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2021/9/4

渋沢財閥・一勧グループ  財閥(日本・世界)







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渋沢家家紋 丸に違い柏









創業者・渋沢栄一

渋沢財閥は、明治の事業家・渋沢栄一が創設した企業群からなる財閥です。
渋沢栄一(1840-1931)は埼玉の豪商の子として生まれました。 幕末期の尊王攘夷運動に感化され、高崎城乗っ取りを企てますが、同志が補導されたことにより攘夷運動をあきらめ、一橋徳川家の家臣となりました。 1866年に一橋当主・徳川慶喜が将軍に就任すると、渋沢は幕臣となり、1867年に慶喜の実弟・徳川昭武に随行してパリの万国博使節団に加わり、欧州各地を視察。 西洋文明を見聞しました。 この時の経験が、のちの「日本近代資本主義の父」としての教養の基盤となりました。

翌年帰国すると、年号は明治に変わっていました。 意外と知られていませんが、大政奉還から廃藩置県の間まで、徳川家(十六代目 徳川家建)は静岡県の藩主となりました。 渋沢は、静岡で謹慎する慶喜に面会して、そのまま同地にとどまり、静岡藩に出仕しました。 1869年、渋沢は静岡藩で「商法会所」という半官半民の企業を設立し、大きな利益を上げました。 その手腕が明治政府に認められ、大蔵省の有力者・井上馨の補佐(大蔵大丞)に抜擢されました。

しかし、1873年に政府内部の意見対立のため、井上馨と共に退官。 渋沢は大蔵省在任中に手掛けていた国立銀行条例を実行し、同年に日本初の銀行である第一国立銀行(のち株式会社第一銀行、株式会社第一勧業銀行御経て、現 みずほ銀行)を設立、1875年にはその総監役(頭取)に就任しました。

また、1873年に王子製紙株式会社(現 王子ホールディングス株式会社)、1876年に東京株式取引所、1877年に商法講習所(現 一橋大学)、1879年に有限責任東京海上保険会社(現 と今日海上日動火災保険株式会社)などの設立に参画し、1880年に横浜正金銀行(のち株式会社東京銀行、現 株式会社三菱UFJ銀行)創立委員長となりました。

さらに1881年に日本鉄道会社(のち日本国有鉄道に継承、現 東日本旅客鉄道株式会社、通称 JR東日本)、1883年に東京電燈株式会社(現 東京電力株式会社)、1886年に帝国ホテル株式会社の設立に参画しました。









傘下企業の株主構造、役員構成

このように、渋沢栄一は数多くの企業設立に参与しますが、それら企業を渋沢家の閉鎖的な所有化に置きませんでした。 のちに「わしがもし一身一家の富むことばかりを考えたら、三井や岩崎にも負けなかったろうよ。 これは負け惜しみではないぞ」、と子供達に語ったという逸話が残っています。

渋沢栄一研究家の島田昌和氏は、渋沢の株式所有行動について「まずいくつかの会社を軌道に乗せて配当を行い、自身はその会社の株式を一部売却して、その資金を新たな会社のの設立資金にしていった」と指摘しています。

つまり、渋沢は限られた資金を、企業設立のために充てることが多く、一つの企業の株式を保有し続けて支配下に置くことはしなかったのであります。 従って、渋沢(財閥)糸と認知される企業は少なく、『浅野・渋沢・大川・古河コンツェルン読本』では「直系四事業」として、株式会社東京石川島造船所(石川島播磨重工業株式会社を経て、現 株式会社 IHI)、自動車工業株式会社(現 いすゞ自動車株式会社)、株式会社石川島飛行機製作所(立川飛行機株式会社を経て、現 株式会社 立飛ホールディングス)、渋沢倉庫株式会社の四社を揚げているにすぎません(これに株式会社第一銀行[株式会社第一勧業銀行を経て、現株式会社みずほ銀行])も加えておいた方が良いでしょう)。

このうち、自動車工業と石川島飛行機製作所は王匡石川島造船所を母体としており、渋沢倉庫は第一銀行の傘下にありますが、渋沢家は東京石川島造船所や第一銀行の株式をほとんど所有していません。 しかし、栄一の次男・渋沢武之助が東京石川島造船所監査役、嫡孫の渋沢敬三が第一銀行常務の役員に就いているほか、栄一の三男・渋沢正雄が日本製鉄株式会社の常務、東京製綱株式会社の監査役に就いています。

