池袋駅から程近いのも当然で、ホテルMはJR東日本グループ傘下の企業であった。このたび名刺を貰って初めて知った。
にも拘わらず僕がメインラウンジだと信じていた駅側の喫茶室は、「裏手のレストラン」に過ぎないのだそうで、なんで駅側を正面にしないのだ。並びにある芸術劇場は駅側が正面である。東口に西武があって西口に東武があったり、駅の地下部がだだっ広いわりにサンシャインや東急ハンズとはリンクしていないので、地上の歩道に変な人混みが出来ていたり、池袋という駅や街が、通過し慣れない者から避けられがちなのは、多く、その独特な無神経構造に起因するかと思う。が、これは本題ではない。
「裏手のレストラン」は全面禁煙なので、僕のような喫煙者がその欲求にかられてしまったら、店員に声をかけて一旦店から出て、二重になった自動ドアを通じて屋外の喫煙所に行くほかない。なんとか図示してみる。
□ □
喫 □ 自
煙 □ 動
所 □ ← ド ← ← ←
□ ア
□ ↓ □
↑ □□□□自動ドア□□□□□□□□□□ ↑
← ← ■ ■ □
□ レストラン
屋 外 □
自分はメインラウンジにいると信じているので、相手が遅刻していると思う。喫煙所なら駅からやって来る人影がよく見えるから、一服しながら待とうと考える。戻る時、横書きになっている「自動ドア」に左の横っ面を殴られた。無茶はやっていない。ドアは開いていた。で、次の自動ドアに向かって斜めに入ろうとしたら、センサーが感知してくれなかった。
セル縁の眼鏡が割れてレンズが飛び出した程の衝撃を、ひとつ御想像ください。通りかかった方が即座に拾ってくださったのでレンズは助かったが、独りだったら自分で踏みつけていたかもしれない。ちなみに僕の裸眼視力は、自分の手相を観るのに掌が鼻にくっつく程である。先天性の弱視なので、小学生のとき初めて眼鏡を作ってもらうまで、明瞭な景色というものを見た経験がなかった。
レンズ一つの眼鏡をかけて周囲を見回したが、レストラン内からこちらを見ていた人はいない様子で、そのうえ驚いたことにこの一角には、ホテルマンが一人もいないのである。後で裏口だと教えられたが、最も人の出入りが多い入口に従業員が誰一人いないというのは、どう評したものか。
仕方なく廊下を通ってフロントまで行って、「いま自動ドアが勝手に閉まってきたんだけど」と告げる。近頃流行りの損害賠償請求常習者に扱われはしまいかという危惧は、このとき既にあった。しかし他に為す術がない。眼はろくに見えない、額や頬は熱をもって、触れると、出血こそしていないようだが明らかに腫れている。平衡感覚もなんだかおかしい。
案の定それから不条理な目に遭ったのだが、詳細は記さない。いつか作品に活かす。正しいラウンジの場所を聞き、セロハンテープで補修された眼鏡を掛けて向かったものの、フレームが傾いているので長くは掛けていられない。相手の顔すら見えない。頭痛がする。
ミーティング後、現場で重ねて状況を説明し、電車とタクシーを乗り継いで家まで帰った。
翌日、電話に起こされ、また同じ説明を繰り返させられた。報告書を書いているらしい。用事が済むとあっさり切られ、それきり続報がない。疑われているのかどうかも分からない。数時間待ったうえでこちらから電話したが、担当はもう帰ったと冷たい。誰か事情の分かる人をと食い下がったら、総支配人室に繋がった。また同じ説明を繰り返す。
「しかし自動ドアは正常だったと報告されています」
「それはあの、人を轢いておいて、自動車は正常ですってのと同じじゃないですか」
この論法は響いたようで、そういえば――と先方が語るには、ホテルMの同自動ドアは三年前まで回転ドアであり、某所の回転ドアが子供を殺してしまったことから行政の指導があり、大枚をかけて今の巨大な自動ドアに換えたのだという。行政のなんたる愚かしさ。くだんの不幸な事故は、センサー設定の不適切が原因だった。人災である。それを、ワンボックスは事故を起こすからセダンに換えよ、と命じてまわったようなもんだ。
だいいち自動ドアったって、スーパーマーケットのサイズではない。壁ごと動いているに等しい。眼鏡が一瞬にしてぶっ壊れ、顔が見る見る腫れ上がった程の破壞力である。幼児だったら下手をすれば死んでいるし、センサーが感知しない可能性は、まさに幼児にこそ高い。そしてセンサーの範囲や効きを設定するのは、ドア自身ではない。人だ。
数日して総支配人室から、複数にて説明にくるとの電話があった。ただ御説明としか云わない。また厭な目に遭いそうで気が重かったが、已むなく日時と場所を指定した。
出向いた。先方は慇懃である。資料を見せられて説明を受けた。設置位置の都合で監視カメラには映っていなかったものの(これはこれで問題だと思うが)、検証の結果、喫煙所から屋内に戻ろうとすれば、まさしく僕が体験した現象に見舞われる可能性がある、そう立証されたとの儀。図に予め■で示しておいた範囲が、センサーの検知から外れていたそうだ。即ち斜めに進行する人間は検知されず、しかし喫煙所から屋内に戻ろうとする者はまずもって斜行する。
ドア設置からこの三年間、事故はなかったと仰有るが、わざわざフロントまで行ったのが僕だけだったのではないのか。巨大なドアを押し出すため、モーターは初動時ほど勢いがあるんだそうで、この点も僕の体験と一致している。
ドアの動きを緩める、センサーの範囲を広げる、■の位置には鉢植えを置いて人の流れを操作する、といった改善策が既にとられているとのこと。お見舞と印刷された紙包みに入った一万円札と、土産物の焼き菓子を頂戴する。事務処理上の御署名を、と差し出された紙は示談書であった。ならば示談に来ると云ってほしかったが、そうやって不意を打たないと、法外な額を云いだす者がいるのだろう。
一万円で買い直せる眼鏡フレームではないものの、酒の匂いがする等と難癖をつけられた当初からすれば天地の差であるから、礼を述べて家に帰った。ちなみに酒の匂いを発していたのは事実である。だってホテルのレストランの、一杯千円以上もするビールを飲みながら人を待っていたんだから。
ドアが、そのサイズを顧みずスタンダードな速度に設定されていたのは、遅くすると冷暖房費が嵩むからだそうで、なんと云うか、昔バブル景気華やかりし頃、僕が東京という都市に強く感じていた、外見とは裏腹のみみっちさが見事に残存している。よく若い人に「貧乏は恥ずかしくないが、貧乏臭いのは恥ずかしいからやめなさい」と云うのだけれど、それはまさにこういう事なんである。ドアなんて手動でいいじゃないか。

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