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2021/8/25

古河財閥・古河グループ  財閥(日本・世界)






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古河財閥・古河グループ各社








古河財閥は古河市兵衛によって創設され、戦後は古河グループを称し、企業集団・一勧グループの中核を成しました。 古河市兵衛(1832-1903)は京都岡崎の商家・木村家に生まれました。 しかし、市兵衛が生まれた頃には、既に没落したといわれています。 市兵衛は、丁稚奉公に出された後、金貨業を営んでいた伯父を手伝い、その知人である古河太郎左衛門の養子になりました。

古河太郎左衛門は、京都の小野組の生糸買い付けを担っていましたが、病気で倒れると、代わりに市兵衛が小野組の使用人となり、その後、生糸輸出、米穀取引、蚕糸などの買い占めで活躍しました。

また、1872年に鉱山事業家・岡田平蔵と提携して、秋田県下の鉱山経営を行いました。 しかし2年後に岡田は死去。 鉱山経営は、市兵衛を通じて小野組が引き継ぐことになりました。小野組は、幕末に三井、島田らと並ぶ富商でありましたが、明治政府の政策を見誤り、1874年に破綻してしまいます。

小野組の事業資金は第一国立銀行(のち株式会社第一銀行、株式会社第一勧業銀行を経て、現 株式会社みずほ銀行)からの借り入れでまかなっていたので、第一国立銀行も共倒れする可能性がありました。 同行の貸出金総額300万円のうち、140万円弱が小野組へ貸し出されたと言われています。 そこで、第一国立銀行総監役(頭取)の渋沢栄一は、面識のあった市兵衛に善処を頼みました。

市兵衛はkれに応じて充分な担保(市兵衛と小野家の所有する株式や、鉱山やその建造物など)を提供し、第一国立銀行の損失を2万円弱にとどめました。 しかし、その結果、市兵衛は裸一貫となって小野組を去ることになりました。 渋沢栄一は、この時の古河市兵衛の行動に感謝し、伊以来、親密な関係になりました。

小野組の破綻後、市兵衛は銅山経営に専心しました。 新潟県の草倉銅山、長野県の赤柴銅山の払い下げを受け、1875年に操業を開始。 大きな成功を収めていきました。 1877年には栃木県の足尾銅山を買収。 市兵衛は次々と銅山・鉱山の経営に手を拡げましたが、もっとも有望な足尾銅山に開発の主力を集中。 大工事を起工して鉱源を開発し、近代的機械設備を導入して、芦尾銅山を全国一の銅山へと押し上げました。 その後、足尾銅山以外の銅山にも設備投資を行い、1890年頃には、我が国産銅量の半分を古河が占めるほどになりました。

市兵衛は西洋技術を積極的に取り入れる一方、西欧の近代化に溺れることを危惧し、チョンマゲを切らなかったと言われています。 しかもチョンマゲ頭で、本店の火鉢の前でキセルをいじくりながら、角帯、前垂れ掛けの丁稚や坂東を指揮していたというから、まるで
江戸時代の商家のようでありました。








二代目・古河潤吉

この旧態依然とした古河財閥の近代化を推し進めたのは、市兵衛の養子・潤吉でした。 古河潤吉(1870-1905)は、のちの外務大臣・陸奥宗光の次男として生まれました。 1872年、陸奥は大蔵省祖税頭として、小野組糸店の営業収支に関して市兵衛と交渉するようになりました。二人は親交を重ね、遂には、子宝に恵まれなかった市兵衛に潤吉を養子縁組みするまでになっていました。

古河財閥のドル箱となった足尾銅山は、1880年代後半から渡良瀬川沿岸の農地を汚染するようになり、地元住民は建議・上申を重ねましたが、一向に改善されませんでした。1896年の大豪雨で渡良瀬川が氾濫すると、住民たちの怒りは爆発し、被害の主因が足尾銅山の鉱毒にあるとして、政府に陳情。 上京して抗議運動を起こし、警官と衝突する事態にまで発展、一大社会問題となりました。

これに対し、政府は1897年に「足尾銅山鉱毒調査会」を設けて緊急調査を行い、鉱毒問題を治水問題にすりかえて事態の鎮静化を図り、足尾銅山に厳しい予防工事を命じました。市兵衛は渋沢栄一に予防工事の資金融資を懇請しましたが、予防工事は非生産事業であったことと、古河財閥に対する貸し出しが制限以上にあったことなどを理由に、精緻な償却案がなければ融資できないと断ってきました。

そこで古河鉱業事務所専務理事となった潤吉が、父に代わって渋沢栄一と面会し、借入金の償還方法を具体的に説明して融資を承諾させました。 潤吉はかねて古河財閥に近代的な会計制度・執務方法を導入すべく研究を重ねていたため、古河の営業状態を子細に全幅の信頼を置き、事業全般の運営をほとんど任せ、養女(市兵衛の甥の娘)との結婚を申し出ました。

しかし、養子縁組後(1887年)に市兵衛の実子・虎之助が誕生していたため。潤吉は家系が複雑になることを恐れて一生独身を通しました。 兵役を免除されるほど体が弱かった潤吉は、自らの死期が近づいたことを悟って、古河家事業の近代化を急ぎました。 1905年3月に古河鉱業会社を設立して、古河家名義で経営してきた事業を継承しました。同時に古河家奥向き定規を定め、古河家の資産を別途管理しました。 こうして、それまで「家業」の域を出なかった古河家の事業を企業化したのどぁります。 潤吉は念願成就を見届け、1905年12月にわずか36歳で没しました。








三代目・古河虎之助

順吉の死後、市兵衛の実子/古河虎之助(1887-1940)が古河財閥の三代目となりました。虎之助時代、古河財閥は銅山経営を振り出しに、銅線製造→電気機器製造→通信機器製、また、銅線の被覆ゴム製造と芋づる式に事業を拡大していきました。 古河鉱業は本所伸銅所でも銅線製造をはじめ、その好調ぶりに自信を深め、1906年に日光電気精銅所を設立。 さらに1908年に横浜電線製造株式会社を買収して、本所伸銅所、日光電気精銅所と統合。1920年に古河電気工業株式会社を設立しました。

また、横浜電線製造は銅線の被覆ゴム製造のために、B・F・グッドリッチ社と合現 富士電機株式会社)を設立。 さらに富士電機製造が1935年に通信機器製造部門を分離し、富士通信機器製造株式会社(現 富士通株式会社)を設立しました。 一方、古河鉱業株式会社は古河合名会社(以下古河合名)と改称し、第一次世界大戦による事業膨張のため、1917年に持株会社(古河合名)、商事部門(古川商事株式会社)、鉱業部門(合名会社古河鉱業会社)の3つに分割しました。

しかし、古河商事は第一次世界大戦の反動恐慌で破綻し、1921年に減資の上、合名会社古川鉱業会社への吸収合併を余儀なくされました。 古河財閥では1916年に株式会社古河銀行を設立していましたが、古河商事の破綻のあおりを受けて業績不振となり、1927年の昭和金融恐慌で再打撃を受け、1931年に第一銀行に吸収合併されました。 古河財閥は第一銀行と親密な仲にありましたが、合併以来。一層緊密さを増し、戦後は第一銀行グループの中核企業群を形成するまでになりました。








四代目・古河従純(じゅうじゅん)

1904年に古河虎之助が死去すると、養子・古河従純(1904-1967)がその跡を継ぎ、古河財閥の四代目となりました。従純は、海軍・大将再興従道の孫であります。 従純は、社長在任中から専門経営者たちと良好な関係を保持し、終戦後は米国留学時の人脈を活かして、財閥解体や公職追放の影響を最小限に食い止めようと奔走しました。 こうした従純の尽力もあって、古河一族は、戦後も古河グループ各社から好意的に迎えられました。従純の子息は全て古河グループ企業に就職し、役員に就任しています。 特に長男・古河潤ん之助が古河電気工業社長、五男・古河直純が日本ゼオン社長に就任しているのは、財閥企業では珍しい事でした。








傘下企業の株主構造、役員構成

古河財閥の最大の特徴は、有力企業が必ずしも著系企業に当たらないことであります。 持株会・古河合名が支配的な株式数を直接保有するのは、古河鉱業株式会社(現 古河機械金属株式会社)、旭電化工業(現 ADENKA)くらいで、それ以外は資本系列上、孫会社以下に位置付けられます。 たとえば、古河鉱業の子会社として古河電気工業があり、その子会社として富士電機製造、日本軽金属株式会社。 さらに富士電機の子会社として富士通信機器製造があり、そのまた子会社に富士通ファナック(現 ファナック株式会社)があります。 そのため、現在でも古河グループ企業は「子会社になるほど元気がいい」としばしば指摘されます。

これ以外の傘下企業として、大日電線株式会社、日本電線株式会社(両社が合併して大日本電線株式会社となり、現 三菱電線工業株式会社)、横浜護謨製造(現 横浜ゴム)、日本農薬株式会社、関東電化工業株式会社、帝国生命保険株式会社(現 朝日生命保険相互会社)などがあります。さらに戦後設立された日本ゼオン株式会社、台湾の企業として設立され、戦後古河グループ入りした体制火災海上保険株式会社(破綻後、株式会社損保ジャパンに包括移転。 現 損保ジャパン日本興亜株式会社)などがあります。

役員構成は、当主・古河従純が直系会社の社長・会長を努め、子会社・孫会社にあたる有力企業は、姻戚の吉村万次郎、中川末吉が社長を務めている場合が多くあります。 古河家は、初代の古河市兵衛以来、男子に恵まれないことが幸いしました。 優秀な婿養子を迎え、口うるさい分家が経営に口を挟むことがなかったからです。








財閥解体と再結集
第一銀行/一勧グループの一員へ

戦後の財閥解体で、古河鉱業株式会社(第二次指定)、古河電気工業株式会社(第三次指定)が持株会社に指定され、所有株式を放出させられました。 古河財閥の直系企業は関係を寸断されましたが、産業上の繋がりが緊密であったこともあり、再結集するのは早かったとされています。 1940年代後半には古河グループ各社の社長が、四代目・古河従純を囲んで昼食会を催すようになりました。 この会合をもとにして、1954年に古河グループの社長会「古河三水会」(毎月第三水曜日に開催)が結成されました。

1960年代、都市銀行を中心として新興系企業集団が形成されましたが、六大都市銀行の一つである第一銀行は、同じ渋沢財閥に有力な事業会社が少なかったため、古河グループと河崎グループの企業との連携を強化し、企業集団形成を目論みました。

一方、古河グループには銀行がなかったため、第一銀行に頼らざるを得ませんでした。 1971年、第一銀行が日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行となり、一勧グループを形成した時、古河グループはその中核メンバーとして重きをなしました。











日本の財閥

日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2721.html
政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2722.html
ゴールドマン・サックスと住友財閥
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2932.html
住友財閥の歴史
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2956.html
財閥解体
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2957.html
財閥解体と再結集、そしてグループ化
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山口財閥・三和グループ
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住友銀行の暴走と磯田会長の辞任
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2960.html
三井と住友の合弁、そして住友金属工業の「白水会」脱退
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住友家・住友グループの特徴
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浅野財閥
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2963.html
安田財閥
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鴻池財閥
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鮎川・久原財閥と日産・日立グループ
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三井財閥
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三菱財閥
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野村財閥
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旧鈴木財閥
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古河財閥・古河グループ
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ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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モルガン財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2894.html

デュポン財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2919.html

ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2917.html

日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-1
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2815.html
財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-2
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2950.html





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2021/8/23

旧鈴木財閥  財閥(日本・世界)







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鈴木家 家紋 家紋いろは









「鈴木商店」は、明治時代から大正時代にかけて急成長し、レ獅子では到底、住友財閥には及びませんが、一時は三井・三菱財閥を凌ぐほどの一大勢力を誇った財閥です。 しかし積極的な拡大路線が裏目に出て1927年に倒産してしまました。 その後、その系譜を引く企業は、戦後の急成長を遂げ、三和・一勧グループの主力企業として活躍することとなります。

鈴木商店は、明治時代初期に初代・鈴木岩次郎によって創設されました。 鈴木家は代々武蔵(現 埼玉県)川越藩の下級武士で、貧窮により初代・鈴木岩次郎は幼児期に魚屋に養子に出され、兄は流浪の末に長崎で修業し、菓子職人になったといいます。 岩次郎は兄と再会して菓子職人を志し、長崎で修業しました。 しかし、江戸への帰途、岩次郎は神戸の発展を目にして同地に留まることを決意し、大阪の砂糖商であった辰巳屋恒七が経営する神戸出張所に雇われました。

岩次郎は長崎で培った砂糖鑑識眼と商才で、1874年頃には神戸出張所の番頭とへと出征していきました。辰巳屋恒七は病気で引退するにあたり、大阪本店を嫁婿に、神戸店を岩次郎に与えました。 この神戸店こそ、鈴木商店の前身です。 その後、岩次郎は砂糖の輸入販売で頭角を現し、1887年頃には神戸の有力8大貿易商の一人に数えられるまでになり、神戸の貿易会副頭取、神戸商業会議所常議員を歴任しました。








金子直吉の抜擢と鈴木商店の大躍進

1894年、岩次郎が急逝すると、妻の鈴木よね(18532-1938)が店主となり、鈴木商店の経営を二人の番頭(樟脳部門担当の金子直吉、砂糖部門の担当の柳田藤松)に委ねました。 その番頭・金子直吉の采配により、鈴木商店は三井・三菱と並ぶまでに急成長を遂げていきます。

金子直吉(1866-1944)は、土佐(現 高知県)の貧しい商家に生まれ、学校にも行かず、11歳から紙屑拾いを始め、乾物屋に丁稚奉公にでました。 その後、高知の砂糖商の番頭となりましたが、商人として成功することを夢み、1886年に神戸に出て、鈴木商店に入社しました。

金子は初め砂糖、鰹節、茶、肥料の国内取引に従事していましたが、樟脳(防腐剤・医薬品・セルロイド等の原料)取引の可能性に気付き、世界最大の生産地であった台湾に赴き、台湾総督府民政長官・後藤新平の信頼を得ました。 後藤は、樟脳を専売制度に移行することによって、台湾統治の財源を捻出しようとしていました。 金子は後藤と共に専売制度実施に尽力した結果、1889年に樟脳油言って販売権を取得し、鈴木商店(1902年に合名会社に改組)が大躍進を遂げるきっかけを作りました。

1914年7月、第一次世界大戦が勃発すると、金子は海外から打電してくる報告や、国内で収集した情報を総合的に判断し、同年11月に「全ての商品船舶に対する一斉買い出動」という大方策に打って出ました。 その3、4ケ月後、大戦による需要で銑鉄、鋼材、船舶、砂糖、小麦などが大暴落し、鈴木商店は1億数千万円の巨利を博しました。

金子がイギリスの鉄に目を付け、ロンドン支店長・高畑誠一宛に「Buy any steel, any quantity, at any price」(鋼鉄と名のつく物は、何でもいいからカネに糸目をつけず買いまくれという異例の電文を打電したことは有名です。 高畑誠一(1887-1978)は神戸高商を首席で卒業し、鈴木商店に入社。 1912年にロンドン支店に派遣され、のちに20代の若さでロンドン支店長に就任。 第一次世界大戦が勃発すると、縦横無尽に商才を発揮しました。 船舶・食料不足に悩む大英帝国政府・連合国に、北海道の豆類・デンプン・雑穀などを満載した船を、船ごと売却するという離れ業をやってのけ、「カイザル(皇帝)を商人にしたような男」との評判を得ました。

1917年、鈴木商店は三井物産、三菱商事の年商を凌ぐまでに急成長し、金子はロンドンの高畑宛に「三井三菱を圧倒するか、然らざるも彼らと並んで天下を三分するか、是、鈴木商店全員の理想とする所也」と「天下三分の宣言書」を記し、拡大路線を明言しました。







鈴木商店の倒産

しかし、鈴木商店の天下は長くは続きませんでした。 1918年に米価高騰を原因とする民衆暴動(米騒動)が起き、新聞の誤報により鈴木商店が米買い占めの元凶と誤解され、神戸本店が焼き討ちにあってしまいました。 さらに、第一次世界大戦後の反動恐慌、関東大震災以後の不況により、鈴木商店の傘下企業や、事実上のメインバンクである台湾銀行が経営不振に追い込まれてしまいます。 台湾銀行は、鈴木商店が台湾の樟脳油一手販売を取得した1899年に設立され、設立当初から鈴木商店との関係が深くありました。 1926年末には台湾銀行の貸し出し5億4000万円のうち、その3分の2にあたる3億6000万円が、鈴木商店関連事業で占められるまでに膨らんでいました。 一方、鈴木商店は莫大な運用資金を台湾銀行に依存していました。

台湾銀行は債権保護のため、1922年に副頭取。下坂藤太郎を鈴木商店へ役員派遣して金子直吉のワンマン体制を是正するよう求めました。 翌1923年に合名会社鈴木商店に持株会社機能を残して、新たに株式会社鈴木商店を設立して貿易部門を移管しました。

1926年に傘下企業の日本製粉株式会社を日清製粉株式会社(現 株式会社日清製粉グループ本社)に合併させ、窮地を凌ごうとしましたが、日本製粉の財務内容の悪さが露呈して合併が破談となりました。 資金繰りの行き詰った日本製粉と鈴木商店は、台湾銀行の緊急救済融資でかろうじて命脈を保ちましたが、その過程で鈴木商店の内情と台湾銀行との癒着ぶりが露わになりました。