所有なき渋沢家の役員就任について、戦前の書籍は「比較的著名な事業の多くは、大川、浅野、古河、大倉などの支配会社への従属関係に立っている。 最も浅野や大川にしてみれば、恩返しという意味でもあるまいが、渋沢翁の秘蔵っ子を大切に預かって守り育てている」と記載されています。









戦後の動向
第一銀行の企業集団形成

戦後の財閥解体で、三井・三菱・住友財閥などが十代財閥に指定されましたが、当初は渋沢財閥などを含めた十五大財閥を指定する予定だったと言います。 渋沢同族株式会社が持ち株会社(第二次)に指定され、解散さされましたが、そもそも渋沢財閥という実体はなく、大きな影響があったとは言い難いものがあります。

渋沢財閥の戦後という点では、第一銀行の企業集団形成が注目されます。 「銀行の歴史は合併の歴史」とよくいわれますが、第一銀行ほどその言葉を体現している銀行はないでしょう。

第一銀行は戦時下の国家的政策の一環で、1943年に三井銀行と合併し、帝国銀行となりました。 しかし、合併後、第一銀行側に不満が強く、1948年に帝国銀行(のちの三井銀行)と第一銀行に分離しました。 加害でも類を見ない合併銀行の再分離です。 分離に至った理由は、第一銀行の方が店舗数は多かったのですが三井銀行に比べて大卒行員が少なかったため、徐々に支店長職が三井銀行出身者に浸食されていったからだと言われています。
また、第一銀行の顧客も、三井銀行の顧客に比べて融資面で冷遇されていたようです。

では、分離後の第一銀行はどうしたかというと、堅実路線をひた走り、従来からの取引先との関係を墨守することに甘んじました。 時あたかも、富士銀行(旧安田銀行)が新たなグループを企図し、融資先企業を積極的に拡大、のちの芙蓉グループとなる原形つくりに奔走していた頃であります。 その姿勢の違いは1960年代になって顕在化します。

富士銀行が 社長会「芙蓉会」を結成し、芙蓉グループを形成した頃、第一銀行では主要取引先である 古河グループと川崎グループが、他グループからの浸食を受けつつありました。 当時三菱グループは「BUY三菱」運動で排他的なグループ内取引を推進し、勢力拡大を図っていました。 戦後、古河グループの中心的な企業は古河電気工業でしたが、三菱金属から原材料を購入しており、深い関係がありました。 そこで三菱グループは両社の結びつきをテコに古河グループとの接近を図っていました。

一方、重工業部門に欠ける住友グループは、川崎グループの中心的な企業である川崎重工業と住友機械工業(現 住友重機械工業)を合併させ、住友グループに取り込もうとしていました。 この合併話は、新社名を決定するまで進展しましたが、川崎製鉄の強い反対で破談となりました。
()馨は1966年に古河・川崎グループの合同社長会(古河・川崎合同委員会)を結成して、両グループ企業を核とした第一銀行グループの形成を目論みました。 まず井上が川崎重工業と古河電気工業の監査役に就任し、両グループの橋渡しの役割を狙いました。 次いで、1966年、川崎重工業が横山工業(二位株主が富士電機製造)を吸収合併。 1968年には富士電機製造が川崎電機製造(川崎重工業の子会社)を合併しました。 また、富士電機製造と川崎重工業間に株式持ち合いを実現させました。

しかしながら、これらは結局、関連業種の提携に留まり、古河・川崎グループの本格的な融合には結実しませんでした。









三菱銀行と合併破談と第一勧業銀行の誕生

井上馨は第一銀行グループを形成し、他グループからの浸食を防衛しようとしました。 ところが、次の頭取に就任した長谷川重三郎は、独断で三菱銀行との合併を推進してしまいます。 1969年、読売新聞の元旦スクープで合併交渉が露見し、1月7日に三菱銀行と第一銀行は正式に合併を発表しました。

長谷川は渋沢栄一の隠し子おいわれ、行内ではエリート・コースを歩み、あたかもオーナー頭取の様に権勢を振るいました。 重三郎の名は13番目の子という意味で、弟は14を表す藤四郎でした。 独断で合併推進した長谷川には、行内を抑えきる絶対の自信があったようです。 これに対し、会長に退いていた井上馨は、三菱銀行との合併に異を唱え、徹底的な反対運動を展開します。

まず、古河・川崎グループ、石川島播磨重工業、神戸製鋼所、渋沢倉庫など古くから合併反対の声を揚げさせました。 次に支店長たちに反対の肥を上げさせ、さらに総会屋をも扇動して取締役に圧力をかけさせました。 こうして同年1月13日、わずか1週間で第一銀行は合併を撤回。 責任を取って長谷川は辞任。 井上馨が頭取に復帰しました。

