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2009/7/26

ローマ帝国の物語-69  皇帝ネロの自殺  ローマ帝国の物語

紀元55年のブリタンニクスの殺害に始まり、59年に母(アグリッピナ)、62年に妻(オクタウィア)、65年にセネカ(副臣)を殺害、加えて64年に発生したローマ大火の犯人として罪のないキリスト教徒たちを迫害(猛獣の餌、十字架にかけ火を放ち大松化)し、そのやり方の残虐性から、ローマ市民は我慢の限界に達していました。




先ず、ネロに反旗を翻したのは、ガリア属州を統治していたウィンデクスで、ガリア人も彼に同調しました。 このとき、有名なのがウィンディクスがネロに宛てた手紙には「下手くそな竪琴弾き」と書いてあり、ネロがは激怒しました。

それに続き、ヒスパニアのタラコンネシス属州を統治していたガルバ総督が蜂起しますが、この知らせを聞いたネロ皇帝は気絶しかけたと伝えられています。


ネロはローマ市民を徴収しようとしましたが、それに応じる者は一人もいませんでした。


そうしているうちに、ガルバ総督はイタリア半島に進軍し、ローマまであと数キロに迫り、その報せを聞いた各地の属州総督もガルバに同調し、ネロに反旗を翻しました。


そして、ネロは元老院からも「国家の敵」という宣告を受けます。


慌てたネロは、ローマ脱出を用意し始め、「余と一緒に逃げるものはいないか?」と親衛隊に向かって叫びましたが、誰一人として進み出るものはなく、ネロには最も残酷な死刑が科せられる事が決まり、それを知ったネロは自ら命を絶とうとし、毒薬を飲んだり、テヴェレ川に身を投げようとしますが、彼は自殺する勇気を持ち合わせていませんでした。

ネロは、潜伏先の知人の家で、自ら剣でのどを突き刺そうとしますが、臆病な彼は、死ぬのに十分な深さでさす事が出来ず、彼に同行していた秘書官が、紀元68年6月9日、最後に剣を頚動脈に導いてやりました。


               ローマを暴政の下に混乱させた、第5代ローマ皇帝ネロ、享年30歳。



ネロの死によってユリウス・クラウディウス朝は断絶。 ローマは内戦状態に陥り、ユダヤ属州やゲルマニアでも反乱が勃発、戦乱期に突入することとなります。






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