1927年1月に震災手形の未決済分を処理することが通常帝国会議で話し合われましたが、未決済分の半数が台湾銀行によるもので、全体の44.5%が鈴木商店関連であることが明らかとなり、貴族院は法案を通過させるにあたって台湾銀行調査委員会を設置。 台湾銀行は、コール(短資、銀行間での短期間の資金取引)市場で資金調達し、急場を凌ごうと考えました。 しかし、コール市場に資金を供給していた株式会社三井銀行などは、鈴木商店とかかわりの深かった台湾銀行に対する警戒感から、資金を引き揚げてしまいました。 ここに至って台湾銀行は資金難に陥り、鈴木商店への資金援助を停止。








傘下企業の株主構造、役員構成

鈴木商店倒産後、再興を模索する幹部たちは、子会社の一つである株式会社日本商業会社を改組して日商(日商岩井を経て,現双日)と改称。 鈴木商店の営業を日商に移転して、事実上の後継会社としました。

鈴木商店の傘下企業は100社近くあったといわれています。 日本商業会社以外に、日本製粉株式会社、クロード式窒素工業株式会社、株式会社神戸製鋼所、株式会社播磨造船所(石川島播磨重工業株式会社を経て、現 株式会社IHI)、帝国人造絹糸株式会社(現 帝人株式会社)、豊年製油株式会社、太陽曹達株式会社(現 太陽鉱工株式会社)などがありました。

このうち、日本製粉株式会社が三井物産株式会社へ、クロード式窒素工業株式会社(東洋高圧工業株式会社、三井東圧株式会社を経て、現 三井化学株式会社)が三井鉱山株式会社に買収されました。 三井銀行のコール資金引き上げが鈴木商店倒産の引き金を引いたこともあり、この買収は世間の批判を浴びました。








戦後の動向
社長会派結成したが

旧鈴木財閥の系譜を引く企業とその経営者は、1950年代前半に「鈴和会」という常務以上の懇親会を発足させ、1960年代に日商、神戸製鋼所、帝人で「三社会」を結成しました。 また、授業員のOB会として「辰巳会」も発足しました。 しかし、親密さを深めるだけで、鈴木財閥そのものを再興(もしくは鈴木グループを形成)するような動きにはなりませんでした。 旧鈴木系企業のうち、帝人は三和グループの「三水会」に参加し、日商と神戸製鋼所は、「三水会」と一勧グループの「三金会」に参加しました。








第一銀行への接近

日商は、原子力産業への進出を契機として、第一銀行・古河グループと親密な関係を構築することに成功しました。 1950年中盤、日本でも原子力産業(原子力発電、原子力船の建設)が勃興しつつありました。 しかし、原子力産業は、技術的にも企業規模の上でも、単体の企業で進出できるものではありませんでした。 そこで三菱グループは共同投資会社・三菱原子力工業を設立して原子力産業に進出し、同様に三井・住友グループも共同投資会社を設立して追随しました。

1955年頃、旧鈴木財閥系企業の懇親会「鈴和会」で、高畑誠一が「日本でも原子力産業に取り組むため、各財閥が結束を固め、グループを結成しようとする動きがある。 旧鈴木関係でも原子力に取り組むためグループ結成はできないものだろうか」と提案しました。
原子力産業には重電機・重機会社の参加が必須でしたが、三大財閥以外で原子力に参入できる企業は数少ないので、それらを結集させようと画策しました。

第一銀行をメインバンクにとする富士電機製造ら古河グループ、川崎重工ら川崎グループ
に原子力グループ結成の必要性を説き、賛同を得、第一原子力産業グループが誕生しました。 この経過で、日商は古河グループの中核商社となることに成功。 ところが河崎グループは川崎製鉄の提唱で伊藤忠商事を窓口商社に据えてしまいます。 川崎グループは旧鈴木系企業と重複する分野が多かったので、その結果、第一銀行の親密企業に、伊藤忠商事-川崎製鉄-川崎重工と、日商-神戸製鋼所-播磨造船所という2つの「商社-製鉄-造船」グループが出来上がってしまいました。 第一銀行は、伊藤忠商事-川崎グループに重心を置いたようです。








三和銀行への接近

一方、三和銀行は融資先に軽工業が多く、重化学工業との取引開拓を目指していました。そこで、財閥系企業との関係が薄い旧鈴木系企業に注目し、1967年に社長会「三水会」を結成すると、日商、神戸製鋼所、帝人に参加を呼びかけました。

三和銀行の親密商社には、日綿実業(のちのニチメン)と岩井産業があったため、日商と岩井産業の合併を仲介し、1968年に日商岩井の誕生を演出しました。 三和銀行はさらに日綿実業を合併させ、親密商社を一本化しようとしましたが、これは失敗に終わりました。
そのため三和グループでは、プロジェクトを企画する度に、日商岩井とニチメンが互いに牽制しあい、プロジェクトに支障をきたすほどでした。 日商岩井とニチメンは2003年に合併し双日となりましたが、その頃には三和グループは消滅しつつあり、この合併は経営不振に陥った総合商社の再編でしかありませんでした。








第一勧業銀行へ最接近

1971年に第一銀行が日本勧業銀行と合併し、第一勧業銀行が誕生。 一勧グループを形成し、社長会「三金会」を結成すると、日商岩井は、三水会に参加したまま、三金会への参加を申し込みました。 子の他にも、第一銀行には親密商社として伊藤忠商事、日本勧業銀行には兼松江商(現 兼松)があり、「三金会」に参加しました。 その結果、一勧グループでも親密商社を一本化することができず、ここでもプロジェクト推進に支障を来す要因になりました。















日本の財閥

日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2721.html
政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2722.html
ゴールドマン・サックスと住友財閥
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2932.html
住友財閥の歴史
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2956.html
財閥解体
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2957.html
財閥解体と再結集、そしてグループ化
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2958.html
山口財閥・三和グループ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2959.html
住友銀行の暴走と磯田会長の辞任
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2960.html
三井と住友の合弁、そして住友金属工業の「白水会」脱退
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2961.html
住友家・住友グループの特徴
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浅野財閥
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安田財閥
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鴻池財閥
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鮎川・久原財閥と日産・日立グループ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2966.html
三井財閥
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三菱財閥
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野村財閥
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2969.html
旧鈴木財閥
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ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2904.html

モルガン財閥 ここまでのまとめ
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デュポン財閥 ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-1
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-2
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編集中

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2021/8/22

野村財閥  財閥(日本・世界)







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野村財閥の紋章







大阪野村銀行の設立

野村財閥は、大阪の実業家であった二代目・野村徳七が創設した金融財閥です。
初代・野村徳七(1850-1907)は河内(現 大阪府南部)に生まれ、大阪の両替商・大阪屋に丁稚奉公に出されました。 しかし、明治維新後に大阪屋が閉店すると、徳七は独立し、
両替商を始めました。

二代目・野村徳七(1878-1945)は家業である両替商の鍾愛性を憂い、1903年頃に父を説得して2万円の出資を仰ぎ、証券業「有価証券現物問屋 野村商店」を創業しました。 従来の証券業者の多くが公社債・株式などの商品知識に乏しく、投機的な商いに終始していたことを批判し、調査に基づく科学的な証券業者を目指しました。

1906年には『大阪野村商報』を発行し、店内に調査部を設置。 その正確な企業情報は好評を博し、顧客の来店をさばききれぬほど繁盛しました。 こうして今に至る「調査の野村」の基礎を確立しました。 徳七は日露戦争後の狂乱相場で得た利益で欧米視察に出かけ、近代的な証券業の有様を目にします。 帰国後、さらに調査部を充実させ、同業他社に先駆けて大卒社員の大量採用をはじめました。

第一次世界大戦の好景気に乗じて、1917年に野村徳七商店を株式会社能村商店に改組し、翌年に株式会社大阪野村銀行、野村総本店、大東物産株式会社(第一次世界大戦の反動恐慌で1920年に破綻)を相次いで設立。 1922年には持株会社の野村合名会社(以下、野村合名)を設立し、金融財閥としての体制を整えました。 なお当時、徳七は三井銀行との付き合いが深く、三井財閥をモデルに財閥化を進めたといわれています。








野村証券の設立

しかし、反動恐慌により、大阪野村銀行(1927年に野村銀行に改称)は預金流出に見舞われます。出身母体が証券業であったため、投機に関係しているという世評による信用不安からでありました。

そこで徳七は、銀行の信用を固めるため、1923年に証券業の野村商店を株式会社大阪屋商店と改称して減資し、株式の大部分を社員に譲って、証券業と絶縁しました。 ところが、1929年の株式暴落で大阪屋商店が大損害を受けると、野村銀行も取り付け騒ぎに遭ってしまいます。 ここに至って、1930年に大阪屋商店を解散し、株式売買と完全に決別しました。 後日、大阪屋証券として再興。 現コスモ証券株式会社。

徳七は、従来の証券売買業と絶縁する一方、公社債市場の発展を背景にして、1920年に大阪野村銀行に公社債専門の証券部を設立しました。 証券部の収益は著しく向上し、1922年には独立採算制を採用。 1925年に証券部は分離され、野村証券株式会社(現 野村証券ボールディングス株式会社)が設立されました。

1931年の満州事変勃発後、わが国財政は急膨張し、国債の増発で公社債市場は活況得雄博し、野村証券も大躍進しました。 しかし、1930年代中盤から公社債市場が不振になると、1938年に株式売買を開始しました。 野村証券は設立当初、大阪屋商店との競合を避けるため、定款に株式売買を掲げていませんでした。








野村財閥の多角化

1927年の昭和大恐慌で、金融機関の破綻と統廃合が進む一方、破綻を免れた金融機関では、業務の多角化を模索しました。 こうした流れを背景として、野村財閥は既存の金融機関を買収し、信託・保険業に進出していきました。 信託分野では、藤田財閥系の大正信託株式会社買収し、1933年に大阪信託株式会社を開業。 1938年、野村信託株式会社に改称した。しかし、1943年に普通銀行の信託兼営が公布されると、同社は1944年に野村銀行に吸収合併されました。

生命保険分野では、藤田財閥系の共保生命保険株式会社を買収し、1934年に野村生命保険株式会社(現 T&D フィナンシャル生命保険株式会社)と改称しました。 尚、当時の損害保険の主力は海上保険であり、海運業を営んでいない野村財閥にとって旨味がなかったため、損害保険分野には進出しませんでした。

また、二代目・野村徳七は1916年に大阪商船株式会社(現 株式会社商船三井)が企画した「台湾・南洋」旅行に参加し、日本の財閥が東南アジアに進出している実情を目の当たりにして、積極的に「南方事業」を推進いました。 農園経営やゴム精製工場の経営などが主力事業で、野村財閥では大きな比率を占めていましたが、第二次世界大戦の敗戦で全て接収されていまいました。 野村財閥の主力である銀行業にも大きな変革の波が押し寄せてきました。

1932年、大阪の有力銀行である株式会社三十四銀行、株式会社山口銀行、株式会社鴻池銀行が三行合併を企図し、野村銀行にも合併参加を勧奨してきました。 徳七は、「野村財閥の中枢・野村銀行を合併させることは、財閥自体の存亡に関わる」と判断し、これを拒否しました。 野村銀行は自主独立の道を貫き、っ全国8位の銀行として、一流銀行の一つに数えられるまでに発展しました。








傘下企業の株主構造、役員構成

野村財閥では1928年に参加企業を次の3つに分類しました。
@直営事業 野村徳七または野村合名の直接指揮のもと経営する事業
A直系企業 野村家が人的にも資本的にも密接な関係を有し、野村合名の周囲に、野村徳
七の信任に基づく責任内閣の統轄の下に、それぞれ独自の発展を見つつある企

B主要投資企業 野村家がその株式に投資し、野村徳七が自ら重役として経営にも参加しつ
つある企業

東南アジアの農園経営が直営事業に分類され、野村銀行・野村証券が直系事業に分類されているところが特徴です。 つまり、野村徳七が手掛けている未完の事業が直営企業で、すでに事業として完成し「独自の発展を見つつある」事業を直系としているようです。

しかし、その10年後、傘下企業は@直系会社A傍系会社(野村重役1名以上が参加し、野村系で株式10%以上を所有する企業)B関係会社(野村系重役が株式を10%以下しか所有していない企業)という分類に変わっています。

これは、傘下企業の分類が、事業の進捗具合・完成度合いではなく、経営支配の度合いを指標とした、より組織的なものに変わってきたことを示すものでしょう。 尚、創業者の二代目・野村徳七は、還暦を目前にして、病弱な嗣子/野村義太郎に野村合名社長を譲り、従兄弟の山内貢(1893-1966)を専務理事に昇格させて一切の業務を統括させました。 野村財閥は、トップマネジメントの面からも、これからという時期に終戦を迎えました。






戦後の動向
野村財閥、再結集せず

戦後の財閥解体で、野村合名会社、敷島紡績株式会社(第二次指定)が持株会社に指定され、野村合名が解散しました。

戦後、野村財閥は、財閥としての統一した動きを取らず、各社がそれぞれの道を歩みました。 財閥商号使用禁止で、野村銀行は大和銀行(現 株式会社りそな銀行)、野村生命保険は東京生命保険と改称し、「野村」の看板をはずしました。 そして、その後、禁が解けても旧称に戻りませんでした。 このことが示すように、野村財閥では再結集の動きが起こらなかったようです。 1960年代に野村財閥の傘下企業が社長会をつくったようですが、その実態は分かっておらず、野村財閥の企業間の株式持s援護、ち合いも低調だったようです。

戦後、有力都市銀行は企業集団を形成していきましたが、大和銀行は中堅都市銀行に過ぎず、同行をメインバンクとする巨大企業の数も少なく、単独で企業集団を形成していくだけの力はありませんでした。 大和銀行の最大の特徴は、1990年代以前に唯一の信託兼営を認められなかった都市銀行だった事です。 1943年に普通銀行の信託兼営が認められ、各行は信託を兼営していましたが、1960年頃、金融当局が信託分離を指示しました。 ところが、大和銀行頭取・寺尾武夫は一人頑強に抵抗し、信託兼営を守りました。








野村証券の躍進

野村証券は、その積極果敢な営業姿勢で、住友銀行(現 三井住友銀行)と双璧を成し、有力な金融機関として認められるようになりました。 戦後、しばらく株式市場は低迷が続きましたが、野村証券は営業マンに過酷なノルマを課してその苦境を乗り切りました。 朝鮮戦争後、株式は好転しましたが、ノルマ営業は続行され、次第に「ノルマ証券」と批判を込めて呼ばれるようになってしまいました。

しかし、その成果もあって、国内最大の証券会社として同業他社を圧倒しました。 高度成長期に有力証券会社は「四大証券」(野村証券、日興証券、大和証券、山一証券)と呼ばれましたが、実際には「野村+三社」ではないかといわれたほどでした。 また、「大蔵省証券局は、野村証券の霞が関出張所」と揶揄されるほど、証券行政にも影響力を持ちました。 尚、1965年、野村証券は、調査部をもとに野村総合研究所を設立。 国内有数のシンクタンクとして高い評価を受けています。








大和銀行と東京生命保険の蹉跌

大和銀行は1995年9月にニューヨーク支店の米国債不正疑惑で11億ドルの赤字を出しました。しかし、これを隠蔽して米国金融当局の怒りを買い、米国からの追放処分を受けました。その結果、1998年には海外業務からの撤退を余儀なくされました。

唯一の信託兼営行であった大和銀行は、当初は他の都市銀行から魅力ある合併相手と見られていました。 しかし、1996年の日本版金融ビッグバンで、子会社方式による信託参入が可能になると、その旨みを失い、都銀再編から取り残されてしまいます。 結局2003年3月に大和銀行はあさひ銀行と経営統合し、りそな銀行となりました。しかし経営統合の直後mp2003年4月、自己資本比率を大幅に下回る可能性が発生し、政府による公的資金注入で事実上、国有化されました。


会長にはJR東日本副社長・細谷英二が選ばれ、金融機関出身ではないユニークな視点から銀行経営が図られました。 一方、東京生命保険は、1997年の金融危機で経営不振に陥り、
2001年に破綻し、太陽生命保険・大同生命保険グループ(T&Dホールディングス)に買収されました。 買収後、株式会社に転換し、同グループの窓販専用生命保険会社・T&Dフィナンシャル生命保険として再発足しました。
















日本の財閥

日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
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政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
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ゴールドマン・サックスと住友財閥
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住友財閥の歴史
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財閥解体
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財閥解体と再結集、そしてグループ化
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山口財閥・三和グループ
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住友銀行の暴走と磯田会長の辞任
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三井と住友の合弁、そして住友金属工業の「白水会」脱退
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住友家・住友グループの特徴
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浅野財閥
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安田財閥
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鴻池財閥
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鮎川・久原財閥と日産・日立グループ
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三井財閥
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三菱財閥
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野村財閥
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ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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モルガン財閥 ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-1
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-2
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2021/8/15

三菱財閥  財閥(日本・世界)








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三菱の紋章 「三菱広報委員会のホームページ」より











創業者・岩崎弥太郎

三菱財閥は、土佐(現 高知県)出身の岩崎弥太郎によって創設された財閥です。
重化学工業に強い財閥として、戦前は歴史こそ住友財閥に見劣りしますが、三井財閥に次ぐ実力を誇りました。 戦後は三菱グループに再編され、高度経済成長の波に乗って日本最強の企業集団となり、その名を世界にとどろかせ、現在に至っています。

岩崎弥太郎(1834-1885)は、土佐藩の最下層に位置する武士の出身でしたが、藩の有力者である吉田東洋に認められ、その甥・後藤象二郎の懇請で開成長崎商会に派遣されました。 開誠館は土佐藩の貿易を担い、大阪と長崎に拠点を持ちました。 後藤が長崎で借財を重ねており、その尻ぬぐいであったともいわれています。 ここで弥太郎は才覚を発揮、長崎における土佐藩の貿易を全て管理しました。

