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2009/12/15

マキアヴェリ  -35  国家編-2  マキアヴェリ 

民衆ほど軽薄で首尾一貫とはほど遠いものはないとは、ティトゥス・リヴィウスの評価であるが、他の多くの歴史家も、これと同じ事を書いている。  まったく、歴史上の彼らの行動を見れば、民衆が誰かを死刑にしたのに、同じ民衆がその直後に後悔して涙を流す、という場面に始終出会う。


これについて、リヴィウスは次のように言っている。  「彼が死に、彼によってもたらされていた脅威が消えるや否や、民衆は後悔の念にかられ、涙を流して彼を楽しんだ」

また、ヒエロンの甥のヒエロニムスの死後に、シラクサで起こった出来事に触れながら、次のようにも書いた。  「卑屈な奴隷か、さもなければ傲慢な主人か、これが民衆の本質である」


こうまで言われると、私としても民衆を弁護するなどという大変な仕事を、受け持ってよいものかどうか迷ってしまう。  これほどに厳しく批判されている人々の弁護役など、不利も明らかで、はじめたとしても結局赤恥をかいて逃げ出すしかないのでは、とまで思ってしまう。

しかし、きちんとした反論はしておいたほうが良いと思うので、あえて弁護するが、歴史家たちが民衆の欠点として糾弾するこの性格は、実は人間全体、その中でもとくに指導者たちにこそ、向けられるものだと言いたい。

何故なら、法に反する行為をするものは誰であれ、秩序なき民衆と同じ誤りを犯すものであるからである。  後先のことも考えないで暴走するという民衆の性格は、指導者のそれよりも罪が深いわけではない。  両者いずれとも、思慮に欠ける人ならば誰でも、この誤りは同じように犯しているのだ。

それ故に、この場合での理にかなった議論としては、階級で分けずに、人間全体に共通する欠点への糾弾と言う形でなされるべきだと思う。


民の声は神の声、と言われるのも、まんざら理由の無い事ではないのだ。  なにしろ世間というものは、不思議なる力を発揮して、本来の予測までしてしまう事がある。

また、判断力と言うことでも、民衆のそれは、意外と正確だ。  二つの対立する意見を並べて提供してやりさえすれば、世間はほとんどの場合、正しい方に味方する。  もちろん、世間にも欠点はある。  真に有益な事よりも、見栄えの良いものの方に眼を奪われる場合が多いからである。  

しかし、指導者たちといえども、自分たちの欲望に駆られて、同じ欠陥に陥ることが多いではないか。  しかも、指導者たちの欲望ときたら、民衆のそれよりずっと大きいときている。

ゆえに、民衆とか指導者たちとかの区別をつけずに、両者に共通する欠陥として論ずるのが、理にかなったやり方だと信ずる。

                                                   −政略論−







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