょう)」運動を自社従業員に呼びかけ、グループ内部の排他的な企業間取引をさらに強化しました。

このことが、三井・住友グループを結束強化へと走らせました。 三大財閥以外の巨大企業もグループ化の必要性を痛感し、都市銀行を中心とした新興系企業集団の形成が進みました。 当時の住友銀行常務(のちの頭取)・伊部恭之介は、経済記者に対して「やがて企業集団と企業集団とが直接ぶつかりあうことによって勝負が決まる時代がやってくる。 ひと口に系列化と言っても、これは大変な仕事なんだが、事業家としては当然やらねばならんことだ」と語ったと言われています。


この時に拍車をかけたのが「資本の自由化」です。 1964年、日本は経済協力関係機構(OECD)に加盟し、資本の自由化の実施を迫られました。 資本の自由化が実施されると、外国資本による株式売買が自由となり、企業買収の危険性が増します。 企業買収防衛のため、株式持ち合いが積極的に推進され、排他的なグループがさらに結束を強める事態となりました。




オイルショック後の弛

1973年10月、第4次中東戦争が勃発。 中東各国は石油の生産と輸出を制限するとともに、石油輸出機構(OPEC)は石油価格を一挙に4倍に引き上げました。 石油を中東からの輸入に頼っていた世界各国は、経済的に大打撃を受けました。 オイル・ショックであります。

それまで、企業集団の中核は都市銀行でありました。 それは高度成長期における企業の旺盛な資金需要を、都市銀行が支えていたからであります。 ところが、オイル・ショックで
日本経済が低成長期に入り、資金需要が後退すると、都市銀行の神通力は衰えます。 事業範囲の棲み分けを図っていた事業各社は、多角化して低迷を打開しようとします。

こうして銀行中心の企業集団というスキームが綻びを見せ始めて行きます。 たとえば、住友グループの有力企業であり住友金属工業と住友化学工業は、それぞれ子会社を設立してアルミニウム産業へ進出し、「住友アルミ戦争」が勃発しました。 住友グループでは「一業一社」の原則を順守してきましたが、有望な事業分野への参入を巡って競合が生じたのです。




都銀再編と企業集団の攻防

1999年8月に、日本興業銀行、富士銀行、第一勧業銀行が経営統合を発表しました。 いわゆるみずほファイナンシャル・グループの誕生です。 巨大銀行三行の経営統合は大きな驚きをもって迎えられ、金融界では都市銀行のみならず、信託や生損保も含めて再編・統合が本格化しました。

次いで、1999年10月、住友銀行とさくら銀行(旧三井銀行)が経営統合を発表しました(三井住友銀行)。 そして2001年4月に両行は合併して三井住友銀行となり、2002年12月に金融持ち株会社・三井住友フィナンシャルグループを設立しました。

三井・住友という旧財閥同士の経営統合は、不可能なものと誰もが考えていたため、再び世間を驚かせました。 しかも、この発表の直後に三井・住友の経営統合が続出しました。 2000年2月、三井海上火災保険と住友海上火災保険(三井住友海上火災保険)、2000年11月には、住友化学工業と三井化学、2002年1月には、三井建設と住友建設が経営統合を発表しました。(三井住友建設) 住友化学工業と三井化学は、統合計画を2003年3月に白紙撤回し、結局、三組(銀行・損保・建設)が経営統合しましたが、相次ぐ報道に。三井グループと住友グループそんものが融合するのではないかと憶測を呼びました。


住友銀行と三井銀行の勇剛の背景については、私もある程度知っていますが、メディアやネットでもほとんどでてきませんが、住友家と三井家は婚姻関係にあります。 三井物産初代社長・三井武之助高尚(1855-1913)に当時の住友家当主の妹が嫁いでいました。 住友財閥では「浮利」は追わずという方針があり、商事部門設立はタブーとされ、戦前は三井物産に貿易を委ねていました。 住友財閥七代目の総理事・古田駿之介(188601953)が復員していた社員の職業安定の見地から商事部門の設立を企画し、住友財閥ではtぶーとされた商事部門への進出を決断。

不動産会社の住友土地工務(株)が、土木建築用資材の販売を行いたいと住友本社に提案してきたため、同社を改編して商事部門を新設。 1945年に日本建設産業(株)として発足させ、1952年に日本建設産業が、住友商事(株)と改称し、現在では住友グループの中核
商社となっています。 三井銀行と住友銀行の統合については、富士銀行と第一勧業銀行が経営統合を決め、さくら銀行(三井銀行)とと東京三菱銀行、住友銀行、三和銀行が互いに経営統合を模索していた中、三和銀行がさくら銀行(三井銀行)に高飛車な態度を取り、一方住友銀行は関西でライバル関係にあった三和銀行がさくら銀行(三井銀行)と統合し肥大化することは避けたかったので、さくら銀行(三井銀行)の立場を尊重しつつ経営統合の話を進めたからです。 ビジネスにおいて傲慢は大敵です。 偉そうにするおっさん経営者は会社の業績を伸ばす事はできませんが、事業を潰すのは簡単であるという一例でもあるでしょう。




住友銀行の「外延的膨張」戦略

戦後、都市銀行を中心に企業集団が形成されていきましたが、住友グループでは、金融機関に強豪(株式会社住友銀行、住友生命保険相互会社、住友信託銀行株式会社)を揃えていたのに対して、事業会社は素材産業に偏り、住友金属工業、住友化学工業以外は比較的中堅の企業が多くありました。

そこで、住友銀行は豊富なっ資金力を活かして、非財閥系の有力企業に対して積極的な融資を行い、住友グループの周辺にそれら企業を囲い込む戦略をとりました。 いわゆる「外延的膨張」であります。 これは1950年代に住友グループ首脳が練りに練った戦略論に基づくものだと言います。



