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2021/9/27

デジタル新世界「グレート・リセット」と ID2020  財閥(日本・世界)








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現在、この地球上には、デジタル技術を使っ革命により、今の資本主義を一度リセットし、次のステージに移行しなければならないと、「グレート・リセット」を呼びかけるメッセージを、世界に向けて毎年発信し続けるエリート集団がいます。

そのフロントに立つのが、世界経済フォーラムの創始者であるクラウス・シュワブ氏、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏、MITの研究者ロバート・バンガー博士。 そしてその背後で資金援助しているのが、ロックフェラー財閥のロックフェラー財団、クーン・ローブ財閥、モルガン財閥、ロスチャイルド財閥、世界最大の米系コンサルティング会社アクセンチュア、そしてその子会社アバナード、などであります。

最近、「スーパーシティ」という言葉を聞くと思いますが、ある意味、それがグレートリセットを実現する高度IT化された街づくりと考えて良いでしょう。 勝利は我々個人の体の中にICチップが埋め込まれ、っパスポート、現金、カード、マホ、ワクチンパスポートを携帯しなくでも、スーパー・コンビニ・自販機での買い物ができ、飛行機、電車、新幹線などなど交通機関にフリーパス。 そして海外への渡航もICチップにパスポート情報がいっているので、税関での長い列に並ばなくても良い、大変便利な社会になります。

しかし一方、全ての個人情報は国家に筒抜け、何をいつどのくらいの金額でク入したのか、また個人の位置情報、すなわち今どこにいるのか全て筒抜けです。 街中に監視カメラが張り巡らされ今、誰と会って何をしているかもすべて監視されます。



2016年5月、ニューヨークの国連本部で、2015年に採択された「世界を変革する持続可能な開発のためのアジェンダ」に沿ったSDGsの手法の一つ、「デジタル身分証明者」が議論のテーブルに乗せられました。 全ての難民にIDを付与しm一括して管理するという国際プロジェクトで、マイクロソフト、アクセンチュア、アバナード、製薬会社を含む150の企業、政府機関,NGO、各種技術者が参加する[ID2020計画]という名の共同事業が立ち上がっています。 中心となって出資しているのはロックフェラー財団です。

2017年6月19日、国連本部で開催された[ID2020サミット]の席でアクセンチュアはブロックty-んを使った新システムの試作品を発表しています。 すでにUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が導入済みの政体認証IDを、マイクロソフト社のクラウド上で稼働させることで、すべての難民の行動をツ関下記録を、スイスのジュネーブにあるデーターベースに一括で蓄積020]の主要メンバーであるマイクロソフトのビル・ゲイツ氏の要請で、この技術を進めるMITの研究者ロート・蘭画―博士は、ワクチンと一緒に皮下に埋め込み、特別なスマホ・アプリとフィルターを通すと表示されるインクを開発中です。


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2021/9/16

中央銀行FRS/FRB 通貨発行プロセス MMT信者が勘違いするマンドレイク・メカニズム」  財閥(日本・世界)





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FRB JAY POWELL 議長
テーブルにある大きな円盤状のものはFRBのロゴマーク









中央銀行FRS/FRB 通貨発行プロセス MMT信者が勘違いするマンドレイク・メカニズム」





戦争資金を供給する銀行、中央銀行システム
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2974.html
ジキル島の秘密会議
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2975.html
連邦準備制度への全米反対運動と成立まで
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2975.html
FRS/FRB(連邦準備制度銀行)の仕組み
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2977.html
からの続き






初めて貯蓄銀行が現れたのは古代ギリシアで、硬貨鋳造法の発達と同じ頃でした。 エジプト・メソポタミアでは公共の穀倉精度の一部として存在していました。 1200年にはダマスカスに、1401年にはバルセロナに存在しました。 しかし今のような銀行制度を育んだのは、都市国家ヴェニスです。




ヴェニスの銀行
1316年、既に都市国家ヴェニスの銀行制度の濫用はひどく、当局は銀行家の兼業を禁じ、預金者の資金を自らの事業に投入する誘惑を取り除こうとしたくらいでした。 さらに帳簿を検閲させること、蔵している硬貨をしかるべき時期に公開することを命じました。 1524年、銀行監督委員会が創設され、2年後には銀行間の決済はすべて小切手ではなく硬貨でおこなうことを義務付けました。

こうした予防策ににもかかわらず、当時の大銀行であるピサノ・アンド・ティエポロは積極的に貸し出しをおこない、1584年には預金者への払い戻しができなくなって扉を閉ざさなければならなくなりました。 ここで政府が介入して残骸を拾い集め、国立銀行のバンコ・デラ・ピアッツア・デル・リアルトを設立しました。 少し前の銀行破産の体験から、新しい銀行からは貸し出しを認められせんでした。

信用供与で利益を上げることはできないから、硬貨の預かりと両替、顧客間の決済手続き、簿記サービスの料金だけで銀行を維持することが求められました。この銀行は繁盛し、まおなくヴェニスの商業の中心となります。 銀行の預かり証は国境を越えて広く流通し、それどころか、普通なら預かり証は額面の金貨より低い扱いを受けるのに、この銀行の預かり証にはプレミアムがつきました。 当時は多くの種類の金貨があり、同じ種類の金貨でもシツニバラツキあったので、金貨を鑑定するには専門知識が必要でした。

銀行は金貨を預かるときに鑑定のサービスも同時に行いました。金貨は鑑定されて、金貨の価値を正確に反映される預かり証が発行されます。そこで人々は多くの金貨よりも預かり証のほうを信用し、預かり証の方が高い価値で流通したのです。



残念ながら、時が流れ銀行経営乱脈の記憶が薄れると、ヴェニスはやがて信用の魅力に負けました。 有権者に増税を言いだす度胸のない政治家は、貸出を禁止しない新しい銀行の設立を認可しようと考えました。その銀行に必要なマネーを創出させて「借りよう」というのです。 そこで1619年、バンコ・デル・ジロが創設され、破産した昔の銀行の様に無からマネーを創造し、それを政府に貸し付けました。18年後、バンコ・デラ・ピアッツア・デル・リアルトはああらしい銀行に吸収され、健全な銀行の小さな炎は燃え尽きました。
15世紀から16世紀、ヨーロッパ全土で銀行が次々と生まれています。 これらの銀行はほぼ例外なく、ほんとうは貸してはいけないマネーを貸すという濡れ手に粟の仕事に手を染めました。支払い準備金以上のマネーです。 しかし、FRSのような高度な存在になるまでに発展するには、多くの興味深い迂世曲折があります。




英国の初期の銀行制度

英国最初の紙幣はチャールズ2世治下の財務省手形でした。 これは完全な不換紙幣で、法貨と定められたものの、あまり流通しませんでした。 1696年には財務省札に代わりました。この紙幣は兌換券で、政府は兌換に十分な金貨や地金を維持しようと大いに努力しました。 言い換えればほんとうの預かり証貨幣だったので、交換手段として広く受け入れられました。さらにこの紙幣は政府の短期国債とみなされて、持ち主には実際に金利が支払われました。

1707年、少し前に創設されたイングランド銀行にこの通貨の管理責任が委ねられましたが、銀行は独自の銀行券を流通させる方が儲けが多いと気付きました。この銀行券は部分準備貨幣で、金利をはらうのではなく、金利を徴収するために発行されます。この結果、政府の紙幣はだんだん姿を消して銀行券に取って代わられ、18世紀半ばには銀行券がイングランド銀行唯一の紙幣となりました

当時は、まだ銀行は完全な中央銀行ではなかったことを理解しておく必要があります。 ロンドンその他の中心地では、独占的に銀行券を発行することが認められていますが、これは法貨ではなかったから、誰も使用を強制することはできませんでした。民間銀行が一部を金貨で裏付けている私的な部分準備貨幣にすぎず、市民は受け取ることも拒否することも、割引して流通させることも自由でした。法貨の地位が与えられるのは1833年になってからであります。 一方議会は帝国内の他の多くの銀行にも認可を与えていましたが、例外なくどれも部分準備貨幣の発行から破綻し、預金者に損害を与える結果になりました。 「この国には災厄が次から次へと押し寄せる」とShawは言います。 何故なら、「国家がこれらの民間銀行券に無関心だからである」と*。
*引用 W.A.Shaw,Theory and rinciplesof Central Banking(Lomdon & Newyork:Sir I. Pitman & Sons.ltd.,1930)、pp.32-33.
しかし、政府はどこよりもイングランド銀行を大事にし、議会は何度も債務不履行から同行を救いました。 どうしてそうなったのか、是も中々興味深い物語であります。








イングランド銀行

過重な税で英仏戦争や数々の内戦を戦って半世紀、英国の財政は疲弊していました。 アウグスブルグ同盟戦争中の1693年、ウィリアム王は深刻な財政難に陥りました。 その20年前にチャールズ2世は大勢の金細工師から借りていた100万ポンドの債務不履行を宣言し、その結果、一万人の預金者が損害をこうむりました。

この記憶がまだ生々しかったので、当然ながら、人々は政府をリスクの低い投資先とは考えませんでした。 増税もならず借金も出来ないと言う事で、議会はほかの方策を必死で探しました。 グロスクローズによれば、目的は「もっと理性的なコントロールのもとに、通貨メカニズムを置く事ではなく、増税や政府借入といった煩わしい方法以外に、無一文の政府の金銭的必要を満たす方法を探すことでした」。

この政府の苦境を絶好のチャンスと考えた人々が二種類いました。 一つのグループは、政府内部の「政治のサイエンティスト」で、もう一つは台頭してきた銀行業務に関係する「金融のサイエンティスト」です。 後者のグループのオーガナイザー兼スポークスマンは、スコットランド人のウィリアム・パターソンという人物でした。パターソンはアメリカに行き、当時ダリエンと呼ばれていたパナマ地峡に植民する会社に英国の認可をとりつけようという壮大な計画を持ち帰りました。 しかし政府が関心を示さなかったので、パターソンは政府がもっと関心を寄せている試み、つまりマネーの創出に目を向けました。

二つのグループは力を合わせて協力体制をつくりました。アメリカン・ヘリテージ・ディクショナリーは、陰謀団(Cabal)という言葉を「陰謀や策謀を企てる人々の結社」と説明しています。 このグループにはこの言葉がぴったりでした。 この陰謀団はジキル島の会合にそっくりの秘密めいた謎の会合をロンドンのマーサーズ・チャペルで開き、お互いの目標達成のために七項目からなる計画をつくりあげました。


(1)政府は金融サイエンティストに銀行創立の認可を与える。
(2)この銀行には英国で紙幣として流通する銀行券発行の独占的権利が与えられる。
(3)この銀行は一部のみが金・銀で裏付けられるマネーを無から創出する。
(4)金融のサイエンティストは政府に必要なだけ融資を行う。
(5)政府への融資のために創出されたマネーは、主として政府の借用証書を裏付けとす
る。
(6)このマネーは無から創出されるのでコストはかからないが、政府はこれに対して8パ
ーセントの金利を支払う。
(7)政府の借用証書は民間業者に貸し出される追加資金の支払「準備」金とみなされる。
この民間への融資も利子を取る。 したがって金融のサイエンティストは同じ無をも
とに二重に金利を徴収する。

銀行の初期資本を募る投資家向け回状には次のような説明がありました。「銀行は、銀行自身が無から創出するマネーのすべてをもとに金利を得ることができます」。 認可は1694年に下り、こうして奇妙な生き物が産声を上げました。 世界最初の中央銀行であります。
ロスバードは書いています。


要するに、民間には財政赤字を埋めるのに充分な貯蓄がなかったので、パターソンとそのグループは政府の債権を喜んで買いましょうと申しでたのです。 ただし、新しく無からひねりだされて、彼らに種々の特権を与える銀行券で購入できるなら、と。 これはパターソンと会社にとっては願ってもない取引で、政府も一見まともに見えるが実はインチキな銀行融資で利益を得る。 ・・・ 1694年にイングランド銀行が認可されるとすぐに、ウィリアム王と議員たちは先を争って、自分たちが生み出したばかりのマネーの工場の株主になった*。 *引用 Rothbard,Mystery,p.180.





[マネーの秘密のサイエンス]

陰謀団の2つのグループは充分すぎるほどの見返りを得ました。 政治のサイエンティストたちは進行中の戦争の費用50万ポンドを必要としていました。 銀行はただちに必要額の2倍以上の融資をしました。 金融のサイエンティストは資本金120万ポンドで銀行を発足させました。 この資産は政府に8パーセントの金利で貸し出されたと教科書に書いていますが、融資が行われたときには投下資本は72万ドルしかなく、銀行は資産より66パーセント多い金額を融資していた事実はあまりしられていません。 そのうえ、銀行はすくなくとも同額を民間に貸し出す特権を与えられました。 したがって政府に融資した資産をもう一度貸し出したことになります。

ほんとうに元手がある72万ポンドを8%で貸せば、5万7600ポンドの金利が入ります。しかし、この新しいサイエンスでは政府への融資120万ポンドについて8%の金利を得たほかに、一般への貸付72万ドルについて推定9%の金利を取っていました。 しかし、ここが肝心なのですが、この状況では金利のレート云々するのは無意味です。 マネーは無から創出されたのだから、金利が8%でも9%でも22%でさえもなく、無限大なのです。

この世界最初の中央銀行の公的な行動に、その後に続く中央銀行の特徴である壮大な欺瞞をみてとることができます。銀行は融資するふりをしましたが、実は政府が使うお金を製造したんです。 政府自身がそのようなことをすれば、そのマネーが不換紙幣である事は直ぐ見破られるので、戦費鵜を支払おうとしても額面度甥の価値では受け取ってもらえません。 しかし銀行システムを通じてマネーを創出すると、一般市民にはプロセスが見えません。 新たに創出された紙幣は金貨の裏付けがあるそれまでの紙幣と見分けがつかず、一般市民は騙されます。

つまり、中央銀行の実体は、国債を購入すると見せかけてこっそりマネーを製造する装置で、政治家が必要な時にはいつでもこのマネー製造装置が動き出します。 政治のサイエンティストにとって、こんなにありがたい仕組みはなく、もう税金に頼る必要も、財務省の信用で資金を調達する必要もありません。 それどころか、印刷機を回すよりもっと簡単でした。 プロセスが市民には見えず、政治的なリスクがないからです。

勿論金融のサイエンティストはこのサービスへの報酬をたっぷりと手にします。 銀行業務と見せかけるために、金利を撤収すると称するものの、金利という言葉はあたっていません。 彼らはマネーを貸すのではなく創出します。 だから彼らの報酬は見方によって手数料、仲介料、歩合、袖の下、何と呼んでもいいですが、金利でない事は確かです。





[インフレから取り付けへ]

イングランド銀行が創出した新しいマネーは4月の雨のように経済に降り注ぎました。ロンドン以外の地方銀行もそれぞれマネーの創出を認められていましたが、金貨かイングランド銀行券による一定割合の支払い準備を義務付けられました。 その結果、地方銀行はあふれるほど流通しているイングランド銀行券が手に入ると、金庫にしまい、その額を上回る自行の銀行券を発行しました。こうしてピラミッドのように銀行券が積み重なった結果、たったの 2年で物価は100パーセント上昇しました。 そして不可避の出来事が起こりました。 銀行取付です。 イングランド銀行は金貨と兌換することができませんでした。

銀行が預かり証である紙幣と引き換えに金貨を渡せなければ、事実上、破産です。ほかのビジネスと同じく事業をたたんで清算し、債権者にできるだけ支払いをすべきなのです。実際、預金を貸し出して部分準備貨幣を創り出してきた銀行は、になその運命を辿りました。このやり方が続けば、やがて人々はこの種の銀行を相手にしないほうがいいと気付いたでしょう。 痛みをともないはしますが、非常に効果的な試行錯誤の結果、人類はまがいの金とマネー真のマネーを見分ける術を覚えている筈です。 そうなっていたら、今の世の中はもっとましになっていたでしょう。

しかし、もちろんそうはなりませんでした。 陰謀団は連携部隊であり、二つのグループは忠誠心からではなく、私益のためにお互いを守り合いました。 一方の破綻はもう一方の破綻でもあることが分かっていました。 だからイングランド銀行銀行の取り付けに議会が介入したことは意外ではありません。銀行創立からわずか2年後の1696年、「正貨による支払いを停止」することを認める法律が成立しました。 イングランド銀行は法の力で、銀行券と金を兌換するという約束を守らずにすむようになりました。





[政府に保護されるカルテル]

