renaissancejapn@aol.com

2010/9/19

Rothschild-100  日本の原爆開発  ロスチャイルド
クリックすると元のサイズで表示します
大正期の理化学研究所


1942年6月、フリーメーソンのフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、国家プロジェクトとして、原子爆弾の研究開発着手を決意し、1942年9月にレズリー・リチャード・グローヴス准将が責任者として着任し、マンハッタン計画はスタートしましたが、

日本では1941年(昭和16年)に、陸軍が理化学研究所に原子爆弾開発を委託し、1943年1月に同研究所の仁科博士を中心に開始されました。    もう一方で、日本海軍も1941年5月に京都帝国大学理学部教授の荒勝文策に、原子核反応による爆弾の開発を依頼し、1942年には核物理応用研究委員会を設けて、京都帝国大学と共同で原子爆弾の可能性の検討に入りました。

すなわち、日米共に、ほぼ同時期に原子爆弾の開発プロジェクトをスタートさせた事になります。



フランクリン・D・ルーズベルト  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/697.html
ハリー・S・トルーマン  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/699.html
オレンジ計画
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/700.html
ジョン・ホプキンス大学
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/701.html



日本帝国陸軍と日本帝国海軍の原子爆弾研究のプロジェクトコード名は、
「 二号研究 」 と 「 F研究 」 で、これは仁科博士の頭文字 「ニ」 と 核分裂( Nuclear Fission )の 「F」 をとったものです。


原子物理学に関しては、江戸時代生まれの長岡半太郎が、世界で最初に今日の原子構造を提唱し(ボーアは9年後に長岡の原子構造が正しかった事を証明)、以降 彦根忠義、仁科芳雄、荒勝文策、湯川秀樹、朝永振一郎、江崎玲於奈、西澤潤一 など、世界をリードしてきました。 


原子物理学 Atom Physics  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/130.html


何故か日本人で知る人は少ないのですが、世界最初にCPU ( メモリー機能を持ち、ソフトウェアによって動くIC )の概念を考え出し、Intel社に技術ライセンスしたのも、ビジコン社の嶋正利です。  その契約書まで、今日ではWebでも紹介され、1998年米国の半導体生誕50周年記念大会で、  "Inventor of MPU (Micro-Processor Unit)"
(マイクロプロセッサーの発明者) として表彰も受けております。



インテル CPU  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/132.html



話を、原子爆弾開発に戻しますが、日本では1934年に東北大学の彦坂忠義が、アインシュタイン、オッペンハイマー、ボーアなど欧米の超一流の科学者がまだ予期していなかった原子物理学理論を打ちたて、いずれそこから引き出されるだろう、巨大な破壊エネルギー、核兵器が誕生する事も予測していました。



しかしながら、彦根の論文は、欧米の学会、またボーアからも無視され、彼らは彦根(日本人)を嘲笑しながら、実はその先端理論を盗んでいたのです。

彦根は、 「 陽子と中性子が原子核内ではっきり分かれ、しかもその間に、宇宙最大のエネルギーが潜んでいる。 だから人類は、それを悪用せずに制御しなければならない 」 と説いたものの、日本の学界では、彼の考えを理解できず、彼の理論を認めようとしませんでした。 


自分に自信が無いから、欧米の一流の学者が認めたら、日本の学界も認めるという体質は悲しいかな現実であります。 


日本の物理学界に失望した彦根は、同じ東北大学の研究者の勧めで、米国の物理学会専門誌 「フィジカル・レビュー」 に、 「原子核エネルギー(利用)新法に就いて」 という論文まで送っています。

しかしながら、欧米の学会は彼の功績を認めようとせず、むしろ嘲笑し、ボーア博士に直接会って説明しても、認められることはありませんでした。


当時、ボーアの理論では、 「 陽子と中性子は分かれずに一体になって、ごく小さな液滴の形に似た原子核を作っている 」 としていたので、これでは核爆発など起こるわけがなかったから、彦根の論文を認めたくなかったのであります。