外延的膨張戦略の結果、松下電器産業(現 パナソニック)、三洋電機、部理事ストン、出光興産(出光昭和シェル)、東洋工業(現 マツダ)、朝日麦酒(現 アサヒグループホールディングス)、小松製作所(現 コマツ)、鹿島建設(現 鹿島)、大正製薬、村田製作所など、各主要企業が、住友銀行をメインバンクとしてきました。

特に特筆すべきは、最終学歴が小学校中退で、貧乏、かつ病弱な松下幸之助の際の才能を見出し積極的に融資していき、松下電器産業を日本一の企業、また世界的なグローバル企業に育て上げた、見る目の確かさは住友銀行を投資銀行としての能力の高さをも示すものであります。



そして住友銀行はこれら企業に対して、住友系企業との商取引を推進しました。 例えば、1960年代の経済雑誌では、「住友倉庫が連係会社の仕事よりも松下電器産業、伊藤忠商事、旭化成工業などとの取引が増え、三洋電機の荷を一括引き受けする方向で交渉している」と報じています。

三大財閥の中で最も古い歴史を持ち、戦前は三大財閥の一角に加えられながら、三井・三菱・住友財閥の資産比較は七対五対ニと言われ、住友と三井、三菱の差は歴然でした。
しかし戦後は「外延的膨張」戦略によって非財閥系有力企業が住友グループの親密企業となり、その存在が住友グループの強みとなりました。 その成果もあって、住友グループは三井グループを凌ぐほどにまで成長しました。










日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2721.html
政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2722.html
ゴールドマン・サックスと住友財閥
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2932.html
住友財閥の歴史
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2956.html
財閥解体
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2957.html

















ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2904.html

モルガン財閥 ここまでのまとめ
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デュポン財閥 ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-2
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2021/7/22

財閥解体  財閥(日本・世界)




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1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦が終結しました。
敗戦した日本は、GHQにより占領され、日本が二度と戦争を起こさないように戦後改革を実施し、その一環として財閥が解体されました。


GHQは、日本が世界大戦を起こすだけの力を持ちえた要因の一つに、財閥と一握りの資本家層に富が集中し、彼らが戦争遂行に協力したからと考えました。 そのため、GHQは財閥と資産家層の徹底的な化遺体を試みました。 「財閥解体」です。

具体的には、以下のようなものです。

@持ち株会社の解体とその所有株式の分散
A戦時における役員の公職からの排除
B財産税の強化による大資産家の解体

財閥における傘下企業の支配形態(株式所有構造)は、創業者一族が持ち株会社の株式を所有し、その持ち株会社が財閥直系企業の株式を所有し、さらに子会社・孫会社へと広がっていくものでした。

そこで、GHQは「財閥家族」と「持株会社」を指定し、財閥家族の所有株式を取り上げ、持株会社を解散させました。 そして、それらの所有株式を市場へ放出し、財閥による傘下企業への支配構造は完全に解体されました。

1947年3月、十大財閥の創業者一族が「財閥家族」に指定され、その所有株式が全て放出されました。



持株会社の指定は、それに先んじて1946年9月から始められました。 当初は十大財閥の持株会社のみを解散させる方針でしたが、その後対象が拡大され、財閥の本社である純粋持株会社だけでなく、子会社を多く擁する事業会社(三井物産や日立製作所など83社)も持株会社に指定されました。

これと並行して、市場で独占的な地位を占めてきた大企業を解体し、市場競争を健全化する目的で、1947年12月に過度経済力集中排除法(略称 集排法)が公布され、325社もの企業が企業分割の対象となりました。 しかし、結局分割されたのは11社に留まりました。

一方、1946年1月には公職追放令が発せられ、軍人をはじめ直接・間接的に戦争に荷担した
ものが職を追われました。 財閥経営者も戦争協力者の一躍を担ったと見なされ、翌年1月に財界追放がおkなわれました。

これにより財閥期の重役は一掃され、財閥企業の経営陣は大幅に若返りました。 1949年9月に財閥称号・商標の使用禁止が通達され、原則として「住友」・「三井」・「三菱」などを関する社名が使えなくなり、財閥企業は社名変更を余儀なくされました。これら一連の措置で、財閥企業は分割され、歴史ある看板を書き換え、徐々に勢力を読めていきました。



ところが、苛烈を極めた財閥解体が、その後、緩和の方向に転換していきました。 1949年
10月、毛沢東が中国で共産主義政権を樹立。 それに伴う共産圏の拡大に憂慮したアメリカは、日本を「反共の防波堤」と位置づけ、健全な資本主義国として発展させる方向に舵を切りました。 アメリカ本国の方針とGHQの実施内容の齟齬(そご)が大きくなり、本国から方針転換を迫られたのです。









日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
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政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
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ゴールドマン・サックスと住友財閥
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住友財閥の歴史
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ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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2021/7/20

住友財閥の歴史  財閥(日本・世界)




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住友家の始祖は、桓武天皇の曾孫である望王(たかもちおう)の22代目にあたる備中守(びっちゅうのかみ)忠重。

住友という社名は、忠重が父の姓名(須見友定)を合わせて「住友」を名乗ったのが始まりです。


忠重の子孫・住友若狭守政俊(わかさのかみまさとし)は、織田家の武将・柴田勝家に仕え、越前丸岡(現 福井県丸岡町)に城を構えましたが、賤ケ岳の合戦に敗れて殉死しました。