マネーの歴史にとっては運命邸な出来事でした。 これが全例となって、以後同じことが繰り返されるからであります。 ヨーロッパでもアメリカでも銀行はtねに、トラブルが生じたら政府部内にいる仲間が助けに来ると予定して行動するようになります。 政治家は「市民を守る」ということかも知れませんが、実際には銀行が生み出す不換紙幣が必要なのです。 従って銀行は、少なくとも大銀行はつぶしてはイケマセン。 政府に保護されるカルテルだけは、自由市場の働きから隔離されて好きにふるまうことができます。

現代では、隣人から盗んだ犯罪者はそう厳しく罰せられませんが、政府や銀行から盗めば厳罰に処せられるのがふつうです。 是もまた陰謀団のパートナーシップの表れの一つです。 政府の目からすれば銀行は「特別」であって、それは両社が手を組んだ当初から明らかでした。ガルブレイスは言います。

1780年、ジョージ・ゴードン卿が率いる群衆がカトリック救済法に抗議してロンドンを行進したとき、最大の標的となったのがイングランド銀行でした。体制派の象徴だったからです。 ロンドンのカトリック教徒移住区で略奪が行われいる間は、当局の反応は鈍かった。だがイングランド銀行が包囲されるや、事態は深刻に受け止められた。 軍隊が出動し、それ以降、夜間には兵士がイングランド銀行の警部にあたるようになった。*
*引用 David Ricardo,The Works and Correspondence of David Ricardo:Pamphlets 1815-1823,PieroSraffa,ed.(Cambridge :Cambridge University Press,1951)ol.IV,p.58






[必然になった好不況]

イングランド銀行が法律で保護され、債務をマネーに転換した責任を免れて以来、英国経済はインフレ、好景気、バブル崩壊という目にの回るようなローラーコースター状態を運命づけられました。 当然の結果として、あっというまに、想像の及ぶかぎりのどんな突拍子もないプロジェクトにも多額の融資がおこなわれるようになりました。 どうせマネーにコストはかからないのだし、うまくいけば莫大な利益が上がる。 そこでイングランド銀行
も、独自の銀行券でマネーサプライをさらに積み増している地方銀行も、どんどん新しいマネーでとんでもない株式会社が生まれました。 一つは紅海を干拓し、イスラエル人を追った時にエジプト人が失った金を手に入れようという会社でした。 南米とメキシコでの茫漠たる無益なベンチャー・ビジネスには総額1億5000万ポンドが投資されました。

新たなマネーが洪水のようにあふれだした結果、何度、歴史を繰り返せばすむのか?、またインフレが起こりました。 1810年、下院は金地金高価格調査選抜委員会という名の特別委員会という名の特別委員会を設置し、問題の検討と解決策の探求にあたりました。 最終報告書で示された結論は明晰このうえありませんでした。 価格が上がったのではない、と報告書は述べました。 通貨の価値が下がったのであり、それは通貨によってあがなわれる商品がつくられるよりも通貨が発行される方が早いからであります。 解決策は? 委員会はイングランド銀行券と金貨との完全兌換を実行してマネーサプライに歯止めをかけることを勧告しました。






[金本位制擁護]

最も積極的な金本位制擁護者は、デヴィッド・リカードというロンドンのユダヤ人株式ブローカーでした。 リカードは、理想的な通貨とは「絶対的に価値が変わらないものであるべき*」と主張しました。
*引用 David Ricardo,The Works and Correspondence of David Ricardo:Pamphlets 1815-1823,PieroSraffa,ed.(Cambridge :Cambridge University Press,1951)ol.IV,p.58
この考え方からすると、貴金属でも多少は購買力が変動するから完全とはいえない。 だが、「貴金属はこれまで知られた限りではベストである*」と。 *同上 P.62

政府関係者のほとんど全員がリカードの主張に賛成しましたが、よくあることで、理論的な真実も現実的な必要性には勝てませんでした。 最善の通貨についての意見は意見として聞こう。 しかし、現実にナポレオン戦争が起こっていて、戦費を調達しつづけなければならない。 英国は中央銀行のメカニズムを使って国民から資金を吸い続けました。






[不況と改革]

1815年、物価は再び2倍になり、次にどんどん下落しました。 この年、低価格の輸入品から国内農民を守るためのトウモロコシ法が成立。 トウモロコシと小麦の価格が再び上がりはじめましたが、賃金やその他の物価は下がり続け、社会に不満が高まり暴動が広がりました。 「1816年には、英国は不況のどん底にあった」とロイ・ジャストラムは指摘しています。「産業も貿易も停滞した。 鉄と石炭の生産は麻痺した。・・・5月から12月にかけて暴動が頻発した*」
* 引用 Roy W.Jastram, The Golden Constant (Newyork: Wiley ,1977),p.113

1821年、戦争が終わって軍事費が必要なくなると、金本位制復帰への圧力に抵抗し難くなったイングランド銀行は銀行券と金貨の兌換を再開しました。 しかし、許容される部分準備率が新しく決められただけで、中央銀行の基本的なメカニズムまで解体されたわけではありませんでした。 銀行は依然として貸し出しのために無からマネーを創出し続け、1年もしないうちに新たな好景気の花が咲き始めました。そして1825年11月、花は盛りを過ぎて予想通りの実を結びます。 サー・ピーター・コール商会の破綻とともに危機が訪れ、まもなく63の銀行が倒産。 資金は消え失せ、景気はまた不況のどん底へと落ちていきました。

1839年に同じ危機が繰り返されてさらに多くの銀行が倒れた時、議会は問題に取り組む姿勢を見せました。 さらに5年の分析と議論の末に、ロバート・ピール卿は銀行改革法を成立させました。 この法律は英国の好不況の波の原因を正面から見据えていました。 マネーサプライの増減です。 ピールの1844年銀行法が試みたのは、銀行が創出するマネーの量を金貨や銀貨の裏付けが必要な場合とほぼ同量に制限しようということでした。 これは優れた試みでしたが、結局は失敗します。 3つの欠陥があったからです。

(一)政治的妥協の産物で厳しさに限度があり、銀行はなおも1400万ポンドまでは無から創出したマネーを貸し出すことを認められていました。 言い換えれば、この程度の「部分」準備率なら安全と考えられていました。

(二)制限の対象となるのは銀行が発行する紙幣だけで、小切手には適用されませんでしたが、当時は小切手が優勢な交換手段になっていました。 したがって、いちばん濫用が酷い領域はいわゆる改革のの範囲外でした。

(三)基本的な考え方が依然として変わっていませんでした。 すなわち、人間が無限の政治的知恵を働かせば、マネーを管理しようとはせずに、金や銀の需要供給の法則に委ねるよりもうまく、適切なマネーサプライを決められると考えられていました。






[イングランド銀行の危機と中央銀行メカニズムの欧州全土への普及]

「改革」から3年もたたないうちに英国はまた危機に突入し、さらに銀行はつぶれ、また預金者が資産を失いました。 しかし、イングランド銀行が債務不履行の瀬戸際までいくと、またも政府が介入しました。 1847年、イングランド銀行ハピール法の法的準備率の適用除外とされました。 人為的なマネーサプライの制限などは、この程度にしかあてにならないのです。 その後のことをグロスクローズが書いています。

10年後の1857年、また外国貿易に対する過度の楽観主義から生じた愚かしい過剰な貸し出しによって、危機が訪れました。 イングランド銀行は1847年と同じ状態に陥り、同じような施策が講じられました。 このとき銀行はやむなく、銀行認可法の限度を超えて保証発行紙幣(債務をもとにした紙幣)を増発する権限を行使しました。 1886年にもまた、流動性への適正な関心を欠いたまま銀行業務が発展し、狂乱的な投機を銀行信用で支えたために・・・暴落への道が開かれ、有名なオーヴァーレンド・ガーニー社の破産をきっかけとして危機が現実化しました。

1844年銀行法はまたも停止されました。 1890年イングランド銀行はまた危機に直面しました。 やはり原因は外国証券、とくにアメリカとアルゼンチンの証券に対する過剰な投機の蔓延でした。 このときの暴落のキッカケはベアリング・ブラザーズの破綻であります*。
*引用 Groseclose,Money and Man,pp.195-96

この時期のイングランド銀行のたび重なる失敗にもかかわらず、政治のサイエンティストと金融のサイエンティストにとっては、中央銀行メカニズムが非常に魅力的だったため、ヨーロッパ全土のモデルとされました。 信じがたいですが、これが歴史の真実です。プロシャ銀行はライヒスバンクになりました。 ナポレオンはバンク・ド・フランスを創設しました。数十年後には、FRSがイングランド銀行を神聖な手本としました。

たとえこの制度が破滅的であっても、誰が気にするでしょうか? 政治家にとっては無限の利益を生み出せる完璧なツールなのです。 しかも、なによりありがたいことに、この2つのグループのつけを負担する一般庶民は、自分がどんな目にあわされているのかまったく気づいていないのです。






[FRS/FRB の通貨発行プロセス]

債務→マネー

仕掛けの目的は、債務をマネーに変える事、それだけです。 まず民間で売れ残った国債を全部FRSが買い取り、代金として議会宛に小切手を切ります。FRSはほかの債権も買いとりますが、その在庫資産の大半は国債です。この小切手には裏付けとなるマネーはありません。 この不換紙幣のドルは小切手が書かれた瞬間に生まれ出ます。FRSはこの国債を支払い「準備」と呼び、これをもとに準備金1ドルあたり9ドル分を自らの債務として(=連邦準備銀行券として)創出します。 国債分として作られたマネーは政府が支出し、追加でつくられたマネーは国中の企業や個人への銀行融資として貸し出されます。 結果は印刷機を回してお札を刷るのと同じですが、印刷という芸当ではなく会計という芸当を使うおかげで幻想が生まれます。要は議会と銀行カルテルがパートナーを組み、カルテルは無から創出したマネーの金利を稼ぐ特権を手にしたと言う事です。 銀行は全世界に存在する米ドルのすべてから金利という歩合を吸い上げます。 一方、議会はインフレのプロセスを通じて、有権者に増税だと言わずに無限の資金を引き出すことが出来ます。 ここまでの文章が理解できれば基本的なFRSは理解できたということになります。 詳細については後で説明します。

FRSが債務から不換紙幣をつくりだす3つの方


FRSが債務から不換紙幣をつくりりだす方法は大きく分けて3つあります。 一つは「割引窓口」を通じて加入銀行に融資する方法。 二つ目は「公開市場委員会」を通じて財務証券(国債)などの債権を購入する方法。 三番目は加入銀行に義務付けている支払「準備率」を変更する方法です。 どれも筋道は違いますが目的は一つで、借用証書を受け取って実際に使えるマネーに変える事です。 さらに細かく説明します。


割引窓口

「割引窓口」というのは、銀行用語で、貸出し窓口のことです。 銀行のマネーが足りなくなると、「銀行の銀行」であるFRSが貸してくれます。 銀行がマネーを借りなければならない理由はいろいろです。 金庫には預金額の1%〜2%の現金と8%〜9%の証券による支払「準備」しかないから、銀行の営業上の余裕はごくわずかです。そこで預金者の引き出しが異常に増えたり、多額の小切手が一時に決済にまわってきたりすると、一時的に資金が足りなくなります。 不良債権を掴んで、以前は「資産」だったのに、帳簿から取り除かなければならず、「準備」が減少し、それどころかマイナスになることもあります。 最後に、利潤という動機があります。 銀行はFRSから借りたマネーを高い金利で貸し出すので、明らかに得をします。 しかし、それはほんの手始めで、銀行がFRSから1ドル借りると、それは1ドルの支払い「準備」金になります。銀行の準備率は10%程度にすぎないので、1ドル借りるごとに9ドル貸せる都いう勘定です*。 *引用 Regulation D; Reserve Requirments of Depository Institutions, Federal Reserve Document 12CFR 204, as amended effective December22,1992,p.23

只の算数です。 銀行がFRSから金利8%で100万ドル借りたとしましょう。 1年あたりのコストは8万ドルになります。 銀行にとってこの現金は支払準備金ですから、さらに900万ドルを創出してお客に科すことが出来ます。 銀行が金利11%で貸すと、収益は99万ドルです。 ここから銀行のコストと人件費などを差し引くと、純利益はほぼ90万ドルというとこでしょう。 言い換えれば、銀行は100万ドル借りると、1年でほぼ倍に増やすことが出来ます。これが「レバレッジ(梃)」であります。 しかし、忘れてはいけないのは、この
レバレッジの源泉です。 全国に流通するマネーサプライが900万ドル増えているのです。



公開市場操作

FRSが不換紙幣を刷出する中で、一番興味深いのは公開市場での証券売買です。 しかしこの本題に入る前に注意があります。事実(現実)はどうかを知って頂きたく思います。 金関係者が使う言葉は、分かり易く説明するのではなく、世間をごまかすためにあります。








[マネーの創出:マンドレイクメカニズム]


始まりはここから

@政府の債務 ★MMT信者必読

連邦政府はペンをインクに浸して、紙片に縁取りした重々しい証書をつくります。 これは財務省証券と呼ばれます。つまるところは、ある決まった日に決まった金利を付けて一定額を支払うと言う約束です。 以下に見る段階を踏むと、この証書がやがてほとんどのマネーサプライの源泉になります。 政府はここで現金をつくりだしたのですが、まだ現金のようには見えません。 この借用証書を紙幣や小切手に変えるにはFRSが必要になります。この変身のために証券はFRSに与えられ、そこで、

A資産証券 ★MMT信者必読

になります。 政府の借金が資産扱いされるのは、政府が支払い約束を守ると想定されているからです。何故、約束を守ると想定できるかと言えば、政府は徴税という方法で必要なマネーを手に入れる力を持っているからです。 よくMMT信者がマネーは無から創出していると言う表面的な言葉だけを切り出し、適当な事を言っていますが、結局はその分、国民の税金が使われているのです。ですから確かに中央銀行制度によってマネーは無から創出されているように見えますが、結局は知らぬ間にインフレを同時に創り出し、政府は国民を欺き面倒な説明を必要とせずに税金を徴収できます。 また政府の紙幣発行権を法律で決めさせ持つ国際金融財閥(モルガン、クーン・ローブ・ロスチャイルド・ロックフェラー)はただの紙切れに印刷しただけでそれが巨額のマネーに化ける。 すなわち、国民は知らぬ間に財産を略奪され貧乏となり、国際金融財閥およぶその金融関係者達はただ同然に巨額のマネーを手にし、格差はどんどん開いていくのであり、MMT信者がお金を刷れば刷るほど、幸せになれると言うのは大嘘。 大英帝国、その次の大アメリカ帝国、言うまでもなく彼らの国民は世界で最も裕福な国民として世界の羨望の対象でした。 ところが現在どう出ようか? 言うまでもありません。 世界中のほとんどのメディアは国際金融財閥のコントロール下にあります。 そして施府が借金を返せる根拠の力は軍事力です。 基軸通貨は軍事力によってのみ支えられます。 話が結論に急いでしましましたが、証券資産の話に戻り説明を続けます。

政府の借金が資産扱いされるのは、政府が支払い約束を守ると想定されているからです。何故、約束を守ると想定できるかと言えば、政府は徴税という方法で必要なマネーを手に入れる力を持っているからです。と、前述しました。 したがって、この資産は与えたものを取り戻す権力が裏付けになっています。 こうしてFRSには「資産」ができ、これをもとに債務を負うことができます。 FRSはペンをインクに浸して証書をつくり、財務省証券と引き換えに渡します。 この2番目の証書は、

BFRSが振り出す小切手

であります。 この小切手を振り出すもとになるマネーはありません。 個人がこういうこ議会がマネーを欲しがっており、とを刷ると刑務所域になります。 しかしFRSの場合は合法です。 議会が戦争・環境・後進国や貧困層支援・場合によっては政治家への賄賂など、マネーを欲しいますいます、このFRS(中央銀行)を使った方法が最も容易にマネーを手に入れる方法だから、合法にしているのです。 増税は選挙での政治家にとって政治的自殺、発行する国債をすべて民間に買ってもらおうというのは現実的でありません。金利が低くせってされていればなおさらです。 大量の紙幣を印刷すれば目立つし、異論が必ず出ます。 こうして銀行システムという謎のシステムのなかで、謎の雰囲気の中で、ことは進行します。 但し、最終的な結果は政府が印刷機を回して大量の不換紙幣(政府の命令でつくられるだけで、具体的価値の裏付けがない紙幣)を印刷して支払いに充てた場合と同じです。

しかし、会計上は帳簿の収支が均衡したことになrます。 マネーを生み出した債務は借金草書である資産と相殺されるからです。 政府は受け取ったFRSの小切手を連邦準備銀行の一つに振り込み、そこで、

