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2009/8/12

ローマ帝国の物語-80  セウェルス皇帝  ローマ帝国の物語
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第20代ローマ皇帝 ルキウス・セプティミウス・セウェルス(Lucius Septimius Severus)


初のアフリカ出身のローマ皇帝となったセウェルス(在位193-211)は、235年まで続くセウェルス朝の創始者となりますが、彼が最初に行ったのは、皇帝選びにまで口を出す親衛隊の解体で、親衛隊の上層部や関係者を処刑すると、親衛隊員のほとんどをローマから追放してしまいます。
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2009/8/8

ローマ帝国の物語-79  競売にかけられた帝位  ローマ帝国の物語

コンモドゥスが死んだ後、ネロが自殺した直後と同じように、ローマ帝国は再び混乱を迎えました。  皇帝暗殺の首謀者の一人、親衛隊長ラエトゥスは、ローマ市長を務めていたペルティナクスに皇帝に就任するように要請し、元老院の承認を得て、ペルティナクスは第18代ローマ皇帝(在位193年1月1日-193年3月28日)に就任しました。 しかしながら、彼の性急な緊縮財政は評判が悪く、謝礼を期待していたラエトゥスや親衛隊に何も与えなかったので、わずか3ケ月後に暗殺されてしまいます。 

ペルティナクスを殺した後、親衛隊は帝位を競売にかけるという前代未聞の事をやり、その競売にはペルティナクスの妻の父、スルピキアヌス、ディディウス、ユリアヌスが参加し、ユリアヌスが落札し、第19代ローマ皇帝(在位193年3月28日-193年6月1日)に就任しますが、帝位を金で買ったことから市民たちの反感を買い、しかもパンノニア総督セプティミウス・セウェルスが皇帝の座を狙い、ローマに向かってきた報せを聞いた元老院は、反乱軍側に寝返り、ユリアヌスは統治わずか66日目に宮殿内で、一人の士官により処刑されました。  

                                   ディディウス・ユリアヌス 享年60歳。
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2009/8/7

ローマ帝国の物語-78  暴虐帝コンモドゥス  ローマ帝国の物語
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第17代ローマ皇帝 マルクス・アウレリウス・コンモドゥス・アントニウス(在位180-192)

コンモドゥスは、第16代皇帝、名君マルクスの子供で、年老いた父と共同統治する形で、177年に政権に就き、180年に第17代皇帝となりました。 若き皇帝と期待されましたが、父マルクスが戦っていた北方ゲルマン民族に恐れた彼は、ゲルマン民族に有利な講和条約を結びさっさと敵前逃亡。 さらに、毎日朝から酒池肉林、また凱旋の際には市民の前で、ホモ相手のサオテルセという従者と熱いキスを行い、臆病な性格を隠すために自分自身がギリシア神話のヘラクレスと名乗り、コロッセオで皇帝コンモドゥスにはむかう事の出来ない1万2000人の剣闘士を殺し、自分の強さをアピールしました。 
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2009/8/6

ローマ帝国の物語-77  五賢帝  ローマ帝国の物語

ドミティアヌスが暗殺されると、元老院議員の中からネルヴァが皇帝に推挙され、以後トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスと続いた皇帝達の時代は、五賢帝の時代と呼ばれ、歴史家のギボンは、この時代を「人類が最も幸福であった時代」と述べています。


第12代皇帝 (在位  96 -  98年)  ネルヴァ
第13代皇帝 (在位  98 - 117年)  トラヤヌス
第14代皇帝 (在位 117 - 138年)  ハドリアヌス
第15代皇帝 (在位 138 - 161年)  アントニヌス・ピウス
第16代皇帝 (在位 161 - 180年)  マルクス・アウレリウス



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2009/8/3

ローマ帝国の物語-76  フラウィウス朝の皇帝たち  ローマ帝国の物語

フラウィウス(Flavius)朝はローマ帝国の王朝で、その名前は皇帝たちの属したフラウィウスの氏族名からきており、第9代皇帝ウェスパシアヌス、第10代皇帝ティトゥス、第11代皇帝ドミティアヌスの三人が属します。

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2009/8/2

ローマ帝国の物語-75  四帝乱立  ローマ帝国の物語

ネロの死亡で、ユリウス・クラウディウス朝は断絶、その直後にはわずか1年あまりで、4人の皇帝が位につき、次々と失脚してゆきました。


第6代皇帝 ガルバ        (在位68年6月〜69年1月)
第7代皇帝 オトー        (在位69年1月〜69年4月)
第8代皇帝 ウィテリウス     (在位69年4月〜69年12月)
第9代皇帝 ウェスパシアヌス (在位69年7月〜79年6月)
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2009/7/31