室町時代に足利将軍家に仕えた住友忠重の子孫である、その忠重から数えて8世に当たる住友政友(まさとも:1585-1652)は、京都に落ち延びて町人となり、寛永年間(1624〜1645)に京都で書籍と薬(反魂丹:はんごたん)を商う「富士屋」を開いたのが、商家としての「住友家」の始まりです。


また、天正18(1590)年、京都に銅吹き(銅精錬)と銅細工業(屋号・泉屋)を営んでいた政友の姉婿・蘇我理右エ門(そがりうえもん)が、南蛮人・ハックスレーから教えられた粗銅から銀を分離する精錬技術「南蛮吹き」で巨利を得ました。

屋号のいわれは、ハックスレ―に「白水(はくすい)」と当て字した後、上下合わせて「泉」としました。住友グループの商標「井桁(いげた)」は、泉のように水がこんこんと湧き出る井戸を連想して制定されました。

その長男であり、政友の姉婿として住友家に入った住友友以(すみともとももち)が大阪に進出して、理右エ門と協力して「南蛮吹きの宗家」としての基礎を築いたのが始まりです。



友以は、同貿易で得た儲けを元に糸、反物、砂糖、薬種などを扱う貿易も行うようになります。 そして泉屋は「大阪に比肩する者なし」といわれるほどに繁盛してゆきました。

寛文2(1662)年に友以が没した後、跡を継いだのは五男の友信でした。 彼は住友吉左衛門(すみともきちざえもん)と名乗り、秋田の阿仁銅山、備中の吉岡銅山などの経営に乗り出し、幕府御用達の銅山師となって名実ともに日本一の銅鉱業者となりました。

ちなみに、彼以来、住友家の当主は代々、住友吉左衛門を名乗ることとなりました。 現在の当主は第17代です。 実は私、一緒に食事させて頂いたことがあります。




友以の末子の友貞は両替商を大阪と江戸で始めました。 ここに住友家は鉱業と金融業の2つを柱とする財閥としての地位を確立しました。 しかし鉱山経営はかなりの手間と経費が掛かり、経営はそれほど楽ではなく、経営は悪化の一途をたどりました。

そんな住友に転機が訪れます。 友以の孫にあたる友芳の代に、伊予の別子銅山の開堀に着手しました。 元禄4(1691)年のことでした。

別子銅山は世界最大級の産銅量を誇る鉱山に成長していき、重要な輸出品として日本を支えることとなるとともに、その後の住友の重要な事業の柱となっていきました。

今日の住友財閥の出発点は、この住友友芳が開発した別子銅山によって築き上げられたものであると言っても過言ではありません。

事実、住友家の歴史の中では、この友芳の時代を発展の契機ととらえています。



つまりその歴史は400年以上遡ります。 世界最強の財閥とされるロスチャイルド家の家祖とされるマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが生きたのが1744〜1812ですから、それよりも古く、世界一古い財閥の一つであることは間違いありません。



その後、住友は財閥として比較的安定していましたが、三井がそうであったように。明治維新で大きな危機を迎えることとなります。

徳川幕府が崩壊して明治新政府に替わると、諸大名に用立てていた資金の回収が不能となりました。 また、保有していた各藩の藩札も暴落。 そのため住友家の屋台骨は大きく揺らぐことになりました。

住友グループのホームページにも、 「累代の家宝・什器まで抵当に入れ、銭佐(銭屋佐兵衛)両替店から千両程の融通を受け、ようやく急場をしのぐと言う窮状だった」とありますが、まさに危機的状況でした。



さらに慶応4(1868)年2月には、幕府領だった別子銅山を土佐藩が接収して新政府の管理下に置こうとしたし、また薩摩藩は大阪本店の銅蔵を封印し、備蓄した膨大な銅も差し押さえられました。

そのため別子銅山の売却案まで浮上しました。 事業の柱であるっ別子銅山を失えば、もはた住友は成立ちません。 その事態に正面から立ち向かったのが、別子銅山の支配人を務めていた広瀬宰平でした。

広瀬は、文政11年5月5日(1828年6月16日)に近江国野洲郡八夫村(現・滋賀県野洲市)の旧家・北脇家の次男として生まれました。9歳の時に別子銅山の支配人をしていた叔父の北脇治右衛門に連れられて別紙に移り住み、11歳の時に別子銅山にに奉公にあがりました。

よほど才覚があったのでしょう。 広瀬は第10代当主友視の推薦で、元住友江戸店の支配方であった広瀬義右衛門の養子となりました。 そして慶応元(1865)年には別子銅山の近代化を訴え、総支配人に抜擢されていました。




その広瀬が、土佐藩士の川田元右衛門(後の川田小一郎日本銀行総裁)に面会し、「別子はなるほど幕僚ではあるが、銅山は住友家の自力経営であるばかりではなく、別紙の事業を差し押さえる事は国家の大計に反する」と強く主張して、別子銅山の事業継続の許可を得る事に成功し、大阪本店の銅蔵の封印を解かせ、住友の銅を再び流通させました。

その結果、広瀬は住友の大阪本店における経営の実権を握り、明治2(1869)年1月には「諸事更新」の方針を打ち出しました。 早い話が企業改革です。たとえば明治4(1871)年には、製銅販売の神戸出店を開設して、外国商館と直取引することを目指しました。

さらに銅吹き所を大阪から別子山麓の立川山村に移し、作業などの合理化を図ったほか、輸送のため小蒸気船を導入し、採鉱にダイナマイト工法を採用しました。 また銅精錬にコークスを導入、さらに蒸気機関、削岩機、砕鉱機、巻楊機などの最新設備を次々と取り入れていきました。

