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2021/9/2

川崎財閥(薩州財閥)  財閥(日本・世界)






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川崎重工 ロゴ



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川崎正蔵 川崎財閥(薩州財閥)創業者











川崎造船所を中心として発展した川崎財閥(薩州財閥)は、薩摩(現 鹿児島県)出身の実業家・川崎正蔵(1837-1912)によって設立されました。川崎家は、正蔵の曽祖父の代に薩摩藩御用商人を努めましたが、父の代に没落し、木綿の行商を営んでいました。 早くに父を亡くした正蔵は、長崎に赴いて貿易商を始め、明治維新の頃には大阪を拠点とする砂糖商になりました。

琉球(現 沖縄県)の砂糖輸送を契機として、正蔵は海運業への進出を試み、1873年に政府の薦めで日本国郵便蒸汽船会社の副頭取となりますが、1974年に同社は岩崎弥太郎との競争に敗れ、解散に追い込まれてしまいました。 1878年に三菱へのバッシングが強まり、有力廻船問屋が三井と結託して共同運輸株式会社を設立した際、正蔵も共同運輸株式会社に参加し、岩崎弥太郎と再度対抗しました。

正蔵は海運を通じて西洋型蒸気船の優位性ウィ体験し、造船業へと関心を移していきます。 1878年、正蔵は砂糖貿易で得た利益を元に、東京築地に築地造船所を開設。東京には石川島造船所(現 株式会社IHI)などライバル企業が多くありましたが、築地は地理的に造船所を拡張する余地がないため、1881年に瀬戸内海海運の要衝である神戸に個人経営の川崎兵庫造船所を開設しました。

これはのちの官営兵庫造船所の払い下げを狙っての布石だと言われといます。 1886年、正蔵は政府に官営兵庫造船所も貸下げを懇願、貸下げを経て、1887年に払い下げに成功。 砂糖貿易から手を引き、築地の設備を神戸に移して造船所の経営に一点集中し、順調な発展を遂げました。

しかし、日清戦争後、日本の造船業は巨船主義の時代となり、川崎造船所も設備拡張のため莫大な資金調達が必要となり、株式会社への改組が現実的な課題となりました。 正蔵は1894年に大病を患ったこともあり、1896年に川崎造船所を株式会社に改組し、現役を引退しました。 しかし、彼の一人息子・川崎正治(実際は4人の息子がいましたが、3人は早世)は文学者として生きる道を選び、後継者になることを拒否しました。

そこで、甥の河崎芳太郎(1869-1920)を婿養子に迎えて後継者に育てようとしましたが、芳太郎は温厚な性格で、大企業・川崎造船所を経営していくのに必要な統率力や意思決定力が欠けていました。 正蔵は松方幸次郎に川崎造船所の初代社長の就任を要請しました。







二代目・松方幸次郎

松方幸次郎(1865-1950)は、総理大臣・松方正義の三男に生まれました。 正蔵は明治維新以前から松方正義の知己を得、その政治的な庇護を受けていました。 これ以後、薩州財閥の主導権は、徐々に河崎家から松方家に移っていきました。

幸次郎は、積極果敢に川崎造船所の規模を拡大し、三菱長崎造船所に次ぐ国内第二位の造船企業に発展させました。

さらに、第一次世界大戦で空前の造船ブームが訪れると、受注生産に見切りをつけ、見込み生産を開始。 大量建造で莫大な利益をあげました。 そして、その収益をもとに製鉄業の兼営、飛行機・鉄道車両への製造へと多角化し、事業規模を拡大していきました。 大戦が終了し、ストックボート(見込み生産の船舶)が余剰すると、その余剰船舶を巧みに使って海運業へ進出。 1919年に川崎汽船株式会社を設立しました。

松方正義は子宝に恵まれたことでも有名でした。明治天皇に「子どもが何人いるのか」と尋ねられ、即答できず、「後日、調べた後、申し上げます」と回答したほどでした。 しかも、彼の子息はいずれも優秀で、長男・松方巌は株式会社十五銀行の頭取に就任し、四男・松方正雄は薩州財閥の企業(福徳生命保険株式会社と大福海上火災保険株式会社)の重役を歴任、他の兄弟達も各社の経営者として活躍しました。








薩州財閥の多角化と崩壊

川崎造船所の経営を松方幸次郎に委ねた河崎家は、莫大な配当金を元手に不動産買収や金融業等へと多角化しました。1905年に合資会社神戸川崎銀行、1912年に福徳生命保険株式会社、そして1919年には大福海上火災保険株式会社(現 共栄火災海上保険株式会社)を設立しました。

しかし、第一次世界大戦後の反動恐慌で、これら金融機関は経営危機に陥り、1920年に神戸川崎銀行は、幸次郎の兄・松方巌が頭取うをしていた十五銀行に吸収合併されました。ところがその後、十五銀行も昭和金融恐慌後の長期不況で経営不振に陥ってしまい、十五銀行からの借り入れに依存していた川崎造船所は、破綻の危機に追い込まれてしまいました。 十五銀行は944年に帝国銀行に吸収合併されました。