しかしながら、彼らの行った事は、彦根を嘲笑しておきながら、彦根の功績を盗用し、容陽子と中性子は別れているとし、原子爆弾の開発競争に入ったのです。



その情報をキャッチした、日本政府も、本格的に原子爆弾の開発を着手するようになったわけです。



日本の原子爆弾開発で最も大きな問題は、原料のウランを入手する事が困難であった事で、当時は人形峠のウラン鉱脈も知られておらず、福島県石川町などでは閃ウラン鉱、燐灰ウラン石、サマルスキー石などが採掘されましたが、含有量の少ない物がごく少量採掘されるだけであったのです。


すなわち、原子爆弾1個に必要な臨界量以上のウラン235の確保は絶望的な状況であったわけです。 


そのため、日本海軍は上海の闇市場で酸化ウランを購入したり、ナチスドイツから二酸化ウラン(U235)入手を試み、日本海軍庄司元三技術中佐と友永英夫技術中佐、ドイツ空軍ウーリッヒ・ケスラー大将、海軍士官4名、ドイツ人技術者2人などを日本に送り届ける任務をうけて、潜水艦U-234に酸化ウラン(U235)560kgを積み、キール軍港を出港しました。


しかしながら、1945年5月8日、日本に向かうU-234は、大西洋上でドイツ無条件降伏の打電を受けました。 Uボート乗員たちは討議の末、日本人士官二人を監禁し、洋上で米軍の米護衛駆逐艦「サットン」SUTTON (DE 771)に降伏しました。


560Kgの酸化ウランは大きな量に思われるかも知れませんが、濃縮ウラン3.5kg相当に過ぎず、原爆に必要な50kgには到底及ばない量であります。


ともかく、原爆1個すらに必要なウランを入手できない日本において、原子爆弾の開発は現実無理であり、


昭和20年(1945年)5月15日のアメリカ軍による空襲で理化学研究所の熱拡散塔が焼失したため、研究は実質的に続行不可能となり、同6月に陸軍が研究を打ち切り、7月には海軍も研究を打ち切り、ここに日本の原子爆弾開発プロジェクトはなくなりました。


コンゴウラン
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/703.html


そして日本は、アメリカによる1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下、8月9日の長崎市への原子爆弾投下で勝負はつき、9月2日にポツダム宣言受諾の降伏文書に調印。


マンハッタン計画
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1197.html


日本の科学技術力に脅威を感じていたアメリカは、自分たちが原爆でやられる前に、早く決着をつけるために、日本に原爆を落としたという事も考えれるのではないかと、私は思うのであります。



またウラン原料について言えば、コンゴは、ウラン最大手の生産国で、ロスチャイルドの核兵器原料企業ソルベイ社が、コンゴでのウラン採掘と世界への販売を担当しており、

このソルベイ社とベルギー国王が、ブリュッセルで3年に1度開催する 「 ソルベイ会議 」は、世界中の核兵器メーカーと核物理学者が集まり、今後の核兵器販売計画を密談していますが、これはソルベイ社から招待された人しか参加することはできません。

アメリカのマンハッタン計画のきっかけとなったのは、アインシュタイン博士がルーズベルト大統領に書簡を送り、原爆開発の推進を提言した事にありますが、これはソルベイ社が、アインシュタイン博士を、第5回ソルベイ会議に招待し、核兵器開発を説得・誘導したからであります。


マンハッタン計画は、核物理学や資源確保という面で国際的な作戦計画であり、そのリーダーは、のちに国際原子力機関(IAEA)を創設する、ベルトラン・ゴールドシュミットですが、彼の妻は、ロスチャイルド一族のナオミ・ロスチャイルド。


我々日本人は、世界のウラン原料、核兵器、核による国際社会秩序は、ロスチャイルド一族に支配されていることを知っておく必要があるでしょう。






------------------------------------------------------------------------













6


※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