1985年8月12日、真夏の熱気が残る夕方の羽田空港。
伊丹行きの日本航空123便が上昇途中で消息を絶ち、山梨、長野と迷走して群馬県の御巣鷹山に墜落しました。
乗客乗員520名が亡くなるという、大惨事になりました。
しかし、123便の交信を受信していた横田基地の米軍は、わずか20分で墜落現場を特定し、ヘリが救助に向かったのでした。
しかし、何故か救助はいきなりの中止命令が出たため、ヘリはそのまま帰還したのでした。
墜落直後は、かなりの方が生存していたことが明らかになっています。
しかし自衛隊が現場に到着したのは墜落から10時間後であり、結局生存者はわずか4名でした。
これは一体どうしたことか。
自衛隊が現場に行けなかった、何者かによる何らかの力が働いた、としか考えられません。
墜落現場の状況から123便は小型の危険な爆弾が積まれていて、安全を確認するまで自衛隊などの救助隊が近付けなかった、という説もあります。
また日本にとって都合の悪い物や人を積んでいたのかもしれません。
救助された人が、
「墜落した現場で見聞きしたことは、誰にも言わないように」
と口止めをされていたことも明らかになっています。
また隔壁が損傷したことが墜落原因とされていますが、機内の気圧変化もそれほどなく、機長は高度を下げようとしていません。
しかも隔壁の損傷で気温がマイナス40度まで下がると予想されるのに、実際機内の気温も下がっていないのです。
そして相模湾に落下したとされる垂直尾翼も捜索を断念してしまったのです。
米軍が1時間後に救助活動を始めようとしたのに、夜に向かう時間にもかかわらず、自衛隊はヘリでの救助を断念して登山による救助をしたことは不可解です。
日本政府が公表していない事実があることは明らかです。
日本人はどうも都合が悪ければ、本当のことを明らかにしない性格があるようです。
北朝鮮の拉致被害者にしても、ロケット乱発もいつ飛んでくるのかわからないのに日本政府は対応が甘い。
政治家は国民を犠牲にしても単に都合の悪い機密を守ろうとします。
どんな大事な機密があったか分かりませんが、520名もの尊い命が政府の犠牲になった、と思うと残念で仕方がありません。
あれからすでに長い年月が流れましたが、犠牲者のご遺族は、1日たりとも忘れるはずがありません。