renaissancejapn2020@gmail.com

2009/10/17

マキアヴェリ  -10  ラミーロ・デ・ロルカの処刑  マキアヴェリ 

1502年の冬のある日、一つの惨劇がチェゼーナの町の広場で起きました。 処刑された男の名は、ラミーロ・デ・ロルカ。  彼はこれまでの征服に数々の功績をたて、この地方の長官に任じられていた、チェーザレ・ボルジアの指折りの側近でありました。


遺体のそばには血まみれの短剣と一枚の板が置かれており、一見して怨恨殺人のように思われましたが、マキアヴェリは、その裏に隠されたチェーザレ一族の恐るべき民心懐柔策を見逃しませんでした。

チェーザレは、民衆の政治への不満を、地方長官一人に向けさせ、無残な処刑を仕立てて人々の鬱積した気持ちを吸い上げ、ガス抜きをしようとしたのです。

こんなチェーザレを初めとして、同時代の個性の強い権力者の実像を、マキアヴェリは身近に知りました。  

フォルリの女領主カテリーナ・スフォルツァ、フランス国王ルイ12世と、その側近ジョルジュ・ダンボワーズ、教皇ユリウス2世、神聖ローマ帝国マクシミリアン1世、そのほか傭兵隊長ヴィッテロッツォ・ヴィッテリ、シエーナ君主バンドルフォ・ベトルツィ、それの彼の上司のソデリーニ。

彼ら為政者の内政、外交、軍事に関する手腕、それが卓抜なものであれ、凡庸なものであれ、それを知る事で、マキアヴェリは彼らの政略の成否に、なにか一定の法則があるのではないかと、考えはじめました。


マキアヴェリは、有能な官僚政治家であったばかりでなく、生々しい体験と平素かかさぬ読書を通して、実践的な理論を構築していった思想家でありました。







--------------------------------------------------------------------------







2

トラックバックURL

トラックバック一覧とは、この記事にリンクしている関連ページの一覧です。あなたの記事をここに掲載したいときは、「記事を投稿してこのページにお知らせする」ボタンを押して記事を投稿するか(AutoPageを持っている方のみ)、記事の投稿のときに上のトラックバックURLを送信して投稿してください。
→トラックバックのより詳しい説明へ


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