西宮球場を本拠とする阪急ブレーブスの黄金時代を支えたのは、山田久志、加藤秀司、福本豊の昭和44年ドラフト同期組の3人でした。
その後、徳島海南高出身の上田利治監督と徳島撫養高出身の長池徳治選手が4番を打っていたので、子供ながらに応援していました。
春には徳島ハムが前身の日本ハムとのオープン戦の対戦があったので、父親に頼んで見に行ったことがありました。
先日、NHK-BSで「盗塁王 福本豊」を見ました。
投手の癖を見抜き、生涯で1065個の盗塁をしたベテランですが、彼のメモには相手投手の名前と数字がポツンと書かれていました。
その数字とは「首を縦に振る」とかの癖ではなくてセットポジションからスタートを切る秒数なのです。
秒数だけで盗塁のタイミングを測る、天才は他の人とはどこか違う彼自身の生まれながらの天性があったのです。
そして狙いをつけると、身を低くして次のベースを目指してひたすらに疾走します。
その姿は、次のステージを目指して突き進む、人生の逞しさを感じて輝いていました。
福本が盗塁でアウトと判定されると、それは村山実の自信を持って投げた球がボールと判定された時の悔しさと同じで、その一つの判定に命をかけていると感じたものです。
そして3塁への盗塁は、簡単に成功するので「面白くない」と言います。
2塁への盗塁は、一塁手がベースに付くので、リードが大きく取れないために面白いのだそうで、やはり天才は違っていて困難を楽しむのです。
またファンは福本の盗塁を見るために球場に足を運んでくれるので、そのために「走る」と言います。
走れなくなれば、それは「終わりの時」なのです。
そして生涯2543本の安打を打ったことも超一流選手で、時々ホームランも打ちました。
その根底には「何クソッ」という、ドラフト7位で入団した「負けじ魂」がありました。
福本は国民栄誉賞を辞退しました。
その理由は、立ちションが出来なくなるからだそうですが、それは違います。
社長直々の頼みで、ファンが喜ぶために競走馬と走ったことがありました。
それはイベントでもプロ野球選手にすれば屈辱なので、誰でも嫌だと思いますが福本はファンのために走りました。
彼の大阪弁の気取らない、まるでタコ焼きのような庶民丸出し気質は、国民栄誉賞を貰ってしまうとファンが遠い存在になることを嫌ったのだと思います。
ブレーブスもホークスもバファローズも、タイガースと同じく関西の球団だったので、私は大好きでした。
ブレーブスを自分が帰る家だという彼は、チームが無くなったことを寂しく思い、オリックスに球団が売却された年に引退しました。
「自分を育ててくれたブレーブス以外でプレーする事は考えられなかった」と言います。
スーパースターなのに、国民栄誉賞を辞退してファンのために走ったと話す、全く気取らない福本のブレーブス愛、その生き方にも感動しました。