その後、開誠館長崎商会が閉鎖され、弥太郎は開誠館大阪商会に移り、事実上の責任者となりました。 弥太郎の手腕によって、大阪商会は他藩からも貿易・金融の仲介を依頼されるまでになりました。

明治維新後、近代国家建設を推し進める明治政府は、中央集権化を徹底させるため、各藩の経済的基盤を取り上げようとしました。 土佐藩は大阪商会の閉鎖をけってしましたが、板垣退助・後藤象二郎は弥太郎と協議して大阪商会の存続を図り、1870年10月9日に土佐藩から名目上分離し、九十九商会という名で独立させました。 三菱グループは、この日を創業日としています。

1871年、廃藩置県で土佐藩が廃されると、板垣・後藤ら旧土佐藩首脳は弥太郎に九十九商会を払い下げようとしました。 弥太郎は一旦は断りましたが、最終的には受け入れ、翌1872年に当時の幹部であった3人(川田小一郎・石川七財、中川亀之助)の姓にちなんで三川(みつかわ)商会と改称し、経営を存続させました。

1873年、弥太郎は自ら社主となり、社名を「三菱商会」と改め、積極的に経営に乗り出しました。 社中における弥太郎の手腕が抜きんでいたため、彼を前面に出していくことが得策と思われたのでしょう。

ちなみに「三菱」の社名は、岩崎家の家紋「三階菱」と土佐藩主・山内家の家紋「三つ柏」を合成して作ったマークに由来しています。

1870年代に不平士族の反乱(佐賀の乱・西南戦争)が蜂起すると、三菱は明治政府に全面協力して兵員と軍需品の輸送に努めました。 また、1874年の台湾出兵の際、半官半民の日本国郵便蒸気汽船が消極的だったため、大久保利通と大隈重信は激怒して三菱(1874年に三菱汽船会社と改称)に軍需輸送を要請し、官有船の使用を許可。 翌1875年、明治政府は日本国郵便蒸気汽船会社を解散し、同社船舶を三菱に払い下げて事実上吸収合併させました。 これにより、三菱汽船会社は郵便汽船三菱会社と改称しました。

こうして三菱は「政商」として国内有数の海運会社に成長していきました。 さらに弥太郎は大胆な運賃切り下げで内外の海運業者を圧倒し、遂には日本周辺の海運業を独占するに至ったのであります。

しかし、1878年5月、三菱を贔屓する大久保利通が暗殺され、大隈重信が「明治14年の政変」で失脚すると、三菱へのバッシングが強まります。 有力廻船問屋が三井と結託して共同運輸会社を設立し、三菱と熾烈な値下げ合戦を行いました。 この激闘がポークを迎える1885年2月7日、弥太郎は胃癌により死去。 弥太郎の死後、両社は共倒れを危惧して1885年9月に合併し、日本郵船会社(現 日本郵船株式会社)を設立しました。









二代目・岩崎弥之助、海から陸へ

弥太郎の死後、そのあとを継いだのは弟の岩崎弥之助(1851-1908)年でした。 それまで三菱の中核事業は海運でしたが、日本郵船株式会社が設立され、岩崎家の支配力が弱くなると、弥之助は海運業から手を引きました。

三菱では、すでに弥太郎時代から多角化を始めており、弥之助はそれら海運意外の事業で三菱の再構築を図りました。 三菱の多角の特徴は、海運業を起点として、芋づる式に次々と関連業種に拡がっていくことにありました。

のちに三菱の中核企業となる造船業は、海運業に付随する船舶修理起源とします。 当時、長崎には幕府が設立した造船所がありましたが、明治政府は民間に払い下げる事を決定。
1884年、長崎造船所は三菱に貸与され、1888年に払い下げられました。 弥之助はそれまで船舶中心だった長崎造船所に積極的な設備投資を行い、世界的な水準を誇る造船所に成長させました(現 三菱重工株式会社長崎造船所)。

明治時代初期の船舶燃料が石炭だった事もあり、1881年には高島炭鉱を買収し、鉱山経営に進出しました。 これがのちの三菱鉱業株式会社(現 三菱マテリアル株式会社)の設立へと繋がり、さらに石油販売(三菱石油株式会社を経て、現JXTGホールディングス株式会社)、石炭化学(三菱化成工業株式会社を経て、現 三菱ケミカル株式会社)へと事業を多角化していきました。

また、海運業は海上保険と密接な関係を持っていました。 1879年に渋沢栄一が日本初の損害保険会社・東京海上保険株式会社(現 東京海上日動火災保険株式会社)を設立すると、渋沢は三菱が大顧客になることを見越して、弥太郎に参加を推奨しました。 東京海上保険は、華族の共同出資に基づく企業でしたが、のちに弥之助が筆頭株主となり、同社は三菱色を強めて行きました。

三菱といえば、丸の内界隈に本社ビルが林立し、通称「三菱村」と呼ばれるビジネス街が有名ですが、この基礎を作ったのも弥之助です。 事の始まりは、明治政府が師団増設の資金を捻出するため、丸の内の陸軍用地一括売却を画策した事にあります。 しかし、その代金が余りに巨額であったため、購入希望者がおらず、時の大蔵大臣・松方正義が、弥之助に丸の内購入を懇請しました。

弥之助は、欧米視察中の三菱の重役・荘田平五郎(岩崎弥太郎の姪と結婚)に相談。 平五郎は、ロンドンのビジネス街のような近代的オフィス街建設を企図して購入を進言しました。 当時、丸の内は藪だたみの荒れ地だったので、「こんな広い場所を買って、一体どうなさるのか」と弥之助に訊いた者がいました。 弥之助は「ナニ、竹を植えて、トラでも飼うさ」と放言したと言います。









四代目・岩崎小弥太が分系会社を設立


2893年、弥之助は、三菱の事業を会社形式に整えて三菱合資会社(以下、三菱合資)を設立し、弥之助の長男である岩崎久弥(1865-1955)に社長を譲りました。 しかし引退後も弥之助は影響を持ち続け、弥之助の死後、ほどなくして久弥は社長の座を弥之助の長男・岩崎小弥太に譲りました。

岩崎小弥太(1879-1945)は旧制第一高等学校から東京帝国大学法科大学に進学するも、中退して英国園ブリッジ大学に留学。 帰国後、三菱合資の副社長となり、1916年に四代目社長に就任しました。小弥太の社長就任後、三菱合資は各部門を独立させ、相次いで直系企業(三菱財閥では直系企業のことを「文系会社」という)を設立しました。 分離した分系会社は次の通り。

1917年に造船部(長崎造船所)を分離して三菱造船株式会社を設立。
1918年に営業部を分離して三菱商事株式会社を設立。
1918年に炭坑・鉱山部を統合させて三菱鉱業株式会社を設立。
1919年に銀行部を分離して三菱銀行株式会社(現 三菱UFJ銀行株式会社)を設立しました。

さらに三菱造船は事業を多角化するため、分離と統合を繰り返します。 三菱造船は、航空機の製造に着手して神戸造船所に内燃機部を作り、1920年にこれを分離して三菱内燃機製造株式会社(のちに三菱航空機株式会社に改称)を設立しました。 ところが、技術者不足が問題となり、小弥太は造船技術者を航空機部門に転用することを思いついたといいます。 1934年に三菱造船と三菱航空機を合併し、三菱重工業が誕生しました。 ちなみに、「重工業」(Heavy Industryの和訳)という社名を初めて付けたのは小弥太です。

三菱重工業は軍需工場として有名であり、第二次世界大戦で活躍した戦艦武蔵、零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)は、いずれも三菱重工業で開発されたものであります。 また、三菱造船は船舶の電装品製造のため、電機部門に進出し、1921年に神戸造船所の電機工場を分離して三菱電機株式会社を設立しました。

一方、化学部門では、1934年に石炭化学に進出すべく、三菱鉱業と旭硝子工業株式会社(現 AGC株式会社)の折半出資で日本タール工業株式会社を設立(旭硝子は、小弥太の実弟・岩崎俊弥がガラスの国内生産を目tr機にした企業)。 同社は業容を拡げ、1936年に日本化成工業株式会社と改称します。

戦時中、政府が化学工業の非軍事部門の縮小と再編を進めるため、1942年に日本化成工業は新興人絹株式会社を吸収合併し、1944年には親会社に当たる旭硝子を合併して三菱化成工業(現 三菱ケミカル株式会社)と改称。 三菱グループの化学産業の中核企業に育って行きました。 なお、この「化成」という社名は、宇宙万物の生成発展を意味する造語で、小弥太が中国の古典『易経』を参考にして考案したといわれています。

分系会社を分離した結果、三菱合資は特殊会社の性格を色濃くしていきました。 1937年に三菱合資を改組して株式会社三菱社、1943年には株式会社三菱本社と改称し、財閥本社として分系企業を統理助長する本社という位置づけを明確にしました。 これらの企業変遷を見て分かるように、戦後、三菱グループの強みとなった重化学工業の基盤は、小弥太によってつくられました。

小弥太は当初政治家を志望していたといい、高邁な理念を掲げ、国家への奉仕を説きました。 三菱商事は、創設時の小弥太の訓示を要約して「初期奉公」「処事光明」「立業貿易」(国家社会の公益を図り、不正な取引をせず、貿易に従事せよ)を社是としました。
いわゆる「三菱の」三綱領であります。 三菱グループの理念として、今も三菱商事の役員会議室に掲げられています。 「国家と共に」という三菱グループの合言葉も、小弥太の考えを反映したものです。 小弥太は100キログラムを超える巨体と、広い包容力で、社員から「大社長」と呼ばれ敬愛されていました。








その他の傘下企業

社名に「三菱」を冠する企業の多くは、三菱本社の現場部門を分離して出来た企業です。しかし、三菱グループの企業はそれだけではありません。 日本郵船、東京海上火災日動保険、旭硝子については既に軽く述べましたので、それ以外の企業について、次に述べます。

麒麟麦酒株式会社(にちにキリンビール株式会社を経て、現 キチンホールディングス株式会社)は、1885年にジャパン・ブルワリー・カンパニーとして在留外国人によって設立されました。 しかし、経営者が本国イギリスに帰国を希望し、売却案が浮上。 同社の販売代理店であった明治屋が日本郵船と岩崎家の出資を得て買収し、1907年に麒麟麦酒株式会社を設立しました。 明治屋は、元日本郵船の社員・磯野計が、船舶に食料・雑貨を納入する店を構えたことに端を発します。

ちなみに麒麟麦酒の商標は、三菱の重役・荘田平五郎が「西洋のビールには伝統的に動物の名前が用いられているので、東洋の霊獣『キリン』を商標にしよう」と発案したものと言われています。

明治生命保険(現 明治安田生命保険相互会社)は、1881年、有限会社明治生命保険会社として国内初の生命保険会社として設立されました。 当時、慶応OBが三菱に多くいたことから三菱の宴会で慶応OBが生命保険会社の設立を談義し、荘田平五郎と阿部太蔵が中心となり、阿部が初代社長となりました。

日本工学工業株式会社(現 ニコン株式会社)は、潜水艦の潜望鏡を国産開発するために作られた企業です。 第一次世界大戦でドイツからの光学機器輸入が途絶え、三菱造船が潜水艦を建造していた関係で、三菱は潜望鏡の国産化に踏み切りました。 1917年、日本工学工業を設立。 同社が製造するのは軍需製品のため、高精度を求められ、戦後はその技術力をカメラや顕微鏡などの精密機器製造に転換しました。 1950年の朝鮮戦争で、米国カメラマンがニコンのカメラで現地撮影した写真が『ライフ』誌を飾り、この仕事が米国の最優秀写真賞を受賞した事から、ニコンの高品質が国際的に知られるようになりました。








傘下企業の株主構造、役員構成

三菱財閥では、出資状況と経営参加の程度から、傘下企業を4つに分類していました。
@分系会社 三菱本社の統理助長下にある直轄会社。
A関係会社 三菱本社において相当数の株式機を保有し、役員を派遣し、名実ともにその
経営に参与しているもの。
B傍系会社 分系会社の直轄下にある会社で、総株式に対して三菱側(本社および分系会
社)の持ち株割合が50%以上のもの。 ならびに50%以下であっても、三菱側に
おいて経営の実権を握っているもの。
C縁故会社 岩崎家の個人事業として経営され、本社が直接関係しないもの。


尚、この分類はたびたび見直され、関係会社や傍系会社から分系会社に編入される事例もありました。


財閥は財閥家族による封建的な所有を基盤とするものですが、傘下企業が肥大化するにともない、資金調達のために株式公開を余儀なくされました。 1920年の三菱鉱業をはじめとして、1929年に三菱銀行、1934年に三菱重工、1938年に三菱商事の株式が公開され、1940年には持株会社の三菱社が株式公開されました。しかし、岩崎家が三菱社の40%超の株式を所有し、三菱社が分系会社の半数近くを所有する株式所有構造は維持されたままでした。

当初、岩崎家は本社のみならず、分系会社の社長を兼任していましたが、「財閥転向」を機に専門経営者に社長職を譲りました。 そして、各社の社長が本社の取締役や他の分系会社の取締役を兼務することで、財閥としての一体感を保っていました。








財閥解体と企業集団の形成

戦後、三菱財閥は財閥解体を経て、三菱グループに再編されました。 GHQによる財閥解体で、三井・住友・安田財閥はその指示に従い、自発的な解体を表明しました。

しかし、岩崎小弥太は「三菱が国家社会に対する不信行為をした覚えはなく、また軍部官僚と結んで戦争を徴発したこともない。 国家の命ずるところに従い、国民としてなすべき当然の義務に尽くしたのであって、顧みて恥ずべきところは何もない」 という信念に基づき、自発的な解散を拒否。 GHQの指令による解体を望みました。

しかし、GHQは四代財閥の自発的解体に固執し、日本政府に指示を出しました。 時の総理大臣・幣原喜重郎は、大蔵大臣・渋沢敬三を小弥太の下に走らせ、自発的に解体するよう説得しました。 尚、幣原・渋沢夫人はともに岩崎家出身。 結局、小弥太は渋沢の説得を承諾しましたが、その翌日、悪寒を覚えて療養生活に入りました。 三菱本社理事長・船田一雄は、小弥太に代わって四代財閥が自発的解体を行う共同声明に同意。 11月に三菱本社の定時株主総会が開かれ、分系会社の統括をやめ、岩崎一族および本社役員の引退を決議しました。

この頃から、東京大学病院に入院していた小弥太は病状が悪化し、1945年12月2日、大動脈瘤破裂によって死去。 小弥太の非業の死は、残された専門経営者の結束を固める契機となりました。

財閥解体で、株式会社三菱本社(第一次指定)、三菱重工業株式会社、三菱鉱業株式会社、三菱電機株式会社、三菱化成工業株式会社、三菱商事株式会社(第三次指定)が持株会社に指定され、三菱本社が解散させられました。

また、過度経済力集中排除法により三菱系企業の多くが企業分割の対象となりました。 特に三菱商事への解散指令は過酷なものでした。 1947年7月、GHQから日本政府への覚書という形で、三井物産と三菱商事に対する指示が通知されました。 その内容は、
@会社解散および清算の即時開始
A許可なくして商取引や資産の譲渡を禁止
Bこの覚書の日付以前10年の間に、役員・顧問・在内外支店支配人または部長であった
者が集合して新たな会社をつくる事を禁止。また、同一会社にこれらの人々の二人以上
が雇用される事を禁止
Cこれら役職者以外でも、100名以上が同一会社に雇用されることを禁止
D今後いかなる会社も、三井物産、三菱商事の商号ならびに類似の商号を用いること禁止
E全ての帳簿および記録の維持、という重い内容でした

GHQは「総合商社」を特に危険視していました。









自主的に分割する企業群

その後、GHQの占領政策が方針転向したため、集排法により分割対象とされた企業の多くは分割を免れました。 ところが、三菱商事の解散を目の当たりにしたためか、三菱系企業は過剰に反応し、次々と解体を進めました。 それら企業の社史では、分割しなくても良かったが既定路線だったので、分割してしまったという語調が多くあります。

三菱製鋼は1949年12月に長崎製鋼と東京鋼材(のち三菱製鋼、三菱鋼材)に分割。 三菱重工は1950年1月に地域ごとに東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業の3社(のち三菱日本重工業、新三菱重工業、三菱造船)に分割。 三菱化成工業は1950年6月に業務ごとに日本化成工業、旭硝子、新光レイヨンの3社(のち三菱化成工業、旭硝子、三菱レイヨン)に分割されました。三菱鉱業は1950年4月に金属部門(太平金属を経て、のちに三菱金属)を分離し、二分割しました。


これら分割された企業の多くは、1952年のサンフランシスコ講和条約発効を機に、三菱商号に復帰し、その後、数十年の時を経て再び合併し、戦前の形に復帰しました。 バラバラに解散させられた三菱商事も次のような変遷をたどって再結集しています。 解散後、旧役職員は数人が集まって企業を設立しました。 三菱商事社史では、これら企業を百数十社の「新会社」といっています。

それら新会社は順次合併して1953年には4社に集約され、翌年7月には4社が「大合同」して三菱商事が復活しました。 その陰には、戦前の三菱商事首脳の指示、三菱グループ首脳の支援があったといわれています。









多いグループ企業間の合併

三菱重工は3社に分割されていましたが、これら3社が1964年6月に合併。 新生・三菱重工業が誕生しました。 三菱重工業の合併は海外でも注目され、米経済誌『フォーチュン』は「よみがえる日本の巨人」という見出しを付け、三菱の復活を大々的に報道しました。 三菱重工業の子会社的な立場にあった三菱製鋼も三菱鋼材と二分割されていましたが、1964年2月に合併し、三菱製鋼に復活しました。