ローマ帝国の物語-74  パンとサーカス  ローマ帝国の物語

地中海を制覇したローマ帝国は、広大な属州を有し、それらの属州から搾取した富により、ローマ市民は働く必要がなくなっていました。 また、大きくなりすぎたローマ帝国の権力を維持するために、権力者はローマ市民が反乱を起こさないよう「パンとサーカス(ラテン語: panem et circenses)」により、市民の政治的無関心を作り出しました。  この「パンとサーカス」という言葉を最初に用いたのは、古代ローマ時代の弁護士、かつ風刺詩人であるデキムス・ユニウス・ユウェナリス(紀元60-130年)で、サーカスはあくまでも後世の英語読みで、「キルケンセス (circenses) 」は古代の競技場で戦車競争が行われたところですが、拡大解釈して剣闘士競技、また娯楽という意味です。


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2009/7/30

ローマ帝国の物語-73  ポンペイ最後の日  ローマ帝国の物語
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■ The last Day of Pompeii (1827-1833)
   Karl Briullov(1799-1852)
   465.5x651cm │ The State Russian Mueseum │ Saint Petersburg │


ナポリの南東およそ20キロのところにポンペイという町があり、土地が肥沃で、交通の要でもあったため、紀元前8世紀頃からギリシア人が移り住み、町は飛躍的発展を遂げました。 ポエニ戦争ではカルタゴ側についたものの、ポンペイはローマの支配下に入り、ローマ市民権を得る事を条件に、ポンペイはローマの属州となりました。
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2009/7/29

ローマ帝国の物語-72  第二次ユダヤ戦争  ローマ帝国の物語

第一次ユダヤ戦争で、徹底的にエルサレムを破壊されたユダヤ人の反ローマ感情は高まる一方で、戦争後も周辺諸国に散ったユダヤ人たちは各地で暴動を起こしていました。

バル・コクバの乱(紀元132年〜135年)は、ユダヤ人のローマ帝国に対する2度目の大きな反乱で、第二次ユダヤ戦争とも呼ばれています。  この戦争でユダヤ人の抵抗があまりに大きかったので、ローマ皇帝ハドリアヌスは徹底的にユダヤ的なものの根絶を目指し、属州「ユダヤ」の名前を廃して、属州「シリア・パレスチナ」としました。 

パレスチナの語源は、「ペリシテ人の土地」という意味で、紀元前13世紀頃にペリシテ人が住み着いたことに由来します。 この土地は、旧約聖書では「カナン」と呼ばれたところです。 ユダヤ人の祖アブラハムがこの地に入植し、ペリシテ人を追い出し古代イスラエル王国をつくったわけですが、ハドリアヌスはパレスチナというユダヤ人の嫌がる名前をつけ、ユダヤ人が帰ってこないようにしたのです。

以後、祖国を失ったユダヤ人たちは、世界中に離散(ディアスポラ)する事になりました。


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2009/7/27

ローマ帝国の物語-71  消えたエルサレム教団   ローマ帝国の物語

第一次ユダヤ戦争(ユダヤvsローマ帝国)の時に、エルサレムを拠点とし、ソロモン第二神殿で祈りを捧げていた 「エルサレム教団」 がエルサレムから姿を消すという大事件が起こりました。

ユダヤ人ユダヤ教徒たちの立場になって考えると、ユダヤ民族が一致団結して、強大なローマ帝国と戦い、エルサレムを守ろうとしているのに、その場を逃げ出すとは、とても許せないという気持ちが、 「エルサレム教団」 に対する憎しみとなりますが、これが、ユダヤ人ユダヤ教徒が、原始キリスト教徒に対する憎しみの火に油を注ぐ結果となり、戦争が終わってから、ユダヤ人ユダヤ教徒による、エルサレム教団のキリスト教徒に対する迫害はさらに大きなものとなりました。

こうして、ローマ帝国、ユダヤ教徒、異邦人キリスト教徒たちから迫害を受ける 「エルサレム教団」 は、ペラから帰る場所がなくなり、孤立を深めていくことになり、そうして、原始キリスト教の主導権は、 「アンティオキア教団」 に移ってゆきます。

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