ワールドカップはこれからが本番だと思うのだが、日本敗退で終戦ムードが濃い。日本対ブラジル戦は、家人が見ていたので起きてしまい、早朝4時半くらいから付き合ったが、素人目に見ても2枚は違うということが歴然と分かる。私が見始めてから急転してブラジルの得点ラッシュが始まった(笑)。
気持ちいいくらいのスピードとメリハリ。国によってもサッカーのスタイルは違うのだろうが、ブラジルとは異種のタイプで、かつ力量が五分の国と戦うことになる試合は、ぜひ見てみたいと思った。(どこなのか?)
日本については、すべてが「大人気ない」という言葉に集約されるシリーズだった気がする。
決勝トーナメント進出は既定事実、うまくいけばベスト8とまでアオって⇒豪州戦後はジーコ叩き⇒クロアチア戦後は精神論に加え、ブラジルの手抜き力説(これを本気で書いたり言ったりしているバカ評論家が結構いたのである!)と節操の無いマスコミがその最たるものだし、ちょっとどうかと思うくらい舞い上がったファン(これは罪はないけど)、さらにはブラジル戦ゲーム後の「中田劇場」(グラウンドと記者会見の二幕)。
どれもが大人気なかったと思う。あ、記者会見で中田が切れる原因となった記者も、稚拙という意味では「大人気ない」。
マスコミについては、競馬同様というか、それ以上にサッカージャーナリズムが未成熟であるということが明白になった。中には名前は知らないが、にわか観戦者にさえもろもろ得心させてくれたコメンテイターもいたのだが、大半は「これで苦しくなった」「あとは精神力、気迫」「もっとシュートを打ちましょう」と繰り返すのみ。
素人目に見ても、最大の敗因はスタミナ不足だったと思うのだが、開催期間中は選手に対する批判はご法度なのか、私の見ている範囲では新聞はともかく、テレビラジオでは「なぜこうなるのか」というような論理的な敗因分析を、一切目にしなかった。
中田は、あの寝転がりといい、記者会見といい、いわゆる「天才」にありがちな独善さが横溢したパフォーマンスを見せてくれた。イチローも似たタイプ。
天才は天才ゆえに、すべての尺度は自分であり、他者の意見を全く聞かない。というか聞く必要がない。そりゃ他者は全部自分以下なんだから仕方ないといえばそうなのだろうけど、自分を相対化するだけの柔軟性には欠けている(と思わせる)発言や態度が多い。
当然天才だから自分のことは大好き。彼らは天賦の才に加え、自分のために努力する才能が傑出しているからスーパースターになったわけだが、自分としか向き合っていないがゆえに、自分絶対主義に陥りやすいということなのだろう。
私は彼らより年上だから、彼らを仰ぎ見ることはないので分からないのだが、今の小学中学生は、彼らを見て「ああいうふうになりたい」と憧れたりするのだろうか?例えば松井や、あとは引退してしまったが中山のような泥臭いタイプの選手は、どう映っているのだろうか?
もちろん、良い悪いではなく、こうした天才タイプの存在は必要でもある。ただしそれはあくまでプレー中でのことだけであってほしい。そしてこういうタイプは、もっと卑近なスケールでも、結構身の回りにもいたりするものである。言うだけで、人の意見を聞かず尺度を自分にしかおかずに押し付けてくる人というのは、どんな業界にもいるでしょ?
宝塚記念は東京競馬場で観戦。10年ぶりくらいの知人(鈴木淑子さんが競馬にのめり込むキッカケとなったラジオディレクターで、私の恩師でもある)を見かけ、2年ぶりくらいの知り合いには声をかけられしばし話した。
東京競馬場は、いつものことだが9R前から急に混みだし、若いカップルなども意外に多かったのだが、レースが終わった直後に聞かれたのが「鳥肌が立った〜」という声。今ではすっかり感動を表す表現になってしまったが、本来は「身の毛がよだつ」ものに使うのが正しい。しかし言葉は生き物だから、意味が転化していくのは仕方ないだろう。
ただ、このところ一般の若い人からだけでなく、メディアからも安易に「鳥肌が立った」という表現を耳にするようになってきたことには、どうも違和感を覚える。使い方が違うから感じるのではなくて、自分の感じた思いを、その程度の紋切り言葉で、安易に表現して済ましていることへの違和である。他に言い方ないのかよ、と思うのだ。そんな安易に鳥肌立てるなよ、君は何にどう感動したのか、それを聞きたいのだよ。ま、本読まない人が圧倒的に多い世代だろうから、仕方ないのかもしれないが・・。

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