昭和二年、尾崎翠は映画台本「琉璃玉の耳輪」を、阪東妻三郎プロダクションの公募に応じるために書いた。日米合弁による映画会社「阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画」の短い活動機関と重なっているので、ここでの制作を前提とした、現代劇の公募が大々的におこなわれたものと想像される(要確認)。そういった経緯から同作は、五味国枝(瑶子)、英百合(瑛子)、森敦子(シウ子)、泉春子(茘枝)、高島愛子(明子)という当代の人気女優たちを想定した、いわゆるアテ書きとなっている
仕上がった原稿は丘路子という筆名で応募され、高い評価を得たようだ。しかし間もなく合弁が解消されたこともあり、映画としての制作が決する日は訪れなかった。返却された原稿は、尾崎と同居していた日本女子大時代からの親友、松下文子によって保管され続けた。
これが遂に一般へと開帳されたのは、尾崎の病歿から二十七年を経て出版された『定本尾崎翠全集』(稲垣眞美編)においてである。執筆から早六十年もの年月が過ぎ去っていた。
映画界にとってはずぶの素人の筆による、必ずしも完成度が高いとはいえない同台本が、高評を得た要因の一つとして、狂言回しが女探偵という新奇な機軸があったろう。
江戸川乱歩「D坂の殺人」で明智小五郎が初登場したのは、大正十四年。「琉璃玉の耳輪」はそのわずか二年後の作だ。ちなみに日本初の探偵事務所、岩井三郎探偵事務所において現実の女探偵(天野光子)が誕生したのは、「琉璃玉」に遅れること三年、昭和五年のことである。尾崎翠という書き手がいかに時代に敏感で、ときには先行していたかが、ここに知れる。
女探偵のみならず、見世物一座出身の女掏摸、阿片窟の金髪売笑婦、男装を強いられた美少女、変態性慾の炭鉱主等々、眩いばかりに毒々しい人物が次から次へと登場する。ところが登場したあとはといえば、非生産的な寸劇が重なるばかりで、ダイナミックな流れは一向に生じない。
強烈な一例をあげてみよう。
人捜しを探偵に依頼した貴婦人、しかし偶然、探偵よりさきに目的の人物を見つけてしまう。探偵に手紙でそのむねを伝える。しかし探偵は、自力で解決したいからと、その人の居場所を知らせぬように頼むのだ。そして職務を果たすために、なんと依頼者の貴婦人を尾行する――。
人物の形骸化した行動だけが残存する、モンティ・パイソン裸足のナンセンスであり、物語としては完全に破綻している。尾崎自身もそれを自覚していると分かる文章が散見されるのだが、根本的な改稿は、なぜか試みられていない。応募の〆切が迫っていて投げ遣りになっていた、とも想像できる。「いかにも私らしい」とほくそ笑んで、あえて歪みを温存したようにも感じられる。
尾崎のこうしたスタティックな肩透かし癖が、やがて大傑作「第七官界彷徨」や「歩行」に於いて、無類飛切りの花を咲かせたのは事実ながら、「琉璃玉の耳輪」に初めて目を通したときの僕は、単純に「惜しい」と感じた。山海の素晴しい食材を取り揃えておきながら、奇天烈な調理法で、その旨さをまるごと覆い隠しているような気がしたのだ。
この所感が、かえって「琉璃玉の耳輪」という題名を、僕の胸に深く刻む結果となった。

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