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2008/2/17

フリーメーソン-53  五代友厚  フリーメーソン
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五代友厚(1836-1885)


薩摩藩の中で、最もグラバーが最も仲がよく、信頼を寄せたのが薩摩藩士の五代友厚で、1865年にグラバーの仲介で薩摩藩から森有礼を含め19名でヨーロッパに留学しています。

彼は、グラバーのエージェントとして、明治維新に貢献しましたが、多くの薩長の志士たちが軍人や政治化になっていったのに対し、国際派で産業と経済発展の重要性を理解していた彼は実業界に身を投じ、大阪および日本の経済界をリードしてゆきました。



彼とグラバーが初めて会ったのは、長崎で1864年2月の事でした、この時グラバー25歳、五代28歳の時です。

五代は、長崎のグラバー邸に滞在する間に、薩摩藩の富国強兵についての計画を立て、1864年5〜6月頃に藩当局に、上海貿易の促進、そして英仏への留学生の派遣のふたつからなる答申書を提出しています。

薩摩藩当局は、五代の提案に対し、まず留学生の派遣について実行に移すことにし、1865年2月に五代友厚、森有礼を含む松木弘矢安、新納刑部ら15名の留学生を選抜し、グラバーは留学生の派遣にあたり、ジャーディン・マセソン商会と交渉し、当面の経費として2万ドルの信用状の発行、滞在費や授業料、ヨーロッパ各地での武器や機械の購入などについて、薩摩藩一行がふりだす7〜10万ドルにのぼる手形をロンドンのマセソン商会が買い取り、それを長崎で薩摩藩が支払う手はずを整えました。

留学生一行にはグラバー商会のライル・ホームが同行することになり、留学生一行19名は密航のため、それぞれ変名を使い、4月17日にグラバー商会所有の蒸気船オーストラリア号で、串木野郷羽鳥からヨーロッパに向けて出発。 

一行は、香港、シンガポール、ボンベイ、アデン、アレキサンドリアなどを経て、6月21日にサザンプトンに入港、同日ロンドンに到着し、ロンドンではグラバーの兄ジェイムズとホームの友人たちが一行を出迎えました。

松木は、グラバーの商会で、当時下院議員になっていたローレンス・オリファンとに会い、彼を通じてイギリス外務省に働きかけ、幕府指示の対日政策を転換させようとしました。  

一方、五代はイギリスで、小銃・騎兵銃2762挺など武器や機械を買い付け、日本に送りましたが、その中にはマンチェスターのブラット社から購入した紡績機械も含まれており、薩摩藩はイギリスから技師を雇い入れて、1870年に我が国最初の近代的機械紡績工場である鹿児島紡績所を設立しています。

徳川時代が終わり、武力もさる事ながら、貿易と産業の重要性をヨーロッパで学んだ五代友厚は、「天下の台所」 と言われた大阪で実業界に入り、大阪製銅会社、大阪商船など次々と事業を興し、

明治9年に10月には堂島米会所を復活させて堂島米商会所を設立し、明治12年には大阪商工会議所の前身である大阪商法会議所(現大阪商工会議所)を立ち上げ、初代会頭にも就任しています。

さらに明治13年には大阪商業講習所(大阪市立大学の前身)を開設し、この年に渋沢栄一と手を組み、東京馬車鉄道を設立し、明治17年には阪堺鉄道会社(南海鉄道の前身)を設立し、大阪の近代化と経済発展に尽力しました。

今日の大阪の発展は、士魂商才(武士の気概と商人の精神を併せ持った)の鹿児島藩士でグラバーのエージェントであった、五代友厚のおかげである事を忘れてはなりません。

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