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2008/4/19

フリーメーソン-86  ハプスブルグ帝国の崩壊  フリーメーソン
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フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916) と エリザベート(1837-1898)


1914年、フランツ・ヨ−ゼ1世の甥であり、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位後継者であったフランツ・フェルディナントがサラエボで暗殺され、これにより、第一次世界大戦が勃発。

この戦争に負けたオーストリア・ハンガリー二重帝国は連合国側によって解体され、帝国内の諸民族は次々と独立宣言を行い、盟友のハンガリーさえも独立宣言を行い、ハプスブルグ家最後の皇帝カール1世の亡命により、中世ヨーロッパを650年に渡り支配していたハプスブルク帝国は1918年に崩壊しました。


フリーメーソン-77  第一次世界大戦
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/670.html



ハプスブルグ家の起こりは、今日のスイスで、ロットリンゲン王国内の小さな伯爵家に過ぎませんでした。

ロットリンゲン王国とは、AD843年のヴェルダン条約により、フランク王国が3つに分かれたものの一つです。

AD1000年頃に、ハプスブルグ家は、アルザスとシュヴァーベン、中でもアルガウ地方のアール河とロイス河が合流する辺りに、小さな領地を所有しており、ここを根拠地としていました。

そして、Radbot伯爵と、彼の従兄弟でストラスブールの司祭 Wernerが、神聖ローマ皇帝のために働き、その間、新たな領土を取得し、アルガウの領地も拡張していき、1025年ににRadbot伯爵はアール河に阻まれた丘陵地の稜線の先端にあるHabicht (オオタカの意味)と呼ばれた場所を拠所に選ぶ事になります。

ここに砦と住居を兼ね備えたBurg(居城)を築き、Habicht(大鷹)とBurg(居城)の言葉が合わさり、それを縮めて、Habsburgの呼称が生まれたとされています。

13世紀に入り、神聖ローマ皇帝、ホーヘンシュタウフェン家のフレデリック2世の死後の「大空位時代」(1250〜1273)を経て、ハプスブルグ家は、同家として初めて、ルドルフ4世を神聖ローマ皇帝として送り出しました。 その皇帝名は、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ1世です。

この頃、南北ヨーロッパを結ぶ交通の要所として、サン・ゴタール峠が本格的に開通し、
それまでそこを自由に利用していた中央スイスの人達と、そこを神聖ローマ帝国に組み入れ自由を制限するハプスブルグ家との間に対立が生まれました。

1291年、皇帝ロドルフ1世が死ぬと、対立はいっそう深まり、ウリ、シュヴィッツ、ウンテルヴァルテンの3つの地方の代表が、名高いリュトゥリの丘に集まり、ハプスブルグの支配に抗して闘うことを誓約した同盟を結びますが、これが今日のスイス連邦の始まりであります。  子供の頭にリンゴを乗せ、矢で打ち抜くスイス人ウィリアム・テルの話も、この頃のスイス人vs神聖ローマ帝国の役人の話であります。 

そしてこの3州は、激しくハプスブルグ家と戦い勝利し、ハプスブルグ家はスイスから拠点をオーストリアに移し、その後のオーストリア帝国への礎を築き上げていく事になります。

1438年にアルブレヒト2世がドイツ王になってからは、ドイツ王位を基本的に世襲化することに成功し、1508年にマクシミリアン1世がローマ教皇から戴冠を受けずに皇帝を名乗り始めますが、この頃、婚姻関係からハプスブルク家はブルゴーニュ公国領ネーデルラントとスペイン王国とナポリ王国を継承し、皇帝カール5世のもとでヨーロッパの大領土を実現しました。

当時のスペインは中南米を植民地として支配していたため、カール5世の領土は「日の沈まぬ」大帝国であり、さらにカール5世の弟フェルディナントがハンガリー王、ボヘミア王に選出されたため、ハプスブルク家は東欧における版図を飛躍的に拡大しました。

1521年に祖父マクシミリアン1世の所領を、カールは弟フェルディナントと分割したため、ハプスブルク家はスペイン系ハプスブルク家とオーストリア系ハプスブルク家に分かれ、1549年に取り交わされた協定により、弟フェルディナント1世の子孫が、神聖ローマ帝国の帝位を世襲することになります。

以後、神聖ローマ帝国はオスマン帝国を破り、ハンガリーを取り戻し、栄光の名を欲しいままにする大帝国となり、1740年にカール6世が男子を欠いたまま没したため、オーストリアは長女マリア・テレジアが相続し、1745年にマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンが神聖ローマ帝国の地位に着きました。 しかし、ご存知の通り、実権は全てマリア・テレジアが握っていました。

そして、大国フランスとの外交の為、マリー・アントワネットをルイ16世と政略結婚させたものの、フランス革命が起こり、マリー・アントワネットはギロチンにより処刑されました。 



マリー・アントワネット
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フリーメーソン-7  イルミナティ
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/597.html
フリーメーソン-9  グラントリアン(大東社)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/599.html
フリーメーソン-11  オーストリア
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フリーメーソン-12  モーツアルト
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フリーメーソン-13  魔笛
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フリーメーソン-14  ゲーテ
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その後、フランスのナポレオンに敗北した、ハプスブルグ家のフランツ2世は1806年に神聖ローマ帝国皇帝を退位し、神聖ローマ帝国は解体されました。 そしてフランツ2世はオーストリア皇帝1世を名乗りました。

ナポレオン1世追放後、王政復古のヨーロッパの中で、オーストリ帝国は神聖ローマ帝国の1角として地位を保持するも、クリミア戦争でロシアと敵対し、事実上神聖ローマ帝国は崩壊し、多民族国家であったオーストリア帝国は、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国となりました。

その後は、冒頭で述べたように、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であったフランツ・フェルディナントがサラエボで暗殺され、これにより、第一次世界大戦が勃発し、その敗戦によりハプスブルグ帝国は崩壊することになりました。

そのハプスブルグ帝国、最後の悲劇の皇女が、エリザベートであります。



ノイシュバンシュタイン城
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