C政府の借金

になります。FRSの小切手が政府の口座に預け入れられると、今度は政府の支払いに使われます。 つまり、

D政府が降り出す小切手

になります。この小切手は経済に不換紙幣というマネーがあふれ出す最初のルートです。
政府の小切手を受け取った者は自分の口座にそれを振り込み、今度は、

E商業銀行の預金

になります。この小切手は経済に不換紙幣というマネーがあふれだす最初のルートです。

政府府の小切手を受け取った者は自分の口座にそれを振り込み、今度は、

F商業銀行の預金

になります。 商業銀行の預金はここで2種類の性質を帯びます。預金はいずれ銀行が払い戻さなければならないから、一方では銀行の債務ですが、銀行にある限り資産と見なされます。 ここでも帳簿の収支は均衡します。 資産と債務は同額です。 しかし、プロセスはここで終わりはしません。 部分準備銀行という魔術を使って、預金はさらにおいしい目的%を「準備」としてもっていればいいと決めています。 ということは、最初にFRSが魔法の杖の一振りで創出した100万ドルを銀行が預金として受け入れれば、100万ドルから準備の10%を差し引いて、そのうち90万ドルは手元に置かなくてもいいことになります。銀行家の言葉ではこの90万ドルは、

G余剰準備

と呼ばれます。 「余剰」という形容詞は、このマネーには特別な津愛道があると言う意味です。 余剰になったと言うことは、貸し出してかまわないという意味です。 そこで当然ながらこの余剰準備は、

H銀行貸し出し

になります。 預金者は今マネーをもとに小切手を書いて好きなように使えます。 つまりおなじまねーを2重に使えることになるのではという疑問が生じますが、答えは新しく貸し出されたマネーは以前のまねーではないということです。 マネーサプライが銀行預金の90%分増えたのです。 しかも銀行にとっては、この新しいマネーの方がうれしく、預金として受け入れた古いマネーには金利を支払ったり、いろいろなサービスをしなければなりません。 ところが新しいまねーのほうは金利を払うのではなく徴収できます。 コストはぜんぜんかからないんだから、これは悪くありません。 しかも、まだ続きがあります。この第二の不換紙幣が経済に注ぎ込まれると、最初のマネーと同じように銀行システムに舞い戻ってきます。 つまり、

I商業銀行の新たな預金
になります。 こうして数字が少しづつ小さくなりつつ、同じプロセスが繰り返されます。
金曜日に「貸し出された」まねーは、月曜日には「預金」として戻ってきます。 この預金は再び「準備」となり、その90%が「余剰」準備とされて、もう一度「貸し出す」ことができます。こうして宰相の100万ドルが90万ドルを生み、その90万ドルが81万ドルを生みます。預金から貸し出しへ、貸し出しから預金へ、預金から貸し出しへという回転ドアを28回ばかり通ると、最大の効果が現れて、

J銀行の不換紙幣=政府債務の9倍

になります。 つまり銀行カルテルが創出する不換紙幣は、このプロセスの出発点となった政府債務の9倍になります。 元の債務を加えると、

K不換紙幣総額=政府の10倍

ということになります。FRSが創出したマネーと商業銀行が創出したマネーをあわせると、政府債務の10倍に達します。 これだけのマネーが創出されて経済にあふれだせば、商品やサービスは増えていないのだから、当然古いのも新しいのもすべてのマネーの購買力が低下します。マネーの相対的な価値が下がれば物価はあがります。 結果は税金として購買力を取り上げられたのと同じことになります。 したがってこのプロセスで、

L隠れた税=国の債務の10倍

が徴収されるわけです。 これに気づかないで、アメリカ人は何年も連邦所得税と消費税のほかに完璧に隠れた税金として、国の債務の何倍もの金を支払ってきたわけです。 しかも、話はまだ終わりません。 マネーサプライというものの、国の債務以外には何も裏付けのないもない恣意的な産物でしかないから、その額は増えたり減ったりします。 人々の借金が増えればマネーサプライは増大して物価は上がりますが、借金を返済して新たな借金を断れば、マネーサプライは収縮し、物価は下落します。 経済や政治が不安定になっているときには、こうしたことが起こります。 実は、このマネーサプライの増減が原因となって、

M好景気、バブル崩壊、不況

という循環が生じます。 これで誰が得をするのか? 普通の市民でないことだけは確かです。 得をするのは、権力基盤の無限の歳入源を享受する議会(政府)の政治のサイエンティスト、それにFRSという名の銀行カルテルのなかで、いつのまにかアメリカ人を現代の封建制度のくびきにつないでしまった金融のサイエンティストたちだけだったのであります。


準備率

ここまでの話は「準備」率を10%(マネーが10対1で拡大する)として考えてきました。しかし、この数字は恣意的に動かせることを忘れてはなりません。 マネーは貴金属の裏付けのない不換紙幣なのだから、実際には何の制約もあrません。 政治家やマネーの管理者がいまはどのくらいの数字が適当と考えるか、というだけのことです。 この率を変更すること、それがFRSマネーサプライに影響及ぼす第三の方法であります。 したがって、準備率の数字は変動すると考えなければなりません。 もっとマネーが必要だということになれば、この数字は5%、2%になって「準備」なるものはどんどん減るかも知れません。 現在のシステムで生み出される不換紙幣の総額には、事実上限度はありません。









[結論]

最初から分かりきっているように、FRS(連邦準備制度)の目的は、議会(政府)が税を徴収していると市民に悟られずに財政資金を手に入れる事事入れられるようにする事、そして国際金融財閥が所有する銀行のカルテルが続的な儲けの源泉を手に入れる事の2つです。

マンドレイク・メカニズムがマネーサプライを拡大させているのは事実ですが、このプロセスは逆回転させることが出来ます。FRSが債権その他の債務証書を購入するとマネーが創出されるように、これらの証書を売却すればマネーは消えます。 債務証書が売却されるとマネーはFRSに戻ってきて、生まれ故郷のインク壺かコンピューターに消えていきます。すると商業銀行システムを通じてマネーを創出したのと同じ効果が働いて、マネーは経済から引き上げられ、マネー・サプライが縮小します。 国際金融機関が所有する銀行カルテルとFRSにより、人類の歴史につきまとった好景気とバブル崩壊、不況という景気変動を人工的につくりだすことができます。

結論として現代のマネーは金融界と政界のサイエンティストが創り上げた壮大な幻想で、我々は不換紙幣の時代に生きています。 歴史上、不換紙幣を採用した国家はすべて、そのために経済的に破綻しすというのが厳粛な事実。 現在のマネー制度にには、私達がこのくらい先例に倣わずに済むという根拠は何もありません。

ただ、唯一ある方法が、議会(政府)はまだ今の法律ではFRSを廃止する淵源を持っていると言うこことだけであります。









最後に

自国通貨を発行できる国家は、刑事破綻はおk佐ないので、どうせただ同然にお金を刷れば、それも大量におカネを発行すれば、国民が幸せになれるという風潮がMMT信者ににより流布されていますが大きな間違いです。 それが成立するのは発展登場国で農業経済で、経済活動が国内のみで完結できる場合と、基軸通貨(ドル)を持つアメリカだけです。 今日の様に国際貿易を行っている時代では、そのストーリーは成立しません。 基軸通貨(ドル)を持つアメリカは世界NO.1の軍事力・政治力を有し、例えば石油やウランなどはドル決済でなければ購入できないように国際的仕組みをつくっています。 中国も石油・ウランなど気hンのエネルギー資源は輸入国であり、スマホ・半導体などの先端技術商品に必須のデバイス(半導体・半導体租税及び製造設備・電子部品)などは同盟国から独裁共産国への輸出を制限しようとすれば可能であり、今日、また今後100年も世界を支配するであろうアングロサクソンのイギリス・アメリカがシティ・ウォール街が世界の金融を支配していて、中国も人民元をドルに交換しないと必須の素材や電子部品を購入できません。 ドルのへの交換を認めないようにしたり、銀行でのドル資産凍結という経済制裁をアメリカがした時点で、中国経済は終了です。 ただ、アメリカ含め西側諸国は中国との貿易もしているので、そこまで滅茶苦茶な事はしないだけの話です。 しかし北朝鮮や南米のよう経済規模が小さく、背後に中国やアロシアがいる独裁国家には遠慮なく経済制裁をおこんっているので、彼らは貧乏だから自国通貨を言い証券名発行してハイパーインフレなど経済破綻を起こしているのです。 日本を真の独立国家にと、アメリカを排除しようとする人達がいますが、それならば世界トップクラスの軍事力・政治力、また石油・天然ガス・ウランなど少なくともの国内消費する分は100%自給、そして同盟国に輸出するだけの資源を持っている必要がありますが、現実ありません。 頼りなく見える日本政府・官僚ですが、彼らはそこまで考えているのでやっていないだけの話で、外野からワーワー言っている方が何も分かっていない人たちなのです。

もちろん、本当に必要なのお金をケチってにやらないという緊縮財政には反対ですが、アベノミクス。コナでも100兆円を超える金融緩和・財政投資をしても日本の長期デフレはご存知の通り、全くデフレは収まらなかったでしょ。 お金を刷れば解決できるというアホの一つ覚えのような考えが間違っているのです。 日本の長期デフレの真の原因は、中台韓による国家資本主義と呼ばれる国家による補助政策で日本の得意としていた、半導体・ディスプレイ・太陽電池、携帯電話、PCなど、恣意的に日本の商品より安価な値付けをしてくるので、日本の得意とする産業が壊滅されただけなのです。 そして日系企業は倒産・身売り・工場閉鎖・大量リストラによる失業・賃金カット、彼らの意図的な低価格商品に対抗するために低価格競争。 デフレが収まるわけがありません。 すなわち金融緩和したところで、中台韓が意図的に価格をくぐらせてくる影響の方が大きいと言う事です。なので二hンのエレクトロニクス産業界は何度も日本政府に、彼らのインチキ貿易に輸入関税を要求してきましたが、親中台韓の安倍―二階の日本政府はスルー。 最近になって衆議院選挙があり危機感をおぼえたのか、彼らに対して輸入関税をかける事を検討していると、先日の日本経済新聞でほじられていました。ようやくかい、という印象です。

MMTに話を戻すと、自国内で経済活動が完結する場合は、自国通貨を発行できる国家は経済破綻しないというのは当たり前で、認めます。 しかし国際貿易をしている現在では円を大量に発行すれば当然円安となり、購買力は低下し、原油・天然ガス・ウランの購入で国家財政は数兆円規模の貿易赤字で厳しいものになています。 自国通貨を発行できる国家は経済破綻しないと言う話が成立するなら、どんどんイケイケで発行し世界No.1かつ税金ゼロの国家を作って欲しいものです。 あり得ません。 あちこちで論破されたMMT信者は何うぃい出したか? MMTとはインフレ率が2〜3%に収まるように自国通貨を発行するものであると、何と定義を変えだしました。 それは既に五回のどの国も行っている刑事政策であり別にMMTでも何でもなくNothing special。 結局はMMTという言葉で騒いでしまったので、言い訳としてMMTという言葉を擁護しているに過ぎません。 それなら、最初から議論するわけないじゃないですか? 今世界で行われている当たり前の事ですから。 そうしたら、今度はMMT信者は何を言い出したか? アベノミクス・コロナで大量に円を刷ってもハイパーインフレにならなかってでしょ。と言い出しました。 当たり前で、それは日本の先人たちの努力で日本の科学技術力・民間企業の力がまさっているだけの話です。 私のBlog記事ですがこれを読んで、日本の国家としての実力を正確に見てください。

世界の超大国 日本
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2736.html

なので自国通貨である限り、いくら発行しても経済的破綻はしないと言う事とイコールではなく、これまた大さわぎしてしまったMMTという言葉を守る言い訳に過ぎません。


MMT信者が勘違いして間違っているのは、中央銀行によって、マネーが無から生み出されたと言う部分だけを切り取り騒いでいる事です。それは間違いである事は、今回の投稿ですでに説明していますが、再掲しておきます。


始まりはここから

@政府の債務 ★MMT信者必読

連邦政府はペンをインクに浸して、紙片に縁取りした重々しい証書をつくります。 これは財務省証券と呼ばれます。つまるところは、ある決まった日に決まった金利を付けて一定額を支払うと言う約束です。 以下に見る段階を踏むと、この証書がやがてほとんどのマネーサプライの源泉になります。 政府はここで現金をつくりだしたのですが、まだ現金のようには見えません。 この借用証書を紙幣や小切手に変えるにはFRSが必要になります。この変身のために証券はFRSに与えられ、そこで、

A資産証券 ★MMT信者必読

になります。 政府の借金が資産扱いされるのは、政府が支払い約束を守ると想定されているからです。何故、約束を守ると想定できるかと言えば、政府は徴税という方法で必要なマネーを手に入れる力を持っているからです。 よくMMT信者がマネーは無から創出していると言う表面的な言葉だけを切り出し、適当な事を言っていますが、結局はその分、国民の税金が使われているのです。ですから確かに中央銀行制度によってマネーは無から創出されているように見えますが、結局は知らぬ間にインフレを同時に創り出し、政府は国民を欺き面倒な説明を必要とせずに税金を徴収できます。 また政府の紙幣発行権を法律で決めさせ持つ国際金融財閥(モルガン、クーン・ローブ・ロスチャイルド・ロックフェラー)はただの紙切れに印刷しただけでそれが巨額のマネーに化ける。 すなわち、国民は知らぬ間に財産を略奪され貧乏となり、国際金融財閥およぶその金融関係者達はただ同然に巨額のマネーを手にし、格差はどんどん開いていくのであり、MMT信者がお金を刷れば刷るほど、幸せになれると言うのは大嘘。 大英帝国、その次の大アメリカ帝国、言うまでもなく彼らの国民は世界で最も裕福な国民として世界の羨望の対象でした。 ところが現在どう出ようか? 言うまでもありません。 世界中のほとんどのメディアは国際金融財閥のコントロール下にあります。 そして政府が借金を返せる根拠の力は軍事力です。 基軸通貨は軍事力によってのみ支えられます。 話が結論に急いでしましましたが、証券資産の話に戻り説明を続けます。



国際金融財閥が永続的に儲け、政府が国民に悟られないようFRSを使い、国民の財産を収奪するという天才的な仕組み。 イギリス、アメリカをはじめとして先進国では大量にお金を発行しつづけてきて、国民の生活はどうなりましたか?