ここに至って松方一族は企業のトップを軒並み辞任しました。 松方巌が十五銀行頭取を辞任、松方幸次郎が川崎造船所・川崎汽船社長を辞任、松方正雄が大福海上火災保険・十五銀行取締役並びに、福徳生命保険社長を辞任しました。 これら企業の再建は川崎・松方家と無関係な経営者に委ねられ、薩州財閥は事実上終焉を迎えました。

川崎造船所は、1928年に兵庫工場を分離して川崎車輛株式会社を設立。 1937年に飛行機部門を分離して河崎航空機鉱業株式会社を設立し、1939年に川崎重工業株式会社と改称しました。福徳生命保険は1931年に日華生命保険株式会社に事実上買収されました。 大福海上火災保険は東京海上火災保険株式会社に買収され、さらに1942年には同社傘下の大東海上火災保険株式会社に吸収合併され、共栄火災海上保険会社となりました。








傘下企業の株主構造、役員構成

薩州財閥には、1920年に川崎家が設立した持ち株会社・川崎総本店がありますが、「合資会社川崎総本店の持ち株会社の機能は、昭和2年の金融恐慌の時に崩壊しました。 川崎造船所、大福海上火災、福徳生命の旧傘下企業の株式はすべて売却し、所有していた旧傘下企業の株式は全くなくなり、雑株を2300余所有するに過ぎなくなっていました」。

役員構成で注目すべきは、川崎正蔵の孫・川崎芳熊が川崎重工業の専務、および関係会社の役員を務めていたことでした。 松方幸次郎は芳熊を後継者として考えていたようで、「松方幸次郎もつねづね、この川崎造船所は立派にしたら今に、川崎家に帰すつもりだ。 俺は預かり物を経営しているのだ」と言っています。(『財界新闘将伝』)








戦後の動向
川崎グループの企業再編

州財閥の戦後は、二つの側面からアプローチできます。 川崎グループとして薩州財閥自体の再結集と、企業集団との関わりです。 GHQによる財閥解体で、当初、薩州財閥・川崎家は「十五代財閥」に指定されました。 しかし、「川崎芳熊の河崎系企業に対する持株は企業支配というにはあまりに少数であったので、松下幸之助、大河内正敏、渋沢敬三らとともに財閥家族に加えられるべきでないという持株整理委員会の判断によって、昭和23年11月27日付けの政令で芳熊は財閥家族の指定を取り消されました」。

ただし川崎重工業が持株会社に指定され、1948年に過度経済力集中排除法により分割を命じられます。 分割指定は翌年解除されましたが、西山弥太郎ら製鉄部門のトップは、経営の自由度を狙って製鉄部門の分離独立に固執しました。当時の川崎重工業製鉄部門は高炉を持たない平炉メーカーで、日本製鉄ら高炉メーカーや外国から製鋼原料(銑鉄や屑鉄)を購入しなければなりませんでした。 高炉を持たなければ、これらの製鉄業はなり立ちません。 高炉の建設には莫大な資金を必要とし、造船所と一緒に経営することは困難でした。

こうした理由から、1950年8月、川崎重工業の製鉄部門を分離し、川崎製鉄(現 JFEホールディングス)が設立されました。 分離直後の1950年11月、川崎製鉄は高炉建設を含めた千葉一貫製鉄所建設計画を発表、高炉メーカーに生まれ変わりました。 その一方、1955年に川崎製鉄、川崎重工業、川崎航空機工業、川崎車輛、川崎汽船は社長会「川崎睦会」(第一銀行も参加)を結成し、薩州財閥の再結集を図りました。 1960年代に企業集団の再編が積極化すると、1969年に川崎重工業は、かつて分離した川崎航空機工業と川崎車輛を吸収合併しています。









第一銀行/一勧グループの一員へ

神戸川崎銀行は十五銀行に吸収合併されましたが、その十五銀行も経営不振で、1944年に帝国銀行に吸収合併されました。 帝国銀行は1943年に三井銀行と第一銀行が合併してできた銀行ですが、行内に不協和音があったため、1948年に分離しています。 その後、河崎グループの企業は第一銀行(第一勧業銀行を経て、現 みずほ銀行)をメインバンクとしました。

第一銀行が企業集団を形成していく過程で、川崎グループ企業は古河グループとともに、その中核となります。 また、1971年、第一銀行は日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行と合併して第一勧業銀行となり、一勧グループを形成しましたが、そこでも川崎・古河グループは中核メンバーとなっていきました。

その一環として、1959年に川崎重工業の電機部門を分離して設立された川崎電機製造は、第一銀行の仲介により、1968年に富士電機製造に吸収合併されています。 200年前後のメガバンク再編後、川崎製鉄は2002年にNKK(正式名称は日本鋼管)と経営統合しJFEホールディングスを設立。 これに伴い、川崎製鉄の実質的な子会社である川崎商亊も、NKKトレーディングと合併し、JFE商事となりました。















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