また、三菱鉱業は1973年に子会社・三菱セメントと合併(三菱鉱業セメント)、サラニ1990年に三菱金属(=1950年に分離した太平金属)と合併し、三菱マテリアルとして復活しました。 さらに、三菱化成工業は1994年に三菱油化と合併して三菱化学となり、1999年に東京田辺製薬を吸収合併して三菱東京製薬を設立(現 田辺三菱製薬)。 2005年に持株会社・三菱ケミカルホールディングスを設立しました。

そして、2007年に三菱樹脂を三菱ケミカルホールディングスの完全子会社に組み込み、2010年には三菱レイヨンと経営統合。 2017年4遂には、三菱化学、三菱レイヨン、三菱樹脂が統合して、三菱ケミカルとなりました。 三菱グループは、グループ企業同士の吸収合併が多い事も特徴です。








社長会「三菱金曜会」の結成

どこからどこまでの企業を、三菱グループと定義するのか。 三菱グループはホームページを開設していますが、そこでは次のように記しています。

「今日『三菱グループ』としてその存在が知られていますが、『三菱グループ』の明確な定義はありません。 会長・社長の会である三菱金曜会を例にとれば、30社がグループのメンバーということになります。 また、共同で広報活動を行う三菱広報委員会の場合は、45社となります。 三菱金曜会メンバー及びその子会社・孫会社がメンバーになっています」。 ホームページ上に書かれているように、三菱グループには「三菱金曜会」(毎月第二金曜日開催)という社長会があります。

戦後、公職追放で各社の役員が軒並み貨車を追われ、各社社長は10歳前後若返り、中核会社の三菱重工、三菱電機、三菱鉱業の社長には、たまたま1917年入社の同期が揃いました。 彼らと同期だった石黒俊夫(1892-1964)は、三菱銀行の支店長から本社秘書役に抜擢され、三菱本社常務となり、解散する本社の代表清算人に就いていました。 石黒を中心として同期入社の社長たちが秘かに集まり、虎視眈々と三菱再結集を狙っていました。
この会合がのちに社長会「三菱金曜会」へと繋がっていきます。 一説によれば、小弥太が死の直前、かつて秘書だった石黒を呼び、三菱再生のメモを託したともいわれています。

三菱本社は解散するに当たって、丸の内一帯の不動産を別会社として分離していましたが、1953年に三菱地所がその会社を吸収合併すると、石黒は三菱地所会長に就任し、久弥の長男・岩崎彦太や旧本社役員を取締役や相談役に迎えました。 ここに三菱地所が三菱本社の不動産と役員を継承し、あたかも三菱本社が復活したような構図が生まれました。 石黒はその会長として「三菱金曜会」を主宰したのであります。








バイ三菱運動

1964年に石黒俊夫が死去すると、三菱商事社長・荘清彦が三菱グループで主導権を握りました。 荘清彦(1894-1967)は三菱合資専務理事・荘清次郎の子に生まれ、東京大学経済学部を卒業し、三菱造船に入社しました。 のちに三菱商事に転じ、機械部長を経て、常務に就任。 三菱商事解散後は三菱商事の復活に尽力し、1959年に三菱商事社長、1966年には会長に就任しました。

荘は1960年代の三菱重工業、三菱銀行のトップと親しく、グループ内で発言力を強めていました。 三菱銀行頭取・田実渉は母方のいとこで、のちの三菱重工業社長・牧田与一郎はかつて(元三菱商事機械部)の部下でした。 また、荘は、岩崎家当主・岩崎彦弥太とは小学校からの友人で、田実・牧田夫人はともに岩崎彦弥太のいちこでした。

このように1960年代中盤の三菱グループの主要企業トップは、極めて狭い範囲の人脈で構成されていました。 しかし、その視野の狭さが商売上の上では有利に働きました。
「荘さんは、全然商事そのものの仕事をしようとはしなかった。 あの人は、貸借対照表見たってわからない人だから、とにかくグループ仲良くするということが、直接三菱商事の発展につながった」と、経済記者は荘を評価しています。

1906年代に入ると、三井・三菱・住友グループの各社は、統一商標のブランド・イメージを最大限に利用。 社長会の下に共同で広報・マーケッティング委員会を設置し、グループをあげて営業推進にとりかかりました。中でも最も積極的だったのが三菱グループでした。 荘は陣頭指揮をとって「BUY三菱」運動を推進し、1965年には「あなたの三菱、世界の三菱」をグループの共通宣伝標語として掲げ、三菱系企業13社の従業員27万人、その家族約100万人を対象にして「三菱ファミリー・ショー」を開催しました。


荘は自ら主導したグループ戦略について、座談会でい次のように語っています。
三菱「グループ内で別々な動きをしていたんじゃ駄目だ。 自分達だけの力では、各個撃破されてしまう。 外国じゃ現に、三菱一本だと思われている。 金融面だって、三菱銀行と三菱信託、明治生命、東京海上と4つが、それぞれ業界の雄となっているのだから、その4つを集めてみれば、大変な金融力をわれわれのグループは持っていることになる。(中略)そうなると、買ったお金も結局三菱の金融機関に集まり、またグループ内の資金が大きくなる。 こうして、お互いの力で育っていく。 僕が"バイ三菱"というのは、その辺からなのだ。」(『丸の内だんぎ』)。 三菱の従業員がキリンビール以外のビールを飲まなくなったのも、この頃からのようです。








三菱自動車工業の蹉跌

戦後最代の企業集団であった三菱グループ。 その最大の弱点は、大衆商品、消費財部門に弱かったことです。 三菱を冠する企業で、一般的によく知られた企業と言えば、家電製品も扱う三菱電機と、RV(レクリエーショナル・ビークル=レジャー車)製造で有名な三菱自動車でしょう。

三菱自動車工業(現 三菱自動車)は、1970年に三菱重工業の自動車製造部門を分離して設立されました。 しかし、その後、三菱重王業は自動車部門を単独でやっていくのは難しいと判断し、米国の自動車メーカー・クライスラー社と技術提携および資本提携を行い、クライスラー社が三菱自動車工業の筆頭株主となりました。 ところが、クライスラー社が経営不振に陥り、同社との提携がかえって足枷になってしまいます。 一方、クライスラー社は資金捻出のため、三菱自動車工業株式の売却を打診。 1993年に資本提携を解消しました。

三菱自動車工業はクライスラー社の制約から解き放たれ、積極経営を謳歌しましたが、1990年代に米国子会社のセクハラ訴訟や総会屋利益供与事件などのトラブルが続いて業績悪化が続き、抜本的な経営再建を余儀なくされ、またもや外資との提携を模索しました。 1999年、三菱自動車工業はスウェーデンのトラックメーカー・ボルボ社と資本提携することで合意しました。 2003年、トラック・バス部門を分離し、三菱ふそうトラック・バスを設立。 2000年3月に、ダイムラー・クライスラー社(1998年にダイムラー・ベンツとクライスラーが合併。 2007年に合併解消)と資本受け入れを含めた全面提携を発表しました。

2000年7月、内部告発を受けた運輸省が三菱自動車工業本社ビルに入って監査を行い、組織的なリコール隠しが明らかとなりました。 さらに2004年3月には「欠陥車事件」が発覚。 元三菱自動車工業副社長・宇佐美隆ら5人が道路運送車両違反(虚偽報告)で逮捕される事態となりました。

2004年4月7日のダイムラー・クライスラー社の株主総会では、三菱自動車工業の支援に対して否定的な意見が相次ぎ、同社は4月23日午前に支援打ち切りを発表しました。 これを受けて、三菱グループ主要3社(東京三菱銀行、三菱商事、三菱重工業)は緊急首脳会議を開き、三菱自動車工業の大幅な経営刷新と4500億円規模の増資を伴う再建計画を決定しました。

しかし、新体制発足後も偽装の発覚は続き、2004年6月に「欠陥車問題」で元三菱自動車工業社長・川添克彦ら6人が逮捕。 三菱ブランドは地に落ちました。 三菱各社の寄り合い所帯で救済することに限界を感じた三菱グループは、2005年1月、三菱自動車工業を三菱重工業の持ち分適用会社として再建を志すことになりました。 三菱自動車工業救済劇は、三菱グループの強固な結束力を改めて世に知らしめることとなりましたが、その反面、迷走ぶりはグループの限界を露呈したと言えます。

2016年4月、三菱自動車は再び偽装工作で不祥事を起こしてしまいます。 きっかけは日産自動車からの私的でした。 三菱自動車は2011年から日産自動車と軽自動車を共同開発する合弁会社を立ち上げていました。 現行車種までは三菱自動車が開発していましたが、次期モデルは日産が開発することとなり、現行車種を測定したところ、報告値との著しい乖離が見つかりました。燃費データを改竄して、燃費を実際より最大15%良くみせていたのです。 2000〜2004年のリコール問題では、「三菱御三家」が事態の収拾に動きましたが、偽装工作では消極的でした。 もはやグループ企業だからと言って、自らを犠牲にするような支援ができない時代になっていたのです。

216年5月、日産自動車による三菱自動車救済が発表されました。 三菱自動車が第三者割当増資で約2000億円、3割強の株式を日産自動車に割り当て、実質的に傘下に入る事になりました。









三菱財閥・三菱グループの特徴

世間では、三井・三菱・住友の3大財閥を「人の三井」「組織の三菱」「結束の住友」といって比較するケースを多く見ます。 三菱財閥の中興の祖・岩崎小与太は、社員の個人プレーを好まず、あくまで三菱の「組織人」として働くことを要求していました。 三菱財閥は1934年まで財閥本社で、一括採用して各社に振り分けていました。 そのため、所属企業が違っていても、各社の役職員には「同じ釜の飯を食った」という一体感がありました。
この傾向は、一括採用組が各社のトップを務める1970年代まで続きました。 1960年代から1970年代中盤にかけての高度成長期に、三菱グループは大躍進を遂げます。

それは、三菱グループが重化学工業分野に日本屈指の企業を擁していたからだけではなく、チームワークを重視し、集団戦を得意とする三菱グループのカラーが、当時のビジネススタイルに合致していたからでしょう。 しかし、高度成長期の強烈な成功体験は、三菱グループから柔軟な発想を奪ってしまい、今では時代に取り残されてしまったようにすら思えます。

たとえば、1999年に始まったメガバンク再編で、三井と住友の企業が合併する時代にあっても、三菱グループは他社との合併にはなかなか応じず、孤高を保ち、ひときわ異彩を放っていました。 三菱グループは何よりも「三菱」という商号への信用と誇りを大事にします。 他社との合併では、三菱商号の温存と主導権の確保を重視するため、なかなか経営統合がまとまらず、しばしば話が決裂しました。 そのため、メガバンク再編後、三菱グループは「最後の企業集団」といわれていました。
















日本の財閥

日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2721.html
政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2722.html
ゴールドマン・サックスと住友財閥
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2932.html
住友財閥の歴史
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2956.html
財閥解体
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財閥解体と再結集、そしてグループ化
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山口財閥・三和グループ
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住友銀行の暴走と磯田会長の辞任
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三井と住友の合弁、そして住友金属工業の「白水会」脱退
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住友家・住友グループの特徴
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浅野財閥
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安田財閥
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鴻池財閥
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鮎川・久原財閥と日産・日立グループ
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三井財閥
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三菱財閥
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ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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モルガン財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2894.html

デュポン財閥 ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-1
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-2
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2021/8/12

三井財閥  財閥(日本・世界)






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三井家 家紋 四つ目結




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三井グループの紋章 丸に井桁三の字








三井財閥は、江戸時代から続く豪商・三井家を前身に持ちます。
戦前には日本最大の財閥として、その名を世界にとどろかせました。

戦後は三井グループに再編されますが、再結集にもたつき、三菱グループや住友グループの後塵を拝することとなりました。

三井家の先祖は近江国(現 滋賀県)の武士で、戦国時代に織田信長の近江侵攻をきっかけに、三井越後守高安は伊勢(現 三重県)に逃れ、その子・三井則兵衛高俊が伊勢松坂で質屋兼酒屋うを開いたと言われています。


三井の創業者・三井八郎兵衛高利(1622ー1694)は高俊の四男に生まれ、1673年頃、京都と江戸に呉服店を出店し、「越後屋八郎右衛門」の暖簾を掲げました。 「越後屋」という屋号は、祖父・越後守に由来しています。

越後屋は「現金掛け値なし」(現金で定価販売)といわれた商売手法で高い人気を博しました。 当時の商売は掛け売り、掛値が一般的でした。 商人と顧客が交渉して値段を決め、その代金を「付け」で払っていました。

こうなると、商人は貸し倒れなどの損失を防ぐため、金利を付けて高い値段をふっかけることになります。 越後屋は定額販売を実施して、商品の値を下げ、爆発的な人気を得ました。

その後、呉服店で得た資金を元に両替商を始め、江戸・京都・大坂間で為替業務うを開始し、巨万の富を築きました。

また、三井家には分家制度と総有制という大きな特徴がありました。 多くの子宝に恵まれた高利は、死に臨んで、総資産を長男以下に割り当てる分割相続を指示しました。 しかし、彼の遺児たちは実際には分割せず、可能な限り共同事業を続けていく誓約を交わし、その事業を統括する「大元方」という組織をつくりました。 高利の子女は9軒の分家を立て、明治には11家に増え、「三井十一家」と呼ばれました。

こうして、三井家の財産は分家同士が共同で管理・運用し、原則として分割を認めない共有財産となりました。 この共有財産制度を経営史では「総有」制と呼んでいます。








明治維新と三野村利左衛門

幕末から明維新にかけて、三井家は大きな危機を迎えました。 江戸幕府は長州征伐などの莫大な経費支出に悩み、江戸の富豪に御用金を課しましたが、中でも三井への割当額は大きく、1864年から5回に渡って計266万両という法外な御用金の上納を言い渡しました。

しかし、三井は大名貸し(大名の借金)の不良債権化や、貨幣改鋳によるインフレなどで営業状態が悪化していました。 そこで三井は、勘定奉行・小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)と親交のあった三野村利左衛門(1821-1877)を外部から起用し、幕府御用金の減免を図りました。 三野村は小栗に三井の窮状を説明して、減免を成功させました。

明治維新後、政府は大隈重信を抜擢して貨幣政策にあたらせましたが、大隈夫人は旗本出身で小栗家と縁続きでありました。 そこで三野村は、大隈とその部下であった井上馨に取り入り、1871年に「新貨幣為替御用」、金銀の地金を受け取って新貨幣を渡し、受け取った地金を造幣局に送る役目を三井が独占的に拝命することに成功しました。 三井が「政商」と化していく中、三野村は欠かせない存在となっていきました。








呉服店の分離と三井銀行・三井物産の設立

その当時、三井家の本業ともいうべき呉服店は業績が振るわず、三井家は銀行業への本格進出を渇望しました。 1872年、明治政府の財政を握っていた井上馨から、「三井家は呉服業を分離して銀行設立に専念せよ」との内命を受けました。 そこで三井家は越後屋呉服店(現 三越伊勢丹ホールディングス。 三越という名は三井と越後屋の一字ずつを取って命名されました)を形式上切り離し、

1876年に日本初の私立銀行である私盟会社三井銀行(現 三井住友銀行)を設立。 三井家の営業部門を三井銀行に、非営業部門を「大元方」に移管しました。 井上馨は政府内部の意見対立のため、1873年に部下の渋沢栄一や益田孝とともに官を辞しました。

井上、益田らは、旧知の事業家・岡田平蔵と組んで岡田組という貿易商社を設立しますが、1875年に井上は元老院議官に任ぜられ、官界に復帰してしまいます。 残された益田ら幹部は、三野村と相談して私盟会社三井物産株式会社(現 三井物産株式会社)を設立し、先収会社の東京の業務を引き継ぎました。 大阪の業務は藤田伝三郎が継承しました。

この時、三井家は同族のうち2人を戸籍から独立させ、かれらを三井物産の社主として、形式上、三井家との無関係を装いました。 その理由は資産の保全です。

すなわち、呉服店を切り離した今、三井家の事業は三井銀行と三井物産の2つしかありません。 いずれかが破綻しても、その負債がもう一方の企業に及ばないようにするための知恵でした。 このことが示すように、三井財閥の最大の関心事は、三井家の資産保全にありました。








中上川彦次郎と三井銀行改革


井上馨は、西郷隆盛から「三井の大番頭」と言われるまで三井との癒着を深めていきますが、その一方で保守的な三井家に改革を促しました。 ところが改革は遅遅として進みません。 井上は三井家に圧力をかけ、1873年に三野村を「大元方総轄」という職に任命し、三井家政の全権を委任させ、三野村を中心とした改革を試みました。

三野村は使用人の地位向上などの改革を進めましたが、1877年に死去すると、再び三井家は旧態に復しました。 1890年、時代の変革に遅れを取った三井銀行は、不況のあおりを受け、多額の不良債権を抱え込むことになりました。この難局を乗り切るために外部から人材を招聘せざるをえなくなり、福沢諭吉の甥・中上川彦次郎に白羽の矢が立てられました。

中上川彦次郎(1854-1902)は豊前(現 大分県)中津藩士の子に生まれ、慶応義塾大学を卒業後、留学先の英国で、外遊中であった井上馨の信頼を得ました。 その後、井上馨が工部卿になると、その推挙で工部省の役人となり、井上に付き従って外務省に転じました。しかし、明治14年の政変で冠を辞したのち、時事新報社社長や山陽鉄道社長を歴任します。

そして、1891年に井上の推挙で三井銀行理事に就任。 中上川は、不良債権の整理から着手し、経営の近代化を図りました。 改革を推進する人材を確保するため、多くの学卒者(特に慶應義塾OBや新聞記者出身者)を中途採用しました。