その結果、明治初年に420トンだった産銅高が、15年後には1800トンと4倍余に達し、閉山までの283年間の出鉱量は推定3000万トン。 そこから生み出された銅は65万トンに上ったと言います。 明治10(1877)年2月、住友家第12代吉左エ門友親が広瀬を総代理人に指名しました。「 広瀬は商法上一切の事務を総括し、すべての雇人を統御する権限を持つ」としたのです。

丁稚上がりの一社員にそれだけの権限を持たせるのはまさに異例中の異例でした。 そこで広瀬は住友の家改革にも着手しました。

明治15(1882)年には19款196条からなる「住友家法」が制定されました。 住友家法の制定に伴い、広瀬の役職である「総代理人」は「総理人」と改称されましたが、広瀬の経営はあまりにも独裁的でした。

また広瀬が主導した事業があまりうまくいかなかったことや、内部から銀行設立の強い要望が上がったにもかかわらず、広瀬がかたくなに拒んだことなどから、住友内部から広瀬に対する批判の声が起こるようになり、明治27(1894)年11月、ついにその地位を辞任しました。 その後、広瀬は86歳まで生き、大正3(1914)年1月30日に亡くなりました。



その後、総理人は2代目の伊庭貞剛、3代目の鈴木馬佐也、4代目の中田錦吉、5代目の湯川寛吉、6代目の小倉正恒、7代目の吉田駿之介と移っていきました。ちなみに「総理人」という役職名は明治29(1896)年に「総理事」と改称されました。 しかし、初代の広瀬と2代目以降の権限は明らかに違っていました。

広瀬が住友家の家長から「総代理人」という名で指名されたことからも分かるように、広瀬の代理権は全くげ呈されていませんでした。 それに対して、2代目以降の総理事は重役会を構成する理事から選任され、理事たちの意向を無視できないことになりました。

それは住友という組織の経営が住友家の代表から、会社としての代表に移ったことを意味していたと言っても良いでしょう。 歴代総理事の中から一人挙げるとすると伊庭貞剛です。 別子銅山の塩害対策に活躍し、「CSR(企業の社会的責任)」にいち早く取り組みました。

伊庭は、弘化4(1847)年に伯太藩代官であった伊庭正人の長男として、近江国蒲生郡西宿村(現・滋賀県近江八幡市)で誕生しました。 その伊庭は、明治11(1878)年に勤務していた大阪上等裁判所を退職したところで、叔父の広瀬宰平に勧められて、明治12(1879)年に住友に入社、3ケ月後には本店支配人となりました。



彼は大阪紡績(後の東洋紡)や大阪商船の設立に参加したほか、12代当主の住友友親、13代当主の住友友忠が相次いで急死し、友忠の母・澄久が14代を継いだときには住友家の家督相続問題に奮闘し、徳大寺公純の第六子・隆麿(西園寺公望の弟)を友忠の妹・満寿の婿に迎え、住友公純として15代を継がせています。

また、明治20年代半ばから深刻な問題となっていた別子銅山の煙害問題にあたっては、自ら新居浜に赴き、精錬所の四阪島への移転を実現したほか、銅山の開発によって荒廃していた西赤石山系の山々での植林を推し進めるなど、環境問題の解決にも心血を注ぎました。その際、山林管理のためにつくったのが、現在の住友林業の前身であります。

その後、住友の重役会議を合議制とするなど経営の近代化を推進、広瀬が反対していた住友銀行の創設を決定、明治33(1904)年、58歳で総理事職を辞しましたが、「事業の進歩発展に最も害するものは、青年の過失ではなくして、老人の跋扈である」と語ったことでも知られます。

以後、住友は総理事を中心とした合議制で成長を続け、終戦時に住友本社が投資していた会社は120社にもおよび、これらの会社の公称資本金総額は100億円に上る規模でした。





第二次大戦後のGHQによる財閥解体の危機

住友財閥は鉱山からスタートし、重化学工業中心に発展してきた財閥だけに、太平洋戦争終結時に保有していた120社に及ぶ会社の公称資本金総額は100億円に上る規模で、そのうち住友本社が占める

「日本における重化学工業部門の払い込み資本比率」は87%にも及んでいたとされます。
しかし、戦後のGHQによる財閥解体で最大の危機を迎えました。 住友の直系企業のほとんどが国から軍需工場の指定を受けていたため、GFQから厳しい目を向けられました。

この緊急事態に対して、住友は秘密裏に直系12社(化学・金属・鉱山・銀行・信託・生命・電工・機械・電気・倉庫・石炭・日本建設産業)の社長によって構成する「白水会」を設立しました。 それは三井・三菱・他の財閥にさきがける動きでした。

それにより、集団指導体制を確立し、連帯意識の統一を図ろうとしたものです。 住友グループが「結束の住友」と呼ばれる所以です。20(1945年末)にはその存在も知られるようになり、会合も月1回となりました。



その白水会の存在が正式に発表されたのは昭和26(1951)年4月のことでした。 吉田駿之助(第7代住友合資会社総理事)や土井正治(元住友化学会長)、田路哉(元住友商事会長)らの提唱によって始められたといわれます。

ちなみに白水会の名は、当時大阪銀行(住友銀行)の鈴来剛社長の提案で、住友家が「泉屋」と号して銅商いを始めたことから、「泉」を上下に分けて「白水」としました。





日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
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政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
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ゴールドマン・サックスと住友財閥
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ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-2
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2021/7/20

グスタフ・リーマン・レビーの逝去(せいきょ)  財閥(日本・世界)