国債NGO「オックスファム」によれば、世界で1年間に生み出された富(保有財産追加分)のうち82%を世界で最も豊かな上位1%が独占し、経済的に恵まれない下半分(37億人)は財産が増えなかったとする発表をしています。 そして、AFPによれば、世界で最も裕福な26人が、世界人口のうち所得の低い半数に当たる38億人の総資産と同額の富を握っているとの報告書を、国際NGO「オックスファム(Oxfam)」が21日に発表したと、2019年1月21日付の記事で報道。現在は、超格差拡大時代です。

あれだけ豊かだった欧米諸国、そしてそれにまさったと言われた日本でも、中間層はすべて貧困層に落ちぶれ、エリート層のホームレスも急増する一方です。

欧米のyoutuberたちが昔は豊かだった大都市の街の様子をスマホカメラで撮影した動画が毎週のように配信されています。 いろんな国・都市の動画がありますが、今回はその一部の動画だけを紹介します。




https://www.youtube.com/watch?v=Zx5-cB-FSVk
https://www.youtube.com/watch?v=vtj-A6ZQhE4
https://www.youtube.com/watch?v=_KCRiK0ykC0





明日の日本です。 現在、日本では自民党総裁選が行われていますが、この格差是正解消、さらに自由公正な貿易を論じて欲しいものです。












戦争資金を供給する銀行、中央銀行システム
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2974.html
ジキル島の秘密会議
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2975.html
連邦準備制度への全米反対運動と成立まで
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2975.html
FRS/FRB(連邦準備制度銀行)の仕組み
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2977.html
中央銀行FRS/FRB 通貨発行プロセス MMT信者が勘違いするマンドレイク・メカニズム」 
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2978.html

















日本の財閥

日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2721.html
政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2722.html
ゴールドマン・サックスと住友財閥
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2932.html
住友財閥の歴史
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2956.html
財閥解体
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2957.html
財閥解体と再結集、そしてグループ化
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2958.html
山口財閥・三和グループ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2959.html
住友銀行の暴走と磯田会長の辞任
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2960.html
三井と住友の合弁、そして住友金属工業の「白水会」脱退
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2961.html
住友家・住友グループの特徴
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2962.html
浅野財閥
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安田財閥
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鴻池財閥
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2965.html
鮎川・久原財閥と日産・日立グループ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2966.html
三井財閥
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2967.html
三菱財閥
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野村財閥
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2969.html
旧鈴木財閥
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2970.html
古河財閥・古河グループ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2971.html
川崎財閥(薩州財閥) 
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2972.html
渋沢財閥・一勧グループ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2973.html

















ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2904.html

モルガン財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2894.html

デュポン財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2919.html

ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2917.html

日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2918.html
財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-1
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2815.html
財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-2
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2950.html







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2021/9/15

FRS/FRB(連邦準備制度銀行)の仕組み  財閥(日本・世界)





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FRS/FRB(連邦準準備制度銀行)の仕組み




戦争資金を供給する銀行、中央銀行システム
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2974.html
ジキル島の秘密会議
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2975.html
連邦準備制度への全米反対運動と成立まで
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2975.html
からの続き



連邦準備制度は、ワシントンD.C.にある連邦準備制度理事会(Federal Reserve Boad. FRB)が全国の主要都市に散在する連邦準備銀行(Federal Reserve Bank. FRB)を統括する形をとっています。 連邦準備制度理事会は、一応連邦議会の下にある政府機関ですが、予算の割当や人事の干渉を受けません。

12の地区に設立された各連邦準部銀行は、民間の金融機関が出資する法人です。 政府や個人や非金融機関の法人は連邦準備銀行には出資できません。

アメリカ合衆国の金融政策である金利、通貨の数量と価格および債券の販売などは、連邦準備制度理事会という表看板ではなく、12ある各連邦準備銀行のなかでの実力ナンバー1の「ニューヨーク連邦準備銀行」第二地区によってきめられていきます。 「ニューヨーク連邦準備銀行」が、連邦準備制度の下で、事実上の実権を握っています。


そして、ナショナル・シティ・バンク、ナショナル・バンク・オブ・コマース、ファースト・ナショナル・バンク、ハノーバー・ナショナル・バンク、チェース・ナショナル・バンクの5行が、この「ニューヨーク連邦準備銀行」の約40%を占める大株主であったことが知られています。 その後、この上位5行の持株比率は50%を超えていきます。

この「上位5行の主な株主たち」は、ロスチャイルド家、モルガン家、クーン・ローブ商会、シフ家、ロックフェラー家、ウォーバーグ家、リーマン・ブラザーズ、ラザール・フレールなどです。 のちに、クーン・ローブ商会は、リーマン・ブラザーズと合併します。

どれもロンドン・コネクション、すなわちロスチャイルド家につながっていて、ロンドンのシティで、マーチャント・バンクとしての営業許可をイングランド銀行から受けている17行のうちの、N・M・ロスチャイルド&サンズ、モルガン・グレンフェル(モルガン家のロンドン支店)、エアザール・フレール、シュローダー銀行、ブラウン・シップレイ(ブラウン・ブラザーズ・ハリマンのロンドン支店)の5行が、ニューヨーク連邦準備銀行の支配権を握っているニューヨークの「上位5行の主な株主たち」を巧みな資本関係等によって、操っていたとされています。 このアメリカ統治の多重構造の中心が、N・M・ロスチャイルド&サンズでした。



ロスチャイルド財閥の始まり 放たれた5本の矢(子供達)
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2631.html
ロスチャイルド家の4つの家訓とM・A・ロスチャイルド&サンズ会社 
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2632.html
世界の長者番付とロスチャイルドの資産
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2633.html
金の価格はこうやって決まる 黄金の間でのフィキシング
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2634.html



ニューヨーク以外の11の地区の連邦準備銀行も、似たような株主構造となっていますが、各地区の主要産業を所有または支配している地元の一族によっても株主が所有されます。
地元の一族は、ロスチャイルド家やロックフェラー家の影響下にある外交問題評議会、日米欧三極委員会などの地区協議会も設立していました。 このような状況であったので、ロスチャイルド家やロックフェラー家のアメリカ国内の地方で政治的な展開を妨害することはほとんど不可能でした。

12の地区連邦準備銀行は、金融政策について連邦準備制度理事会に諮問するために、「連邦諮問評議会」の委員を一人づつ選出し、年4回ワシントンで連邦準備制度理事会と会合を開くことになりました。 各委員がそれぞれの地区を代表し、かつ同等の投票権を持っていたので、民主主義が保証されたかのように見えました。 しかしながら、委員に選ばれた地方銀行の一頭取が、ポール・ウォーバーグやJ・P・モルガンたちと正面から意見を衝突させることは土台無理な話でしたし、そもそも彼らの息がかかった委員が選出されていました。

「連邦諮問評議会」の初代会長は、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・シカゴの頭取J・B・ファーガンで6年間勤め、次の会長も同じ銀行の公認頭取でした。 ファーガンもロンドン・コネクションの人間でした。「連邦諮問評議会」で、ニューヨーク連邦準備地区を代表した委員は、J・P・モルガンで、後任はその後、10年間にわたってポール・ウォーバーグであり、彼は「連邦諮問評議会」の副会長や会長を努めました。 ふたりは連邦準備制度理事会の会合に、最初の4年間一緒に出席していました。 1920年代を通じて、ポール・ウォーバーグは連邦準備制度理事会の支配的存在でありました。


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政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
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古河財閥・古河グループ
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川崎財閥(薩州財閥) 
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渋沢財閥・一勧グループ
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ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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モルガン財閥 ここまでのまとめ
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デュポン財閥 ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-1
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-2
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2021/9/12

連邦準備制度への全米反対運動と成立まで  財閥(日本・世界)







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ジェイコブ・ヘンリー・シフ(1847-1920)


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ウッドロー・ウィルソン(1856-1924)









連邦準備制度に全米で反対運動

ジキル島の秘密会議
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からの続き


連邦準備制度をつくり、貨幣を発行しその規模を管理する主権を銀行家たちに付与する共和党の「オールドリッチ法案」の内容が伝わると、全米で大反対が起こり、その議論を続けている間に、共和党が議会選挙に敗れてしまいました。 この新たに生じた事態に対処するため、アルフレッドは、何でも言うことを聞く政治学者でニュージャージー州知事のウッドロー・ウィルソン(1856-1924)を民主党の大統領候補に引っ張り出しました。

1912年のアメリカ大統領選挙に出馬することになったウィルソンにとって「銀行・通貨制度の改革」は大きな争点でした。 彼は、広く票を集めて当選するために、「貨幣発行権を政府に留保し、信用供与のための地方分権的な銀行制度を樹立する」と公約しました。

この大統領選挙では、当初、現職大統領で人気が高い共和党のウィリアム・タフトの再選確実でした。 そこへ、共和党の票を割るために元大統領セオドア・ルーzベルトが、共和党を離れて革新党なるものを結成して立候補しました。 その結果、タフトとルーズベルトを敗り、ウィルソン大統領(在位1913年〜1921年)が誕生しました。

このとき、ウィルソン候補を応援したのが、ポール・ウォーバーグとジェイコブ・シフです。 タフト候補を応援したのが、ポールの従兄弟のフェリックス・ウォーバーグ。 そして、ルーズベルト候補を応援したのが、オットー・カーン。 各候補を応援した4人は皆クーン・ローブ商会の共同経営者です。 4人が大統領選挙を計画通り、上手くウィルソンを当選させました。

ウィルソン候補の中心的スポンサーは、やはり同商会のクリーブランド・H・ドッジです。
彼は二つの兵器会社の社長で、1914年2月ウィルソン大統領がメキシコへの武器輸送を解禁したとき、大量の兵器と爆薬をメキシコに送り大儲けしています。 クーン・ローブ商会はメキシコ革命を画策し、ドッジが演出しました。


また、あるフレッド・ロスチャイルドの指示に従いウィルソンを政治家として育て、大統領就任後も彼の指導者であったマンデル・ハウスも重要人物です。 ハウスは次のように語っています。
「1912年12月19日、私は通貨改革に関して、ポール・ウォーバーグと電話で話をした。私はワシントンへ旅行し、そこで作業手順を整えるために行った事を話した。 上院議員と下院銀はウォーバーグが希望することを行うんを切望しているように見え、当選した大統領ウィルソンはその問題に関して変更なしに行うことを館得ているようだと、私はウォーバーグに伝えた」。

彼はワシントンで、上院議員、下院議員、そして当選したウィルソンが、「連邦準備制度」「連邦準備銀行」の計画を予定通り遂行するつもりであることを確認しました。

ウィルソン大統領の取り巻きは、ロスチャイルド家の代理人で固められました。 マンデル・ハウス、ポール・ウォーバーグ、バーナード・バルーク、ユージン・マイヤー、ジェイコブ・シフなどです。




[マンデル・ハウス]

エドワード・マンデル・ハウス(1858-1938)は、ウィルソンが「もう一人の私」と呼んだほどの仲であり、ウィルソン大統領を政治・政策面で指導しました。 彼は軍隊経験はありませんが、選挙でお世話になったテキサス州知事から「ハウス大佐」という尊称を与えられました。 彼は、そもそもは、ロスチャイルド家の代理人として、テキサスの石油業者との間をつなぐ役割を担っていた人物です。

彼には「Philip Dur :Admnistrator(統治者フィリップ・ドルー)」という著書があり、
体裁は小説ですが、中身は将来の政府のあり方を著しています。 それは「カール・マルクスによって描かれた社会主義を成立させるもの」でした。 そこでは累進所得課税、過剰利益税、失業保険、社会保障、そして「弾力的な通貨制度(連邦準備制度の構想)が描かれていました」。 これは後のウィルソンとルーズベルトの両大統領の政策の青写真だったのです。 本は匿名で出版され、政府の官僚の間で広く読まれました。

彼は、あるフレッド・ロスチャイルドの指示の下、ジェイコブ・シフ、ポール・ウォーバーグ、オットー・カーン、モルガン、ロックフェラーなどと連携して連邦準備制度の創設を主導しました。



[ポール・ウォーバーグ]

ウォーバーグ家もロスチャイルド家と同じユダヤ教徒で、元々はフランクフルト・ゲットーの出身です。 ポール・ウォーバーグ(1868-1932)は、1902年、ハンブルグを本拠とする一族の銀行M・M・ウォーバーグ商会のパートナーシップ保持しながら、ロスチャイルドの代理人として渡米、ニューヨークのクーン・ローブ商会の創業者ソロモン・ローブの娘ニーナと結婚して、ジェイコブ・シフ同様、クーン・ローブ商会の共同経営者となりました。

彼は、中央銀行設立を進める動きの中でドイツ国籍が障害になったので、1911年にアメリカに帰化しています。 1918年12月付けのアメリカ合衆国海軍情報部(諜報部)の報告書には次のように記載されています。 「ぽーっる・ウォーバーグ ニューヨーク市 ドイツ人。 彼は1911年にアメリカ市民権ウィ取得、1912年にドイツ皇帝より受勲。 アメリカ合衆国連邦準備制度理事会副議長(議長代理)を務めた富裕にして有力な銀行家。 ドイツからレーニンおよびトロッキーに供与された大金を扱った。 同人には(ドイツの)スパイ組織の指導者である兄弟がいる」。

彼は、1918年5月に連邦準備制度理事を退職しています。 彼の兄マックス・モーリッツ・ウォーバーグ(1867-11946)はM・M・ウォーバーグ商会の最高経営者(在任1910ー1938)です。

第一次世界大戦が始まるまでの間、ドイツのユダヤ人銀行家たちは手厚く国家から保護されていました。 彼らは自分たちの愛国心を証明して皇帝に取り入り、ドイツ帝国の資金調達を担っていました。 そのなかでもM・M・ウォーバーグ商会は、ドイツ帝国の積極的な外交政策に深く関与して急激に一流の国際銀行となり、資産は1900年から1914年にかけて3倍に膨れ上がりました。 同商会は、ドイツ外務省の緊密な指導の下、植民地経営活動に隠密裏に加担していたのです。 ドイツ国民は、ウォーバーグ家が密かに帝国を動かしているのではないかとの疑念を抱きました。

ウォーバーグ家は、秘密情報をフルに活用して莫大な利益をあげていました。 彼らはロスチャイルド家のドイツにおける代理人のような存在でした。 第一次世界大戦の間、マックスはウィルヘルム2世の顧問を努め、敗戦後のベルサイユ講和条約の交渉ではドイツの代表団に参加しました。彼は戦前、戦中、そして戦後もドイツを牛耳っていました。さらにはマックスはロシア革命への関与も噂されていました。

ロスチャルド家の意を受けて、レーニンらを操りロシア国内の皇帝反対派を組織させたのは、ドイツやスイスのロスチャイルド家の傘下にある大富豪や官僚たちであったと言われていて、マックスがドイツの皇帝直属の秘密警察としてそのように動いたとの説があります。 ドイツとしても第一次世界大戦の敵国であるロシア国内で革命を起こすことは、この上ない策であります。

よって、レーニンらを封印列車に乗せて密かにスイスからドイツ経由でロシアに送り込んだのでした。 レーニンは1917年、スイス・チューリッヒから、「封印列車」と呼ばれる秘密の貸し切り列車で移動しました。 ドイツを通過中、レーニンらは列車から離れてはならず、ドイツ市民と接触しないことを条件とされ、列車の車両の乗降口には施錠がなされていました。


ポールの弟のフェリックス・ウォーバーグ(1871ー1937)は、ドイツのプロイセン生命保険会社の重役でしたが、ポールより先にアメリカに移住してクーン・ローブ商会の一員となり、ジェイコブ・シフの娘フリーダと結婚しました。 後には、ユダヤ教のアメリカ長老会の会長に就ています。

彼も兄のマックスと同様にロシア革命に関与し、レーニンに革命資金を与え、レーニンを封印列車に乗せてロシアに送り込む際に一役買ったとされています。 ちなみに、フェリックスの娘フェリシア・シフ・ウォーバーグ(1927年生まれ)は、フランクリン・ルーズベルトの息子ルーズベルト・ジュニアと結婚して3番目の妻となっています。1970年結婚、1976年離婚。 尚、ポールの息子ジェームズ・ポール・ウォーバーグ(1896-1969)は、ルーズベルト大統領1期目の金融財政顧問となっています。




[バーナード・バルーク]

バルーク家もユダヤ教徒で、ろ紙チャイルド家、シフ家、ウォーバーグ家、カーン家とともにフランクフルト・ゲットーに住んでいました。バーナード・バルーク(1870-1965)は、ウォール街の伝説の相場師であり、かつウィルソン、ハーディング、クーリッジ、フーバー、ルーズベルト、トルーマンと連続した6人もの大統領の顧問として歴代大統領を指導する立場にありました。 第一次世界大戦時には、戦時生産局長官となり、アメリカ合衆国のすべての軍備工場を掌握し、彼自身が軍事予算から巨万の利益を得ていました。 第一次世界大戦前に100万ドルであった彼の資産は、戦争終結時には200倍の2億ドルになったとされています。

ベルサイユ条約では、ドイツに法外な賠償金を支払うように決めた賠償委員会の委員長でした。彼はその後、歴代大統領を指導する立場となり、ソ連の育成、第二次世界大戦後、戦後の米ソ冷戦構造などの壮大な戦略のシナリオを描いたと言われています。 第二次世界大戦後も。国連の原穏子力委員会の米国首席代表を務めた他、トルーマン政権をはじめとして各政権に穏然たる影響力を保持しました。



[ユージン・マイヤー]

ユージン・マイヤー(1875-1959)は、第一次世界大戦時には、戦時品軍需品・財政委員会や戦争産業委員会で活躍し、その後、1930年に連邦準備制度理事会の議長に就任。 1931年には、大恐慌対応として再建金融公社の会長となります。さらに1946年には初代世界銀行総裁に就任。 彼の父親はロスチャイルド系投資銀行ラザール・フレールの共同経営者で、娘のキャサリン・グラハムはワシントン・ポストの社主として日本を含めて内外に影響力を持ちました。







横暴が目に余るシフ一党への世間の反発

1912年、シフ一党の横暴が目に余るという世間の厳しい非難を受けて、議会で論争が巻き起こり、就任後間もないウィルソン大統領も、シフ傘下のいわゆるユダヤ銀行トラスト(銀行連盟)にメスを入れる調査委員会の設立を認めざるを得ませんでした。

調査委員会の報告書によれば、ユダヤ銀行トラストは実在して、「5行の巨額銀行よりなり、この5行は他の112行の重要銀行を管理し、これらの銀行は、全米に言うに及ばず、遠く海外の重工業カルテル、金融カルテルの支配権を、完全にその手中に収めている。 ユダヤ銀行トラストの資本総額は約222億ドル(約600億円、1012年当時、フランスの富の3分の2に相当)に達する」とのことでした。

