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2006/1/22

東アジアとヨーロッパ-9  国際政治・金融・企業

徳川家康が関が原の戦いを制し、1603年から江戸幕府が始まりますが、この頃ヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントの争いが激化した時代でありました。

1608年にプロテスタント諸侯が「ウニオン」(連合)を、1609年にはカトリック諸侯が「リーガ」(連盟)を結成し、一触即発の時期にありましたが、1615年にボヘミアの首都プラハで、とんでもない事件が起こり、「30年戦争」が勃発してしまいました。 

その事件とは、フェルディナントが新しいボヘミア王位継承者に選ばれるや、プロテスタントを弾圧し、それに対しプロテスタントの代表が、プラハの宮殿の一室で、皇帝顧問官にその弾圧政策を抗議していた際、興奮しすぎて、顧問官を窓から放り出してしまったのです。


一般に、「30年戦争」(1618−1648年)は、カトリック対プロテスタントの争いと見られがちですが、この宗教戦争を利用して、ハプスブルグ帝国が全ヨーロッパでの覇権を確立しようとするのに対し、他のヨーロッパ諸国が、それを阻止するとともに、ヨーロッパでの政治の主導権を奪おうとしたものです。


この戦争では、ボヘミアのプロテスタントが勇敢に戦い、皇帝軍を打ち破りウイーンに迫り、ドイツ全土にも拡がり、さらには全ヨーロッパを戦乱に巻き込みました。

ハプスブルグ帝国に対し、以前から敵意をむき出しにしていたフランスですが、1525年にミラノ南方のパヴィアで激突した時には、フランスのフランソア1世は、不覚にも捕虜になってしまいました。  彼は侵略地からの撤退とハプスブルグのエレオレーノを妃に迎える約束で解放されましたが、フランスに帰った後、約束を反故にします。

あろうことか、フランスは異教徒のオスマントルコと同盟を結び、オスマントルコはハンガリーに侵攻し、1526年ハンガリー王ラヨシュ2世はモハーチにおけるトルコとの戦いで陣没、1529年にはウイーンがトルコ軍に包囲されるという事態まで起こりました。 結果はオーストリア軍が踏ん張り、トルコ軍を撃退しますが、ハプスブルグ家とブフランスの仲は決定的に悪いものとなりました。

30年戦争でも、あろうことかカトリックであるはずのフランスは、プロテスタントのスウエーデンと同盟を結び、神聖ローマ帝国のハプスブルグ家と泥沼の戦いを演じました。

フランスのブルボン家が、何故にここまでしてハプスブルグ家に敵意をむき出しにする理由は、地政学的な問題であります。 当時スペインを支配していたハプスブルグ家が、ドイツまで支配を確立してしまうと、フランスは挟みうちにあってしまい、次のステップでは滅亡に追いやられてしまう可能性があったからです。

30年戦争の幕引きは、ヨーロッパ史上初めての国際会議、「ウエストファリア条約」で、神聖ローマ帝国(ドイツ連邦66ケ国)、フランス、スペイン、スウエーデン、オランダなどの代表が出席しました。

この条約で、プロテスタントは信仰の自由を認められ、神聖ローマ帝国内の領邦君主は外交を含む独立主権が保証された為、神聖ローマ帝国は名前は残る物の、実態は約300の連邦に分裂・解体されました。  

また、この戦いでドイツとボヘミアが主戦場となり、国土は荒廃し、ドイツの人口は1800万人から700万人に激減し、近代国家への成立が200年遅れたと言われています。 ヨーロッパの中で、ドイツが遅れたのは、この戦争の影響が大きかったと言えます。

これを期に、フランスのブルボン家がヨーロッパで大きな力を持つようになりました。


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