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2006/2/25

オスマン帝国の破産  国際政治・金融・企業

イスラム教国家のオスマン帝国は、武力に秀でていたものの、経済音痴であり、国を強くする為の「富国強兵」のうち「富国」が抜けていた事が、日本の明治維新との大きな違いであると既に説明しました。

明治維新とセリムの改革-1
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/121.html
日本とオスマン帝国-1
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/122.html
日本とオスマン帝国-2 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/123.html


オスマン帝国は、1875年に破産してしまいますが、何が起こっていたのでしょうか?

1789年のフランス革命と同じ年に即位したセリム3世が、遅れたオスマン帝国をヨーロッパに学び、近代化を試みました。 最初は、フランスから学ぼうとしましたが、このフランスとの関係は、フランスが宿敵ハプスブルグ家を陥れるために、異教徒でもあるにも関わらず、このオスマン帝国を利用していた歴史があり、比較的仲が良かった事があります。

富国を忘れ、強兵のみにとらわれたオスマン帝国は、ヨーロッパ諸国から高価な武器を購入しますが、安易な外債に頼り、借金体質となってしまいました。 また、ヨーロッパと関係が深まり、科学技術のないオスマン帝国は、農作物や原材料などの輸出に特化せざるを得ず、ヨーロッパの半植民地化していってしまいました。

1854年に、第1回の国債が発行されて以来、武器購入、戦争、改革の為の費用として、その後も発行され続けました。 そうして、1881年には、総額1億9000万
ポンド(英)に達しました。 この年に、債権者のヨーロッパ諸国と、オスマン帝国の間で、外債返還についての協定が結ばれ、「オスマン帝国債務管理委員会」が設置される事になり、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、オランダの6ケ国からなる委員会が設置され、オスマン帝国の税収の多くが、この管理下におかれました。

そうして、外債返済のために緊縮財政を余儀なくされ、改革どころでなくなり、実質ヨーロッパ諸国の植民地となってしまいました。 ユダヤの教えで、お金を借りる側にまわると、支配される側にまわってしまうので、倹約が大事であるという、経済の基本が分かっていなかったのです。 これは、今日の我々も同じで、家計にしても会社運営にしても、おなじことであります。

この頃は、ドイツの台頭がすさまじく、フランスとの戦争に連戦連勝していた為、オスマン帝国はドイツから学ぶようになりました。  1871年に、ドイツがフランスに勝利した賠償金がベルリンからウイーンに流れ込み、人々は一攫千金を夢見て株式投機に走りました。 そうして、ウイーンの株式市場は連日株の価を上げてゆきました。

折りしも、1873年5月1日に、ウイーンのプラ−ター公園で、ウイーン万国博覧会が開催されましたが、その1週間後の5月8日から9日にかけて、株価は大暴落し、バブルは崩壊し、多くの銀行は潰れ、投資家たちの自殺者は続出しました。

株の暴落で損害を蒙った人々は、この突然のバブル崩壊をユダヤ資本のせいであるとし、反ユダヤ主義が急速にひろまっていきました。 このユダヤ資本とは、1800年代に台頭してきたロスチャイルド一族の事です。

この反ユダヤの先鋒に立ったのが、ウイーン市長のカール・ルエーガーと、過激なドイツ民族主義を唱えたゲオルク・フォン・シュネーラーで、彼らの思想は、後のヒトラーに強い影響を与えました。

確かに、好景気のなかで、ウイーン万博がはじまり、株価上昇へ期待が持たれる最中の暴落ですから、何がしか人為的なものを感じるのも事実です。

とにかく、こうした突然襲ってきたヨーロッパの金融恐慌と農作物の不作の影響をもろに受けたオスマン帝国は、1875年に破産してしまいました。

 
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