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2006/1/25

東アジアとヨーロッパ-11  国際政治・金融・企業

今までは、東南アジアで勢力を持っていたのは、ポルトガルやスペインですが、徳川時代になり、オランダが勢力を伸ばし、他のヨーロッパ諸国を押しのけて、日本との貿易を勝ち取りました。  

この成功の影には、1602年に設立されたオランダ東インド会社の存在があります。
正式名は、連合東インド会社(Vereenighde OostIndische Compagnie)で、 「VOC」はその略称です。

オランダ東インド会社より2年前に、イギリスもイギリス東インド会社を設立していたのですが、当座会社だった為、オランダ東インド会社に比べれば資金力も組織力も弱く、 平戸にイギリス商館を設けるもわずか3年で閉鎖。 対日貿易競争でオランダに敗退しています。

当時、航海をする際は「当座会社」といって、その都度「座」を開き、出資金を集め、船を準備していました。

そして航海をして買い付けを行い、出資者に利益を分配していたのですが、 ひとつの航海ごとに行われていたこの方法では、もし船が沈んだりしたら全てを失う事になり、リスクの高いものでした。 そこで考えられたのが、「株式会社」です。

オランダは当座会社だった14の貿易会社を統合。 国王を総裁にして、軍事・外交・行政の特権を持たせて、 世界初の株式会社「オランダ東インド会社」を設立しました。

当時は、各国が東インド会社の設立を行っており、イギリス、オランダ、フランス、ポルトガル、ベルギー、他あり、東インド会社といっても、多くありました。

東南アジアに於いては、イギリス東インド会社はオランダ東インド会社と激しい対立抗争に敗れ、インドにその活動の中心をおくようになりました。

またこの時期、スペイン王カルロス2世は、生まれたときから病弱で、世継ぎに恵まれなかったスペインハプスブルグ家の断絶は確実なものとなっていました。 そこで起こったのが、スペインの王位継承問題です。  

ブルボン家のルイ14世は、カルロスの姉を、ハプスブルグ家のレオポルト皇帝は、妹をそれぞれ妃に迎えており、両者は互いにスペイン王位継承を主張しました。  

結局は、ブルボン家がカルロス2世の「スペインはフランス・ブルボン家に譲る」という遺言を勝ち取ったのですが、フランスとスペインが合体すると、巨大な国家ができあがってしまうので、これに反対するイギリス、オランダがハプスブルグ側につき、対フランス同盟(ハーグ同盟)を結成し、フランスに戦線布告しました。 これが、スペイン継承戦争(1701−1714年)と呼ばれるものです。

ここで活躍したのが、ハプスブルグ家のカールで、フランス軍をイベリヤ半島から追い払い、勝利をわが手にしますが、ヨーゼフ1世が亡くなり、カールが神聖ローマ帝国皇帝に即位したのを見て、スペイン王を兼ねられると、カール5世の帝国再来となり、ハプスブルグ家が再度力をもってくる事を恐れたイギリス・オランダはこれまた反対し、スペイン継承戦争の結末は、スペイン王位はフランス・ブルボン家に譲るが、スペイン・フランス両国の統合は許されないという形で決着がつきました。

カール6世は、数年間スペインで暮らし、スペイン王になる事を夢見ていたのですが、ウイーンに戻らざるを得なくなりました。 しかしながら、スペインへの思いは募るばかりで、スペイン乗馬学校やバロック様式の教会もつくりました。

バロック美術
http://www.salvastyle.com/collect/00_baroque.html

彼は、スペイン暮らしが長かったので、海外貿易の重要性を、これまでのどの皇帝よりも認識しており、ネーデルランドに東インド会社を創立しました。 そして、アドリア海の港湾都市トリエステの振興に勤めます。

このカール6世には王子がおらず、ハプスブルグ家の慣習を破り、長子相続の法律を定めたので、長女のマリア・テレジアが23歳にして、ハプスブルグ帝国を相続する事ができました。 

また、彼女は、日本ファンで、日本製の漆や陶器をコレクションしており、自分の命の次に大事な物は、コレクションした日本の漆製品だと言っていたそうです。 今も、そのコレクションはウイーンの王宮博物館で見ることが出来ます。

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