先日の早朝、電話が鳴りました。
どうやら曹洞宗の僧侶らしいのですが、お遍路のことでお聞きしたいことがある、とのことでした。
そもそもそんな早い時間に電話をしてくるなんて、その時点でどうかなと思いました。
彼は財布を持たずに遍路をするそうです。
それは、札所の一部が何故不親切なのか、という質問でした。
その人が、そのことで何故道しるべに電話をしてきたのかはわかりません。
しかしどこかでその情報を入手して、電話をかけてきたのでしょう。
また何故坐禅を組む曹洞宗の僧侶がお遍路をするのだろう、とそちらが気になりましたが。
確かにお遍路さんからは、どこそこのお寺は無愛想だった、ということをよく聞きます。
宿は噂と情報交換の、るつぼなのです。
道しるべがお遍路さんを泊めて代金をいただくように、お寺の売店も商売ですから、買わないお客にはいちいち無理に説明する必要はないと思います。
年に1人くらい財布を持たないお遍路さんにお越しいただきます。
彼が言うには、
「托鉢をしますので、お接待でどこでも結構ですから泊めてください」
とのこと。
でも私は泊めません。
「それなら、覚悟の上で野宿を経験してください」
と言います。
他のお客様もお接待で泊めているのを見れば、不思議に思うでしょう。
商売でお遍路は成り立っている、そんな時代です。
その事をやんわりと説明したものの、納得のいかない様子でした。
私が思うに、曹洞宗の僧侶が修行で坐禅を組むのも自由、真言宗の信者が修行としてお遍路をするのも自由、クリスチャンが偶像崇拝でキリスト像をお祈りするのも自由なのです。
それで何かを得られれば、良いじゃないですか。
そして、その事をいちいち他人に説教する暇な人はいません。
どこが親切で、どこが不親切かも修行の内、と考えれば納得できるはずです。
お遍路は、人生で涙が溢れるほどの貴重な体験ができる場所です。
まず自分が素直になり、謙虚な気持ちでお遍路をしないと、間違いなくお接待を受けることは出来ません。
どうして自分がこんなに苦しい思いをしなくちゃならないのか、なんて思ったら失格です。
生きていること、食事を食べられること、布団で寝られること、その全てが自分は何と幸せなのだろう、と思うようになるのです。
お接待をする四国の人たちもお遍路さんを見れば、どのような気持ちでお遍路をしているか、すぐに見破ることが出来ます。
ちなみに、私は予約の電話を受けた時点で、お遍路さんの心を読むことができるようになりました。
彼はお遍路をしたのでしょうか?
残念ながら感動するような良いお遍路は出来なかった気がしています。