その結果、それまで政商的だった三井の空気は一変。 三井銀行の不良債権は、その多くが政治家や有力者との癒着で回収不能となっていましたが、中上川は学卒者出身の行員を差し向けて厳しく督促し、断固として回収しました。

また工業立国近代化に寄与すべく、工業化路線を積極的に推し進めました。 経営難に陥った金渕紡績株式会社(のちのカネボウ)に、朝吹英二、武藤三治、和田豊治を連れ、自ら乗り込んで再建。 王子製紙株式会社(現 王子ホールディングス株式会社)に藤山雷太を派遣して実権を握り、不良貸し付けの整理によって入手した株式会社芝浦製作所(現 株式会社東芝)の整備拡充を行いました。

三井家では鉱山業に登記することを禁止していましたが、中上川は三井物産の下にあった鉱山事業を統括して、1892年に三井鉱山合資会社(現 コークス鉱業株式会社)を設立し、三井家同族が直接出資する形としました。 こうした中上川の工業化路線は、資産の保全を第一に考える三井家の批判を受け、晩年の中上川は孤立し、1901年に不遇のうちにこの世を去りました。



中上川の死後、彼が育てた人材は各地で活躍しました。 藤山雷太は王子製紙の専務として同社を再建し、その手腕を買われて大日本製糖株式会社の斜塔になりました。 その後、王子製紙は再び業績悪化に陥り、藤原銀次郎が専務となって再建を果しました。

藤原は、王子製紙に富士製紙株式会社と樺太工業株式会社を合併させて一大製紙会社とし、「製紙王」と呼ばれるまでになりました。 彼が設立した藤原工業大学は、母校・慶応義塾大学に寄贈され、同行の工学部になっています。

また、日比翁助は三越を呉服屋からデパートメント・ストア(総合百貨店)に変革し、小林一三は阪急・東宝グループを創りました。








益田孝と三井合名の設立

中上川の死後、三井家と井上馨の信任が厚かった三井物産社長・益田孝が、事実上、三井財閥の総帥となりました。

益田孝(1848-1938)は佐渡奉行所の役人の子として生まれ、父が函館奉行所に抜擢され、同所で英語を学びました。 1863年に幕府が欧州使節団をフランスに派遣すると、父に従って同行。 帰国後、幕府が倒れたため、横浜で商売を始めましたが、井上馨、五代友厚の推挙で造幣局に入りました。 その後、井上と行動を共にして先収会社で貿易事業を始め、同社が1876年に三井物産になると、事実上のトップとなりました。

1880年代、益田は防錆業の勃興を見越して紡績機械や綿花の輸入に力を入れ、1890年代には外国間貿易で成功し、大きな利益を上げました。 1900年代には三井物産の取引額は約2億円に達し、我が国貿易の2割強を占めるに至っています。


また、三井の事業を統括強化するため、1902年、三井家同窓会(1893年に設立された三井家の最高議決機関)に管理部を作って、その千美理事となり、事業の再編・方針転換を行いました。 三井物産を育ててきた益田は、商業・金融の推進者であり、工業分野への投資には否定的でした。 益田は中上川のとった工業化政策を次々と否定し、三井家の事業を商業、金融、鉱山に特化していきました。

三井の諸企業は年々、拡大の一途をたどりましたが、これが破綻すると三井家に甚大な危険を及ぼしかねませんでした。 そこで、益田は三井家をリスクから遠ざける方策を検討しました。 特に三井銀行が過去に取り付け騒ぎを起こしていたことから、三井銀行調査係長に報告書を提出させるとともに、欧米視察に出掛けた際に財閥組織を研究し、事業会社を有限責任である株式会社化する決断をしました。

1909年、益田は三井家同窓会管理部を法人化して持株会社・三井合名会社(以下、三井合名という)を設立し、傘下の合名会社(三井銀行、三井物産、、五井鉱山など)を株式会社に改組しました。 これにより、傘下の株式会社が破綻しても、その責任が波及するのは株主である三井合名までにとどまり、三井重一家には及ばない体制が構築されました。








理事長・団琢磨の暗殺

益田は三井財閥の事業・組織を事業・組織化した事を見届け、1914年に勇退しました。 後任には三井鉱山の団琢磨を推挙。 三井合名は業務規程を改定して理事長制を敷き、団が初代理事長に就任しました。

団琢磨(1858-1932)は福岡藩士の子に生まれ、旧藩主・黒田長知に随伴する海外留学生に抜擢され渡米。 MIT(マサチュ-セッツ工科大学)で鉱山学を学び、帰国後、三池炭砿に赴任しました。 ところが明治政府所有であった御池炭砿を民間に払い下げることになり、1887年、三井物産が落札。 団琢磨も三井入りしました。

それまで三池炭砿は稚拙な設備で採炭しており、団は幾度となく設備増強を建言しましたが、政府筋は取り合いませんでした。 しかし、三井の買収後、団の申し入れは受け入れられ、三池炭砿は良質の石炭を大量に採炭できるようになり、一躍、三井のドル箱と化しました。

「あのヤマ(三池炭砿)を三井は少し高く買ったが、団さん付きと考えれば安い買い物だった」といわれたほど、団の評価は高いものがありました。 団は鉱業かを嫌う益田と強調しつつ、鉱業・化学を中心に三井の工業化路線を推進しました。 三井家の当主・三井八郎右衛門高棟(1857-1933)は団に並々ならぬ信頼を寄せ、口うるさい分家を抑えて団を支援しました。 しかし、財閥批判の中、1932年、団は右翼テロによって暗殺されてしまいました。

団の死後、三井銀行筆頭常務・池田成彬が三井合名筆頭常務理事(事実上、三井財閥の総帥)に招聘されました。 また、三井家当主は高棟が引退し、長男・三井八郎右衛門高公(1895-1992)が三井合名社長に就任しました。 しかし。若い三井家当主では分家を抑える事が出来ず、池田は「合名に行ってから、私の時間なりエナジーなりの7〜8割方まではその方(三井家対策)に使い、あとの2〜3割だけが本当の合名の仕事に向けられた」と述壊するほど苦労しました。








池田成彬の財閥転向

池田成彬(1867-1950)は米沢藩・江戸留守居役の子に生まれ、慶応義塾大学卒業後、ハーバード大学に留学。 帰国後、時事新報社に入社しましたが、薄給を不満にして3週間で退社。 同年、慶応義塾長の推薦で三井銀行に入りました。 中上川彦次郎に気に入られ、その長女と結婚。 1919年に三井銀行筆頭常務(三井銀行の事実上のトップ)となりました。

1933年、三井合名筆頭常務理事に就任した池田は、財閥批判をかわすために「財閥転向」を実行しました。 池田は三井一族を直系の会社の役員から退任させ、財団法人三井報恩会を設立して、社会貢献に努めることを発表。 さらに三井物産の筆頭常務取締役・安川雄之助を更迭しました。

当時、三井物産は営利追及に走っているとして、社会的に大きな批判を受けていました。安川雄之助は「物産の安川か安川の物産か」と言われた実力者で、子会社であった東洋レーヨン(現 東レ)の株式公開で私利私欲に走ったとの社会的批判があり、池田は安川を辞任させることで、三井財閥への批判を和らげようとしました。

また、池田は高すぎる役員報酬を引き下げ、定年制を導入。 1936年に自ら定めた定年制に従って退職しました。 その後、1937年に日本銀行総裁、1938年に大蔵大臣兼商工大を歴任することになります。








三井本社の改編

三井合名は、「財閥転向」による多額の寄付や戦時下による増税のため、財務体質が悪化します。 そこで立て直しのため、三井合名を株s規会社化して、株式を一部公開し、資金調達することを企図しました。

しかし、株式会社化には、三井合名を一旦解散して新たに株式会社を作るか、既存の株式会社に合併させるしかありませんでした。 解散の場合、三井合名には膨大な含み資産があり、巨額の清算所得税を納める必要がありました。 そこで三井物産と合併する案が浮上。
1940年、子会社であった三井物産株式会社が三井合名会社を吸収合併することで、事実上、三井合名の株式会社が実現しました。

本社機構と貿易部門を兼ね備えることになった三井物産は、本来、「三井本社」のような社名に改称すべきでしたが、三井物産という社名を捨てるのは適切でないとの判断があり、三井物産のままとしました。 尚、吸収合併に伴い、三井合名から三井同族の持つ土地・建物を切り離し、1941年に三井不動産株式会社を設立しました。

株式を公開したことにより、資金調達能力は向上しました。 しかし、本社機構を兼ねた三井物産が、三井鉱山ら兄弟会社を統制するという「機構上の無理」が表面化し、三井物産から本社機構の再分離を余儀なくされます。 1944年、三井物産は貿易部門・木材工業部門を分離。 本社機構を純粋な特殊会社として株式会社三井本社と改称し、貿易部門を三井物産株式会社、木材工業部門を三井木材工業株式会社としました。








傘下企業の株主構造、役員構成

ここで三井財閥の傘下企業について記述します。 三菱・住友財閥では、本社から事業部門を分離し、直系企業を設立していきましたが、三井財閥では全く逆の手順をとりました。まず、三井一族がそれぞれ出資して直系会社(三井銀行、三井物産など)を設立し、その後に持株会社(三井合名)が設立され、資本関係を整備しました。

直系会社を株式会社化して、その全株式を三井合名が所有し、三井合名に三井一族が共同出資するという構図です。

三井銀行、三井物産、三井鉱山などは、それぞれ独立した企業として設立され、おのおの事業活動を展開し、個別に採用を行っていました。 従って、三菱・住友財閥に比べ、三井財閥の直系会社間には財閥としての一体感はありませんでした。 また、三井物産は事業化に際して幾つかの子会社を設立していきましたが、これら子会社の間には産業上の繋がりはほとんどありませんでした。

第一次世界大戦後、三井物産は1918年に大正海上火災保険株式会社(現 三井住友海上火災保険株式会社)、1925年に三機工業株式会社、1926年に東洋レーヨン株式会社(現 東レ株式会社)を相次いで設立。 また、事業部を分離して幾つもの企業を設立しました。

192(のち株式会社トーメンと改称し、豊田通商株式会社に吸収合併)、1937年に造船部を分離して株式会社玉造造船所(現 株式会社三井E&Sホールディングス)、1942年に船舶部を分離して三井船舶株式会社(現 株式会社商船三井)を設立しました。

同様に三井鉱山も、1933年コークス製造事業に進出して、東洋高圧工業株式会社(三井東圧化学株式会社を経て、三井化学株式会社)を設立し、1941年に化学工業部門・研究所を分離して三井化学工業株式会社(東洋高圧工業と合併し、三井東圧化学を経て、三井化学)を設立しました。 また、北海道炭砿汽船株式会社、株式会社日本製鋼所の株式を取得して支配下に置きました。


このように、三井財閥の有力直系会社である三井物産・三井鉱山は、事業多角化で子会社を設立し、それぞれ数多くの参加企業を抱えた持ち株会社と化しました。 一方、三井銀行は戦時中に国策による金融機関の合併が推進されると、1943年に第一銀行と合併して株式会社帝国銀行となり、一時、三井財閥の直系会社から除外されてしまいます。


三井財閥では当初、三井十一家の各当主が各社の社長以下取締役を占めていましたが、「財閥転向」を機に三井家の取締役を退任させ、専門経営者がこれに代わりました。しかし、三菱・住友財閥に比べて直系会社間の役員兼任は低調で、意志の疎通を欠いていました。 むしろライバル視していたという証言もあります。 「戦前の三井財閥の傘下企業は業績向上に懸命の努力を払ったものだ。特に物産、鉱山、銀行の三社は三井合名の主導権を掌握することを狙って烈しい競争を演じた」といいます(『三井ー企業グループの動向』)。 こうした財閥としての一体感の欠如が、戦後のグループ再結集をもたつかせる元凶となりました。







財閥解体と企業集団の形成、弱い銀行と進まぬ再結集

戦後の財閥解体で、株式会社三井本社(第一次指定)、三井物産株式会社、三井船舶株、式会社、三井鉱山株式会社、三井化学工業株式会社、北海道炭砿汽船株式会社(第三次指定)が持株会社に指定され、三井本社が解散し、 三井財閥は財閥解体を経て、三井グループに再編されました。

三菱・住友財閥では、都市銀行を中心とした企業の再結集と、旧財閥の経営者の会合(社社長会)発足を両輪として、企業集団を形成していきました。 ところが三井では、三井財閥としての一体感がなく、なかでも戦後の三井銀行トップが再結集に最も否定的で、その三井銀行の資金力も乏しく、三井系企業を取りこむことが出来ませんでした。

終戦直後の三井銀行社長(三井銀行では頭取とは呼ばず、社長と呼びました)は佐藤喜一郎で、当時、三井グループの内部でも最も影響力のあった人物でした。 佐藤は長い外国暮らしと持ち前の合理的な性格から、グループの結集には否定的な立場を取り続けていました。 三井グループ再結集に意を注いだ江戸英雄は次のように述壊しています。

「佐藤氏は企業の提携、結集というものを嫌い、徹底した自由競争こそが進歩の途であると考えていた。 三井銀行がグループ内のすべての企業の面倒をみる必要はないし、それぞれの企業が自主的にやればよい。 銀行は銀行としての経営の健全化を図るべきとの考えであった。 私などが機会あるごとに、物産合同や三井各社の結集の必要性を訴えても、『もう財閥は解体されたのだし、いまはそんな時代じゃないよ。 財閥の復活など考えるのは時代錯誤だ』と常に消極的な発言をしていた。 佐藤社長は当時、三井グループの中心的存在であっただけにその発言には重みがあった」。


戦後の三井グループの弱体化の一因として、三井銀行の資金力不足が指摘されています。池田成彬がっ小店舗主義をとった上、戦後に合併した第一銀行と分離して店舗を分け合ったことから、三井銀行は店舗数は少なく、大衆預金を獲得することが難しかったことがあります。 そのため、三井銀行は各社に対する融資額を抑えざるを得ませんでした。 成長力の高い三井系企業、戦前に三井と関係の深かった優良企業は、三井銀行を見限って、他の都市銀行から融資を引き出すようになりました。

現在、三井の社長会「二木会」メンバーであるトヨタ自動車工業(現 トヨタ自動車)、東京芝浦電気、王子製紙、小野田セメント(現 太平洋セメント)は、戦前、三井財閥の影響下にありましたが、戦後しばらくの間、三井グループから距離を置き、世間では独立系企業と認識されていました。







進まぬ株式持ち合い

三井グループでは株式持ち合いもなかなか進みませんでした。 これには二つの側面があります。

まず一つ目に、企業の間側に株式を持ち合おうという意識が薄かった事。 例えば、三井物産は主要な取引先の一つである東レ、三井化学の株式を全然持たず、三井東圧、三井化学の株式持ち合いもまったくない。 これについて三井系有力会社のある首脳は「関係会社の株を10万や20万持ったところで、どうなるもんじゃない。 そのくらいのカネがあるなら、設備改善に向けるなり、もっと有効に使うべきだよ」と割り切っています。 このへん、株式持ち合いに異常なほどの関心を示す住友系企業との、体質を感じさせる」(『週刊東洋経済』1960年12月24日号)。三井グループの自由主義というか合理的な発想が、株式持ち合い、ひいてはグループの結集に踏み出せなかった要因としてsげられるのかも知れません。

二つ目は、銀行の姿勢であります。 株式持ち合いとは、株式を物々交換するのではなく、株式を互いに購入する行為です。 ところが高度経済成長期の企業は借金漬けで、株式持ち合いするにもカネがない。 当然、銀行に借り入れを頼みますが、三井銀行の社長・佐藤喜一郎は「現在の日本は、企業・法人が法人の株を持っていることが余りに度が過ぎているから、私は問題じゃないかと思っている」と語る御仁である(三井物産『回顧録』)。 具体的な記録には残っていませんが、株式持ち合いのための融資を渋ったに違いありません。 これでは株式持ち合いが進むわけがなく、ここでも銀行がネックとなりました。









三井物産の大合同

財閥解体で三井物産、三菱商事は徹底的な解散に追い込まれ、その役職員はそれぞれ「新会社」を設立し、1954年7月、三菱商事は「大合同」して復活を果しました。 これに対し、三井物産の合併構想は年を重ねるごとに混迷の度合いを色濃くしていきました。

三井物産の大合同で問題となったのが、商号継承問題です。 1951年に「三井物産」の商号継承に関して、旧三井物産系「新会社」14社の社長がこの問題を話し合い、「新会社」の一つ、日東倉庫建物に「三井物産」の看板を預けることとなりました。

当時、「新会社」は第一物産と室町物産に収斂しつつありましたが、大合同の方向がまだ定まっていないにも関わらず、日東倉庫建物は勝手に商号復帰して「三井物産」を名乗り、1953年に室町物産と合併。 事実上、室町物産に「三井物産」の看板を譲り渡してしまいました。

そこで第一物産は対抗策として、1954年に三井木材工業を合併し、「新三井物産」に社名変更すると発表しました。 最終的にグループ会社からの圧力で、第一物産は社名変更を断念。 さすがに徹底した「自由主義」の三井グループ各社も、この時ばかりは名門・三井物産の再興に結集しました。 当事者である第一物産と室町物産のにらみ合いはその後も続きましたが、1959年2月、やっと三井物産は「大合同」を果しました。

三菱商事の大合同からすでに5年の月日が経っていました。 大合同がもたつく間、戦前、
圧倒的な強さを誇った三井物産は、三菱商事に商社トップの地位を奪われ、後塵を害するに至りました。








