音楽という名の鉱脈はもう掘り尽くされた、という意見がある。
何かしら曲を聴いていて、
『どこかで聴いたことがあるような…』
と感じたことは無いだろうか。
大体現代の音楽は様々な規則により作られており、その約束も、音、拍子の種類、音色の違いという僅かなものでしかない。
俳句という素晴らしい文化がある。日本五十音、濁点半濁点小文字古文字合わせて八十音を計十七文字に合わせた、おそらく世界一短く、作りやすく、かつ奥の深い文化である。
始めの文字に何か文字をおいたとしよう、ある文字がくる可能性は八十通り。
その次に来る文字も八十通り。その次もまた…
つまり、
『あああああ あああああああ あああああ』
という歌から
『んんんんん んんんんんんん んんんんん』
という歌まで、およそ八十の十七乗でしかないわけであり、これを現代ではあるが、一日に平均して作り出される歌の数から考えると数百年で埋め尽くされており、今作られる歌は全て以前どこかで作られた歌、ということになるらしい。
音楽にもこれが言える。
俳句のそれよりも少なく半音階12音、リズムテンポに数あれど、確率学的にかならず限界が現れる。
であるからして、曲を多くは知らない人はもとより、多くのジャンルに渡り意識を持つ人間はその差異が少ない楽曲、つまりは似ている曲の多さに気付かされるのである。
特に最近のポップ業界ではベース音を主として考えているため、和声学の訓練に於けるバス課題の如く割合安易な形式を取りがちであり、ジャンルごとにリズムが定型化のそぶりをみせつつある状況も相俟って、同ジャンルの楽曲は非常に似やすくなっている。
音楽家はその弊害に対する様々な抜け道を考えた。
音に頼るのではなく視覚効果に頼る。
新しい楽器の導入。
新たな音階、音程の模索。
音の端整な並び、ではなく、次に何が起こるか分からない(何の法則にも当てはまらない要素を用意する)事柄を期待させ、いかに裏切るか。
これらの要素を発展させた結果、全く新しい現代音楽が発達し、もしくは古来からあるものの今まで見向きされなかった中近東、発展途上地域の音楽、クラシックと違った発展をした音楽にその興味の矛先を向けていったのである。
しかしながら、そういった昨今の状況に私は警鐘を鳴らしたい。
意見は人それぞれ沢山おありのこととは思うがこれだけは言いたい。そいいった音楽を比重として多く学ぶことはいわゆるクラシック音楽の学生にとって避けるべき事柄である。
クラシック音楽を望むなら、他の音楽に傾倒すべきではない。
他ジャンルの経験がプラスになることを否定するわけではないが、私は昨今その比重に誤りがみられる学生が多いように思うのである。
西洋音楽の礎はバロックであり、クラシックしかり。古典理解を経ずに時代を先行することは出来ない。
これは他分野と大きく違う点である。
文学なら必ずしも古典を修めずともよい。時代時代に表記言語形態が独立に近い様相があるためである。
しかして音楽。その表記形態、ともすれば言語ともいえる音、旋律、和音、律動は当時から一貫している。
その唯一の言語を理解せずして学ぶことは愚の骨頂、的外れ、不可能なのだ。
例えるならば、古典を学ばず近現代に傾倒する学生は簡単な学校英語のみしか知らずに難解な論文を紐解こうとする者、クラシック音楽の学生でありながら他ジャンルに傾倒する者は他国に旅行した際の目新しい刺激に簡単に虜になってしまう者、となる。
しかも後者は自国の言葉感覚しか知らずにその旅行先の文化を学ぼうとするからタチが悪い。
本筋から外れてしまったが…無数に存在する音楽の可能性、しかしてそれは今ある音楽を学ぶ意思のある者にのみ本来の喜びを明らめる、非常に厳しくも慈愛に満ちた可能性であるのだ、といって文を締めたい。

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