そして、シフのユダヤ銀行トラストの上には、「ロスチャイルド王朝」があったので、国際ユダヤ財閥の富は、おそらく世界の富の過半に及ぶと推定され、全米が震えあがりました。この年、ロンドンに於いて、あるフレッド・ロスチャイルドの弟レオポルド・ロスチャイルドは、N・M・ロスチャイルド&サンズがあるニューコートから車で出てきたところを銃で5発撃たれ、本人は無地でしたが、警護の警察官が重傷を負う事件が起きました。
犯人は狂人であったと伝えられましたが、様々な憶測が流れ、ロスチャイルド家の警護は厳重を極めました。








民間所有の中央銀行 FRS/FRB(連邦制度準備銀行)の成立

ウィルソン大統領は「貨幣発行権を政府に留保し、信用供与のための地方分離的な銀行制度を樹立する」と公約して当選しました。 したがって、当然、国民から大反対があった共和党の「オールドリッチ法」お修正して、骨子を残しながらも、見かけはウィルソン大統領と民主党の選挙公約に沿ってカムフラージュを施すことが必要でした。 そうして苦心惨憺して出てきたのが、民主党案としての「オーウェン・グラス法」という名の連ピ準備法でした。

しかも、この「オーウェン・グラス法」に対し、共和党のオールドリッチなどが激しい非難の肥を上げるという茶番劇付きでした。 「オーウェン・グラス法」という名の連邦準備法を実質的にまとめたのも、ポール・ウォーバーグと言われています。 黒幕はやはり、アルフレッド・ロスチャイルドでした。 マスコミはこぞって議会の勇断を賞し、それに騙され国民はアメリカの政治いまだ健全なりと安堵したのでした。

1913年12月、連邦議会において、民主党が提出した「オーウェン・グラス法」を徹底反対する上院議員たちがクリスマス休暇に入った23日を狙って強引に通過させ、ウィルソン大統領が署名しました。

1844年の「ピール銀行条例」と1913年の「オーウェン・グラス法」とは、ともにロスチャイルド家が主導したことに加え、法律の趣旨がぼかされていることでも、二大政党の談合で生まれたことでも似ています。 百年スパンの計画的行動です。 歴史的にアメリカ国民は中央銀行創設に反対していたので、準備は少数の銀行家たちによって密かに進められ、成功しました。

ナサニエル・ロスチャイルドは1915年に亡くなりますが、子の時期、弟あるフレッド・ロスチャイルドが実質的に采配を振るっていました。すぐにウィルソン大統領によって、連邦準備制度の5名の創立委員会が指名されました。 創立委員長の名が「ユダヤ財閥の魔王」ジェイコブ・シフの義弟にあたるポール・ウォーバーグであることを知って、アメリカ国民は唖然とし、次に「」一体どういことだと呻いたのです。

当初からのdシナリオ通り、アメリカ合衆国に民間所有の中央銀行、すなわち、私的な大株主に支配されたニューヨークの銀行が出資する連邦準備制度銀行が、無理やりつくられていきました。 このアメリカ合衆国の連邦準備制度で創造される法外な巨額のマネーを支配する限り、ロンドンも世界の金融センターであり続けます。

ちなみに、アメリカの当時の大企業は、鉄鋼業や繊維産業も、イギリスの貴族や富豪たちが大株主として並んでいました。


次の投稿「FRS/FRB(連邦準備制度銀行)の仕組み」に続く。
















日本の財閥

日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
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政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
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ゴールドマン・サックスと住友財閥
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住友財閥の歴史
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財閥解体
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財閥解体と再結集、そしてグループ化
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山口財閥・三和グループ
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住友銀行の暴走と磯田会長の辞任
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三井と住友の合弁、そして住友金属工業の「白水会」脱退
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住友家・住友グループの特徴
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浅野財閥
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安田財閥
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鴻池財閥
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鮎川・久原財閥と日産・日立グループ
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三井財閥
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三菱財閥
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野村財閥
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旧鈴木財閥
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古河財閥・古河グループ
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川崎財閥(薩州財閥) 
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モルガン財閥 ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-1
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2021/9/12

ジキル島の秘密会議  財閥(日本・世界)





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ネルソン・オルドリッチ(Nelson Wilmarth Aldrich)1841-1915
共和党 上院議員 通貨委員会委員長
ジョン・D・ロックフェラーJr.(ロクフェラー2世)の義父







ジキル島の秘密会議

戦争資金を供給する銀行、中央銀行システム
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からの続き


1910年11月にJ・P・モルガンが所有するジョージア州のジキル島で、通貨委員会の委員長による秘密会議が開かれました。 出席者は、次の7人です。


@ポール・ウォーバーグ
ロスチャイルド家の代理人、クーン・ローブ商会の共同経営者

Aヘンリー・ディビソン
J・P・モルガン商会の共同経営者

Bフランク・ヴァンダーリップ
ロックフェラー系ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨーク頭取

Cチャールズ・ノートン
J・P・モルガン系ファースト・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨーク頭取

Dベンジャミン・ストロング
バンカーズ・トラスト・カンパニー社長、1914年にモルガンおよびクーン・ローブ商会の共同推薦で「ニューヨーク連邦準備銀行」初代総裁

Eネルソン・オールドリッチ
共和党上院議員、院内幹事。 通貨委員会委員長。 J・P・モルガンの投資パートナー、
ジョン・D・ロックフェラーJr.(ロクフェラー2世)の義父

Fエイブラハム・アンドリュー
連邦財務省次官。 通貨委員会特別補佐官。



この秘密会議で、7人はロスチャイルド・ロンドン家ナサニエルの弟のアルフレッド・ロスチャイルド(1842-1918)から任されて、中央銀行計画案を作成したとされています。

この計画案とは、アメリカ合衆国の通貨と信の独占権を、中央銀行的な機能を持つ「制度」を通じて、特定の銀行家たちに付与するものでした。 アメリカでは欧州の状況を知っていたので「中央銀行」に批判的な意見が強かったので、ポールは「中央銀行」という名称を避け、「連邦準備制度」「連邦準備銀行」という複雑な制度と分かりにくい名を称にしました。 「民間が所有する」中央銀行ですが、あたかも政府機関と思わせるように「連邦」を名乗ったのです。

秘密会議の7人の背後には、アメリカの基礎的産業や資源の多くを支配していたという、クーン・ローブ商会のシフやモルガン、ロックフェラーが控え、さらのその背後にはロスチャイルド家の地球規模の金融パワーがありました。

アメリカ合衆国の主な銀行系持ち株会社は、クーン・ローブ商会、J・P・モルガン、ブラウン・ブラザーズ・ハリマンなど特定の銀行の掌中にありました。 これら特定の銀行は、表面上はアメリカの企業ですが、ロスチャイルド家の本拠地であるロンドンに支店を持っていました。 単にロンドンに支店を持っていたのではなく、実際はロンドンからの指示を受けていたとされています。

一方、ヨーロッパの特定の銀行である・N・M・ロスチャイルド&サンズ、M・M・ウォーバーグ、ラザール・フレールなどは、全てウォール街に支店または子会社を持っていました。 アメリカ合衆国やヨーロッパの特定の銀行は、本店がどこにあろうが、世界の金市場と国際金融市場をコントロールするロスチャイルド家の傘下にあったという事です。


スチャイルド財閥の始まり 放たれた5本の矢(子供達)
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2631.html
ロスチャイルド家の4つの家訓とM・A・ロスチャイルド&サンズ会社 
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2632.html
世界の長者番付とロスチャイルドの資産
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2633.html




世界の金(Gold)の価格は、毎日、N・M・ロスチャイルド商会の事務所で決定されていました。


金の価格はこうやって決まる 黄金の間でのフィキシング
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日本の財閥

日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
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政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
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ゴールドマン・サックスと住友財閥
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住友財閥の歴史
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財閥解体
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財閥解体と再結集、そしてグループ化
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山口財閥・三和グループ
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住友銀行の暴走と磯田会長の辞任
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三井と住友の合弁、そして住友金属工業の「白水会」脱退
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住友家・住友グループの特徴
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浅野財閥
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安田財閥
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鴻池財閥
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鮎川・久原財閥と日産・日立グループ
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三井財閥
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三菱財閥
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野村財閥
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旧鈴木財閥
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古河財閥・古河グループ
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川崎財閥(薩州財閥) 
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モルガン財閥 ここまでのまとめ
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2021/9/4

渋沢財閥・一勧グループ  財閥(日本・世界)







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渋沢家家紋 丸に違い柏









創業者・渋沢栄一

渋沢財閥は、明治の事業家・渋沢栄一が創設した企業群からなる財閥です。
渋沢栄一(1840-1931)は埼玉の豪商の子として生まれました。 幕末期の尊王攘夷運動に感化され、高崎城乗っ取りを企てますが、同志が補導されたことにより攘夷運動をあきらめ、一橋徳川家の家臣となりました。 1866年に一橋当主・徳川慶喜が将軍に就任すると、渋沢は幕臣となり、1867年に慶喜の実弟・徳川昭武に随行してパリの万国博使節団に加わり、欧州各地を視察。 西洋文明を見聞しました。 この時の経験が、のちの「日本近代資本主義の父」としての教養の基盤となりました。

翌年帰国すると、年号は明治に変わっていました。 意外と知られていませんが、大政奉還から廃藩置県の間まで、徳川家(十六代目 徳川家建)は静岡県の藩主となりました。 渋沢は、静岡で謹慎する慶喜に面会して、そのまま同地にとどまり、静岡藩に出仕しました。 1869年、渋沢は静岡藩で「商法会所」という半官半民の企業を設立し、大きな利益を上げました。 その手腕が明治政府に認められ、大蔵省の有力者・井上馨の補佐(大蔵大丞)に抜擢されました。

しかし、1873年に政府内部の意見対立のため、井上馨と共に退官。 渋沢は大蔵省在任中に手掛けていた国立銀行条例を実行し、同年に日本初の銀行である第一国立銀行(のち株式会社第一銀行、株式会社第一勧業銀行御経て、現 みずほ銀行)を設立、1875年にはその総監役(頭取)に就任しました。

また、1873年に王子製紙株式会社(現 王子ホールディングス株式会社)、1876年に東京株式取引所、1877年に商法講習所(現 一橋大学)、1879年に有限責任東京海上保険会社(現 と今日海上日動火災保険株式会社)などの設立に参画し、1880年に横浜正金銀行(のち株式会社東京銀行、現 株式会社三菱UFJ銀行)創立委員長となりました。

さらに1881年に日本鉄道会社(のち日本国有鉄道に継承、現 東日本旅客鉄道株式会社、通称 JR東日本)、1883年に東京電燈株式会社(現 東京電力株式会社)、1886年に帝国ホテル株式会社の設立に参画しました。









傘下企業の株主構造、役員構成

このように、渋沢栄一は数多くの企業設立に参与しますが、それら企業を渋沢家の閉鎖的な所有化に置きませんでした。 のちに「わしがもし一身一家の富むことばかりを考えたら、三井や岩崎にも負けなかったろうよ。 これは負け惜しみではないぞ」、と子供達に語ったという逸話が残っています。

渋沢栄一研究家の島田昌和氏は、渋沢の株式所有行動について「まずいくつかの会社を軌道に乗せて配当を行い、自身はその会社の株式を一部売却して、その資金を新たな会社のの設立資金にしていった」と指摘しています。

つまり、渋沢は限られた資金を、企業設立のために充てることが多く、一つの企業の株式を保有し続けて支配下に置くことはしなかったのであります。 従って、渋沢(財閥)糸と認知される企業は少なく、『浅野・渋沢・大川・古河コンツェルン読本』では「直系四事業」として、株式会社東京石川島造船所(石川島播磨重工業株式会社を経て、現 株式会社 IHI)、自動車工業株式会社(現 いすゞ自動車株式会社)、株式会社石川島飛行機製作所(立川飛行機株式会社を経て、現 株式会社 立飛ホールディングス)、渋沢倉庫株式会社の四社を揚げているにすぎません(これに株式会社第一銀行[株式会社第一勧業銀行を経て、現株式会社みずほ銀行])も加えておいた方が良いでしょう)。

このうち、自動車工業と石川島飛行機製作所は王匡石川島造船所を母体としており、渋沢倉庫は第一銀行の傘下にありますが、渋沢家は東京石川島造船所や第一銀行の株式をほとんど所有していません。 しかし、栄一の次男・渋沢武之助が東京石川島造船所監査役、嫡孫の渋沢敬三が第一銀行常務の役員に就いているほか、栄一の三男・渋沢正雄が日本製鉄株式会社の常務、東京製綱株式会社の監査役に就いています。

所有なき渋沢家の役員就任について、戦前の書籍は「比較的著名な事業の多くは、大川、浅野、古河、大倉などの支配会社への従属関係に立っている。 最も浅野や大川にしてみれば、恩返しという意味でもあるまいが、渋沢翁の秘蔵っ子を大切に預かって守り育てている」と記載されています。









戦後の動向
第一銀行の企業集団形成

戦後の財閥解体で、三井・三菱・住友財閥などが十代財閥に指定されましたが、当初は渋沢財閥などを含めた十五大財閥を指定する予定だったと言います。 渋沢同族株式会社が持ち株会社(第二次)に指定され、解散さされましたが、そもそも渋沢財閥という実体はなく、大きな影響があったとは言い難いものがあります。

渋沢財閥の戦後という点では、第一銀行の企業集団形成が注目されます。 「銀行の歴史は合併の歴史」とよくいわれますが、第一銀行ほどその言葉を体現している銀行はないでしょう。

第一銀行は戦時下の国家的政策の一環で、1943年に三井銀行と合併し、帝国銀行となりました。 しかし、合併後、第一銀行側に不満が強く、1948年に帝国銀行(のちの三井銀行)と第一銀行に分離しました。 加害でも類を見ない合併銀行の再分離です。 分離に至った理由は、第一銀行の方が店舗数は多かったのですが三井銀行に比べて大卒行員が少なかったため、徐々に支店長職が三井銀行出身者に浸食されていったからだと言われています。
また、第一銀行の顧客も、三井銀行の顧客に比べて融資面で冷遇されていたようです。

では、分離後の第一銀行はどうしたかというと、堅実路線をひた走り、従来からの取引先との関係を墨守することに甘んじました。 時あたかも、富士銀行(旧安田銀行)が新たなグループを企図し、融資先企業を積極的に拡大、のちの芙蓉グループとなる原形つくりに奔走していた頃であります。 その姿勢の違いは1960年代になって顕在化します。

富士銀行が 社長会「芙蓉会」を結成し、芙蓉グループを形成した頃、第一銀行では主要取引先である 古河グループと川崎グループが、他グループからの浸食を受けつつありました。 当時三菱グループは「BUY三菱」運動で排他的なグループ内取引を推進し、勢力拡大を図っていました。 戦後、古河グループの中心的な企業は古河電気工業でしたが、三菱金属から原材料を購入しており、深い関係がありました。 そこで三菱グループは両社の結びつきをテコに古河グループとの接近を図っていました。

一方、重工業部門に欠ける住友グループは、川崎グループの中心的な企業である川崎重工業と住友機械工業(現 住友重機械工業)を合併させ、住友グループに取り込もうとしていました。 この合併話は、新社名を決定するまで進展しましたが、川崎製鉄の強い反対で破談となりました。
()馨は1966年に古河・川崎グループの合同社長会(古河・川崎合同委員会)を結成して、両グループ企業を核とした第一銀行グループの形成を目論みました。 まず井上が川崎重工業と古河電気工業の監査役に就任し、両グループの橋渡しの役割を狙いました。 次いで、1966年、川崎重工業が横山工業(二位株主が富士電機製造)を吸収合併。 1968年には富士電機製造が川崎電機製造(川崎重工業の子会社)を合併しました。 また、富士電機製造と川崎重工業間に株式持ち合いを実現させました。

しかしながら、これらは結局、関連業種の提携に留まり、古河・川崎グループの本格的な融合には結実しませんでした。









三菱銀行と合併破談と第一勧業銀行の誕生

井上馨は第一銀行グループを形成し、他グループからの浸食を防衛しようとしました。 ところが、次の頭取に就任した長谷川重三郎は、独断で三菱銀行との合併を推進してしまいます。 1969年、読売新聞の元旦スクープで合併交渉が露見し、1月7日に三菱銀行と第一銀行は正式に合併を発表しました。