江戸英雄と社長会「二木会」の結成

終戦後、三井グループで傑出した存在感を見せつけた佐藤喜一郎が、1959年に三井銀行社長を退いた後、グループで主導権を握ったのは、三井不動産社長・江戸英雄でした。

三菱・住友グループでは、1950年代前半に社長会を結成していましたが、三井グループでは社長会結成の機運が盛り上がらず、1961年になってやっとグループの社長会「二木会」(当初、第二木曜日に開催したため、その名がつきました)が結成されました。

江戸英雄(1903-1937)は茨城の農家に生まれ、東京大学英法科卒業後、三井合名に入社。
三井総元方総務部次長を経て、戦後は三井本社の清算業務に携わり、旧本社重役と共に三井家資産の後始末と三井家対策に当たりました。

終戦直後から江戸は三井グループ再結集を試みていましたが、1947年にようやく三井不動産管理部副部長になったばかりで、とても各社に号令をかけるような立場にありませんでした。 しかし、1955年、社長に就任して徐々にグループ内で頭角を現し、二木会の結成にこぎつけました。 その後、1974年に三井不動産会長に就任し。1987年には取締役相談役に退きますが、終生、三井グループに影響力を持ち続けました。

江戸の奮闘は、それまでグループ内で地位の低かった三井不動産を「三井御三家」の一角に押し上げました。 戦前の「三井御三家」は三井銀行、三井物産、三井鉱山でしたが、戦後、三井鉱山が斜陽化したため、代わりに三井不動産が「三井御三家」に数えられました。 社長会「二木会」は1970年代になって、「なんとか二木会を活性するために、三井の直系でなくても、銀行の取り引きを通じて関連のある企業、その中でも、次の時代を担う企業を仲間に入れる事を考えました。 それで1945年9月に日本製粉、三井建設が正式に参加、続いて東芝、王子製紙、三越(正式加盟は1948年1月)、トヨタ自動車(1949年10月)が順メンバーとして加わりました。 これらの企業は戦前は三井合名と深い関係にあり(トヨタを除く)、それが戦後、やや疎遠になっていったものですが、これでようやく元のサヤに収まった感じです。 中でも東芝、トヨタの参加は画期的なことでありました」(『私の三井史』)。


つまり、三井銀行の資金不足で三井から離れていた傍系の会社の中から、大手企業を選んで社長会に招聘し、関係強化を図ったのでありました。 しかし、「少なくともこの5〜6年、二木会にトヨタがでているところはまず見た事がない」(『週刊ダイヤモンド』2016年4月2日号)といわれ、その効果は限定的のようです。








三越事件

「三越事件」とは、1982年に三越の経営上のトラブルが問題になり、社長・岡田茂が取締役会で解任された事件であります。 岡田茂は1972年に三越社長に就任しますが、1982年2月の本決算において営業利益で業界首位から3位に転落、5月の株主総会では経営責任を問われるまでに至りました。 6月には独禁法違反の疑いで公取委に排除勧告を受けました。

また、同年8月には「古代ペルシャ秘宝展」で偽物展示のうたがいが掛り、新聞各社が大々的に報道。 アクセサリー商・竹久みちとの不正取引が経済雑誌で暴露され、業績だけでなく、イメージの低下も招きました。

成功の理由は星の数ほど様々なパターンがありますが、失敗のパターンは限られており、清栄心、つまらぬ女性との関係、失敗の原因の本質は「根拠なき楽観」です。 企業経営では虚栄心と根拠なき楽観による不動産投資、プライベートでは恋愛・受験・就職・結婚・子育て・ビジネスなどがあります。 これが分からない人は何度でも失敗を繰り返します。

1982年9月17日、密グループの社長会「二木会」の代表(三井物産社長・八尋俊邦と三井不動産社長・坪井東)は三越のイメージ低下が三井グループに及ぼす影響を危惧して記者会見を行い、三井グループの総意として岡田社長退陣を求める声明文を発表しました。
岡田はあくまで社長続投の姿勢を崩さず、9月22日の三越取締役会に臨みました。 しかし、腹心の専務・杉田忠義に社長解任を動議され、社長の座を追われました。 この時、岡田が放った「なぜだ!」というセリフは有名になりました。 岡田は三井財閥グループに泥を塗ったお馬鹿な男として、今も語り継がれています。









都銀再編と三井鉱山の解体

1999年10月の都銀再編で、さくら銀行(旧 三井銀行)は住友銀行との合併を発表。 2001年4月に三井住友銀行が誕生しました。 また、2001年10月に三井海上火災保険、住友海上火災保険が合併(三井住友海上火災保険)。 2003年4月に三井建設・住友建設が合併しました(三井住友建設)。 こうした動きから、一部では「三井グループと住友グループが融合する」という観測が広がりましたが、現在では否定されています。 というより忘れられつつあります。

その一方、戦前「三井御三家」の一角を占めた三井鉱山は、債務超過から脱却できず、2003年に産業再生機構の管理下に置かれ、事実上国有化という屈辱を味わいました。2004年、産業革新機構の指導下で、三井鉱山は三井鉱山コークスとともに、子会社の三井鉱山物流に吸収合併され、新たに三井鉱山を名乗りました。 その後、三井鉱山は経営陣を刷新、財務体質の強化、事業選択を進め、再建への軌道に乗せました。 2005年、産業再生機構は保有株式を大和証券SMBCプリンシパル・インベストメンツ。新日本製鉄、住友商事の3社に売却し、これら企業の下で再出発を図り、2008年再建を完了。 栄光ある「三井鉱山」の看板を下ろし、2009年に日本コークス鉱業と社名を変更しました。








三井財閥・三井グループの特徴

三菱・住友財閥は製造業中心だったこともあり、年功序列・チームプレーを重視し、均質的に優秀な社員を備えるため、教育・研修に熱心でした。 これに対し、金融・商業中心の三井財閥は、個人の資質・創造性を重視し、「教育」よりも「抜擢」を得意としました。

江戸英雄は、三井グループが戦後地盤沈下した理由を4つ挙げていますが、その最初に「伝統的に自由主義、自主独立の思想が強く、直系会社間の結束力が弱い」ことを挙げています。

また、商業資本が優先し、重工業に弱い、石炭に固執し石油エネルギーの対応に失敗した、金融機関による資金供給力が弱い事も挙げられます。

高度経済成長期では、集団戦を得意とする三菱・住友グループが交流を極め、個人戦を得意とする三井グループが斜陽化しました。












日本の財閥

日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2721.html
政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2722.html
ゴールドマン・サックスと住友財閥
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2932.html
住友財閥の歴史
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2956.html
財閥解体
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2957.html
財閥解体と再結集、そしてグループ化
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2958.html
山口財閥・三和グループ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2959.html
住友銀行の暴走と磯田会長の辞任
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2960.html
三井と住友の合弁、そして住友金属工業の「白水会」脱退
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2961.html
住友家・住友グループの特徴
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2962.html
浅野財閥
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2963.html
安田財閥
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2964.html
鴻池財閥
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2965.html
鮎川・久原財閥と日産・日立グループ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2966.html
三井財閥
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2967.html















ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2904.html

モルガン財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2894.html

デュポン財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2919.html

ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2917.html

日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2918.html
財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-1
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2815.html
財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-2
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2950.html






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2021/8/10

鮎川・久原財閥と日産・日立グループ  財閥(日本・世界)





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鮎川家家紋






日産コンツェルンは山口出身の事業家・鮎川義介によって創設されました。 その前身は、鮎川の義弟・久原房之介(くはらひさのすけ)が創設した「久原財閥」であります。しかし、第一次世界大戦後の恐慌反動で経営危機に陥り、その経営を託された鮎川が、久原財閥を再編して日産コンツェルンを創設しました。 久原房之助(1869-1965)は、長州(現 山口県)出身の政商・藤田家の出身で、藤田家もまた「藤田財閥」といわれ財を築きました。 藤田財閥の祖は、房之介の叔父・藤田伝三郎(1841-1912)です。
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伝三郎は幕末期に騎兵隊に参加し、明治維新後は政商として活躍しました。 1881年に長兄・藤田鹿太郎、次兄・久原庄三郎(久原家へ養子縁組)と藤田組(同和鉱業を経て、現 DOWA)を設立。 政府から秋田県小坂鉱山(銀山)の払い下げを受け、鉱山経営に着手しました。

小坂鉱山は苦しい経営が続き、藤田組は閉山を決意。久原庄三郎の子・久原房之助を鉱山所長心得(代行)に任命して残未処理に当たらせました。 しかし房之助に閉山する気はありませんでした。

小坂鉱山の銀は枯渇していましたが、銅鉱石が埋蔵量豊富であることに着眼し、銅山として再建しようと企図したのです。 これが見事に当たり、小坂鉱山は全国有数の銅山になります。 この小坂鉱山の再建を契機に、藤田組の経営は軌道に乗り、業績は好転してゆきます。しかしその後、藤田家は経営の主導権を巡って親族間でいさかいが起こり、1905年、房之助と藤田小太郎(長兄・藤田鹿太郎の遺児)は出資分を伝三郎に譲渡し、分与金を受け取って退職しました。







前史としての久原財閥

房之助は、退社と同時に茨城県日立村(現 日立市)の赤沢鉱山を買収、1905年に合資会社久原鉱業所日立鉱山事務所と名付け、経営に乗り出しました。 1012年、久原鉱業所を久原工業株式化社に改組。 1915年、久原鉱業の株式公開により。去おマンの富を得ました。 房之助はその資金を元に多角化を進め、久原鉱業購買部を分離して株式会社日立製作所を設立しました。


房之助は事業拡大には熱心でしたが、傘下企業の統括には注意を払わず、その歪は、第一次世界大戦後の反動恐慌で訪れました。 久原商事が1億円の負債を出して破綻し、久原財閥は経営危機に陥りました。 こうして久原鉱業以下の久原家諸事業は、1926年、久原の義兄・鮎川義介に債務整理が委ねられました。






久原鉱業を持ち株会社・日本産業に改編

鮎川義介(1880-1967)は元長州藩士の子に生まれ、東京帝国大学機械工学科を卒業後、工学士の肩書を隠し。一職工として株式会社芝浦製作所(現 株式会社東芝)に入社しました。 将来、独立し手事業を興すには、現場の経験が必須との考えからでありました。

現場での経験や近在の工場を見聞した結果、我が国機械工業の弱点が鋼管・可鍛鋳鉄の製造技術の未熟さと結論づけました。 そこで鮎川は芝浦製作所を2年で退社し、渡米して可鍛鋳鉄の技術を習得。 日本人の器用さと勤勉さがあれば、欧米企業と対等に渡り合えるとの確信を持つに至りました。

帰国後、親族縁者の支援を受け、1910年に九州戸畑に戸畑鋳物株式会社(現 日産自動車株式会社)を設立。 製品は高い品質を誇り、「可鍛鋳鉄といえば戸畑」と呼ばれるに成長しました。

久原財閥が経営危機に陥ると、鮎川に経営再建が託されました。 鮎川は資金調達に奔走。実弟・政輔が故藤田小太郎の養子になっていたので、その未亡人に40万円の資金援助を申し入れました。 生前の小太郎が鮎川を高く評価していたことから、未亡人は支援を即決。
鮎川はそのカネで久原鉱業の債務処理に成功。 1928年3月に久原鉱業社長に就任しました。

鮎川は親族による資金拠出に限界を感じていた一方、久原鉱業はすでに1万5000名近い個人株主を擁していました。 そこで、1928年12月、久原鉱業を日本産業株式会社と改称し、持ち株会社に改組。 大衆資本を導入した「公開持株会社」を実現することで、積極的な事業展開を図りました。

日本産業は、鮎川の親族が経営する企業を次々と傘下に組入れ、1937年頃には三井・三菱財閥に次ぐ、国内3位の巨大財閥へと成長しました。







日本産業の満州移転

1937年、日本産業は満州国(中国の北東部)の要請で同地に移転し、満州重工業開発株式会社と改称するとともに、倍額増資して増額分を満州国政府に引き受けさせ、半官半民の国策会社に転換しました。

ことの発端は、満州国が1933年に発表した「満州経済建設基本綱領」にあります。 満州国はそれによって経済振興を企図しましたが、充分な成果を上げる事が出来ず、そこで1936年に鮎川ら事業家数人を招聘して満州を視察させ、彼らに所見を求めました。 その中で鮎川の発言が際立って優れていたため、満州国政府は鮎川構想を全面的に受け入れ 、日本産業を誘致したのです。

こうして鮎川は日産コンツェルンの本社機構を満州国に移転し、日本・満州両国にまたがる一大コンツェルンの建設を企図したのであります。 しかし、満州国の産業開拓は、鮎川が思った通りには進みませんでした。

そこで、鮎川は、満州重工業開発が持つ日産コンツェルン傘下の日本企業の株式を、自らが経営する企業(株式会社日産)に移管した後、1942年に満州重工業開発総裁を辞任しました。







鮎川家の閨閥と傘下企業

鮎川家の叔父は、明治の元勲・井上馨です。 井上は、西郷隆盛から「三井の大番頭」と揶揄され、三菱以外のすべての財閥に影響力があると割れるほど、経済界に影響力がありました。 また、鮎川家は地方有数の資産家との婚姻関係を結んでおり、鮎川はこれら姻戚の事業を買収して日産コンツェルンに組入れていきました。

ここで鮎川の姻戚と日産コンツェルンの傘下企業について列記します。 まず、鮎川自身が設立した戸畑鋳物株式会社があります。 鋳物の用途は中小規模の製品に限られていましたが、鮎川は「小さなものを造っていたのでは、会社はこれ以上発展しない。 自動車エンジンの鋳物を主体として自動車関連にはいるのがよい」と考え、1933年に日産自動車株式会社に改称しました。 いうまでもなく「日産」とは日本の産業の略であります。

次いで、鮎川の義弟・久原家も事業に、日本鉱業株式会社(現 JXTGホールディングス株式会社)、日立製作所株式会社、日産化学工業株式会社、日本油脂株式化社(現 日油株式会社)、日産生命保険株式会社がありました。

日本鉱業株式会社は、1929年に久原鉱業の鉱山事業を引き継いで設立されました。 株式会社日立製作所は日立鉱山工作課の修理工場を分離した物であります。

また、久原は西本願寺門徒が設立した共保生命保険株式会社を1916年に買収し、1940年に日産生命保険株式会社に改称しました。 戦後、相互会社に改組、1997年に破綻しています。

さらに日本化学工業を買収して日産化学工業株式会社を設立し、その油脂部門を分離して日本油脂株式会社を設立しました。

久原房之介助の実兄・田村一郎は母方の実家を継ぎ、タムラ姓を名乗りました。 田村家の経営する共同漁業株式会社(のち日本水産株式会社、現 ニッスイ株式会社)と、同社の冷蔵販売部門を分離した日本冷蔵株式会社(現 ニチレイ株式会社)は日産コンツェルンに組入れられました。

なお、田村家は造船業へも進出し、株式会社大阪鉄工所を買収して、1943年に日立造船株式会社と改称しました。

鮎川義介の実弟・政輔の養子先である藤田家の経営する株式会社日本蓄音機商会(現 日本コロムビア株式会社)。 鮎川の義弟・貝島家が経営する中央火災海上傷害保険株式会社(日産火災海上保険株式会社を経て、現 損保ジャパン日本興亜株式会社)も、日産コンツェルンに組入れられました。








傘下企業の株主構造、役員構成

日産コンツェルンの研究で知られる宇田川勝氏は「昭和8年期頃までの日本産業は、特殊会社といっても小原家から引き継いだ日本鉱業、日立製作所、日立製作所電力などの株式を所有するだけであったから、日本産業社長の鮎川義介がそれらの会社に『会長として入り、オーナー的存在で経営方針や融資のことを世話』する以外、とりたてて総合的管理を実施する必要がありませんでした。

しかし、昭和8年期以降、日産の本社機構・機能をフルに活用した多角化戦略が開始され、その結果異種多彩な会社が傘下に入ってくると、それらに相応したコンツェルン機能の整備と管理方式の確率が緊急に必要」となり、日産による傘下企業への横断的な管理を導入したといいます。

しかし、「この横断的な管理方式は傘下企業の側からかなりの反発を受け、予期しなたほどの成果をあげえませんでした。」 その理由して、各社が独自に長い歴史を有した当該産業分野の大会社であり、日産は大株主であったものの各社の旺盛な資金重要をまかないきれず、傘下企業が独自に資金調達し、独自性を強めて行ったからだと指摘しています。(『新興財閥』)。








戦後の動向
新興系企業集団の形成と日産・日立グループ


戦後の財閥解体で、株式会社日産、株式会社日立製作所、日産化学工業株式会社(第二次指定)、日本鉱業株式会社(だ第三次指定)が持ち株会社に指定され、日産が解散しました。

日産コンツェルンは戦時中すでに財閥本社の焼失(満州国への移転)を経験していたので、財閥解体後の緩やかな関係構築は円滑に進み、幾つかの懇親会の設立を経て、1962年に社長会「春光会」を結成しました。

しかし、ニッサンコンツェルンには銀行がなかったこともあり、日産・日立グループとして企業集団を形成するには至らず、他グループの脅威になるような集団にはなりませんでした。 傘下企業はそれぞれ富士銀行(現 みずほ銀行)や三和銀行(UFJ銀行を経て、現 三菱UFJ銀行)と関係強化していき、1960年代に芙蓉グループや三和グループに組み込まれました。 日本冷蔵、日本油脂、日産自動車、日立製作所は、富士銀行を中心とする芙蓉グループの社長会「芙蓉会」に参加しました。

日立造船、日立製作所は三和グループの社長会「三水会」に参加し、のちに日立製作所の小会社(日立化成工業、日立金属、日立電線、新明和工業、日東電気工業)も三水会に参加しています。 日立化成工業は現在、昭和電工に売却されています。

