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2010/11/20

稲作伝来  食料問題

「邪馬台国と卑弥呼」というシリーズを書いてゆきたいと考えていますが、古代日本を考えるに当たって、基礎知識として、稲作伝来について正しい認識を持っておく必要があります。  何故なら、古代社会の成立は稲作という共同作業でリーダーが生まれ、そして富(米)の蓄積の差により階層が生まれてゆくからです。  

特に天皇という存在は、民を植飢えさせないために、天文学に通じ、稲作を正しく教え、五穀豊穣を祈る祭祀王で、暦をつくるのは天皇家にしか許されていなかった仕事です。  



陰陽師(おんみょうじ)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1048.html



稲作は、朝鮮半島から伝わり、日本は弥生時代をむかえたとする人がいますが、大きな間違いです。


朝鮮半島で確認された炭化米が紀元前2000年が最古であるのに対し、一方日本では岡山県の朝寝鼻貝塚の6000年前の地層からイネのプラント・オパールが発見されており、同じく岡山県南溝手遺跡や同県津島岡大遺跡の土器胎土内からも発見されたことにより、紀元前約3500〜4000年から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていた事がわかっています。

日本最古の水田址遺跡は、炭素14年代測定法によれば、佐賀県唐津市にある菜畑遺跡で約2600年前、福岡平野の板付遺跡や野多目遺跡、早良平野の橋本一丁田遺跡等で発見されたのが、約2500年前であります。

中国では、江西省や湖南省で1万年以上前に遡る稲籾が続々と発見されており、これらは焼畑による陸稲栽培ですが、雲南省の稲作遺跡は4400年前に遡れます。

水稲に関しては、揚子江下流の浙江省寧波の河姆渡(かぼと)村で、炭素14年代測定法で約7000〜6500年前の水田耕作遺物、そして最古の水田遺構は、馬家浜文化中期にあたる約6000年前の揚子江下流江蘇省呉県の草鞋山遺跡で見つかっており、


さらに、朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない点、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明。  中国政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ています。 

水稲栽培の時期を考えると、日本から朝鮮半島への稲作伝播の時期と、古代日本が朝鮮半島を属国支配していた時期が合う事も興味深いところです。



これらの事実から、水稲の水田耕作は揚子江中・下流域に起源し、日本へもこの地方から伝播した事は間違いありません。



気象学的には、紀元前2000年頃、すなわち今から約4000年ほど前に大きな寒冷期を迎え、北方の民族が南下し、温和な南の文明を征服しますが、インダスはアーリア人の進入を受け、中国では長江文明は北方の黄河文明を築いた漢民族に破壊されます。


紀元前2000年の民族大移動の後に起こるのが、紀元前1200年から紀元前800年の民族大移動で、インド・ヨーロッパ語族のドーリア人が古ヨーロッパ文明につながる、ミケーネ・ミノア文明を蹂躙・破壊、東では遊牧民のスキタイの大移動があり、さらに漢民族が東南アジアからポリネシアに進出しています。



春秋戦国時代の頃、大陸から稲作技術をもった人々がボートピープルになって、日本列島に渡ってきますが、これは気候の寒冷化(=食料不足)により、漢民族が北方から怒涛の如く南下し、長江流域にいた人が、雲南省と日本列島に逃げてきたのです。

ここで、日本に稲作がもたらされたのであって、時期も完全に一致しているのです。




すなわち、天皇にまつわる天孫降臨の話として、中国南部から沖縄・鹿児島・宮崎に渡ってきた人たちが天津神系の人々と考えると、日向の天孫降臨伝説は無理なく説明できます。



雲南省の少数民族の文化と日本の文化が似ているのは、もともとは長江流域で稲作をし、タンパク源を魚に求めていた人だからなのであります。



鳥居は、雲南省の少数民族にも多くみられますが、弥生時代の集落にも鳥形の木製品が立ててあり、大阪の池上遺跡にも見る事が出来ます。  

長江文明は、太陽信仰(これは世界各地、日本の縄文にもあった)と鳥信仰であり、日本の弥生文化は長江文明のものと共通しており、天照大御神の太陽信仰、また神武東征のときに八咫烏が活躍、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の白鳥伝説、また長江・雲南省にもある鵜飼文化もあることからも分かります。



八咫烏 神武天皇とアレキサンダー大王
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1046.html



海洋民族に鳥信仰が多いのは、当時コンパスもない時代ですから、鳥を放ち、陸が近いのかどうか、また陸地の方角を鳥を使って調べていたからです。



また、朝鮮半島からも3〜5世紀に、新羅系の人々が秦氏はじめ大挙してやってきますが、これは広開土王碑(こうかいどおうひ)に、 



「 もともとは、新羅と百済は高句麗の属民で朝貢していたが、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民としてしまった。 」


日本の属国であった新羅と百済
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1044.html



とあるように、倭(日本)が新羅と百済を征服した時に、先進文化を持った新羅の人々を多くつれて帰ったと考えられ、百済人に関しては、663年の白村江の戦いで、日本-百済連合軍が敗戦し、百済が滅亡したときに、多くの百済人が日本に亡命した事が伝えられています。


そして、新羅からやってきた、秦氏はもともとは中央アジアの弓月国にいたネトリウス派のキリスト教徒で、古代イスラエルの文明・文化を多く日本に伝えてくれたのだと考えられます。


聖徳太子に仕えた秦河勝ですが、聖徳太子(厩戸王子)が馬小屋で産まれたとする伝説など、キリスト教の影響を強く受けていると思います。



秦氏は応神天皇の時代に大挙して日本に来て、全国の八幡神社の総本宮である宇佐八幡宮をつくっておりますが、その宇佐八幡宮の祭神が、神功皇后とその息子の応神天皇であります。   


宇佐八幡宮
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1038.html


新羅を征服したのが応神天皇を身篭った神功皇后ですから、秦氏-神功皇后-応神天皇の関係は、この宇佐八幡宮をみても深いことが分かり、神功皇后が秦氏を日本に招いたのではないでしょうか。



秦氏・日本とユダヤ文化
http://wave.ap.teacup.com/applet/renaissancejapan/msgcate45/archive




最後に、古代日本は朝鮮の支配を受けて国家が成立したと、お馬鹿なことを言う人もいますが、これも大きな間違いです。



「宋書倭国伝」には倭王を新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸を軍事的に支配する「安東大将軍」に任じたと記述してあり、

「三国史記」には、「397年に百済は倭国に太子を質に出した、402年に新羅は倭国に王子を質に出した」と記述があり、

「広開土王碑」には、「もともとは、新羅と百済は高句麗の属民で朝貢していたが、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民としてしまった。」と公開した碑に刻まれていますし、

「日本書紀」にも日本が新羅・百済を支配していた記述があり、


全く違った系統の歴史書で話が一致しており、中国・韓国・日本のどの文献にも、日本が朝鮮に支配された記述はなく、日本側が支配していた事は疑いようがありません。


また、何より朝鮮半島の任那府の存在が、日本側が朝鮮南部を完全支配していた証拠であり、我々は朝鮮語を話していません。 まさか、勝った側(朝鮮)が、王様含め敗者側(日本)の言葉を学び、(日本語を)母国語として採用し、騎馬民族が馬を捨て、肉を食うのをやめ、稲作と漁労をなりわいとするようになったとでも言うのでしょうか?  お馬鹿なことをいうのも、ほどほどにしておいてもらわないと困ります。




邪馬台国と卑弥呼-194  白村江の戦い
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1576.html
日本文明
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1082.html






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タグ: 稲作 長江 天皇


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