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ゴールドマンサックスとは
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本Blogで、ゴールドマン・サックスのシリーズの情報の出所は、「Goldman Sachs」の著者である女性のリサ・エンドリック(Lisa Endlich)氏を中心に、収集したものです。
Lisa Endlich プロフィール
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MITでマネイジメントと都市計画の修士号を取得後、ゴールドマン・サックスに入社、外国為替部門のトレーダーとなり、VP(ヴァイスプレジデント)の肩書を得る。 退社後は夫と三人の子供とロサンゼルスに在住。

日本に関する記事は、主に国際ジャーナリスト堤未果氏の著作物を中心に取集したものです。 インターネトでデービッド・アトキンスを敵視する三橋貴明氏と藤井聡氏ですが、彼ら自身も言っていますが、彼女(堤未果)が先生と述べています。彼女の著作物・記事・情報がベースになっているケースが多く見られます。
堤未果 プロフィール
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東京生まれ、NY度立大学大学院国際関係論学科修士号。 国連、野村證券などを経て、米国の政治、経済、医療、教育、農政、公共政策、エネルギーなどをテーマに、現場取材と公文書による調査報道で活躍











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Marcus Goldman (December 9, 1821 – July 20, 1904)
ゴールドマン・サックスの創始者


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マーカス・ゴールドマンが1869年に最初のオフィスを置いたパイン・ストリートのビル
このビルの地下一階から世界最強の投資銀行の歴史は始まりました。
マーカス・ゴールドマン商店が入っていたビル、30 Pine street , New Yoork












グスタフ・リーマン・レビーの逝去(せいきょ)


1970年代ウォール街の低迷期
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からの続き



1973年には相場が低迷し、最初の9ケ月は損失続きとなり、新たに選出されたパートナーたちの資本口座がマイナスに落ち込む恐れが生じてきました。

レビーが、新任のパートナーには損失負担を免除することを既存のパートナーに提案すると、それは全員一致で可決されました。

1929年の株価大暴落と同様、古くからのパートナーたちは、新任パートナーの資本口座の赤字の埋め合わせをすることを選びました。

30年間パートナーを務めるベテラン・パートナーは、それがパートナー・シップであり、誰もがそれがどういうことを意味するか、よく理解していたからだ、と言います。



問題があろうがなかろうが、ゴールドマン・サックスのパートナーが赤字を負ったスタートを切る事はあってはならないのだ

(当時パートナーだった人に言わせると、その年の会計年度末には赤字が解消していたので、この寛大な措置は実際にはジェスチャーに終わっている)。




1970年10月、ニューヨーク州およびニュージャージー州港湾局の会議の議長を務めているときに、レビーは脳卒中に襲われて倒れ、昏睡状態に陥り、マウント・サイナイ病院に送り込まれました。

彼が二度と意識を取り戻すことはありませんでした。 ゴールドマン・サックスは、8年の間に、強く愛すべき後継者を2人失いました。

レビーは、後継者を決めていると公言してはばからなあったですが、それが誰かは、明かしていませんでした。

リーダーを失い、ゴールドマン・サックスは混乱状態に陥る事になります。

















ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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モルガン財閥 ここまでのまとめ
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デュポン財閥 ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-2
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2021/7/18

1970年代ウォール街の低迷期  財閥(日本・世界)







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ゴールドマンサックスとは
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本Blogで、ゴールドマン・サックスのシリーズの情報の出所は、「Goldman Sachs」の著者である女性のリサ・エンドリック(Lisa Endlich)氏を中心に、収集したものです。
Lisa Endlich プロフィール
-------------------------
MITでマネイジメントと都市計画の修士号を取得後、ゴールドマン・サックスに入社、外国為替部門のトレーダーとなり、VP(ヴァイスプレジデント)の肩書を得る。 退社後は夫と三人の子供とロサンゼルスに在住。

日本に関する記事は、主に国際ジャーナリスト堤未果氏の著作物を中心に取集したものです。 インターネトでデービッド・アトキンスを敵視する三橋貴明氏と藤井聡氏ですが、彼ら自身も言っていますが、彼女(堤未果)が先生と述べています。彼女の著作物・記事・情報がベースになっているケースが多く見られます。
堤未果 プロフィール
-------------------
東京生まれ、NY度立大学大学院国際関係論学科修士号。 国連、野村證券などを経て、米国の政治、経済、医療、教育、農政、公共政策、エネルギーなどをテーマに、現場取材と公文書による調査報道で活躍












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Marcus Goldman (December 9, 1821 – July 20, 1904)
ゴールドマン・サックスの創始者


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マーカス・ゴールドマンが1869年に最初のオフィスを置いたパイン・ストリートのビル
このビルの地下一階から世界最強の投資銀行の歴史は始まりました。
マーカス・ゴールドマン商店が入っていたビル、30 Pine street , New Yoork















1970年代ウォール街の低迷期

レビーのプロフィール(生まれと育ち、そして性格) 
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ウォール街にとって、1970年代はひどい時代でした。 1973年1月にダウは1051でしたが、1974年12月には半分に近い578まで落ち、1980年まで1000台に戻すことはありませんでした。

収益の低さに加え、多数の訴訟事件に巻き込まれ、ゴールドマン・サックスは、とりわけ厳しい時期を過ごしました。

レビー在任時の最悪の時は、1970年2月、ペン・セントラル鉄道がひどい決算結果を報告した時でした。

ナショナル・クレジット・オフィス(CPの格付け機関)は、ペン・セントラルのCP発行主幹事であるゴールドマン・サックスに、この鉄道会社の信用度に関して話を聞きたいと電話をしてきました。

ゴールドマンが全般的にポジティブな意見を述べたおかげで、同社のCP格付けは最高のランクのままに据え置かれることになりました。



ゴールドマン・サックスはペン・セントラルのCPの販売を続けましたが、顧客に勧めても買い注文が入らないのではないかと心配して、手持ちのポジションを最小限にするよう、ペン・セントラルのCPは「タップ」で売ることにしました。