また、日産火災海上保険、日本コロムビア、日立製作所は一勧グループの社長会「三金会」に参加しました。 ちなみに日立製作所は、複数の都市銀行と等距離を保ち、みつの社長会(芙蓉会・三水会・三金会)に参加していました。








日産生命保険の破綻

日産・日立グループが一つの企業グループとして認識されたのは、皮肉にも日産生命保険の破綻をめぐってのことでありました。 1997年4月、日産生命保険が債務超過に陥り、大蔵省から業務停止処分を受けました。 っ事実上の破綻です。 これが戦後はじめての生命保険会社の破綻でありました。

未曽有の事態に大蔵省は迷走し、業界最大手の日本生命保険に救済を求めましたが断わられ、破綻処理は生命保険協会に委ねられました。 生命保険協会は日産・日立グループ八社
(日産自動車、日産火災海上保険、日立製作所、日本水産、ジャパンエナジー[旧 日本鉱業]、日立金属、日立電線、ニチレイ)に対して出資を要請、その出資で株式会社形式の受け皿会社を設立することを検討しました。

しかし、日産生命保険は株式会社ではなく相互会社なので資本関係がなく、日産・日立グループの企業が資本拠出する法的根拠が薄く、そのため、グループの中核企業である日立製作所と日産自動車は、生命保険協会の案を一蹴しました。

ここに至って生命保険協会は日産・日立グループによる再建の設立を断念。 新規営業を行わず、既存契約の維持管理業務だけを行う新会社・あおば生命保険株式会社の設立を決定しました。 こうして、日産生命保険の契約は、あおば生命保険株式会社に包括移転されました。 1999年、あおば生命保険は、仏プランタングループのアルテミス社に250億円で売却され、2005年にプルデンシャル生命保険会社に吸収合併されました。









日産自動車の経営再建と破綻

1999年3月、日産自動車は経営不振を打開するため、仏ルノー社はカリロス・ゴーンを日産自動車COO(最高執行責任者)に派遣。1999年10月、カルロス・ゴーンは再建計画「リバイバルプラン」を発表。 系列会社の株式を放出して系列取引関係w見直し、部品調達先の選択肢を広げて購買コストをひき下げるなど、次々と再建策を断行。日産自動車を見事に復活させました。

しかしながら、当時の日本は、バブル崩壊でマスディアが騒ぎ立て、無慈悲な大リストラ、高額での外国人社長招聘がもてはやされた(メディア受けが良い)時期で、ゴーンもすぐに馬脚を現してしましました。



日産は十分調べなかったのか、カルロス・ゴーンの父親であるジョルジ・ゴーンは神父を殺害し、1961年に死刑判決を受けたが、後に禁固15年に減刑され1970年に出所したものの、間もなく偽札製造の罪で逮捕され、禁固3年(別の報道では禁固15年)の刑に処された。その後、1975年に勃発したレバノン内戦の混乱に乗じてレバノンからブラジルへ移住したものと報じられて世間を驚かせました。

2016年5月、ガールフレンドのキャロル・ナハス(Carole Nahas)と再婚し、同時にゴーンの60歳の誕生日祝いも兼ねて、結婚披露宴を日産の費用でベルサイユ宮殿の大トリアノン城で行なってみたり、

ゴーンの個人住居は6軒、東京、パリ、ベイルート、リオデジャネイロ、アムステルダム、ニューヨークにあり、購入費用は日産自動車に負担させていると様々なメディアが伝えているとんでもない男でした。

挙句の果て、2018年11月19日、日産において開示されるゴーン自身の役員報酬額を少なくするため、長年にわたり、実際の報酬額よりも少なく見せかけた額を有価証券報告書に記載していたとして、東京地検特捜部により金融商品取引法違反容疑で代表取締役グレッグ・ケリー とともに逮捕されました。 ビジネスジェットで羽田空港に着陸したタイミングで特捜部の捜査員に逮捕された形となりました。日産自動車の西川廣人社長は、同年11月22日に招集する取締役会議でゴーンを同社の会長職を解任する方針と説明した。日産は内部通報により、数か月間の内部調査を行ってきたことをプレスリリースで明らかにしている。

逮捕を受け、日産自動車の川口均CSOが総理大臣官邸を訪れ、菅義偉内閣官房長官に謝罪や日仏関係の維持のための協力要請を行いました。駐日フランス大使館によると、翌20日には、ローラン・ピック駐日フランス特命全権大使が東京拘置所を訪れ、ゴーン会長と面会を行ったとされています。

11月22日、日産の取締役会において日産の会長職と代表取締役から解任され取締役となり、同月26日には三菱自動車においても会長職と代表取締役から解任され取締役となりました。

2018年12月、東京地検はカルロス・ゴーン、グレッグ・ケリー、日産自動車を金融商品取引法違反で起訴しました。 2019年1月、東京地検はカルロス・ゴーンを特別背任罪で追起訴。

2月6日、フランスのフィガロ電子版は、ゴーンが2016年に開いたベルサイユ宮殿での結婚披露宴の際に、ルノーの資金を不正に使った疑いがあると報道し、事件はルノーにも飛び火。

3月5日、東京地方裁判所は保釈を許可する決定をし、検察の準抗告も同日深夜に棄却され、翌6日、保釈保証金(金商法違反事件で2億円、特別背任事件で8億円)の納付後に保釈されました。東京地裁の決定に対し、東京地検の久木元伸次席検事は「保釈条件に実効性がない」とする異例のコメントを行いました。

3月12日、日産の社内調査において、少なくとも50件の不正が発覚。4月2日、ルノー社が社内調査を仏検察当局に対し報告、それによればゴーンのCEO在籍時の2011年から5年間に渡り、オマーンの販売代理店スハイル・バハワン・オートモービルズに数百万ユーロの資金が流れていた他、CEOオフィスからもレバノンや英領バージン諸島の会社などを含む様々な組織に支払われており、その中にはカルロス・ゴーンの息子のアンソニー・ゴーンが共同出資者に含まれている会社もあrました。

4月4日、中東オマーンの販売代理店側に支出された日産の資金の一部を不正に流用した疑いが強まったとして、東京地検特捜部は特別あ背任の容疑で4度目の逮捕。 検察内部には在宅での追起訴でよいとの慎重論もありましたが、いわゆる「オマーンルート」疑惑の捜査のため再逮捕になったと報じられています。

このオマーンルート並びにサウジアラビアルートでは、カルロス・ゴーンと親しかった実業家のハリド・ジュファリや上記のスハイル・バハワンも関わっていると報じられている他、代理店やゴーン自身が事実上管理する投資会社であるレバノンのGFIから、ペーパーカンパニーを介して自身の妻と息子(アンソニー・ゴーン)に送金すると言った手口が浮かび上がっています。

4月23日にパリで開かれた日仏首脳会談でフランスのエマニュエル・マクロン大統領は日本の安倍晋三内閣総理大臣に対してカルロス・ゴーンを適切に処遇するよう求めました。

4月25日、再度保釈された。前回の保釈時は作業着姿に変装していましたが、今回はノーネクタイのスーツ姿での保釈となりました。



そしてゴーンは保釈中に、プライベートジェットで、レバノンへに逃亡・亡命。
日産・日本政府・鮎川財閥の信用は地に落ちました。お馬鹿メディアに評価されようとする阿呆な経営陣・日本政府の結果です。








春光グループ

日産コンツェルンは、戦後、「日産・日立グループ」と呼ばれていましたが、1990年代に「日産」を社名に冠する企業の低迷が相次いだためか、自らを「春光グループ」と称しています。

ちなみに社長会「春光会」の名のいわれは、最初の開催地が春光会館だったことに由来します。 春光会館は、戦前、日本鉱業だった伊藤文吉(総理大臣・伊藤博文の息子)の邸宅で、文吉の稚号である「春光」から命名されました














日本の財閥

日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
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政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2722.html
ゴールドマン・サックスと住友財閥
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住友財閥の歴史
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財閥解体
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財閥解体と再結集、そしてグループ化
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山口財閥・三和グループ
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住友銀行の暴走と磯田会長の辞任
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三井と住友の合弁、そして住友金属工業の「白水会」脱退
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住友家・住友グループの特徴
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浅野財閥
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安田財閥
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鴻池財閥
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鮎川・久原財閥と日産・日立グループ
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ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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モルガン財閥 ここまでのまとめ
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デュポン財閥 ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-1
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-2
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2021/8/9

鴻池財閥  財閥(日本・世界)





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今でこそ「鴻池」の名はあまり聞かれませんが、江戸時代には三井、住友と並ぶ三富豪の一角を占めていました。

鴻池の先祖は、戦国時代の名称・山中鹿之助幸盛であったという伝説が残っています。
鹿之助の遺児・山中新六幸元が、摂津国伊丹(現 大阪府伊丹市)の鴻池に逃げ延び、酒造業を始めたのが、鴻池家の発祥と伝えられています。 新六は、どぶろく(濁り酒)に灰を混入すると清酒になることを発見。

一説には、新六に恨みを持つ使用人が酒樽に灰を巻いて逃げ、翌朝、どぶろくが清酒になっていたと言います。 どぶろくしかない当時、清酒は飛ぶように売れ、大船を擁して江戸に販路を拡大し、莫大な利益を上げました。

新六の子が鴻池善右衛門を名乗り、以降、鴻池の当主は代々善右衛門を襲名することになります。






初代・鴻池善右衛門

初代・鴻池善右衛門正成(1608-1693)は、清酒運送の経験を生かして海運業にも手を広げ、その利益で両替商も始めました。

3代目・鴻池善右衛門宗利(1667-1736)は酒造業を廃止て両替商専業となり、鴻池家繁栄の基礎を築きました。 幕府の新田開発奨励に沿って、河内国(現 大阪府南部)に鴻池新田を開発した事も著名です。

鴻池家は大阪最大の両替商に成長し、大名相手に高利で金貸し(大名貸し)を行うようになっていきます。 17世紀後半に鴻池家と取引のあった大名は32藩、幕末には76藩に及び、大名諸侯から「日本の富の七部は大阪にあり、大阪の富の八部は今橋(鴻池邸)にあり」といわれるほどでした。

幕末期には新選組に脅されて200両を献金したことにより。明治政府から疎まれ、1871年の廃藩置県で大名貸しは棒引きされてしまいました。 しかし、鴻池の財力はそれくらいでは尽きませんでした。

10代目・鴻池善右衛門幸富(1841-1920)は1877年に、第十三国立銀行を設立。 1896年に国立銀行の私有銀行転換が可能となったので、1897年に個人経営の鴻池銀行を設立して、第十三国立銀行の営業を引き継ぎました。 1900年に合名会社、1919年に株式会社に改組。

鴻池家は大阪一の大富豪であったため、新規事業の創設にあたって、信用力のある「看板」として担ぎ出され、企新設時に出資を要請されることが多く、1889年に日本生命保険株式会社社長、翌年に大阪貯蓄銀行株式会社頭取にかつがれました。







原田二郎の堅実経営

しかし、1880年代後半、鴻池家は保守的経営で衰退を始めました。 11代・鴻池善右衛門幸方(1865-1931)の義理父・三井高安は、鴻池家の衰退を憂いて、井上馨に人材の斡旋を請います。

「中上川改革」で成功を収めていた三井銀行の総長(頭取)が高保その人だったからです。 井上は1899年に外交官の島村久を推し、鴻池銀行理事に押し込み、ついで、大蔵省出身の原田二郎が候補に擬せられました。 鴻池銀行東京支店支配人・芦田順三郎の義兄弟だったからだと言います。

1902年に井上は原田を鴻池銀行理事に指名し、1907年に専務理事としました。 原田は徹底した堅実経営を行い、それまで方々に出資していた資金を引き揚げ、鴻池家が名誉的に就任していた会長職を辞任しました。 例えば、日本生命保険、大阪貯蓄銀行の株式を売却して、役員を辞職し、両社は山口家の支配下となりました。 こうして鴻池の家業は金融(合名会社鴻池銀行)、倉庫(大阪倉庫株式会社)、農業に集約されました。

しかも取り付け騒ぎを恐れて鴻池銀行の神戸・名古屋支店も他行に譲渡し、業績低迷を続けた大阪倉庫を1913年に東神倉庫株式会社(現 三井倉庫ホールディングス株式会社)に売却してしまいます。 その結果、一時的な現金収入は増えましたが、原田の堅実経営が鴻池家の衰退を決定的なものにしました。







遅すぎた加藤晴比古の改革

1919年に原田が引退すると、鴻池家でもさすがに消極的な経営方針が問題とないました。
そこで日本銀行総裁・井上準之助の推薦で、日本銀行営業局長・加藤晴比古を招聘し、鴻池財閥を立て直すこととなりました。

寡頭は、1919年に合名会社鴻池銀行を株式会社に改組し、3倍以上に増資しました。 また、1921年には鴻池合名会社(以下、鴻池合名。 現 鴻池合資会社)を設立して、鴻池家の土地、有価証券らの資産を一括管理し、一大改革を試みました。

しかし、原田が消極策を講じていた明治時代末から大正時代にかけて、第一次世界大戦にともなう好況で、他財閥は大躍進を遂げていました。

加藤にいかなる才能があっても、その間、ひたすら守勢を決め込んでいた鴻池財閥に挽回する余地はありませんでした。

『川崎・鴻池コンツェルン読本』では、街株会社。鴻池合名の他、鴻池財閥の傘下企業として株式会社鴻池銀行・鴻池信託株式会社・山上株式会社・鴻池ビルジング株式会社の4社のみを挙げています。 通常、この手の書籍では、少しでも影響のある企業があれば、「傍系会社」「関係会社」として紹介するにもかかわらず、鴻池財閥ではそういう企業さへなかったということでしょう。 併せて紹介されている河崎財閥では、27社が傘下企業として挙げられています。







鴻池財閥の消滅

1933年12月、株式会社鴻池銀行は株式会社三十四銀行、株式会社山口銀行と三行合併し、株式会社三和銀行(現 株式会社三菱UFJ銀行)となりました。 また鴻池信託は、三和銀行の誕生を受け、1941年に関西信託や共同信託と合併して三和信託株式化社となり、最終的に三和銀行に合併されてしまいます。

結局、鴻池銀行、鴻池信託はともに三和銀行に収斂され、鴻池家の力が及ばないものになってしまいました。

通常、財閥であれば、傘下企業といえないまでも、幾つかの企業に株式投資をしているものですが、原田が所有株式を売却してしまい、鴻池財閥には親密企業さえほとんど見当たりませんでした。 河崎金融財閥・山口財閥では。傘下企業の系譜を引く金融機関同士が親密な関係を維持し、何らかの名残を残していましたが、鴻池財閥ではそれもなく、「鴻池」をにおわせる痕跡は完全に消え去ってしまったのです。













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2021/8/1

安田財閥  財閥(日本・世界)





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安田家の家紋 輪違い紋(七宝紋)





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安田財閥のロゴマーク











初代・安田善次郎

安田財閥は、富山県出身の銀行家・安田善次郎によって創設された財閥です。 初代・安田善次郎(1838-1921、実際は5代目ですが、財閥関連書籍では初代としています)は、富山藩の下級武士の子として生まれました。

安田家は半農半士の家柄で、善次郎は武士身分での栄達が困難と悟り、江戸で商人になることを志します。 1858年、善次郎は反対する父を説得し、江戸で丁稚奉公をはじめ、玩具店、両替商に奉公しました。 1864年には両替商兼鰹節・海苔小売店「安田屋」として独立し、のちに「安田商店」を名乗りました。

善次郎は両替商としての鑑定眼にすぐれ、古金銀の取引で利益を上げ、明治維新後は政府が発行した太政官札(最初の紙幣)の取引で、一躍財を成したといわれています。


明治政府は、米国に倣って、銀行設立するための法令、国立銀行条例を1872年に制定しました。 しかしながら、国立銀行といっても、国法に基づく銀行という意味で、国営ではありません。

善次郎は大蔵省から銀行の開設を勧められ、1876年に第三国立銀行(のちの株式会社第三銀行)を設立しました。 また、国立銀行条例が改正され、銀行類似会社が「銀行」という名称を使用することが可能となると、1880年に安田商店を、私立銀行の合本安田銀行に改組しました。 合本とは株式会社という意味で、のち株式会社に改組。

1885年頃、安田銀行と第三国立銀行は、三井銀行、第一国立銀行(のちの株式会社第一銀行)に次ぐ大銀行に発展し、その10年後には第一国立銀行を上回るに至りました。 善次郎は二つ銀行を柱に、経営不振に陥った地方銀行を救済して系列化しました。

保険業にも進出し、1880年に生命保険会社の共済500社(安田生命保険相互会社を経て、明治安田生命保険相互会社)の設立に参加。 損害保険会社の東京海上火災保険火b式会社(安田火災海上保険株式会社を経て、損害保険ジャパン日本興亜株式会社)に資本参加し、1890年代に筆頭株主になりました。


また、安田家の資産の維持・保全を確かなものとするため、三井家を参考にして安田一族を「同族10家」に組織化し、家憲・家法を制定。 安田家の資産管理顔者として、1887年に保善社を設立。、1905年に合名会社安田保全社に改組しました。

善次郎は、日頃から「自分は事業が好きであるが、性格が臆病で卑怯であるから銀行家となった」と述べ、金融業に専心しました。 非金融事業分野(製釘、綿糸紡績等)として、1899年には、安田商事を設立しましたが、大きく発展しませんでした。 むしろ同郷の事業家・浅野総一郎を高く評価し、その傘下企業に対して積極的に投資する道を獲りました。






結城豊太郎の改革

安田財閥において初代・善次郎の存在感は圧倒的でしたが、1921年9月、国粋主義者によって暗殺されてしまいました。

安田家には、後継者も専門経営者も育っていませんでした。 初代・善次郎の長男である二代目・安田善治郎(1879-1936)は温厚な趣味人で、安田財閥を率いるだけの覇気にも乏しい人物でした。