長谷川は渋沢栄一の隠し子おいわれ、行内ではエリート・コースを歩み、あたかもオーナー頭取の様に権勢を振るいました。 重三郎の名は13番目の子という意味で、弟は14を表す藤四郎でした。 独断で合併推進した長谷川には、行内を抑えきる絶対の自信があったようです。 これに対し、会長に退いていた井上馨は、三菱銀行との合併に異を唱え、徹底的な反対運動を展開します。

まず、古河・川崎グループ、石川島播磨重工業、神戸製鋼所、渋沢倉庫など古くから合併反対の声を揚げさせました。 次に支店長たちに反対の肥を上げさせ、さらに総会屋をも扇動して取締役に圧力をかけさせました。 こうして同年1月13日、わずか1週間で第一銀行は合併を撤回。 責任を取って長谷川は辞任。 井上馨が頭取に復帰しました。

井上は三菱銀行との合併に反対しましたが、相手が悪かっただけで、合併自体に反対したわけではありませんでした。 密かに他行との合併を模索し、日本勧業銀行と合併交渉を水面下で進めていました。

1971年、第一銀行3は日本勧業銀行と合併し、国内最大規模の銀行・第一勧業銀行が誕生しました。 1978年には、融資先企業を集めて社長会「三金会」(3ケ月に1度、第3金曜日に開催)を結成し、一勧グループを形成しました。 しかし、古河グループ、川崎重工業グループの内部はそれぞれ株式持ち合いが進んでいません。 このことが示すように、一勧グループは、社長会を結成したものの、企業集団としての実態がともなっておらず、活動は低調におわったようです。








第一勧業銀行の利益提供事件

1997年5月20日、総会屋・小池隆一が野村証券の株式30万株を所有し、大株主という立場w利用して、不正取引を要求していたことが発覚しました。 さらに大和証券、日興証券山一証券に対しても、それぞれ30万株ずつを所有し、同様の要求を行っていたことが明らかになりました。 この4大証券株式購入資金の減資が、第一勧業銀行からの迂回融資であった事が大きな問題になりました。

ことの発端は、三菱銀行との合併を阻止するために、井上馨が総会屋に協力を依頼したことに遡ります。 その時の総会屋・木島力也は、第一勧業銀行に対して隠然たる影響力をもつようになり、弟子である小池への融資を依頼しました。 小池は第一勧業銀行からの融資を得て、証券会社の株式を購入。30万株以上持てば、株主総会で役員解任などを提案する「株主提案権」の権利があり、それを盾にとって、証券会社に株の不正取引をさせようとしたのです。

事件発覚に伴い、1997年5月23日、第一勧業銀行は「多額の融資を行った最大の原因は、元出版社社長(総会屋・木島力也)の依頼を断れなかったことにあると聞いております。 その死後も同氏の呪縛が解けず、急に対応を変える事が出来ませんでした」と発表。 頭取・近藤克彦、会長・奥田正司と5人の相談役の辞任を発表しました。

しかしながら、そのお詫び会見で、次期頭取として紹介された副頭取・藤田一郎は、小池への融資を承知していたと発言し、窮地に追い込まれることとなります。 1997年6月5日、遂に総務担当の元常務ら4人が逮捕されます。 6月8日、審査担当役員の逮捕を悟った第一勧業銀行は、内定していた頭取人事を撤回し、藤田以下、代表権を持つ役員全員が退任。
しかし、6月10日に審査担当の元副頭取ら4人、6月13日にも藤田ら2人が逮捕されてしまいます。

この間、上層部は完全に当事者能力を失ってしまいました。 代わって発言力が増したのが「四人組」と呼ばれた中堅幹部です。 かれらの同意がなければ、新頭取・杉田力也でさえ、何も決めることが出来なくなっていました。 1997年6月28日、元会長・宮崎邦次が東京地検特捜部の取り調べ後、自宅で首を吊って自殺。 7月4日、前会長・奥田正司が逮捕され、捜査は終結を迎えました。

この事件は高杉良の小説『呪縛−金融腐敗列島』のモデルに取り上げられ、一躍有名となりました。 なお、「四人組」と呼ばれた中堅幹部には、銀行員から小説家に転身した江上剛(本名小畑春喜)や、後に西武鉄道社長に転出した後藤高志がいました。








みずほ金融グループの誕生

1997年に「付与バッシング」が起き、安田信託銀行(現 みずほ信託銀行)の経営不安説が市場を駆け巡ると、富士銀行は不安説を払しょくし、安田信託銀行の経営危機を救うため、第一勧業銀行に救いの手を伸ばしました。 この安田信託銀行救済策を通じて、富士銀行は第一勧業銀行に本体同士の合併を申し入れました。 同時期に日本興業銀行も第一勧業銀行に合併を申し入れていました。

第一勧業銀行は、合併銀行の悲哀を味わっていたため合併には慎重でした。 しかし、第一勧業銀行頭取・杉田力也は「二行ならダメでも、三行なら旧行対立は生まれないだろう」と判断し、富士銀行、日本興業銀行の頭取を引き合わせ、三行合併を提案。 1998年、三行は共同持株会社ん設立と経営統合を発表し、みずほフィナンシャルグループが誕生しました。
















日本の財閥

日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
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政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
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ゴールドマン・サックスと住友財閥
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住友財閥の歴史
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財閥解体
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財閥解体と再結集、そしてグループ化
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山口財閥・三和グループ
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住友銀行の暴走と磯田会長の辞任
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三井と住友の合弁、そして住友金属工業の「白水会」脱退
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住友家・住友グループの特徴
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浅野財閥
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安田財閥
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古河財閥・古河グループ
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川崎財閥(薩州財閥) 
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ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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モルガン財閥 ここまでのまとめ
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デュポン財閥 ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-1
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-2
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2021/9/2

川崎財閥(薩州財閥)  財閥(日本・世界)






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川崎重工 ロゴ



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川崎正蔵 川崎財閥(薩州財閥)創業者











川崎造船所を中心として発展した川崎財閥(薩州財閥)は、薩摩(現 鹿児島県)出身の実業家・川崎正蔵(1837-1912)によって設立されました。川崎家は、正蔵の曽祖父の代に薩摩藩御用商人を努めましたが、父の代に没落し、木綿の行商を営んでいました。 早くに父を亡くした正蔵は、長崎に赴いて貿易商を始め、明治維新の頃には大阪を拠点とする砂糖商になりました。

琉球(現 沖縄県)の砂糖輸送を契機として、正蔵は海運業への進出を試み、1873年に政府の薦めで日本国郵便蒸汽船会社の副頭取となりますが、1974年に同社は岩崎弥太郎との競争に敗れ、解散に追い込まれてしまいました。 1878年に三菱へのバッシングが強まり、有力廻船問屋が三井と結託して共同運輸株式会社を設立した際、正蔵も共同運輸株式会社に参加し、岩崎弥太郎と再度対抗しました。

正蔵は海運を通じて西洋型蒸気船の優位性ウィ体験し、造船業へと関心を移していきます。 1878年、正蔵は砂糖貿易で得た利益を元に、東京築地に築地造船所を開設。東京には石川島造船所(現 株式会社IHI)などライバル企業が多くありましたが、築地は地理的に造船所を拡張する余地がないため、1881年に瀬戸内海海運の要衝である神戸に個人経営の川崎兵庫造船所を開設しました。

これはのちの官営兵庫造船所の払い下げを狙っての布石だと言われといます。 1886年、正蔵は政府に官営兵庫造船所も貸下げを懇願、貸下げを経て、1887年に払い下げに成功。 砂糖貿易から手を引き、築地の設備を神戸に移して造船所の経営に一点集中し、順調な発展を遂げました。

しかし、日清戦争後、日本の造船業は巨船主義の時代となり、川崎造船所も設備拡張のため莫大な資金調達が必要となり、株式会社への改組が現実的な課題となりました。 正蔵は1894年に大病を患ったこともあり、1896年に川崎造船所を株式会社に改組し、現役を引退しました。 しかし、彼の一人息子・川崎正治(実際は4人の息子がいましたが、3人は早世)は文学者として生きる道を選び、後継者になることを拒否しました。

そこで、甥の河崎芳太郎(1869-1920)を婿養子に迎えて後継者に育てようとしましたが、芳太郎は温厚な性格で、大企業・川崎造船所を経営していくのに必要な統率力や意思決定力が欠けていました。 正蔵は松方幸次郎に川崎造船所の初代社長の就任を要請しました。







二代目・松方幸次郎

松方幸次郎(1865-1950)は、総理大臣・松方正義の三男に生まれました。 正蔵は明治維新以前から松方正義の知己を得、その政治的な庇護を受けていました。 これ以後、薩州財閥の主導権は、徐々に河崎家から松方家に移っていきました。

幸次郎は、積極果敢に川崎造船所の規模を拡大し、三菱長崎造船所に次ぐ国内第二位の造船企業に発展させました。

さらに、第一次世界大戦で空前の造船ブームが訪れると、受注生産に見切りをつけ、見込み生産を開始。 大量建造で莫大な利益をあげました。 そして、その収益をもとに製鉄業の兼営、飛行機・鉄道車両への製造へと多角化し、事業規模を拡大していきました。 大戦が終了し、ストックボート(見込み生産の船舶)が余剰すると、その余剰船舶を巧みに使って海運業へ進出。 1919年に川崎汽船株式会社を設立しました。

松方正義は子宝に恵まれたことでも有名でした。明治天皇に「子どもが何人いるのか」と尋ねられ、即答できず、「後日、調べた後、申し上げます」と回答したほどでした。 しかも、彼の子息はいずれも優秀で、長男・松方巌は株式会社十五銀行の頭取に就任し、四男・松方正雄は薩州財閥の企業(福徳生命保険株式会社と大福海上火災保険株式会社)の重役を歴任、他の兄弟達も各社の経営者として活躍しました。








薩州財閥の多角化と崩壊

川崎造船所の経営を松方幸次郎に委ねた河崎家は、莫大な配当金を元手に不動産買収や金融業等へと多角化しました。1905年に合資会社神戸川崎銀行、1912年に福徳生命保険株式会社、そして1919年には大福海上火災保険株式会社(現 共栄火災海上保険株式会社)を設立しました。

しかし、第一次世界大戦後の反動恐慌で、これら金融機関は経営危機に陥り、1920年に神戸川崎銀行は、幸次郎の兄・松方巌が頭取うをしていた十五銀行に吸収合併されました。ところがその後、十五銀行も昭和金融恐慌後の長期不況で経営不振に陥ってしまい、十五銀行からの借り入れに依存していた川崎造船所は、破綻の危機に追い込まれてしまいました。 十五銀行は944年に帝国銀行に吸収合併されました。

ここに至って松方一族は企業のトップを軒並み辞任しました。 松方巌が十五銀行頭取を辞任、松方幸次郎が川崎造船所・川崎汽船社長を辞任、松方正雄が大福海上火災保険・十五銀行取締役並びに、福徳生命保険社長を辞任しました。 これら企業の再建は川崎・松方家と無関係な経営者に委ねられ、薩州財閥は事実上終焉を迎えました。

川崎造船所は、1928年に兵庫工場を分離して川崎車輛株式会社を設立。 1937年に飛行機部門を分離して河崎航空機鉱業株式会社を設立し、1939年に川崎重工業株式会社と改称しました。福徳生命保険は1931年に日華生命保険株式会社に事実上買収されました。 大福海上火災保険は東京海上火災保険株式会社に買収され、さらに1942年には同社傘下の大東海上火災保険株式会社に吸収合併され、共栄火災海上保険会社となりました。








傘下企業の株主構造、役員構成

薩州財閥には、1920年に川崎家が設立した持ち株会社・川崎総本店がありますが、「合資会社川崎総本店の持ち株会社の機能は、昭和2年の金融恐慌の時に崩壊しました。 川崎造船所、大福海上火災、福徳生命の旧傘下企業の株式はすべて売却し、所有していた旧傘下企業の株式は全くなくなり、雑株を2300余所有するに過ぎなくなっていました」。

役員構成で注目すべきは、川崎正蔵の孫・川崎芳熊が川崎重工業の専務、および関係会社の役員を務めていたことでした。 松方幸次郎は芳熊を後継者として考えていたようで、「松方幸次郎もつねづね、この川崎造船所は立派にしたら今に、川崎家に帰すつもりだ。 俺は預かり物を経営しているのだ」と言っています。(『財界新闘将伝』)








戦後の動向
川崎グループの企業再編

州財閥の戦後は、二つの側面からアプローチできます。 川崎グループとして薩州財閥自体の再結集と、企業集団との関わりです。 GHQによる財閥解体で、当初、薩州財閥・川崎家は「十五代財閥」に指定されました。 しかし、「川崎芳熊の河崎系企業に対する持株は企業支配というにはあまりに少数であったので、松下幸之助、大河内正敏、渋沢敬三らとともに財閥家族に加えられるべきでないという持株整理委員会の判断によって、昭和23年11月27日付けの政令で芳熊は財閥家族の指定を取り消されました」。

ただし川崎重工業が持株会社に指定され、1948年に過度経済力集中排除法により分割を命じられます。 分割指定は翌年解除されましたが、西山弥太郎ら製鉄部門のトップは、経営の自由度を狙って製鉄部門の分離独立に固執しました。当時の川崎重工業製鉄部門は高炉を持たない平炉メーカーで、日本製鉄ら高炉メーカーや外国から製鋼原料(銑鉄や屑鉄)を購入しなければなりませんでした。 高炉を持たなければ、これらの製鉄業はなり立ちません。 高炉の建設には莫大な資金を必要とし、造船所と一緒に経営することは困難でした。

こうした理由から、1950年8月、川崎重工業の製鉄部門を分離し、川崎製鉄(現 JFEホールディングス)が設立されました。 分離直後の1950年11月、川崎製鉄は高炉建設を含めた千葉一貫製鉄所建設計画を発表、高炉メーカーに生まれ変わりました。 その一方、1955年に川崎製鉄、川崎重工業、川崎航空機工業、川崎車輛、川崎汽船は社長会「川崎睦会」(第一銀行も参加)を結成し、薩州財閥の再結集を図りました。 1960年代に企業集団の再編が積極化すると、1969年に川崎重工業は、かつて分離した川崎航空機工業と川崎車輛を吸収合併しています。









第一銀行/一勧グループの一員へ

神戸川崎銀行は十五銀行に吸収合併されましたが、その十五銀行も経営不振で、1944年に帝国銀行に吸収合併されました。 帝国銀行は1943年に三井銀行と第一銀行が合併してできた銀行ですが、行内に不協和音があったため、1948年に分離しています。 その後、河崎グループの企業は第一銀行(第一勧業銀行を経て、現 みずほ銀行)をメインバンクとしました。

第一銀行が企業集団を形成していく過程で、川崎グループ企業は古河グループとともに、その中核となります。 また、1971年、第一銀行は日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行と合併して第一勧業銀行となり、一勧グループを形成しましたが、そこでも川崎・古河グループは中核メンバーとなっていきました。

その一環として、1959年に川崎重工業の電機部門を分離して設立された川崎電機製造は、第一銀行の仲介により、1968年に富士電機製造に吸収合併されています。 200年前後のメガバンク再編後、川崎製鉄は2002年にNKK(正式名称は日本鋼管)と経営統合しJFEホールディングスを設立。 これに伴い、川崎製鉄の実質的な子会社である川崎商亊も、NKKトレーディングと合併し、JFE商事となりました。















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2021/8/25

古河財閥・古河グループ  財閥(日本・世界)






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古河財閥・古河グループ各社








古河財閥は古河市兵衛によって創設され、戦後は古河グループを称し、企業集団・一勧グループの中核を成しました。 古河市兵衛(1832-1903)は京都岡崎の商家・木村家に生まれました。 しかし、市兵衛が生まれた頃には、既に没落したといわれています。 市兵衛は、丁稚奉公に出された後、金貨業を営んでいた伯父を手伝い、その知人である古河太郎左衛門の養子になりました。

古河太郎左衛門は、京都の小野組の生糸買い付けを担っていましたが、病気で倒れると、代わりに市兵衛が小野組の使用人となり、その後、生糸輸出、米穀取引、蚕糸などの買い占めで活躍しました。

また、1872年に鉱山事業家・岡田平蔵と提携して、秋田県下の鉱山経営を行いました。 しかし2年後に岡田は死去。 鉱山経営は、市兵衛を通じて小野組が引き継ぐことになりました。小野組は、幕末に三井、島田らと並ぶ富商でありましたが、明治政府の政策を見誤り、1874年に破綻してしまいます。