井上は三菱銀行との合併に反対しましたが、相手が悪かっただけで、合併自体に反対したわけではありませんでした。 密かに他行との合併を模索し、日本勧業銀行と合併交渉を水面下で進めていました。

1971年、第一銀行3は日本勧業銀行と合併し、国内最大規模の銀行・第一勧業銀行が誕生しました。 1978年には、融資先企業を集めて社長会「三金会」(3ケ月に1度、第3金曜日に開催)を結成し、一勧グループを形成しました。 しかし、古河グループ、川崎重工業グループの内部はそれぞれ株式持ち合いが進んでいません。 このことが示すように、一勧グループは、社長会を結成したものの、企業集団としての実態がともなっておらず、活動は低調におわったようです。








第一勧業銀行の利益提供事件

1997年5月20日、総会屋・小池隆一が野村証券の株式30万株を所有し、大株主という立場w利用して、不正取引を要求していたことが発覚しました。 さらに大和証券、日興証券山一証券に対しても、それぞれ30万株ずつを所有し、同様の要求を行っていたことが明らかになりました。 この4大証券株式購入資金の減資が、第一勧業銀行からの迂回融資であった事が大きな問題になりました。

ことの発端は、三菱銀行との合併を阻止するために、井上馨が総会屋に協力を依頼したことに遡ります。 その時の総会屋・木島力也は、第一勧業銀行に対して隠然たる影響力をもつようになり、弟子である小池への融資を依頼しました。 小池は第一勧業銀行からの融資を得て、証券会社の株式を購入。30万株以上持てば、株主総会で役員解任などを提案する「株主提案権」の権利があり、それを盾にとって、証券会社に株の不正取引をさせようとしたのです。

事件発覚に伴い、1997年5月23日、第一勧業銀行は「多額の融資を行った最大の原因は、元出版社社長(総会屋・木島力也)の依頼を断れなかったことにあると聞いております。 その死後も同氏の呪縛が解けず、急に対応を変える事が出来ませんでした」と発表。 頭取・近藤克彦、会長・奥田正司と5人の相談役の辞任を発表しました。

しかしながら、そのお詫び会見で、次期頭取として紹介された副頭取・藤田一郎は、小池への融資を承知していたと発言し、窮地に追い込まれることとなります。 1997年6月5日、遂に総務担当の元常務ら4人が逮捕されます。 6月8日、審査担当役員の逮捕を悟った第一勧業銀行は、内定していた頭取人事を撤回し、藤田以下、代表権を持つ役員全員が退任。
しかし、6月10日に審査担当の元副頭取ら4人、6月13日にも藤田ら2人が逮捕されてしまいます。

この間、上層部は完全に当事者能力を失ってしまいました。 代わって発言力が増したのが「四人組」と呼ばれた中堅幹部です。 かれらの同意がなければ、新頭取・杉田力也でさえ、何も決めることが出来なくなっていました。 1997年6月28日、元会長・宮崎邦次が東京地検特捜部の取り調べ後、自宅で首を吊って自殺。 7月4日、前会長・奥田正司が逮捕され、捜査は終結を迎えました。

この事件は高杉良の小説『呪縛−金融腐敗列島』のモデルに取り上げられ、一躍有名となりました。 なお、「四人組」と呼ばれた中堅幹部には、銀行員から小説家に転身した江上剛(本名小畑春喜)や、後に西武鉄道社長に転出した後藤高志がいました。








みずほ金融グループの誕生

1997年に「付与バッシング」が起き、安田信託銀行(現 みずほ信託銀行)の経営不安説が市場を駆け巡ると、富士銀行は不安説を払しょくし、安田信託銀行の経営危機を救うため、第一勧業銀行に救いの手を伸ばしました。 この安田信託銀行救済策を通じて、富士銀行は第一勧業銀行に本体同士の合併を申し入れました。 同時期に日本興業銀行も第一勧業銀行に合併を申し入れていました。

第一勧業銀行は、合併銀行の悲哀を味わっていたため合併には慎重でした。 しかし、第一勧業銀行頭取・杉田力也は「二行ならダメでも、三行なら旧行対立は生まれないだろう」と判断し、富士銀行、日本興業銀行の頭取を引き合わせ、三行合併を提案。 1998年、三行は共同持株会社ん設立と経営統合を発表し、みずほフィナンシャルグループが誕生しました。
















日本の財閥

日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
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住友財閥の歴史
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