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2009/6/1

ローマ帝国の物語-31 グラックス兄弟  ローマ帝国の物語
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プトレマイオス朝の王妃の冠を退けるコルネリア


コルネリア・スキビオス・アフリカーナ(Cornelia Scipionis Africana, 紀元前190年 - 紀元前100年)は第二次ポエニ戦争での英雄スキピオ・アフリカヌスの娘で、父の窮地を救ってくれたグラックスのもとに嫁ぎました。 グラックス45歳、コルネリア18歳のときです。 彼女は12人の子供を出産しましたが、生き残ったのは3人で、ティベリウス、ガイウス、センプロニア(娘)の3人だけでした。 ティベリウスとガイウスが、苦しむ農民たちのために農地改革に命を捧げたグラックス兄弟です。 

紀元前154年に夫グラックスが死去、名門スキピオ家の出身で英雄アフリカヌスの娘であった彼女のもとには数多くの再婚話が持ちかけられ、中にはプトレマイオス朝エジプトの王からのものがあり、彼女を王妃として迎えたいという話までありましたが、コルネリアはその全ての話を断り、全てを息子ティベリウス、ガイウスの教育に注ぎ、グラックス兄弟が非業の死を迎えた後もコルネリアは賢母として人々の尊敬を集め、「ローマ女の鑑」として、後世にも人々から語り継がれました。


第三次ポエニ戦争に勝利したローマは、地中海の覇権を握り、豊かになりましたが、それはローマという国家、パトリキ、一部の富裕層に限ったことで農民達の生活は苦しくなる一方でした。 

当時、ローマ軍は農民主体で編成されており、戦いに勝利すれば、戦利品の強奪により得ることができましたが、ローマの勢力が拡大するにつけ、戦地は故郷から遠く離れ、耕し手を失った農地は荒れるばかりでした。 そしてほとんどの農民は新たな農地を買うことができず、無産者となって都市に流れ込んでいました。

ティベリウス・グラックスTiberius Sempronius Gracchus(紀元前162―紀元前前133)は、紀元前137年、財務官としてスペインに従軍しましたが、赴任の途上イタリア農民層(=戦士層)の没落を目撃、スペインではローマ軍の敗北を体験して、農地改革によるイタリア戦士層の復興を決意する事になります。  

紀元前133年に護民官になり、富裕者による国有地の占有に制限を加え、それを超える分を没収して没落農民に分与する土地法を民会に提出。 同僚の護民官オクタウィウスが拒否権を発動すると、彼はその罷免を民会に提案し、承認させました。 土地法の成立により、土地分配三人委員が設けられ、ティベリウス、その義父、および弟ガイウスがこれに就任して、活動を開始。  

当時、ペルガモン王家が絶え、その遺産がローマ国民に贈られると、対外問題の処理が元老院の管轄事項であったにもかかわらず、ティベリウスは民会に諮ってこの遺産を土地分配三人委員の活動の財源にしましたが、これらの活動は、自分の財産を守ろうとする護民官と元老院議員から大きな不満の声が上がり、ティベリウスは法に反して護民官への再選を意図し立候補したことが引き金となり、暴動が起こり、彼は選挙の日に同じ志をもつ300人と共に虐殺されました。

弟のガイウスは、元老院による閥族の反対を押し切るため、騎士身分を味方にする一方、民衆を扇動して独自の民会決議をつくり、これによって政策を進めるいわゆる民衆派(ポプラレス)的な政治の流れをつくりました。 しかし、彼は最後に閥族派(オプティマテス)との市街戦のなかに倒れました。

そして、ローマは内部との敵と戦う、動乱の一世紀に入ります。









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