これは買いたい顧客が出てきた時に初めて一定額だけCPを発行する方式です。 この方式にすればゴールドマン・サックスが在庫を抱えるのは、最大800万ドルに抑える事が出来ます。



ペン・セントラルが倒産に追い込まれると、CP市場はパニック状態に陥りました。 ゴールドマン・サックスは当時300社以上の企業の主幹事を行っていました。

他のCPも回収不可能に陥るのではないかと心配した投資家たちは、回収に殺到しました。アメリカ中の企業が短期債権を償還するために銀行に融資を求めて押し寄せ、FRB(連邦準備制度理事会)は流動性を確保する為の行動を余儀なくされました。


ゴールドマン・サックスの過ちは、FRBがペン・セントラル鉄道に資金を供給して救済するだろうと想定したことでした。

ペン・センとラルの資産は30億ドルあり、債務の担保としては十分であり、同社は単に手元資金に不自由しているだけだ、と考えていました。

レビーはペン社の支払い能力に不安を感じた事はなかったと、後に証言しています。 しかし、ゴールドマン・サックスはSEC(証券取引委員会)から譴責(けんせき)を受け、顧客に対してさらに多くの情報を開示するよう要求されました。

ゴールドマン・サックスはペン・セントラル社の悪化した財務内容に関する情報を入手できる立場にありながら、

「その情報をCPの投資家に提供することを怠り、同社を細かく調査することもしなかった。 ゴールドマンが同社の危険信号に注意を払い、財務内容を見直していたなら、公表された数字よりもはるかに悪い状況であったことを知り得たはずである」とDECは言っています。


ゴールドマン・サックスにとって、この事件はまったくの災難でありました。 シドニー・ワインバーグが何十年とかけて育てた評判は再び傷つき、信用は地に落ち、財務状況も危険なレベルに陥りました。

それは悲惨な時代でした。 そして皮肉にも、それを回復する仕事は、シドニーの息子に回ってきました。

レビーは彼の右腕であるジョン・ワインバーグを南部に送り込み、できるだけ多くの顧客と会って、CPを元本の半額で買い取る交渉をしてくるように言い渡しました。



ジョンは1950年にゴールドマン・サックスに入社していました。 彼がどのような提案をするかは、彼が町に愛を踏み入れる前から口コミで広がっていました。

どこに行っても、腹を立てて交渉に応じようとしない敵意に満ちた債権者ばかりでした。
ワインバーグの努力は失敗に終わりました。

レビーはその事態を予期はしていましたが、会社としてはいかに不快なことであっても、何らかの提案をしないわけにはいきませんでした。



ゴールドマン・サックスが顧客を見捨てると思われてはなりません。 そんなことをしたら取り返しのつかないことになります。

顧客は列をなしてゴールドマン・サックスを訴訟し、少なくとも45件の訴えがだされました。

ペン・セントラル鉄道は、倒産時に債務不履行のCP8700万ドルを抱えており、ゴールドマン・サックスに対する訴訟金額は、パートナーの資本金5300万ドルを上まりそうな勢いでありました。

っそれは45人のパートナーにとって恐ろしい時でした。 彼らは個人的に無限責任を負っています。

ゴールドマン・サックスは責任を認めませんでしたが、徐々に顧客と和解し、CPを1ドルにつき20セントから25セントの割合で買い戻し、ペン・セントラルからCP債務に対する何らかの支払いがあった場合には、その一部を引き渡す約束をしました。



1974年10月、ウェルチ食品と二人の原告が訴訟を起こし、話は裁判にもつれ込みました。連邦陪審は、ペン・セントラル社が倒産間近な状態にありながら、1969年、70年に同社のCPを御販売しして顧客を搾取したとして、ゴールドマン・サックスに有罪の判決を下しました。

ゴールドマン・サックスは原告からCPを額面金額に利息を上乗せした金額で買い戻すことを要求されました。

この判決はゴールドマン・サックスの評判を傷つけ、財務状況を悪化させました。 しかし、他から大幅なディスカウント価格で大量に買い戻していたCPが後に急騰したため、損失はかなり軽減されました。
















ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-2
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2021/7/14

レビーのプロフィール(生まれと育ち、そして性格)  財閥(日本・世界)




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ゴールドマンサックスとは
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本Blogで、ゴールドマン・サックスのシリーズの情報の出所は、「Goldman Sachs」の著者である女性のリサ・エンドリック(Lisa Endlich)氏を中心に、収集したものです。
Lisa Endlich プロフィール
-------------------------
MITでマネイジメントと都市計画の修士号を取得後、ゴールドマン・サックスに入社、外国為替部門のトレーダーとなり、VP(ヴァイスプレジデント)の肩書を得る。 退社後は夫と三人の子供とロサンゼルスに在住。

日本に関する記事は、主に国際ジャーナリスト堤未果氏の著作物を中心に取集したものです。 インターネトでデービッド・アトキンスを敵視する三橋貴明氏と藤井聡氏ですが、彼ら自身も言っていますが、彼女(堤未果)が先生と述べています。彼女の著作物・記事・情報がベースになっているケースが多く見られます。
堤未果 プロフィール
-------------------
東京生まれ、NY度立大学大学院国際関係論学科修士号。 国連、野村證券などを経て、米国の政治、経済、医療、教育、農政、公共政策、エネルギーなどをテーマに、現場取材と公文書による調査報道で活躍















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Marcus Goldman (December 9, 1821 – July 20, 1904)
ゴールドマン・サックスの創始者