小野組の事業資金は第一国立銀行(のち株式会社第一銀行、株式会社第一勧業銀行を経て、現 株式会社みずほ銀行)からの借り入れでまかなっていたので、第一国立銀行も共倒れする可能性がありました。 同行の貸出金総額300万円のうち、140万円弱が小野組へ貸し出されたと言われています。 そこで、第一国立銀行総監役(頭取)の渋沢栄一は、面識のあった市兵衛に善処を頼みました。

市兵衛はkれに応じて充分な担保(市兵衛と小野家の所有する株式や、鉱山やその建造物など)を提供し、第一国立銀行の損失を2万円弱にとどめました。 しかし、その結果、市兵衛は裸一貫となって小野組を去ることになりました。 渋沢栄一は、この時の古河市兵衛の行動に感謝し、伊以来、親密な関係になりました。

小野組の破綻後、市兵衛は銅山経営に専心しました。 新潟県の草倉銅山、長野県の赤柴銅山の払い下げを受け、1875年に操業を開始。 大きな成功を収めていきました。 1877年には栃木県の足尾銅山を買収。 市兵衛は次々と銅山・鉱山の経営に手を拡げましたが、もっとも有望な足尾銅山に開発の主力を集中。 大工事を起工して鉱源を開発し、近代的機械設備を導入して、芦尾銅山を全国一の銅山へと押し上げました。 その後、足尾銅山以外の銅山にも設備投資を行い、1890年頃には、我が国産銅量の半分を古河が占めるほどになりました。

市兵衛は西洋技術を積極的に取り入れる一方、西欧の近代化に溺れることを危惧し、チョンマゲを切らなかったと言われています。 しかもチョンマゲ頭で、本店の火鉢の前でキセルをいじくりながら、角帯、前垂れ掛けの丁稚や坂東を指揮していたというから、まるで
江戸時代の商家のようでありました。








二代目・古河潤吉

この旧態依然とした古河財閥の近代化を推し進めたのは、市兵衛の養子・潤吉でした。 古河潤吉(1870-1905)は、のちの外務大臣・陸奥宗光の次男として生まれました。 1872年、陸奥は大蔵省祖税頭として、小野組糸店の営業収支に関して市兵衛と交渉するようになりました。二人は親交を重ね、遂には、子宝に恵まれなかった市兵衛に潤吉を養子縁組みするまでになっていました。

古河財閥のドル箱となった足尾銅山は、1880年代後半から渡良瀬川沿岸の農地を汚染するようになり、地元住民は建議・上申を重ねましたが、一向に改善されませんでした。1896年の大豪雨で渡良瀬川が氾濫すると、住民たちの怒りは爆発し、被害の主因が足尾銅山の鉱毒にあるとして、政府に陳情。 上京して抗議運動を起こし、警官と衝突する事態にまで発展、一大社会問題となりました。

これに対し、政府は1897年に「足尾銅山鉱毒調査会」を設けて緊急調査を行い、鉱毒問題を治水問題にすりかえて事態の鎮静化を図り、足尾銅山に厳しい予防工事を命じました。市兵衛は渋沢栄一に予防工事の資金融資を懇請しましたが、予防工事は非生産事業であったことと、古河財閥に対する貸し出しが制限以上にあったことなどを理由に、精緻な償却案がなければ融資できないと断ってきました。

そこで古河鉱業事務所専務理事となった潤吉が、父に代わって渋沢栄一と面会し、借入金の償還方法を具体的に説明して融資を承諾させました。 潤吉はかねて古河財閥に近代的な会計制度・執務方法を導入すべく研究を重ねていたため、古河の営業状態を子細に全幅の信頼を置き、事業全般の運営をほとんど任せ、養女(市兵衛の甥の娘)との結婚を申し出ました。

しかし、養子縁組後(1887年)に市兵衛の実子・虎之助が誕生していたため。潤吉は家系が複雑になることを恐れて一生独身を通しました。 兵役を免除されるほど体が弱かった潤吉は、自らの死期が近づいたことを悟って、古河家事業の近代化を急ぎました。 1905年3月に古河鉱業会社を設立して、古河家名義で経営してきた事業を継承しました。同時に古河家奥向き定規を定め、古河家の資産を別途管理しました。 こうして、それまで「家業」の域を出なかった古河家の事業を企業化したのどぁります。 潤吉は念願成就を見届け、1905年12月にわずか36歳で没しました。








三代目・古河虎之助

順吉の死後、市兵衛の実子/古河虎之助(1887-1940)が古河財閥の三代目となりました。虎之助時代、古河財閥は銅山経営を振り出しに、銅線製造→電気機器製造→通信機器製、また、銅線の被覆ゴム製造と芋づる式に事業を拡大していきました。 古河鉱業は本所伸銅所でも銅線製造をはじめ、その好調ぶりに自信を深め、1906年に日光電気精銅所を設立。 さらに1908年に横浜電線製造株式会社を買収して、本所伸銅所、日光電気精銅所と統合。1920年に古河電気工業株式会社を設立しました。

また、横浜電線製造は銅線の被覆ゴム製造のために、B・F・グッドリッチ社と合現 富士電機株式会社)を設立。 さらに富士電機製造が1935年に通信機器製造部門を分離し、富士通信機器製造株式会社(現 富士通株式会社)を設立しました。 一方、古河鉱業株式会社は古河合名会社(以下古河合名)と改称し、第一次世界大戦による事業膨張のため、1917年に持株会社(古河合名)、商事部門(古川商事株式会社)、鉱業部門(合名会社古河鉱業会社)の3つに分割しました。

しかし、古河商事は第一次世界大戦の反動恐慌で破綻し、1921年に減資の上、合名会社古川鉱業会社への吸収合併を余儀なくされました。 古河財閥では1916年に株式会社古河銀行を設立していましたが、古河商事の破綻のあおりを受けて業績不振となり、1927年の昭和金融恐慌で再打撃を受け、1931年に第一銀行に吸収合併されました。 古河財閥は第一銀行と親密な仲にありましたが、合併以来。一層緊密さを増し、戦後は第一銀行グループの中核企業群を形成するまでになりました。








四代目・古河従純(じゅうじゅん)

1904年に古河虎之助が死去すると、養子・古河従純(1904-1967)がその跡を継ぎ、古河財閥の四代目となりました。従純は、海軍・大将再興従道の孫であります。 従純は、社長在任中から専門経営者たちと良好な関係を保持し、終戦後は米国留学時の人脈を活かして、財閥解体や公職追放の影響を最小限に食い止めようと奔走しました。 こうした従純の尽力もあって、古河一族は、戦後も古河グループ各社から好意的に迎えられました。従純の子息は全て古河グループ企業に就職し、役員に就任しています。 特に長男・古河潤ん之助が古河電気工業社長、五男・古河直純が日本ゼオン社長に就任しているのは、財閥企業では珍しい事でした。








傘下企業の株主構造、役員構成

古河財閥の最大の特徴は、有力企業が必ずしも著系企業に当たらないことであります。 持株会・古河合名が支配的な株式数を直接保有するのは、古河鉱業株式会社(現 古河機械金属株式会社)、旭電化工業(現 ADENKA)くらいで、それ以外は資本系列上、孫会社以下に位置付けられます。 たとえば、古河鉱業の子会社として古河電気工業があり、その子会社として富士電機製造、日本軽金属株式会社。 さらに富士電機の子会社として富士通信機器製造があり、そのまた子会社に富士通ファナック(現 ファナック株式会社)があります。 そのため、現在でも古河グループ企業は「子会社になるほど元気がいい」としばしば指摘されます。

これ以外の傘下企業として、大日電線株式会社、日本電線株式会社(両社が合併して大日本電線株式会社となり、現 三菱電線工業株式会社)、横浜護謨製造(現 横浜ゴム)、日本農薬株式会社、関東電化工業株式会社、帝国生命保険株式会社(現 朝日生命保険相互会社)などがあります。さらに戦後設立された日本ゼオン株式会社、台湾の企業として設立され、戦後古河グループ入りした体制火災海上保険株式会社(破綻後、株式会社損保ジャパンに包括移転。 現 損保ジャパン日本興亜株式会社)などがあります。

役員構成は、当主・古河従純が直系会社の社長・会長を努め、子会社・孫会社にあたる有力企業は、姻戚の吉村万次郎、中川末吉が社長を務めている場合が多くあります。 古河家は、初代の古河市兵衛以来、男子に恵まれないことが幸いしました。 優秀な婿養子を迎え、口うるさい分家が経営に口を挟むことがなかったからです。








財閥解体と再結集
第一銀行/一勧グループの一員へ

戦後の財閥解体で、古河鉱業株式会社(第二次指定)、古河電気工業株式会社(第三次指定)が持株会社に指定され、所有株式を放出させられました。 古河財閥の直系企業は関係を寸断されましたが、産業上の繋がりが緊密であったこともあり、再結集するのは早かったとされています。 1940年代後半には古河グループ各社の社長が、四代目・古河従純を囲んで昼食会を催すようになりました。 この会合をもとにして、1954年に古河グループの社長会「古河三水会」(毎月第三水曜日に開催)が結成されました。

1960年代、都市銀行を中心として新興系企業集団が形成されましたが、六大都市銀行の一つである第一銀行は、同じ渋沢財閥に有力な事業会社が少なかったため、古河グループと河崎グループの企業との連携を強化し、企業集団形成を目論みました。

一方、古河グループには銀行がなかったため、第一銀行に頼らざるを得ませんでした。 1971年、第一銀行が日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行となり、一勧グループを形成した時、古河グループはその中核メンバーとして重きをなしました。











日本の財閥

日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2721.html
政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2722.html
ゴールドマン・サックスと住友財閥
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住友財閥の歴史
https://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/2956.html
財閥解体
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財閥解体と再結集、そしてグループ化
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山口財閥・三和グループ
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住友銀行の暴走と磯田会長の辞任
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三井と住友の合弁、そして住友金属工業の「白水会」脱退
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住友家・住友グループの特徴
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浅野財閥
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安田財閥
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鴻池財閥
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鮎川・久原財閥と日産・日立グループ
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三井財閥
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三菱財閥
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野村財閥
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旧鈴木財閥
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古河財閥・古河グループ
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ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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モルガン財閥 ここまでのまとめ
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デュポン財閥 ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-1
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-2
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2021/8/23

旧鈴木財閥  財閥(日本・世界)







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鈴木家 家紋 家紋いろは









「鈴木商店」は、明治時代から大正時代にかけて急成長し、レ獅子では到底、住友財閥には及びませんが、一時は三井・三菱財閥を凌ぐほどの一大勢力を誇った財閥です。 しかし積極的な拡大路線が裏目に出て1927年に倒産してしまました。 その後、その系譜を引く企業は、戦後の急成長を遂げ、三和・一勧グループの主力企業として活躍することとなります。

鈴木商店は、明治時代初期に初代・鈴木岩次郎によって創設されました。 鈴木家は代々武蔵(現 埼玉県)川越藩の下級武士で、貧窮により初代・鈴木岩次郎は幼児期に魚屋に養子に出され、兄は流浪の末に長崎で修業し、菓子職人になったといいます。 岩次郎は兄と再会して菓子職人を志し、長崎で修業しました。 しかし、江戸への帰途、岩次郎は神戸の発展を目にして同地に留まることを決意し、大阪の砂糖商であった辰巳屋恒七が経営する神戸出張所に雇われました。

岩次郎は長崎で培った砂糖鑑識眼と商才で、1874年頃には神戸出張所の番頭とへと出征していきました。辰巳屋恒七は病気で引退するにあたり、大阪本店を嫁婿に、神戸店を岩次郎に与えました。 この神戸店こそ、鈴木商店の前身です。 その後、岩次郎は砂糖の輸入販売で頭角を現し、1887年頃には神戸の有力8大貿易商の一人に数えられるまでになり、神戸の貿易会副頭取、神戸商業会議所常議員を歴任しました。








金子直吉の抜擢と鈴木商店の大躍進

1894年、岩次郎が急逝すると、妻の鈴木よね(18532-1938)が店主となり、鈴木商店の経営を二人の番頭(樟脳部門担当の金子直吉、砂糖部門の担当の柳田藤松)に委ねました。 その番頭・金子直吉の采配により、鈴木商店は三井・三菱と並ぶまでに急成長を遂げていきます。

金子直吉(1866-1944)は、土佐(現 高知県)の貧しい商家に生まれ、学校にも行かず、11歳から紙屑拾いを始め、乾物屋に丁稚奉公にでました。 その後、高知の砂糖商の番頭となりましたが、商人として成功することを夢み、1886年に神戸に出て、鈴木商店に入社しました。

金子は初め砂糖、鰹節、茶、肥料の国内取引に従事していましたが、樟脳(防腐剤・医薬品・セルロイド等の原料)取引の可能性に気付き、世界最大の生産地であった台湾に赴き、台湾総督府民政長官・後藤新平の信頼を得ました。 後藤は、樟脳を専売制度に移行することによって、台湾統治の財源を捻出しようとしていました。 金子は後藤と共に専売制度実施に尽力した結果、1889年に樟脳油言って販売権を取得し、鈴木商店(1902年に合名会社に改組)が大躍進を遂げるきっかけを作りました。

1914年7月、第一次世界大戦が勃発すると、金子は海外から打電してくる報告や、国内で収集した情報を総合的に判断し、同年11月に「全ての商品船舶に対する一斉買い出動」という大方策に打って出ました。 その3、4ケ月後、大戦による需要で銑鉄、鋼材、船舶、砂糖、小麦などが大暴落し、鈴木商店は1億数千万円の巨利を博しました。

金子がイギリスの鉄に目を付け、ロンドン支店長・高畑誠一宛に「Buy any steel, any quantity, at any price」(鋼鉄と名のつく物は、何でもいいからカネに糸目をつけず買いまくれという異例の電文を打電したことは有名です。 高畑誠一(1887-1978)は神戸高商を首席で卒業し、鈴木商店に入社。 1912年にロンドン支店に派遣され、のちに20代の若さでロンドン支店長に就任。 第一次世界大戦が勃発すると、縦横無尽に商才を発揮しました。 船舶・食料不足に悩む大英帝国政府・連合国に、北海道の豆類・デンプン・雑穀などを満載した船を、船ごと売却するという離れ業をやってのけ、「カイザル(皇帝)を商人にしたような男」との評判を得ました。

1917年、鈴木商店は三井物産、三菱商事の年商を凌ぐまでに急成長し、金子はロンドンの高畑宛に「三井三菱を圧倒するか、然らざるも彼らと並んで天下を三分するか、是、鈴木商店全員の理想とする所也」と「天下三分の宣言書」を記し、拡大路線を明言しました。







鈴木商店の倒産

しかし、鈴木商店の天下は長くは続きませんでした。 1918年に米価高騰を原因とする民衆暴動(米騒動)が起き、新聞の誤報により鈴木商店が米買い占めの元凶と誤解され、神戸本店が焼き討ちにあってしまいました。 さらに、第一次世界大戦後の反動恐慌、関東大震災以後の不況により、鈴木商店の傘下企業や、事実上のメインバンクである台湾銀行が経営不振に追い込まれてしまいます。 台湾銀行は、鈴木商店が台湾の樟脳油一手販売を取得した1899年に設立され、設立当初から鈴木商店との関係が深くありました。 1926年末には台湾銀行の貸し出し5億4000万円のうち、その3分の2にあたる3億6000万円が、鈴木商店関連事業で占められるまでに膨らんでいました。 一方、鈴木商店は莫大な運用資金を台湾銀行に依存していました。

台湾銀行は債権保護のため、1922年に副頭取。下坂藤太郎を鈴木商店へ役員派遣して金子直吉のワンマン体制を是正するよう求めました。 翌1923年に合名会社鈴木商店に持株会社機能を残して、新たに株式会社鈴木商店を設立して貿易部門を移管しました。

1926年に傘下企業の日本製粉株式会社を日清製粉株式会社(現 株式会社日清製粉グループ本社)に合併させ、窮地を凌ごうとしましたが、日本製粉の財務内容の悪さが露呈して合併が破談となりました。 資金繰りの行き詰った日本製粉と鈴木商店は、台湾銀行の緊急救済融資でかろうじて命脈を保ちましたが、その過程で鈴木商店の内情と台湾銀行との癒着ぶりが露わになりました。

1927年1月に震災手形の未決済分を処理することが通常帝国会議で話し合われましたが、未決済分の半数が台湾銀行によるもので、全体の44.5%が鈴木商店関連であることが明らかとなり、貴族院は法案を通過させるにあたって台湾銀行調査委員会を設置。 台湾銀行は、コール(短資、銀行間での短期間の資金取引)市場で資金調達し、急場を凌ごうと考えました。 しかし、コール市場に資金を供給していた株式会社三井銀行などは、鈴木商店とかかわりの深かった台湾銀行に対する警戒感から、資金を引き揚げてしまいました。 ここに至って台湾銀行は資金難に陥り、鈴木商店への資金援助を停止。








