しかし凄いねえ。下を書いた後、一眠りして昼過ぎに起きてから、遅まきながら朝刊(うちは朝日)を開いて見たら、社会面に堂々とカラーで載ってるし(
これ)、おまけに
ZAKIさんも隅っこにさり気なく映ってるし(笑)。
「プレカリアート」をめぐる問題が、今や大手メディアを含むエスタブリッシュメントにとっても無視しようとしても無視できないテーマになっていたということかもしれない。そのことをマスメディア上において明示しえたという点においても、確かにデモを行った意義はあったというべきだろう。「デモは嫌いだ」なんていう憎まれ口を叩いた私としても(基本的には今もそういう姿勢においては変わりはないにしても)、そこは素直に敬意を表したいと思う。
まあしかし、けったいなデモではあった。参加者からは四六時中さまざまなシュプレヒコールが沿道に向かって投げかけられていたわけであるが、上のようなボードを掲げた人たち(「革命的非モテ同盟」というところの人たちらしい)が
「
我々はもてない男であるー!!(我々はもてない男であるー!!)」
「
セックスなんかいくらやったって無駄だー!!(セックスなんかいくらやったって無駄だー!!)」
などと気勢を上げていたかと思えば(笑)、久々にお姿を拝見した清水直子さん(当然メイド服着用で参加)も「
派遣会社はつぶれろー!!」「
過労死は御手洗の責任だ―!!」「
税金は企業からたんまりとれー!!」「
生活賃金を1人20万円よこせー!!」「
ドコモはケータイを止めるなー!!」……等々、ハンドマイクでもって何だかずいぶんいろんなことを叫んでいた。
また、「首都圏青年ユニオン」の人たちは『
牛丼「すき家」は残業代を法律どおり払え』と書かれた横断幕や「すき家」のどんぶりを模した帽子でもって行進していたが、途中のデモのコース脇にたまたま(というか、あらかじめ狙っていたかとは思うが)「すき家」がチェーン店を構えているのを発見するや、そこでしばし立ち止まって撮影タイムを敢行。取材陣が大喜びで群れ集まっていた。
このように、それぞれの参加者がまるで自分勝手に自分のメッセージをそこらじゅうに向かって発信していたわけで、事情を知らずに通りかかった一般通行人の人たちにしてみれば「いったいこれって何が目的のデモ行進なの?」という受け止め方のほうが多かったかもしれない。
ただ私が思うに、今の時代に敢えて「デモ」という表現行為を通じて社会に何かを物申したいという動きが出てくるのだとすれば、おそらくそれは自然とこういった人たち(ニートや引きこもりや失業者などを含む幅広い概念としての「プレカリアート」)による、こういうスタイルのものになるんだろうな――という気はした。
その昔の「“総資本”対“総労働”」とかいうような二項対立に分かりやすい図式で説明できた時代とは異なり、今はみんながそれぞれバラバラなターゲットに対して、それぞれバラバラなメッセージをバラバラなやり方で投げかけるようになっている。けれども、一見バラバラに見えるそれらの声の奥底を辿っていくと、どこか普遍的に共通する今の時代ならではの“病理”がある。ただ、そこをひと言で的確に表現し、なおかつ伝播させることができない状況に置かれている人たちが多いからこそ、彼らは路上に出て、互いに良くはわからないが自分とどこか似たような部分もありそうな人たちと群れ集い、都心の繁華街を歩きながら、通りがかりの「自分以外の普通の人たち」に向かって思いつく限りのメッセージをひたすら叫ぶ。
でも、そんなことやって何の意味があるの? という人も大勢いることだろう。実は私が――「文章」という別の表現手段を選択した者ゆえの捉え方でもあろうが――「デモが嫌いだ」というのも、まさにそうした思いがあるからだ。
というか、世代的にもいわゆる60〜70年代の政治の季節を実体験していないということもあろうし、個人的にも数年前のオウム取材の際、地元に転入してきたオウム信者に対する各地の住民の「オウム反対」デモの不毛さ(持ち上がりという点では絶大なものがあったが、本来の目的を達成するための手段としてはおよそ無意味)を目の当たりにして「デモ嫌悪症」になっていたということもある。
(ちなみにあの時、逆の立場から「オウムの人権を守れー!」と叫んでいた人権派に対しても、同様の理由から強い違和感を覚えたものだ――ということは以前にも書いたかな。まったく、ああいう「自陣営ひきこもり主義者」どもの生前死後硬直的な体質には今思い返しても辟易させられるのだけど)。
その点から言えば、今回デモに参加していた「プレカリアート」たちの立ち振る舞いには、よっぽど好感が持てるような気がした。
彼らはたぶん、自分が今ここで発した声が社会的にはとるにたらない、ちっぽけなものとして簡単にあしらわれてしまうだろう、ということがわかっている。とはいえ、それでも声は発しなければ声にはならない。砂漠に水を撒くのは不毛な行為だが、水さえ撒けば0.01%は生じたかもしれない発芽可能性も、撒くのをやめてしまえば未来永劫0%のままなのだから。
1年前の渋谷でのデモ(私は不参加だったが)にしても、去年の夏の神田でのデモにしても、率直に言えば私なりに疑問を覚えるところはある。ただ、それでも続けてきたことで今回も420人が集まり、なおかつ従来はひたすら黙殺するばかりだったマスメディアもとうとう大きく報じるようになったわけだ。そのことには主催者や参加者のみなさんも大いに誇りに思って(奢りは禁物だが)よいのではなかろうか(――って、なんだか偉そうなことを言ってごめんなさい)。
もっとも、それはそれとして、やっぱり今回は警察の横暴に対しては今まで以上に腹が立ったなあ。デモ参加者に対しては少しは遠慮したのかもしれないが、そのぶん参加者だか取材者だかわからん我々のような連中に矛先が向かったのかどうか。
まあ、彼らにしてみれば、あくまでデモがデモとして完結してくれればよいとしても、それがデモの隊列の外側に向かって拡散していくのは好ましからざることなのだろう。ただ、そうした彼らの態度の向こう側に、実はこうしたデモに対して世間の側が抱いている「嫌悪感」が潜在的にあるんじゃないか――と、私にはそんな気がしているのだけれども。
(「
岩本太郎ブログ」と同時掲載)

0