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マーカス・ゴールドマンが1869年に最初のオフィスを置いたパイン・ストリートのビル
このビルの地下一階から世界最強の投資銀行の歴史は始まりました。
マーカス・ゴールドマン商店が入っていたビル、30 Pine street , New Yoork
















グスタフ・リーマン・レビーのプロフィール(生まれと育ち、そして性格)


ワインバーグの後継、グスタフ・リーマン・レビー
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レビーは、1910年ニューオリンズに生まれました。 父、ジグムンド・レビーは木製の籠を作って生計を立て、妻ベラとの間に3人の子供を持ちました。

父が亡くなると、16歳のレビーと2人の姉妹は母に連れられてパリに移り、その地のアメリカン・スクールで教育を受けました。

監督する者もなく、しつけをする者もないまま、レビーは教室にいるよりも長い時間を競馬場で過ごしました。

アメリカの戻ってトウーレン大学に入学し、フットボールを始め、再び熱心に競馬に賭け、父の生命保険金を使い果たし、わずか3ケ月で大学を辞めています。

18歳でニューヨークに移り、日中は証券会社の使い走りとなって証券会社の間を証券の束を抱えて走り回り、夜はニューヨーク大学で金融の勉強をしました。

彼の勤めた会社は大恐慌で倒産し、レビーは金のないまま職を失ってしまいました。





友人の紹介で、1933年、彼は週給27.50ドルでゴールドマン・サックスに雇われ、部員が一人しかいなかった外国債務部に配属されました。

翌年、彼は裕福な家庭の子女で商業美術家のジャネット・ウルフと結婚しました。 彼の息子ピーターは、後にゴールドマン・サックスのパートナーとなっています。

レビーは真珠湾攻撃の直後に陸軍航空隊の地上勤務の士官となり、中佐で退役しました。
1945年ゴールドマン・サックスに戻り、翌年にはパートナーに選出されています。





レビーはゴールドマン・サックスにトレーディング・リスクの概念を導入しました。 そしてワインバーグとはまったく別の方向に会社を率いていきました。

GSTCの苦しい時期を体験しなかったおかげで、レビーは、常識を忘れずきちんと管理しながら行えば、トレーディングのリスクをとることには大きな価値があると理解することができました。



ワインバーグはこのリスクを嫌いました。 GSTCの一件は会社の信用に致命的な傷を残したではないか、というのが彼の言い分でした。

レビーも会社の信用を気にかけてはいましたが、彼は積極的、意欲的で、ゴールドマン・サックスは利益を上げるべきだと考えていました。

ヘンリー・ゴールドマンと同様、彼はいつも独創的で儲かるビジネスの方法を模索していました。



「シドニーの時代よりも、彼の経営下でのほうが会社は成長した」とホワイトヘッドは言っています。

「シドニーは会社が生き残ること、高い名声をえることを目標としました。 しかしこの時期ガスは、他社を引き離して成長していくことを心がけました」

レビーはせっかちで、並外れて行動的な男でした。 彼の経営スタイルにまつわるエピソードは枚挙のいとまがありません。

彼は必ずガスと呼ばれます。 というのも「ミスター・レビー」と呼びかけている間にどこかに消えてしまうからというのは社内でよく言われた冗談です。

長々しい会議や、結論が見えなてこない会議にはすぐイライラすることがよく知られているので、彼のオフィスに入る前プログラムならぬ"ガスグラム"が組まれます。

これは数秒しか耳を傾けない男に問題を伝えたり提案をするのに、最も短い言い方を工夫することをさします。

スティーブ・フリードマンは、レビーはエネルギーが絶えることなく湧き出る「人間電磁界」みたいだったと言います。

一人の秘書が何かしている間待たなくて済むように、レビーには秘書が二人ついていました。

彼は戦略的計画には何の興味も示しませんでした。 「ガスにとって短期的というのは午前中のことで、長期的というのはその日の午後のことだった」とホワイトヘッドは言います。




裁定部門に配属になって間もない頃、ルービンはレビーの有名なせっかちをぶりを身をもって体験しました。

ルービンは分析的に考えるタイプです。 彼は、将来魅力的な値段で株を購入できるワラントを使った、複雑なトレーディングの方法を開発しました。

自信でも複雑な案件をこなしてきたレビーは長い説明を嫌います。 ルービンはアイデアを一分ほど説明しました。



「もういい! 買いたいんか、売りたいんか1」レビーはニューオリンズ訛でルービンを怒鳴りました。ルービンはなんとか伝えようとしました。

「ガス、これはそれほど単純じゃなくて・・・」 「そんなこたあ、同でもいい。 買いか売りか。 私の時間を無駄にするな」とレビーは叫びました。


ワインバーグがレビーの見張り用に作りだした経営委員会の会議は、毎週月曜の朝8時から9時に予定されていましたが、会議に出た事のある人たちは、会議はいつも15分くらいで終わったと言います。

レビーは簡潔に済ませるよう要求しました。 短時間のうちに伝えられない事は大事なことではないというのが彼の信念でした。

15分でも彼には長すぎました。 彼を中心とした会議が開かれている最中に電話出てくる。の受話器をとりあげてトレーディングの指令を出すこともしばしばありました。



後に経営陣の仲間入りをした人も含めて、レビーの下で働いた人々は、レビーには畏怖と称賛の気持ちを呼び起こし、強い忠誠心を勝ち得る能力があったとしています。

顧客に対してだけでなく、社員に対しても親身に、実に親切に振る舞う。 かと思えば、要求の厳しい監督者となり、部下の仕事に不満があると激怒する。

しかし、レビーにとってみれば、自分がやっていることを部下に要求しているだけでした。



毎朝5時半に起床し、15分ジョギングをし、祈りを捧げ、新聞を読み、朝食を取り(オレンジジュースと前の日の残り物ということもあると彼は言っていました)、ウォール街に向かう。

