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2008/4/27

フリーメーソン-90  ビスマルク  フリーメーソン
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Otto von Bismarck (1815-1898)


プロイセン王国宰相(在位1862-1890)、1871年からはドイツ帝国初代宰相を兼務し、オーストリア、フランスを次々に破り、プロシアを母体としたドイツ統一を成し遂げた、鉄血宰相として有名なビスマルクは、

フリーメーソン33階級の大物で、アルバートパイクによって主導された、全世界の秘密結社を統合したニューワールドオーダー構築を実現するための 「ニュー・アンド・パラディアン・ライト」 のメンバーでもありました。




フリーメーソン-8  3つの世界大戦
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フリーメーソン-7  イルミナティ
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/597.html
フリーメーソン-9  グラントリアン(大東社)  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/599.html


1860年代、この秘密結社 「ニュー・アンド・パラディアン・ライト」 は、4人の有力な、第33階級フリーメーソンによって指導され、その4人とは、ベルリンのビスマルク、ロンドンのパーマストン、ワシントンのパイク、ローマのマッツィーニであります。


パーマストンの本名はヘンリー・ジョン・テンプル(Henry John Temple)で、大英帝国絶頂期の外交を仕切り、19世紀半ばに2度首相を務めた、パックス・ブリタニカのシンボル的存在の大物政治家です。 一般には、パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル
と呼ばれています。

ジュゼ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini:1805-1872)は、イタリア統一運動の政治家・革命家で、カヴール、ガリバルディと並ぶ 「イタリア統一の三傑」 の1人であり、イタリアの結社「カルボナリ」に入党後、1831年にマルセイユで「青年イタリア」を結成した人です。 1848年革命に際しては、「ローマ共和国」を打ちたてましたが、この共和国はナポレオン3世の軍事介入により短命に終わりました。


ビスマルクは、1815年にベルリンの北西部にあるシェーンハウゼンの貴族の子として生まれ、ゲッティンゲン大学、ベルリン大学で法律を学びました。 32歳の時、ヨハンナ・フォン・プットカマーと結婚し、1849年にプロイセン国会の下院議員に当選しました。


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ビスマルク 21歳


1862年には、新国王ヴィルヘルム1世によって、プロセイン王国の首相兼外相に任命されました。 

この時、ヴィルヘルム1世と議会は兵役期間を2年にするか3年にするかで対立し、ドイツ統一を目標とするヴィルヘルム1世は議会を説得するためにビスマルクを起用したのでありますが、

期待に応えて、ビスマルクは軍事費の追加予算を議会に認めさせました。 この時にビスマルクは、現在の大問題(ドイツ統一)は、演説や多数決ではなく、鉄(大砲)と血(兵隊)によってこそ解決されるという演説(鉄血演説)を行い、以後「鉄血宰相」の異名をとるようになりました。


ビスマルクは戦略思考に長け、武力で相手を制圧しても、すぐに相手国と強調体制をとり、全ての国から文句を言わさないようし、国内においても、いつの時代にもいるお馬鹿な左翼主義者たちからの攻撃に対し、災害保険・健康保険・老齢年金などの社会保障制度の制度を整備し、左翼主義者たちが攻撃を仕掛ける口実をなくし、国内を安定させました。  外交では、フランスを屈服させた後、フランスによる報復の芽をつみとるべく、
三帝同盟、三国同盟と立て続けに同盟を結んでいます。

彼は、ヨーロッパ列強各国の利害を正確に把握し、これを外交によって操る事でヨーロッパに軽い緊張状態を作り出し、どの国もうかつに動けない戦争の無い状態を作り出そうとしましたが、これがいわゆるビスマルク体制と呼ばれるものです。



1882年、伊藤博文らは明治憲法を作るためにイギリスに渡りましたが、そのときロスチャイルドから、ユダヤ人憲法学者ルドルフ・フォン・グナイストとロレンツ・フォン・シュタインを紹介され、プロイセンの憲法を真似てつくったのが明治憲法であります。

日本の岩倉使節団がプロイセンに訪問したさい、ビスマルクは伊藤博文、大久保利通ら維新創業の政治家たちと会見し、彼らに大きな影響を与えたと言われています。  大久保利通は西郷隆盛に宛てた手紙の中で、ビスマルクとモルトケを「先生」と呼び、その言説と人となりに大きな感銘を受けたことを綴っています。

長州派閥を中心とする明治政府は、プロイセン王国、ドイツ帝国の制度を導入することに力を注ぎましたが、当時ビスマルクが富国強兵政策でヨーロッパを席巻していた事に魅力を感じていた事と、欧米列強から圧力をかけられ不平等条約を結ばされていた日本としては、ドイツ帝国に学び、一日も速く強い日本を創りたいという想いがあったに違いありません。