傘下企業の株主構造、役員構成

鈴木商店倒産後、再興を模索する幹部たちは、子会社の一つである株式会社日本商業会社を改組して日商(日商岩井を経て,現双日)と改称。 鈴木商店の営業を日商に移転して、事実上の後継会社としました。

鈴木商店の傘下企業は100社近くあったといわれています。 日本商業会社以外に、日本製粉株式会社、クロード式窒素工業株式会社、株式会社神戸製鋼所、株式会社播磨造船所(石川島播磨重工業株式会社を経て、現 株式会社IHI)、帝国人造絹糸株式会社(現 帝人株式会社)、豊年製油株式会社、太陽曹達株式会社(現 太陽鉱工株式会社)などがありました。

このうち、日本製粉株式会社が三井物産株式会社へ、クロード式窒素工業株式会社(東洋高圧工業株式会社、三井東圧株式会社を経て、現 三井化学株式会社)が三井鉱山株式会社に買収されました。 三井銀行のコール資金引き上げが鈴木商店倒産の引き金を引いたこともあり、この買収は世間の批判を浴びました。








戦後の動向
社長会派結成したが

旧鈴木財閥の系譜を引く企業とその経営者は、1950年代前半に「鈴和会」という常務以上の懇親会を発足させ、1960年代に日商、神戸製鋼所、帝人で「三社会」を結成しました。 また、授業員のOB会として「辰巳会」も発足しました。 しかし、親密さを深めるだけで、鈴木財閥そのものを再興(もしくは鈴木グループを形成)するような動きにはなりませんでした。 旧鈴木系企業のうち、帝人は三和グループの「三水会」に参加し、日商と神戸製鋼所は、「三水会」と一勧グループの「三金会」に参加しました。








第一銀行への接近

日商は、原子力産業への進出を契機として、第一銀行・古河グループと親密な関係を構築することに成功しました。 1950年中盤、日本でも原子力産業(原子力発電、原子力船の建設)が勃興しつつありました。 しかし、原子力産業は、技術的にも企業規模の上でも、単体の企業で進出できるものではありませんでした。 そこで三菱グループは共同投資会社・三菱原子力工業を設立して原子力産業に進出し、同様に三井・住友グループも共同投資会社を設立して追随しました。

1955年頃、旧鈴木財閥系企業の懇親会「鈴和会」で、高畑誠一が「日本でも原子力産業に取り組むため、各財閥が結束を固め、グループを結成しようとする動きがある。 旧鈴木関係でも原子力に取り組むためグループ結成はできないものだろうか」と提案しました。
原子力産業には重電機・重機会社の参加が必須でしたが、三大財閥以外で原子力に参入できる企業は数少ないので、それらを結集させようと画策しました。

第一銀行をメインバンクにとする富士電機製造ら古河グループ、川崎重工ら川崎グループ
に原子力グループ結成の必要性を説き、賛同を得、第一原子力産業グループが誕生しました。 この経過で、日商は古河グループの中核商社となることに成功。 ところが河崎グループは川崎製鉄の提唱で伊藤忠商事を窓口商社に据えてしまいます。 川崎グループは旧鈴木系企業と重複する分野が多かったので、その結果、第一銀行の親密企業に、伊藤忠商事-川崎製鉄-川崎重工と、日商-神戸製鋼所-播磨造船所という2つの「商社-製鉄-造船」グループが出来上がってしまいました。 第一銀行は、伊藤忠商事-川崎グループに重心を置いたようです。








三和銀行への接近

一方、三和銀行は融資先に軽工業が多く、重化学工業との取引開拓を目指していました。そこで、財閥系企業との関係が薄い旧鈴木系企業に注目し、1967年に社長会「三水会」を結成すると、日商、神戸製鋼所、帝人に参加を呼びかけました。

三和銀行の親密商社には、日綿実業(のちのニチメン)と岩井産業があったため、日商と岩井産業の合併を仲介し、1968年に日商岩井の誕生を演出しました。 三和銀行はさらに日綿実業を合併させ、親密商社を一本化しようとしましたが、これは失敗に終わりました。
そのため三和グループでは、プロジェクトを企画する度に、日商岩井とニチメンが互いに牽制しあい、プロジェクトに支障をきたすほどでした。 日商岩井とニチメンは2003年に合併し双日となりましたが、その頃には三和グループは消滅しつつあり、この合併は経営不振に陥った総合商社の再編でしかありませんでした。








第一勧業銀行へ最接近

1971年に第一銀行が日本勧業銀行と合併し、第一勧業銀行が誕生。 一勧グループを形成し、社長会「三金会」を結成すると、日商岩井は、三水会に参加したまま、三金会への参加を申し込みました。 子の他にも、第一銀行には親密商社として伊藤忠商事、日本勧業銀行には兼松江商(現 兼松)があり、「三金会」に参加しました。 その結果、一勧グループでも親密商社を一本化することができず、ここでもプロジェクト推進に支障を来す要因になりました。















日本の財閥

日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
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政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
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ゴールドマン・サックスと住友財閥
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住友財閥の歴史
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財閥解体
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財閥解体と再結集、そしてグループ化
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山口財閥・三和グループ
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住友銀行の暴走と磯田会長の辞任
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三井と住友の合弁、そして住友金属工業の「白水会」脱退
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住友家・住友グループの特徴
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浅野財閥
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安田財閥
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鴻池財閥
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鮎川・久原財閥と日産・日立グループ
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三井財閥
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三菱財閥
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野村財閥
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旧鈴木財閥
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ゴールドマン・サックス ここまでのまとめ
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モルガン財閥 ここまでのまとめ
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デュポン財閥 ここまでのまとめ
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ロスチャイルド財閥 ここまでのまとめ
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日本の財閥(住友・三井・三菱・安田・等) ここまでのまとめ
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-1
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-2
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編集中

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2021/8/22

野村財閥  財閥(日本・世界)







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野村財閥の紋章







大阪野村銀行の設立

野村財閥は、大阪の実業家であった二代目・野村徳七が創設した金融財閥です。
初代・野村徳七(1850-1907)は河内(現 大阪府南部)に生まれ、大阪の両替商・大阪屋に丁稚奉公に出されました。 しかし、明治維新後に大阪屋が閉店すると、徳七は独立し、
両替商を始めました。

二代目・野村徳七(1878-1945)は家業である両替商の鍾愛性を憂い、1903年頃に父を説得して2万円の出資を仰ぎ、証券業「有価証券現物問屋 野村商店」を創業しました。 従来の証券業者の多くが公社債・株式などの商品知識に乏しく、投機的な商いに終始していたことを批判し、調査に基づく科学的な証券業者を目指しました。

1906年には『大阪野村商報』を発行し、店内に調査部を設置。 その正確な企業情報は好評を博し、顧客の来店をさばききれぬほど繁盛しました。 こうして今に至る「調査の野村」の基礎を確立しました。 徳七は日露戦争後の狂乱相場で得た利益で欧米視察に出かけ、近代的な証券業の有様を目にします。 帰国後、さらに調査部を充実させ、同業他社に先駆けて大卒社員の大量採用をはじめました。

第一次世界大戦の好景気に乗じて、1917年に野村徳七商店を株式会社能村商店に改組し、翌年に株式会社大阪野村銀行、野村総本店、大東物産株式会社(第一次世界大戦の反動恐慌で1920年に破綻)を相次いで設立。 1922年には持株会社の野村合名会社(以下、野村合名)を設立し、金融財閥としての体制を整えました。 なお当時、徳七は三井銀行との付き合いが深く、三井財閥をモデルに財閥化を進めたといわれています。








野村証券の設立

しかし、反動恐慌により、大阪野村銀行(1927年に野村銀行に改称)は預金流出に見舞われます。出身母体が証券業であったため、投機に関係しているという世評による信用不安からでありました。

そこで徳七は、銀行の信用を固めるため、1923年に証券業の野村商店を株式会社大阪屋商店と改称して減資し、株式の大部分を社員に譲って、証券業と絶縁しました。 ところが、1929年の株式暴落で大阪屋商店が大損害を受けると、野村銀行も取り付け騒ぎに遭ってしまいます。 ここに至って、1930年に大阪屋商店を解散し、株式売買と完全に決別しました。 後日、大阪屋証券として再興。 現コスモ証券株式会社。

徳七は、従来の証券売買業と絶縁する一方、公社債市場の発展を背景にして、1920年に大阪野村銀行に公社債専門の証券部を設立しました。 証券部の収益は著しく向上し、1922年には独立採算制を採用。 1925年に証券部は分離され、野村証券株式会社(現 野村証券ボールディングス株式会社)が設立されました。

1931年の満州事変勃発後、わが国財政は急膨張し、国債の増発で公社債市場は活況得雄博し、野村証券も大躍進しました。 しかし、1930年代中盤から公社債市場が不振になると、1938年に株式売買を開始しました。 野村証券は設立当初、大阪屋商店との競合を避けるため、定款に株式売買を掲げていませんでした。








野村財閥の多角化

1927年の昭和大恐慌で、金融機関の破綻と統廃合が進む一方、破綻を免れた金融機関では、業務の多角化を模索しました。 こうした流れを背景として、野村財閥は既存の金融機関を買収し、信託・保険業に進出していきました。 信託分野では、藤田財閥系の大正信託株式会社買収し、1933年に大阪信託株式会社を開業。 1938年、野村信託株式会社に改称した。しかし、1943年に普通銀行の信託兼営が公布されると、同社は1944年に野村銀行に吸収合併されました。

生命保険分野では、藤田財閥系の共保生命保険株式会社を買収し、1934年に野村生命保険株式会社(現 T&D フィナンシャル生命保険株式会社)と改称しました。 尚、当時の損害保険の主力は海上保険であり、海運業を営んでいない野村財閥にとって旨味がなかったため、損害保険分野には進出しませんでした。

また、二代目・野村徳七は1916年に大阪商船株式会社(現 株式会社商船三井)が企画した「台湾・南洋」旅行に参加し、日本の財閥が東南アジアに進出している実情を目の当たりにして、積極的に「南方事業」を推進いました。 農園経営やゴム精製工場の経営などが主力事業で、野村財閥では大きな比率を占めていましたが、第二次世界大戦の敗戦で全て接収されていまいました。 野村財閥の主力である銀行業にも大きな変革の波が押し寄せてきました。

1932年、大阪の有力銀行である株式会社三十四銀行、株式会社山口銀行、株式会社鴻池銀行が三行合併を企図し、野村銀行にも合併参加を勧奨してきました。 徳七は、「野村財閥の中枢・野村銀行を合併させることは、財閥自体の存亡に関わる」と判断し、これを拒否しました。 野村銀行は自主独立の道を貫き、っ全国8位の銀行として、一流銀行の一つに数えられるまでに発展しました。








傘下企業の株主構造、役員構成

野村財閥では1928年に参加企業を次の3つに分類しました。
@直営事業 野村徳七または野村合名の直接指揮のもと経営する事業
A直系企業 野村家が人的にも資本的にも密接な関係を有し、野村合名の周囲に、野村徳
七の信任に基づく責任内閣の統轄の下に、それぞれ独自の発展を見つつある企

B主要投資企業 野村家がその株式に投資し、野村徳七が自ら重役として経営にも参加しつ
つある企業

東南アジアの農園経営が直営事業に分類され、野村銀行・野村証券が直系事業に分類されているところが特徴です。 つまり、野村徳七が手掛けている未完の事業が直営企業で、すでに事業として完成し「独自の発展を見つつある」事業を直系としているようです。

しかし、その10年後、傘下企業は@直系会社A傍系会社(野村重役1名以上が参加し、野村系で株式10%以上を所有する企業)B関係会社(野村系重役が株式を10%以下しか所有していない企業)という分類に変わっています。

これは、傘下企業の分類が、事業の進捗具合・完成度合いではなく、経営支配の度合いを指標とした、より組織的なものに変わってきたことを示すものでしょう。 尚、創業者の二代目・野村徳七は、還暦を目前にして、病弱な嗣子/野村義太郎に野村合名社長を譲り、従兄弟の山内貢(1893-1966)を専務理事に昇格させて一切の業務を統括させました。 野村財閥は、トップマネジメントの面からも、これからという時期に終戦を迎えました。






戦後の動向
野村財閥、再結集せず

戦後の財閥解体で、野村合名会社、敷島紡績株式会社(第二次指定)が持株会社に指定され、野村合名が解散しました。

戦後、野村財閥は、財閥としての統一した動きを取らず、各社がそれぞれの道を歩みました。 財閥商号使用禁止で、野村銀行は大和銀行(現 株式会社りそな銀行)、野村生命保険は東京生命保険と改称し、「野村」の看板をはずしました。 そして、その後、禁が解けても旧称に戻りませんでした。 このことが示すように、野村財閥では再結集の動きが起こらなかったようです。 1960年代に野村財閥の傘下企業が社長会をつくったようですが、その実態は分かっておらず、野村財閥の企業間の株式持s援護、ち合いも低調だったようです。

戦後、有力都市銀行は企業集団を形成していきましたが、大和銀行は中堅都市銀行に過ぎず、同行をメインバンクとする巨大企業の数も少なく、単独で企業集団を形成していくだけの力はありませんでした。 大和銀行の最大の特徴は、1990年代以前に唯一の信託兼営を認められなかった都市銀行だった事です。 1943年に普通銀行の信託兼営が認められ、各行は信託を兼営していましたが、1960年頃、金融当局が信託分離を指示しました。 ところが、大和銀行頭取・寺尾武夫は一人頑強に抵抗し、信託兼営を守りました。








野村証券の躍進

野村証券は、その積極果敢な営業姿勢で、住友銀行(現 三井住友銀行)と双璧を成し、有力な金融機関として認められるようになりました。 戦後、しばらく株式市場は低迷が続きましたが、野村証券は営業マンに過酷なノルマを課してその苦境を乗り切りました。 朝鮮戦争後、株式は好転しましたが、ノルマ営業は続行され、次第に「ノルマ証券」と批判を込めて呼ばれるようになってしまいました。

しかし、その成果もあって、国内最大の証券会社として同業他社を圧倒しました。 高度成長期に有力証券会社は「四大証券」(野村証券、日興証券、大和証券、山一証券)と呼ばれましたが、実際には「野村+三社」ではないかといわれたほどでした。 また、「大蔵省証券局は、野村証券の霞が関出張所」と揶揄されるほど、証券行政にも影響力を持ちました。 尚、1965年、野村証券は、調査部をもとに野村総合研究所を設立。 国内有数のシンクタンクとして高い評価を受けています。








大和銀行と東京生命保険の蹉跌

大和銀行は1995年9月にニューヨーク支店の米国債不正疑惑で11億ドルの赤字を出しました。しかし、これを隠蔽して米国金融当局の怒りを買い、米国からの追放処分を受けました。その結果、1998年には海外業務からの撤退を余儀なくされました。

唯一の信託兼営行であった大和銀行は、当初は他の都市銀行から魅力ある合併相手と見られていました。 しかし、1996年の日本版金融ビッグバンで、子会社方式による信託参入が可能になると、その旨みを失い、都銀再編から取り残されてしまいます。 結局2003年3月に大和銀行はあさひ銀行と経営統合し、りそな銀行となりました。しかし経営統合の直後mp2003年4月、自己資本比率を大幅に下回る可能性が発生し、政府による公的資金注入で事実上、国有化されました。


会長にはJR東日本副社長・細谷英二が選ばれ、金融機関出身ではないユニークな視点から銀行経営が図られました。 一方、東京生命保険は、1997年の金融危機で経営不振に陥り、
2001年に破綻し、太陽生命保険・大同生命保険グループ(T&Dホールディングス)に買収されました。 買収後、株式会社に転換し、同グループの窓販専用生命保険会社・T&Dフィナンシャル生命保険として再発足しました。
















日本の財閥

日本三大財閥(住友・三井・三菱)の始まり
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政商から脱皮する財閥(住友・三井・三菱) 
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ゴールドマン・サックスと住友財閥
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住友財閥の歴史
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財閥解体
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財閥解体と再結集、そしてグループ化
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山口財閥・三和グループ
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三井と住友の合弁、そして住友金属工業の「白水会」脱退
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鮎川・久原財閥と日産・日立グループ
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三井財閥
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三菱財閥
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野村財閥
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財閥(日本・世界)シリーズ ここまでのまとめ-2
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