彼は7時50分にはオフィスに入り、誰にも邪魔されない時間を持ちます。 彼は顧客に電話をかけるのに、この時間帯をよく利用していました。

だいたいが、顧客の自宅への電話でした。 ある会社の元会長は、レビ0は3分間ほどで
世界の出来事を語り、何かビジネスはないかと尋ね、顧客がイエスかノーかを言うか言わないうちに電話を切っていたと言います。




ゴールドマン・サックスは早くからMBAを採用する決まりにしていましたが、学位を持たないこの男は自分流の採用試験の方法を編み出していました。

朝早く市場が開く前に高校三年生をオフィスに招き、ブリッジかポーカーか、学生が良く知っているほうのゲームをしながら、彼は相手の心がどう動くか観察しました。

どのカードを使ったか覚えているか、リスクを判断でいるか、プレッシャーの下で、度を失わずにいられるか。

すべて彼が求める才能であります。 トレーディングで成功するには、能力も比喩用ですが、鋼にような神経、誠実さ、そして運が必要だとレビーは信じていました。




長い間、社内の腕利きのトレーダーたちは学歴はなくても、レビーの試験をパスした人々でありました。

















ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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デュポン財閥 ここまでのまとめ
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2021/7/12

ゴールドマン、日本で銀行免許取得 証券から多角化 (日経)  財閥(日本・世界)








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ゴールドマンは事業多角化を加速している=ロイター





今回の投稿は、2021年7月7日の日本経済新聞のゴールドマン・サックスに関する記事の紹介です。




米金融大手ゴールドマン・サックスが事業の多角化を加速している。同社傘下の米銀行が7日、金融庁から日本で営業するための免許を取得した。米欧のグローバル企業向け資金管理・決済業務に参入し、日本を含めた世界で事業基盤を整える。トレーディングなど伝統的な証券業務が稼ぎにくくなるなか、事業会社やリテール分野で安定的に稼ぐ収益構造を目指す。

ゴールドマンは法人顧客に資金管理や決済サービスを提供する「トランザクションバンキング」事業を20年に立ち上げ、成長戦略の柱に据える。まず米国企業向けに開始し、すでに250社の顧客を獲得。預金は350億ドル(約3兆8700億円)を超えた。21年6月から英国でも営業を始めた。

今回、ゴールドマン・サックス・バンクUSAが日本での支店設立を認められ、グローバル企業にサービスを提供する体制が整う。例えば、世界に拠点を持つ日本の国際企業のドル資金調達などを請け負うことができるようになる。東京支店は9月に営業を始める。

法人向け資金管理・決済業務には米JPモルガン・チェースや米シティグループ、英HSBCといった米欧の大手商業銀行がこぞって参入し、優良顧客を囲い込んでいる。投資銀行業務に比べて利幅は薄いが、安定した収益が見込める分野だからだ。

ゴールドマンがあえて最後発で参入したのは、「(古いシステムなど)レガシーがないため、テクノロジーの活用で優位に立てる」(ゴールドマンのデービッド・ソロモン最高経営責任者)との判断がある。

ゴールドマンは米銀の中でも早くからエンジニアを採用してきた。資金管理業務の発足にあたっては、ネット上でサービスを利用できるクラウド基盤システムを一から作り上げた。単純で使い勝手の良さが売り物だ。120種類以上の通貨で国内外への支払いが可能で、即時に支払い状況を確認できる。

多角化のもうひとつの進路がリテール分野だ。16年に始めたオンライン専業銀行は、高めの金利で消費者をひき付け、20年末時点の預金総額が970億ドル(約10兆7600億円)に達した。米中堅銀行並みの規模だ。預金獲得はゴールドマンの資金調達コスト低下につながった。


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ゴールドマンは店舗やATMを持たない。ブランド力や認知度で他の大手リテール銀行に劣る分をテクノロジーで補う。そのひとつが「BaaS(バンキング・アズ・ア・サービス)」と呼ぶ仕組みだ。銀行機能を顧客基盤を持つ事業会社に提供する裏方ビジネスといえる。

BaaSモデルの成功例が19年に米アップルと立ち上げたクレジットカード事業だ。スマホ上の操作などユーザー体験の部分はアップルが開発し、決済や口座管理、コールセンターなど裏方はゴールドマンが担う。1月には米ゼネラル・モーターズ(GM)のクレカ事業買収を発表した。

ゴールドマンが事業の多角化を急ぐのは、ライバルに比べて市況に左右されやすい収益構造だからだ。20年12月期の営業収益構成は5割近くが金融商品売買を仲介するトレーディング部門。新型コロナウイルスの影響で相場が変動する前は、金融規制強化や低金利で稼げなくなり、収益の足かせになっていた。


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株式市場は金融危機以降、安定して稼ぐ銀行を高く評価する傾向がある。投資銀業務のライバル、米モルガン・スタンレーの予想PER(株価収益率)は12.9倍で、ゴールドマン(同8.1倍)は見劣りする。モルガンはリーマン危機以降、富裕層向け資産管理事業や資産運用会社の買収で、安定した手数料収入を見込めるようになった。ゴールドマンは自前主義へのこだわりが強く、構造転換が遅れた。

トレーディング部門の営業収益が21年1〜3月期に10年以来の水準に達するなど瞬間風速では追い風も吹く。ただ、来週発表の4〜6月期決算では、前四半期に比べて減速する可能性が高い。市場は再び収益の多角化に焦点をあてるとみられ、ゴールドマンは改革の成果を問われる。
















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