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2005/9/23

ノイシュヴァンシュタイン城  観光・旅行
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南ドイツのバイエルンを代表するものに、世界で一番美しい城とされているノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)があります。 Schloss(城)、Neu(新しい)、Schwan(白鳥)、Stein(石)という意味ですが、長ったらしい名前で覚え難く、たまにノイシュヴァンシュタインと発音する日本人を見かけますが、シュヴァンはドイツ語でSchwein(豚)という意味ですから、一字違いで大違いになります。



この城は、ロマンチック街道の最南端終点のバイエルン州フュッセンの近くにあり、ルートヴィヒ2世(1845−1886)が17年の歳月と巨額の費用をつぎ込んで建設したものです。

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オクトーバーフェスト(ミュンヘンのビール祭り)は、彼の祖父である後のルートヴィヒ1世となるバイエルン皇太子と王女テレーゼの成婚を記念して始められ、1810年以来続いて来たものです。 妃の名をとったテレージエンビーゼ(Theresienwiese)と呼ばれるミュンヘン市内の広場で開催されます。

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ルードヴィヒ2世(Ludwig U)は、幼い頃からゲルマン神話と騎士伝説の物語が好きで、これが彼に大きな影響を与えるようになり、後にワグナーを庇護し、パトロンとなりました。 しかしながら、1865年に家臣達の意見を受け入れ、評判の悪いワグナーを宮廷から追放することになります。 その後、それから王は執務を嫌うようになり、幼い頃からの夢であった騎士伝説を実現すべく中世風のノイシュヴァンシュタイン城など豪華な建築物に力を入れるようになりました。 

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この頃、従妹でバイエルン生まれのエリザベート(Elisabeth オーストリア皇帝妃)も、ウイーンでの堅苦しい宮廷生活から逃避をしていた為、生涯を通じて彼女とはお互い心を通わせました。  エリザベートは、バイエルン王国のヴィッテルスバッハ家の一族マクシミリアン公爵の娘として生まれ、幼少の頃は父マクシミリアンと共に街に出かけたり、狩りなどに行ったり自由を満喫していていました。 しかし、自由人だった父の気質を多く受け継いだ皇后は、母方の伯母で姑であるゾフィー大公妃がとりしきる宮廷の厳格さが耐えられなかったのでしょう。  また、彼女は当時のヨーロッパ宮廷一といわれた美貌の持ち主でしたが、年を取るにつれて顔を扇で隠すようになり、それが彼女の立ち居振る舞いを表す姿として伝説となっています。 彼女の晩年の最大の悲劇は、息子ルドルフ皇子の自殺で、その後、死ぬまで喪服を脱がなかったと伝えられています。 彼女も、1898年9月、旅行中のジュネーヴのレマン湖のほとりでイタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニの手によって殺害されその生涯を閉じました。 彼女が最後に泊まっていたホテルは、ジュネーブにあるレマン湖沿いのボー・リバージュ(Beau Rivage)で、現在も営業しております。 殺害された場所は、おそらくこの桟橋だと思われますますが、最期はこのホテルで息を引き取りました。
 


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バイエルン王国は、プロイセンとの戦いに敗れ多額の賠償金を支払わねばならなくなり、それと豪華な城の建設により、国の財政は脅かされはじめた為、家臣たちは王の退位を企み、1886年、彼は精神病に仕立て上げられ、ベルク城に軟禁され、翌日の6月13日にシュタンベルク湖畔で、医師のグッテンと共に謎の水死を遂げました。 この時点で、ノイシュヴァンシュタイン城の建設は、未完成部分を残したまま中止され、その後一般公開されるようになりました。


この豪華なノイシュヴァンシュタイン城の建設を推し進めた事により、財政による問題で家臣たちに裏切られ、哀れな結末を迎えたルートヴィヒ2世ですが、このノイシュヴァンシュタイン城は、現在では毎年世界中から何百万人という多くの観光客を集め、バイエルン州の重要な財源になっている事は、歴史の皮肉としかいいようがありません。 

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これは、ノイシュヴァンシュタイン城の近くの、アルプ湖で遊ぶ子供達です。

