先日の続き
アシスタントコンダクターは、通常のコンダクターに能力が劣っていていい、ということは断じてあってならない。
単に、練習内での役割が違うだけである。
初めにコンダクターありきであり、その練習に支障が出ないように楽団をチェックするのである。
テンポの速さはコンダクターに合わせよ。
拍の分け方も同様に。
テンポの弛緩、ダイナミクスの幅、棒の振り方、休止の具合、テンションの度合い…その他全ての事柄に於いて同様である。
前回の記事に於いて『個人の主観介入を避けるため、音楽的助言を必要とせずコンダクターに任せるのなら、テンポや拍感等、演奏全てに於いて支持を出す事は謝りではないか。』という意見を与えられた。
確かにそうだ。テンポの弛緩を微小の狂い無く一致させる事は割合困難であり、厳密に言えばピッチ音程音色その他に於いても個人の主観が介入しないとは言いづらい。
だが、『一般的に』である。
一般的に多くのミスを無視する聴衆はおるまい。
(適当であろうが不適当であろうが)棒の支持を無視することはあってはならない。
そういう、音楽性云々を除いた『一般的』な間違いを正すという点でアシスタントコンダクターは非常に大きな労力を割かねばならぬ、と言っているのである。
アシスタントコンダクターの責任は重い。それは時として奏者の責任をも上回りかねない。
しかし評価されぬのが現状である。
思うにその責任と評価の秤の不釣り合いを改善する為に、聴衆の前に指揮者として姿を現せることの無い立場であるからして、どこかにその立場と名前を明記するべきである。
自分がコンダクターとして努める際には、必ずプログラムにそれを明記するようにしている。
それだけでもアシスタントコンダクターの、責任と評価の秤を釣り合わせる力にはなる。
ただこれは酷い演奏を露見してしまった場合の、真っ先な批判の矛先にすら成り得る事も否定出来ない。
その辺りはもはや役割立場の状況として覆せず、残念ながらどうしようもない。
アシスタントコンダクターへの助言とテクニックを、軽くながら以下にあげる。常々悩める人物、若しくはある日突如何か悩みを持ってしまった人物の助けになれば是れ幸い。
・一連の曲の流れを理解せよ。口ずさみ、諷じ諳じる事が出来るよう。
これは指揮者としての最低必要条件である。
・曲想その他を重視した振り方よりも、単純な、あまり腕に意識を持たずとも良い指揮を心掛けよ。
しゃくいやつっつきは乱用せずとも良い。
明瞭な拍感を奏者に与え、細かな微小たる不揃いを聞き分けるべく聴覚を一層鋭敏にせよ。
・一度の練習で曲は三度通せ。
始めに一回。返して止めつつ一回。終わりに一回。つまり止めずに通して演奏は二回することになり、一度目は現状確認、二度目は細部調整、三度目はまとめとして指示の浸透具合をみることとなる。
本番に於いて、止めつつ演奏することは有り得ない。止めずの通し練習は最低一回必要である。アシスタントコンダクターが未熟で止めずに通せない、等とは断じて、決して許される可からずである。
ただし、三回目は場合によっては必須でない。
・奏者のミスは二度聞き流せ。
くしゃみが出そうだった、突然持病が起こった等、思わず起こるミス、というものがある。そんなミスをわざわざ言われては奏者は堪らないし、時間の無駄でもある。だが、そう連続して起こり得るはずがないので、始めの通しは聞き流し、二回目で同様であれば、一度止め、気にも止めぬふりをしてそのミスではない別のミスを指摘し、『さぁもう一度!』としてさらに同様であればcon foco assai。彼は言い逃れ出来まい。
付随であるが、指揮者の責任以前に奏者の責任というものがある。
楽譜により与えられた音符をその通り発せない事は、極刑にすら値する。
本来は認められぬが、やむを得ぬ奏者は事前に申し出るが良い。それは自決ものの屈辱であるが、全体でその罪を高々と掲げられては死んでも死にきれまい。ただ、責任は自己にある。残酷ながらそれが事実であり、真実である。
・コンダクター同様、たゆまぬ研鑽を積み、また、奏者には同様の待遇を受ければならぬ。
これは今更言うまでもない。
以上。
アシスタントコンダクター目立たぬ。しかして、先も挙げた通り、その責任は重い。
的確な目的と高い能力を持たなければならぬ。
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