しかしながら、明治政府はイギリスの傀儡のようなもので、そのイギリスを金融支配していたロスチャイルドが、何故に法律をも含めて、ドイツのシステムを日本に提案してくれたのでしょうか、ユダヤVSドイツというイメージもあいまり、分かり難くて当然です。

では、この理由を説明したいと思います。


ビスマルクが第33階級の大物フリーメーソンであったことも、多くの日本人の方々はビックリされたと思いますが、もっとビックリする事実があります。 彼の出生と妻ヨハンナ・フォン・プットカマーとの結婚が、鍵を握っています。


話を、ナポレオンのワーテルローの戦い(1815)まで、遡らさなければなりません。  この戦いは、イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍を破った戦いで、ナポレオンにとっては最後の戦いとなりました。

ご存知の通り、ロスチャイルドは、この戦いでナポレオン軍が優勢であるとデマを流し、ロンドンで暴落した株を買占め、ふたを開ければイギリス軍の大勝利と言うことで、大儲けし、今日の財閥の基礎を築きました。

よって、ロスチャイルドとしては、何としてでもナポレオンを敗退に追い込まなければならなかったのです。 そこで、裏工作をおこなうためのターゲットとなったのがスルト元帥です。  スルト元帥は、ナポレオンの知友ながら、ロスチャイルドから裏金を受け取り、ナポレオンを裏切ってしまったのです。  ナポレオンは、後日 「ワーテルローでの副司令官は期待していたほど助けとならなかった。 彼の部下は、私が命じておいたにも関わらず組織として機能せず、スルトはあっさりと戦いをあきらめ・・・何の役にもも立たなかった・・・。」 と苦々しく回想しているのが印象的です。

スルト元帥は、ナポレオンから数百万フランの給付金付のダルマティア公の地位を得たばかりか、元帥にも命じられましたが、ワーテルローの戦いでは、ナポレオンの軍勢の側面を固める要所シュナッペの村を確保せず、さらに悪いことに期待されたグルーシーの援軍も24時間の遅きに失しました。 しかも、決戦の朝はナポレオンの専属副官の中に紛れ込み、食事に毒を盛り、ひどい編頭痛になやませるよう仕掛けました。

スルトは、支配者ロスチャイルドによく仕え、フランスにあっては高い役職を与えられましたが、このスルトこそがビスマルクの母親ルイザ・メンケンの愛人で、彼の父であったのです。

ビスマルク自身も、それを認めており、こんな言葉を残しています。
「私の才能、能力でなく、私の母親がスルトの愛人であったことが私を偉大にした。 スルトが私を援助してくれたのだ。」 -ビスマルク-

ビスマルクは、メンケン一族を介して、ロスチャイルド家に操られていたのです。 
もちろん、彼の才能があったこそドイツ統一を成し遂げれ、その後も活躍できたわけですが、もし彼が無能であったなら、早い時期にロスチャイルドに切られていただけの話です。

若き18歳のビスマルクは、ディズレーを通じて、ジェームズ・ロスチャイルド(フランス家)によって支援され、ビスマルクの妹はライオネル・ロスチャイルド(ロンドン家)
の子飼いであるプロシア閣僚、旧帝国議会メンバーのオスカー・アルニム伯と結婚し、ビスマルク家はロスチャイルドにがんじがらめにされてしまいました。

そしてビスマルクは、しばしばこのように繰り返しました。

「私は幸運な大人物と言うのを信じない。 私が思うに、政界の名士は名声のおかげを、偶然と言わないまでも、少なくとも自ら予期さへしなかった環境のおかげを蒙っている」


ビスマルク体制によって、ヨーロッパは第一次世界大戦まで小康状態が続き、大きな争いは起こりませんでしたが、1888年にビスマルクが長く仕えたヴィルヘルム1世が死去し、息子のヴィルヘルム2世が皇帝となったとき、若き皇帝はビスマルクの老練な外交戦術が理解できず、単純で直線的な植民地拡大政策を打ち出し、1890年にビスマルクを解任してしまいました。

ビスマルクを排除したヴィルヘルム2世は、単純な戦略で、力で植民地を奪い取ろうと3B政策を推し進め、イギリスと対立するようになり、独露再保障条約の更新を拒否してロシアとも対立。 その結果三国協商を形成させてしまい、三国同盟 vs 三国協商という対立関係を生み、ビスマルクが最も恐れていたドイツ包囲網を作らせてしまいました。

ここに、ドイツはイギリスを敵に回し、民族主義的となり、ユダヤの排除を含めて、世界の軍需産業を支配するユダヤのロスチャイルドまでをも敵に回し、破滅の道を突き進んでいってしまったのです。



日英同盟から学ぶ
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/146.html
ユダヤ人と金融
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/169.html
フリーメーソン-89  蒋介石
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/683.html







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