renaissancejapn@aol.com

2010/11/27

邪馬台国と卑弥呼-8  神功皇后と台与  邪馬台国と卑弥呼

魏志倭人伝には、3世紀半ばに、卑弥呼が没した後、いったん男王が立てられるも国中服さず、台与が擁立されたとありますが、台与の時代はちょうど桜井に纒向遺跡がつくられた時代で、日本書紀の神功皇后摂政紀に魏志倭人伝の記事を挿入し、卑弥呼と神功皇后が同一人物と匂わせながらも、卑弥呼が亡くなったのは247年であるにも関わらず、台与の時代も神功皇后(170-269)の時代としており、やはり神話の中での神功皇后は古代の天皇家における女帝として扱っていると考えられます。

すなわち、神功皇后=(卑弥呼+台与)という事です。



神功皇后の妹がトヨヒメであったことが、宗像大社の伝承「宗像大菩薩御縁起」の中に記されているので、紹介します。


神功皇后の三韓征伐に際し、皇后は大きな鈴を榊の枝にくくりつけ、天神地祇や海神・水神に祈念したところ、竜宮城から妹の豊姫が現れ、途中対馬にさしかかったところで、神功皇后は豊姫を竜宮城に遣わし、次のように述べさせました。

「昔、竜宮城の竜神と私(神功皇后)は親子の契りで結ばれていました。 そのよしみで、乾珠(しおひのたま)・満珠(しおみちのたま)をお貸しいただき、力を合わせたく存じます。」


こうして、乾珠・満珠を得た神功皇后は、女人大将軍となり新羅を難なく屈服させました。


そして岩清水八幡宮の伝承「八幡愚童訓」には、三韓征伐の凱旋後、トヨヒメが乾珠・満珠を筑後川流域(肥前河上宮)に祀ったとあり、そこからこの地域で、トヨが神功皇后の妹であるという言い伝えが残されています。



ちなみに、神功皇后は、神功皇后摂政3年春正月には、誉田別皇子(ほむたわけのみこ:応神天皇)を皇太子にし、磐余に都をつくり、その後長く摂政の地位にあり、神功皇后摂政69年に稚桜宮(桜井市池ノ内、磐余池の付近)で亡くなっていますが、



纏向遺跡(まきむくいせき)が奈良県桜井市にあり、その一角に、倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)が箸墓古墳に葬られている事からも、邪馬台国は纏向にあり、卑弥呼の墓が箸墓古墳であることが間違いないと思います。




邪馬台国と卑弥呼-1 邪馬台国の場所・卑弥呼の墓はどこか  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1248.html



8


※投稿されたコメントは管理人の承認後反映されます。

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