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2010/11/28

邪馬台国と卑弥呼-11  二人の卑弥呼  邪馬台国と卑弥呼

邪馬台国と卑弥呼の謎解きも、終盤を迎えてきましたが、二人の卑弥呼といっても卑弥呼と台与の事ではありません。  

また、邪馬台国には北九州説と畿内説があり、それぞれ卑弥呼がいたとして主張していますが、私はどちらも正しいという考えを持っています。  何のコッチャと言われるかも知れませんので、結論を先に言ってしまえば、



邪馬台国には女帝卑弥呼(=神功皇后)がヤマトに立っていて、九州勢力と激しい権力争いをしていた。  形勢はあきらかにヤマト側が有利であり、瀕死の九州勢力は、北九州の山門(やまと)の女首長である田油津媛を女帝卑弥呼と偽り、魏に朝貢を行い味方につけ、起死回生の逆転を狙った。  

これに怒り、事態を重く見た神功皇后は、田油津媛を誅殺し、北九州を平定して、新羅征伐に向かった。 しかしながら、卑弥呼が魏から倭国王の称号を得てしまったので、卑弥呼を誅殺した事は、大国魏を敵に回す事になるので、魏志倭人伝の卑弥呼は死んだが、台与(=神功皇后)が立ったことにした。

よって、日本の正史である「日本書紀」には、魏への手前、真実を書くことが出来ず、神功皇后が卑弥呼+台与の時代を生きた事にした。  そして、神功皇后は台与として、何もなかったかのごとく、再び魏に朝貢した。   



という説を、私はとっており、この考え方の基本は、本居宣長の邪馬台国偽僭説と呼ばれているものです。 





神功皇后摂政前紀には、仲哀天皇が亡くなり、新羅を攻める直前に、橿日宮(かしひのみや=福岡市香椎)にいた神功皇后は、まず九州の平定に乗り出し、クマソを討伐させ、荷持田村(のとりたのふれ=福岡県朝倉市)の賊を平定させると、

最後には自ら出陣し、山門県(やまとのあがた=筑後国山門郡山門郷=現在の福岡県柳川市)にくりだし、この土地の女首長、田油津媛(たぶらのつひめ)を誅殺したとあります。



弥生時代の九州の人口密集地域は、吉野が里や山門のあった筑紫平野であることが分かっており、「山門」が邪馬台国北九州説の最も有力な候補地である事、またこの地に女首長がいたことを考えると、この女首長こそが偽りの卑弥呼であった可能性は大きいと思います。

また、ヒミコ(日巫女)はシャーマンの職業名であったかも知れず、もしかすると、女首長の田油津媛もヒミコと呼ばれていたのかも知れません。



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