そこで、初代・善次郎は、東京帝国大学卒の伊臣貞次郎を婿養子に迎えて安田善三郎(1870-1930)と名乗らせ、家督をyずりました。 しかし、善三郎の近代的な経営手法は安田家の反感を買い、善次郎暗殺の前年に善三郎は安田家からついほうされてしまいました。

初代・善次郎の急逝に経営陣は狼狽し、外部から大臣級の人材を招聘しようと発案。 日銀総裁・井上準之助の推薦により、1921年、日本銀行理事兼大阪支店長の結城豊太郎(1877-1951)が安田財閥に招聘されました。

結城は、二代目・善次郎を補佐する形で安田保善社専務理事、およびy安田銀行副頭取に就任し、安田財閥n事実上のトップとなりました。 結城は、安田財閥の近代化のために様々な改革を行いました。



19223年、安田系銀行22行のうち、株式会社安田銀行、株式会社第三銀行、株式会社百三十銀行、株式会社明治商業銀行、株式会社日本商業銀行など11行を対等合併し、新生・安田銀行を誕生させました。 これにより、安田銀行は国内最大の銀行となります。

また、安田財閥の閉鎖性打破のため、学卒者を大量採用し、組織改革を断行しました。結城以前の安田財閥は、初代・善次郎が「高い棒給を払って、英才を集めて仕事に従事させる必要は認めない」主義で、学卒者の採用に職局的でした。 しかし、結城は学卒者を安田保善社で一括採用して関連の銀行・会社へ配属するように改め、1922年に30名の学卒者を採用しました。 結城は、自ら東京大学に乗り込んで、安田の将来性を講演したといいます。

学卒者採用は1924年には、180名にも及び、以降、毎年100名の学卒者を採用し続けました。 これら学卒者は、戦時下の安田財閥の発展、戦後の芙蓉グループのの形成を担う人材へと育っていきました。 結城は「自分は国家的な観点から仕事をとする。即ち安田のために仕事をするのではなく、安田の組織を、国家のために役立たせるように運用するのだ」と吹聴し、その傲慢不遜で独断専行な手法は、安田一族や番頭の反発を買い増した。

特に初代・善次郎の四男である安田善五郎は、「結城に金を使われて安田を潰すくらいなら、この俺が潰す。 国家のために安田を利用して貰うなどという目的で来てもらったのではない」と憤慨しました。 こういして1929年、結城は辞任。 事実上の解任でした。






三代目・安田一の改革半ばで終戦

結城の辞任に伴い、前台湾銀行頭取・森広蔵が安田財閥に招聘され、安田保善社理事、安田銀行副頭取に就任。 結城に代わって、新しい安田財閥のリーダーになりました。 森は地味で慎重な性格で、安田財閥に調和をもたらすよう尽力しました。

1936年、二代目・善次郎が急死し、その長男・安田一(1907-1791)が29歳の若さで安田保善社総長に着任しました。 二代目とは違い、安田一は事業に関心を持っていました。 1940年、森は安田銀行副頭取を辞任し、徐々に安田一を中心とする体制に移行していきました。 若き三代目は安田財閥の改革を進めていきましたが、間もなく終戦を迎えることになります。






傘下企業の株主構造、役員構成

安田財閥では、安田一族が持株会社・安田保善社の株式を100%所有し、安田保善社と安田一族が参加企業の過半数の株式を所有し、傘下企業を@関係会社、A常勤役員派遣会社、B平役員派遣会社、C関係会社投資会社の4つに分類してました。

直系企業にあたる関係会社には、安田銀行(戦後、株式会社富士銀行に改称し、現 株式会社みずほ銀行)、安田信託株式会社(現 みずほ信託銀行株式会社)、株式会社安田貯蓄銀行(株式会社 協和銀行を経て、株式会社りそな銀行)、株式会社十七銀行(現 株式会社福岡銀行)、株式会社四国銀行、株式会社大垣共立銀行、株式会社肥後銀行、安田生命保険株式会社(現 明治安田生命保険相互会社)、安田火災海上保険株式会社(現 損害保険ジャパン日本興亜株式会社)、日本動産火災保険株式会社(日動火災海上保険株式会社を経て、東京海上日動火災保険株式会社)、東京建物などがあります。


ただし、傘下企業の中では、祖業である安田銀行の存在が他を圧倒しており、持株会社の安田保善社ですら、安田銀行からの出向者で運営していたほどでした。 一方、傘下企業の役員構成は、安田一族が各社役員を兼務して支配する構図が徹底していました。

特に安田善五郎は安田保善社の理事、安田銀行の取締役の他、5つの銀行の頭取、安田信託、帝国製麻社長など計19件の役員を兼任し、多方面にわたって睨みをきかせていました。 専門経営者のトップ・森広蔵ですら、安田保善社の理事、安田銀行副頭取の他は数件しか役員を兼任しておらず、専門経営者にとって不遇な財閥であったことが分かります。






財閥の解体と再結集
安田財閥再結集せず、富士銀行の成長戦略

戦後の財閥解体で、安田財閥関係で持株会社に指定されたのは。合名会社安田保善社だけでした。 財閥解体や角経済力集中排除法では、なぜか金融機関が除外されたため、金融財閥に分類される安田財閥では、分割・解散された企業は少なかったのです。

三菱、住友財閥は財閥解体後、再結集を目論み、1950年代には都市銀行を中心に企業集団として再発足しました。 しかし安田財閥では、中核企業の安田銀行が全く別の道を選びました。 すなわち、安田財閥の再結集(=安田グループの形成)ではなく、自らを中心とした企業集団・扶桑グループの形成でありました。


1948年、安田銀行は金融機関再整備にともない、富士銀行に改称しました。 1952年のサンフランシスコ講和条約発効により、財閥称号・商標の使用禁止が廃止され、旧財閥系都市銀行が相次いで旧称に復帰する中、富士銀行は解消を行わず、安田財閥からの脱皮をアピールしました。 同時期、大阪銀行は住友銀行に、千代田銀行は三菱銀行に復帰しています。

旧安田銀行は圧倒的な店舗数を背景に大衆預金を集め、終戦直後は市中銀行トップであり、解消後は「カラコロ富士(下駄履きで行ける大衆銀行)」と標して、敷居の高い三大財閥系銀行との差別化に成功しました。


1950年代になると、三菱・住友グループが再結集し、三菱銀行、住友銀行が首位の富士銀行の追撃を始めました。 三菱・住友グループには重化学工業分野に多くの優良企業があり、両行は盤石な取引基盤を持っていました。

一方、旧安田財閥には事業部門に優良企業がなく、富士銀行は劣勢を強いられました。 そこで富士銀行は三菱銀行・住友銀行との競争に打ち勝つ戦略的構想を練りました。 それが、「経済主流取引」です。

「経済主流取引」とは、その時々の経済情勢において、主流を成すと思われる経済主体との取引を強化することであります。 富士銀行は、「経済主流取引」戦略に沿って優良企業を選別し、そのメインバンクになっていきました。 例えば、浅野財閥(日本鋼管・日本セメント)や大蔵財閥(大成建設)、日産コンツェルン(日産自動車・日本油脂・日本冷蔵)や森コンツェルン(昭和電工)などの有力企業であります。 これらの企業がのちに扶桑グループの中核メンバーになっていきます。






芙蓉グループをつくった二人

富士銀行の成長戦略「経済主流取引」を発案したのは業務部で、当時の業務部長は常務・岩佐凱実であり、実際に「経済主流取引」というキャッチフレーズを考案したのは、業務部総合企画課長代理・松沢卓二でした。

岩佐凱実(1906-2001)は陸軍少将の子に生まれ、日銀理事の養子となりました。 東京大学法学部を卒業し、安田銀行に入行。 戦後、取締役に抜擢され、常務を経て1963年に富士銀行頭取に就任しました。 岩佐は銀行きっての財界人で、経済同友会発足に携わり、1959年から1961年まで代表幹事を努めました。

後に「手前味噌となるようだが、系列にとらわれない企業グループを形成すると言うストラテジーを展開していく上で、私は自分が培ってきた人脈がかなりモノをいった、と思っている」と述べています。

松沢卓二(1913-1997)は、東京大学法学部を卒業し、安田銀行に入行。 岩佐の二代後の頭取として1997年に就任しました。 松沢は企画を中心とした経営戦略を持論に持ち、企業経世にはうってつけの人材でありました。 1966年に社長会「芙蓉会」が結成されると、その事務局は富士銀行企画部が担い、松沢が実質的な事務局長に就いたと想定されています。







1950年代から1960年代

1950年代、富士銀行は、岩佐が中心となって有力取引先の社長・役員などと会合を持ち始め、融資先企業間の人脈形成を推進していきました。 また、融資先の鉄鋼商社・高島屋高田が経営危機に陥ると、1955年に同社を繊維商社・丸紅に吸収合併させ、丸紅飯田(のちに丸紅と改称)としました。 元来、丸紅は住友銀行をメインバンクとしていましたが、この合併を機に富士銀行と親密となり、その尖兵として芙蓉グループの形成に寄与しました。

1960年4月、日本鋼管(NKKを経て、現JFEホールディングス)の千葉進出構想をグループで支援し、総合コンビナートを作り上げる目的で、富士銀行は融資先の5社(丸紅飯田、昭和電工、日本鋼管、東燃石油化学、日本油槽船)と企画部長クラスの会合を結成しました。
計画を具体化するため、同年11月、富士銀行などは共同で出資し、浚渫会社(河川・運河などの土木工事を行う会社)の芙蓉会社を設立しました。

ところがその後、日本鋼管の単独進出に計画が方針転換されて、芙蓉開発の出番がなくなってしまいます。 そこで、富士銀行は常務・仁谷正雄を芙蓉開発に派遣し、社長に就任させました。 当時、仁谷は、芙蓉開発を富士銀行の融資先企業の連携強化の拠点に転換し、出資会社を増やすとともに、グループ活動を拡大していきました。






芙蓉懇談会・芙蓉会の結成

1964年12月、芙蓉開発が中心となり、グループ3社の営業担当役員が一同に会して、「芙蓉懇談会」を開催しました。 その目的は、各社の従業員ならびに家族に各社製品を認識し愛用してもらうというグループ内マーケットの確保と販売拡大であり、芙蓉グループ各社間の取引を拡大することにありました。

さらに、1966年1月には社長会「芙蓉会」を結成しました。 そのメンバーは安田財閥の系譜をひく富士銀行、安田信託銀行、安田火災海上保険、安田生命保険、東京建物、浅野財閥の日本鋼管、日本セメント、沖電気工業、日本精工、昭和海運、大倉財閥の大成建設、大倉商事(のちに大会)、森コンツェルンの昭和電工、ニッサンコンツェルンの日立製作所、日産自動車、日本冷蔵、日本油脂、子津系の東武鉄道、日清紡績、日清製粉、サッポロビール、その他に丸紅飯田、東亜燃料などであります。


芙蓉懇談会と芙蓉会が結成された当時、三菱グループが「BUY三菱」運動を提唱して企業集団ぐるみの広報・マーケッティングを推進し、住友・三井グループが追随していた時期であります。

昭和電工・安西正夫は、芙蓉グループ形成について「ヨソが固まるから、我が方もグループ化する」と語っています。 換言するなら、旧財閥系企業集団のマーケッティング戦略が
、富士銀行の融資先企業の危機感を煽り、企業集団の形成を促したと指摘できます。






低成長期でグループ活動が低迷

1970年代中盤のオイルショックで日本経済が低成長期を迎えると、企業の資金需要が後退し、都市銀行の威光に陰りが見えはじめ、芙蓉グループは急速に求心力を弱めていきました。 さらに旧財閥系企業集団のマーケッティング戦略が失速し、岩佐・安西に支えられた財界人脈が世代交代によって希薄化していくと、芙蓉会は存立する基盤と前提を失っていきました。

そこに至るまでに、グループ企業間の商取引や株式持ち合いが再構築され、旧財閥系企業集団のような排他的で強固な関係が出来上がっていれば、求心力の低下は一時的な弛緩で住んだ筈でした。 しかし芙蓉グループではそのような関係は生まれませんでした。

たとえば、芙蓉会メンバーの日清製粉は、同じ芙蓉会メンバーの丸紅より、三菱商事との取引を重視していました。 かつて日清製粉が経営危機に陥った際に、救済してくれたのが三菱商事だったからです。 そのため、社長・正田英三郎は、三菱商事に就職した際、実家が経営する日清製粉に戻ったほどでした。

従って芙蓉会が出来たから、三菱商事から丸紅に乗り換えるという訳にはいきませんでした。 このように、芙蓉グループでは従来の商取引が足枷となり、なかなかグループ企業間の商取引を再構築することは出来ませんでした。


株式持ち合いは商取引に沿って行われるケースが多いですが、芙蓉グループの株式持ち合いを見ると、明らかに旧財閥系企業集団の三井・三菱・住友グループに比べて目が粗く、金融機関と事業会社間の持ち合いは活発ですが、事業会社間の株式持ち合い、つまりは商取引が進んでいない事が分かります。こうしてオイルショック後、芙蓉会は実質的にその役割を終えてしまいました。

形骸化した会合は、グループ企業間の親睦を深めるものの、それ以上の効果は生み出しません。 1990年代のある芙蓉グループ首脳は「芙蓉会で話し合われたことが、実際の経営に影響を及ぼしたことはなかった」と述懐しています。







芙蓉バッシングと安田信託銀行の救済

三井・三菱・住友グループに比べ、地味な存在であった芙蓉グループですが、その存在がクローズアップされたのは、皮肉にも1990年代後半の「芙蓉バッシング」でした。 1980年代後半、日本企業は空前のバブル景気に沸きましたが、1990年代に入ってバブル経済が崩壊し、多額の不良債権を抱かえるに至りました。

1997年4月、遂に日産生命保険が破綻します。 戦後初の生命保険会社の破綻でした。 かつて「国内の主要金融機関は倒産させない」と豪語していた大蔵省は、1994年に発覚したスキャンダル事件(イ・アイ・イ社長・高橋はるのり からの過剰接待)で組織防衛に追われ、すっかり神通力を失っていました。

1997年11月には4つの金融機関(三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券、徳陽シティ銀行)が相次いで破綻する戦後未曽有の事態が勃発し、「次はどの金融機関がつぶれるのか」という金融不安が駆け巡りました。 中でも4大証券の一角を占める山一証券の破綻は、世間に大きな衝撃を与えました。


山一証券は芙蓉懇談会のメンバーであり、メインバンクは富士銀行でした。 当時、メインバンクは融資先企業の救済に全力を挙げるものと経済界では認識されており、特に同一グループの企業を見捨てるような行為は考えられませんでした。 山一証券を救済しなかったことに対して、富士銀行は「山一は芙蓉グループではない」と弁明に努めました。 しかし不良債権処理の遅れが目立っていたこともあり、マスコミ各紙は富士銀行自体の経営体力が落ちているのではないかとの疑問をなっげかけ始めました。

しかも同じ芙蓉グループの安田信託銀行が「次に破綻する金融機関」と噂された事から、株式市場は一斉に富士銀行と安田信託銀行の株式を売り浴びせました。 「芙蓉グループ企業が危ない」と信用不安を煽った風評被害は、当時、「芙蓉バッシング」と呼ばれました。

「芙蓉バッシング」と時を同じくして、芙蓉グループおよびその傘下の事業会社が次々と経営危機に陥りました。 昭和海運が債務超過に陥り、1998年10月、日本郵船に吸収合併されました。 日産自動車が危機的状況を回避するため、1999年3月にルノーと業務提携を結んでカルロス・ゴーンを招聘して大々的なリストラに着手しました。

1999年9月に東邦レーヨン(東邦テナックスと改称後、帝人に吸収合併)が帝人に(三和グループ企業)に売却されました。 またかつて芙蓉会メンバーだった大倉商事が1998年8月に破綻しました。 そしてNKK(日本鋼管)の子会社であるトーア・スチールが、1998年9月に任意清算を発表するに至りました。







メガバンク・みずほ金融グループの誕生


1998年、富士銀行は安田信託銀行んの再建のため、同行を「生体解剖」して救済することを決意します。

まず、富士銀行は第一勧業銀行と信託業務で提携しました。 富士銀行には信託子会社・富士信託銀行がありましたが、これを第一勧業銀行の信託子会社・第一勧業信託銀行と合併させ、第一勧業富士信託銀行(現みずほ信託銀行)を設立。 この会社を受け皿として、安田信託銀行の財産管理三部門(年金、証券管理、証券代行)を売却し、その売却益で同行の再建を企図しました。

この安田信託銀行救済策を通じて、富士銀行は第一勧業銀行との本体同士の合併を申し入れていました。 同時期に日本興業銀行も第一勧業銀行に合併を申し入れていました。 第一勧業銀行頭取・杉田力之は、富士銀行頭取・山本恵と日本興業銀行頭取・西村正雄を引き合わせ、三行合併を提案しました。


1998年8月、三行は経営統合を発表。 2000年9月、三行は共同で金融持ち株会社・みずほホールディングスを設立し、その子会社となりました。 翌2002年4月、みずほホールディングス下の銀行業務を再編、三行を二行に集約しました。 こうして、持ち株会社のみずほホールディングスの下に、リテール(小口・個人)部門のみずほ銀行、ホールセール、(大口・法人)部門のみずほコーポレート銀行という体制ができあがりました。 後に、みずほホールディングスの上に、さらに持株会社のみずほフィナンシャルグループを設立しました。このややこしい構成は、経理上の必要に迫られたためといわれてます。















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