本書はいちおう尾崎翠の映画台本に準拠しているが、二十一世紀の娯楽小説として現代の市場に流通させるべく、各所に大胆な改変を加えてある。特に「秋」以降に於いては、僕の小説にときどき尾崎の文脈が紛れ込む、というくらいに大きく逸脱してる。
これを古典への冒涜とお感じの読者もおられよう。最善の策ではなかったかもしれない。しかしかの時代の、かの作家の息吹を、なんとかして今の世に伝えんとする、編輯者たちと一作家の真摯な思いの結実であること、御理解いただけたならば幸甚だ。
登場人物表にあるうち、必要上、僕が創出した人物は、東京探偵社の守衛「萬」、山崎の下女「寅」、好奇座の座長「金丸砂夫」、芸人の「木助」、新橋の医師「有馬」、物理学者「アルフレッド・エプスタイン」、そして東京探偵社の代表「唐草七郎」である。
尾崎台本に登場はするが名前がなく、僕が名付けた人物に、掏摸の「北前龍子」と「若い三人の紳士(甲賀、乙津、丙部)」がいる。
芸人「八重子」と刑事「田邊」も、名前が出てくるだけ、といった感じの人物だが、綿密な肉付けをほどこしたうえで、陰の主人公と云えるくらいにまで活躍してもらった。
「櫻小路伯爵」と「黄陳重」は、尾崎台本にもそれなりに重要な役どころで登場する。しかし本書において、その位置付けはまったく違っている。
時代背景は、あえて台本執筆の翌年、昭和三年からその翌年とした。かりに万事順調に映画化されていたなら、三年の公開になったろうとの想像からだ。
作中に登場する様々な疑似科学はその一切、尾崎の着想を現代に通用しやすくするため、僕がでっち上げたものとお考えいただいて差し支えない。たとえば現代の読者の前で、単純な男装女装で性別を騙れるとするのは勿論のこと、それを物語の重要な仕掛として機能させるのは、大変に難しい。工夫が必要だった。
他方、旧き佳き時代ならではの教養を偲ばせる、季節の美しい描写などは、尾崎の文章をそのまま写さざるを得なかった。僕にはとても書けなかい。同様の理由で、誤植とも判断されかねない当時独特の表現や、尾崎特有の漢字選びも可能なかぎり残した。また「今日の人権意識に照らして不当、不適切と思われる」表現の可否は、尾崎がどういった意図で使用しているかを汲み、判断した。

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