「オーケストラのクラシック音楽のススメ〜第四回 自然界の発想音楽〜」
管弦楽
前回までは交響曲のエピソードについて少し話した。
今回からは、また違った、クラシック音楽の中でも比較的短めで解りやすい曲を紹介したいと思う。
突然で極論かもしれないが、交響曲というジャンルに限らず、クラシックというカテゴリに属する曲を好んで聴く人間は、実に(自分を含め)変わり者であると思う。
毎日あくせく焦って毎日をすごさざるを得ない今日の社会。
その中にほんの少しだけあるプライベートな時間。
それをクラシックなどという難解極まりない長い音楽に費やす…端から見たら何と馬鹿馬鹿しいことだろうか。
しかし、自分でこの話を切り出しておいて何だが、その小難しく長ったらしい音楽の中に、その消費した労力と時間に見合った、いや、それ以上の楽しみがあると自分は断言したい。
話が逸れた。本題に入ろう。
元来音楽というものは、その表現分野の分類により、二種類に分けられる。もともとこれは交響曲に言われていたことだが、他のジャンルの音楽にも充分に通用するだろう。
則ち、作曲家の心の内にのみ存在する感情、思想等の不可視非物理的な事柄を表現しようとする、または、練習曲等、表現以外の目的で作られた『絶対音楽』。
そして、現世に存在する(あるいは空想であってもよい)事物、様々な「もの」そのものを、またはそのものについてを表現する『発想音楽』である。
(知識豊かな方はお分かりになるかもしれないが、本来、『絶対音楽』と対となる言葉は『標題音楽』である。これはその名の通り、『標題…つまり「田園」など、曲に副題のつく曲』に適当とされるものであるが、それではその意味の占める範囲が前者に対し少なすぎると自分は感じた。よって、勝手な造語として、この『発想音楽』という語を自分はここに示した。)
絶対音楽についての記述は避けるが、一言だけ言っておくと『難しい』と言う言葉に様々な意味が凝縮される。
勿論、先にも述べたように、その難しさの中に楽しみが含まれてもいるのだが。
しばらくは『発想音楽』について述べ、それを紹介にしたいと思う。
オーケストラで奏される曲で、今日よく題名や一フレーズやらがよく耳にすることが出来る曲と言うものは、大抵が発想音楽であるように思う。
「展覧会の絵」、「惑星」、「新世界」、など。むしろ、まともにそのようなタイトルがつけられていること自体が発想音楽である証拠なのだから致し方無い。
(絶対音楽である『誰それの交響曲題○番ト短調だとか、誰これのピアノ曲第何番』だとかいうタイトルを知っているのは、世間的に見てごくごく一部であることは間違いが無い。)
発想音楽がモチーフにするものは、自然環境がダントツに多いだろう。
ピアノの貴公子ショパンは『雨だれ』をピアノで表現し、ワルツの王J・シュトラウス二世はポルカ『雷鳴と電光』で遠雷の響きを大太鼓に奏させ、ポピュラー・クラシックの大家、アンダーソンは馬の嘶きをトランペットに真似させた。
しかし、自分が思うに、自然界の音をオーケストラで表現しようと試み、他に類を見ないほど成功をした人物として、リヒャルト・シュトラウス(近代作曲家の大家。一流ホルン奏者の息子としてこの世に生を受け、ホルンの扱いが特に素晴らしいが、繊細な表現から驚くほどダイナミックな音楽まで、巧みな楽器法による幅広いが音楽表現が絶品)挙げられるのではないかと思う。
彼の一大傑作、『アルプス交響曲』は、広大なアルプスの山々の様々な表情を実に巧みに作り出している。
のどかな牧場の雰囲気、カウベルの響き。蝶は舞い花は咲き乱れる。
山々の雄大さは計り知れず、その印象をただひたすら朗々とホルンが奏する。
突如暴れ狂う風と雨。そして雷は猛々しく鳴り響く。轟々たる嵐はそれまでの長閑さを全て吹き飛ばす。
嵐がやみ、何も無くなってしまったかと思いきや、まだそこに山はある。
嵐が来ようが時が経とうが、不変の大いなる存在は今尚其処に君臨しつづける。
N○Kの映像ドキュメントを見るよりもはっきり言ってこっちのほうがイメージしやすいと思うほどの名曲。
これも是非御一聴あれ。
今回は自然現象の発想音楽までをのべた。
次回は歴史的事物をモチーフにした発想音楽について紹介したい。

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