二階堂奥歯という筆名で雑誌「幻想文学」にたびたび書評を寄せ、インターネットウェブにも『八本脚の蝶』という日記を綴って、おおいに人気を博していた若い女性がいる。僕はたまさか面識があり、彼女がある新聞社に就職して書籍編輯部員になられると、書き下ろし長篇を依頼された。
神経症に起因する遅筆から各社に不義理を重ねていた僕は、「五年は待ってほしい」と答えたのだが、「どうしたら早く書いてもらえますか」と食い下がられた。二十代とは思えぬ博覧強記の彼女に一泡吹かせ、ついでに依頼を諦めさせるべく、「尾崎翠の『琉璃玉の耳輪』を読んでいますか」と訊いた。彼女は尾崎翠を知っていたが、同作までは読んでいなかった。「あれを小説にする仕事くらいじゃないと、優先できないよ」と無理難題のつもりで云った。
ところが二階堂さんはさっそく精読、同作の秘めたる可能性を確信して、果敢にも尾崎の著作権継承者に、小説化の許諾を求めてしまったのである。しかもそれは快諾された。僕は逃げられなくなった。
小説版と云うべきか、より限定的に津原版と申すべきか、ともかく本作の根幹を成すに至ったアイデアを僕が思い付き、携帯電話で報告したときの、彼女の喜びようは忘れられない。僕は母の見舞の途上であった。「琉璃玉に隠されているのはね――」と、ほんの一言二言を述べただけで、彼女は一切を理解してくれた。彼女がいかに仔細に尾崎台本を読み込んでいたかを、僕は思い知った。
しかし二階堂さんが、僕の原稿を目にする日は訪れなかった。僕が尾崎の文章を咀嚼しきれず、冒頭、緑洋ホテルのくだりで難儀していた段で、彼女の訃報が届いた。
このままお蔵入りかと思われた小説『琉璃玉の耳輪』が不意に息を吹き返したのは、バジリコという零細出版社から出した『ブラバン』という小説が、思いがけず売上げを伸ばしたことに端を発する。
余談ながら僕が『ブラバン』を書いたのは、『少年トレチア』という作品に惚れ込んでみずから執筆依頼に訪れたバジリコの社長が、なんと偶然にも同じ高校、同じ吹奏楽部の大先輩だったからだ。本来の依頼のほかに、「その前哨戰として吹奏楽の話も」とごり押しされたものが、結果として売れた。まさか評判を得て大手の文庫にまで入るとは、誰も夢にも思っていなかった。
売上げに勢いづいたバジリコは、新たに自社サイトでの連載を依頼してきた。このとき僕の胸中を去来したのが、忘れようにも忘れられない、尾崎と二階堂さん、双方の御遺族への不義理である。担当の安藤さんに相談してみると、これまたおおいに面白がられ、あらためて各所からの許諾を取り付けてくださった。
本書『琉璃玉の耳輪』は、そのようにして連載開始と相成ったバジリコのウェブサイト版を底本としている。二階堂さんの死から数えても、足掛け五年が既に経過していた。
連載は二年近くに及んだ。最終二章「冬」「エピログ」を残したところで、今度は僕の母が死の床についてしまい、あとは、色々と落ち着いたあとに書き下ろそうという話となった。
ところがこのあいだにバジリコが、一時的に経営縮小せざるを得なくなった。僕はフリーランスとなった安藤さんと共に、原稿の引受け先を探した。結果として河出書房新社が名乗りをあげてくださり、「冬」の後半と「エピログ」の執筆、および完成像が見えてきたところでの既存部分の改稿は、雑誌「文藝」の尾形さんの許でおこなった。
私事をつらねてしまい、尾崎翠にしか興味をお持ちではない読者には恐縮ながら、以上の経緯を省いては、本書の成立ちはどうにも説明しがたい。どうか御海容いただきたい。

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