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2005/9/24  13:03

 
ノイシュバンシュタイン城、ルートヴィヒ〓世とくれば、やはりワーグナー。
そういえば、かつてAOLの旧MB(2003年12月終了)内、通称「時事板」に
『優雅にタンホイザー』というタイトルのスレッドがあったことを思い出しました。
(※旧MBはAOL会員のみ閲覧可能となっています)



ノイシュバンシュタイン城は、ルートヴィヒ〓世がワーグナーの
ために建てたと言われており、「王の居間」(写真)の壁にも
「ローエングリン」の伝説が描かれています。2003年8月、小泉首相がシュレーダー独首相と一緒にワーグナーの歌劇
『タンホイザー』を鑑賞したというニュースに端を発した “小泉批判” スレで、
順序こそ逆ですが、やはり、タンホイザーからワーグナー、ルートヴィヒ〓世、
ノイシュバンシュタイン城という流れになっていったと記憶しています。
何というか・・・・もう、こういうのって “セット”って感じですよね。 (笑)

まぁ、でも、どの国のどの時代においても、音楽・建築・絵画・彫刻・服飾・
酒や食の文化に至るまで、時の権力者の存在や歴史的・政治的背景などと
切り離して考えることは不可能ですから、音楽や美術等にお詳しい方々が
ヨーロッパの歴史に精通されているなんてことも、ちっとも珍しくない。
だから、ドイツ・バイロイト音楽祭で『タンホイザー』に御満悦の小泉首相を、
「まーたく、いい気なもんだぜ」なんて、ありきたりな批判の声が上がっても、
「よりによってワーグナー?」って感じで話が膨らんでいったりするんですね。

現行MBに比べればスレ作成の気楽さもあったし、寛大なリーダー(CL)の
おかげもあって、一部会員からは “ほとんど無法地帯” と眉をひそめられて
いたらしい「旧・時事板」は、読んでるだけでも楽しくて勉強になる投稿が
たくさんあったし、個性的で愛すべきキャラクターが溢れていたなぁ・・・と、
また懐かしく思い出してしまいましたよ。。

例えば、小泉首相がブランデンブルグ門の前でカメラに向かって言ったという
「バッハもこの門を見てブランデンブルグ協奏曲を作ったのかなぁ〜」の一言。
馬鹿・アホ呼ばわりで “無知” を罵った投稿者も、とても個性的な方でした。(笑)
そして、ブランデンブルグ門が「プロイセンの凱旋門として1788-1791年に造られ、
高さは20m、アテネの神殿の門を手本として・・・・(略)」などと解説してくださり、
「ヒトラーやトルーマンが歴史の感嘆符として通り過ぎた」「東西冷戦の象徴」と、
表現こそ奇抜ながら、いつも本当に楽しくてためになる話を披露してくださった。

「音楽の父」バッハは18世紀初頭を生きた音楽家であることや、ワーグナーに
心酔した一人としてヒトラーの名が必ず出てくるということ、また、そうした背景
によってイスラエルではワーグナーの曲を演奏することはタブーとされ、ドイツの
首相も公式にはワーグナー鑑賞することを避けてきたというようなこと・・・・・
多くの「人」が集まれば、どんな小さな話題からでも幾らでも話は膨らみます。。

その「人」が、今のMBにはなかなか集まらないのだから・・・やっぱりちょっと
淋しいですよね。。
理論上は、ブログを使っても同じようなことはできるのかもしれないんですけど、
どうも、印象としては、「個性的」かつ「魅力的」な方々って、とってもシャイ(?)
ですからね。。。 というか、基本的に「後出しジャンケン体質」(???・笑)

AOLの新MBに「期待」する気持ちは正直あまりないけど、「人」には大いに
期待したいと思っているので、ブログでもMBでもHPでも、もっともっと「人」が
出会い、語らい、楽しみ、学ぶ場が整えられていったらいいなと思っています。



ついでに。↓世論調査ではメルケルさんが “やや優勢” とのこと。 (23日夜)
http://news.goo.ne.jp/news/reuters/kokusai/20050923/JAPAN-188566.html?C=S

 


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