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2010/12/12

邪馬台国と卑弥呼-23  日本人新羅王 脱解王  邪馬台国と卑弥呼

現在の韓国人の直接の祖先である新羅の王が日本人であったことが、朝鮮半島の正史「三国史記」に記されています。  それは、新羅の第四代の王である脱解王 (在位:西暦57-80年)です。

脱解王が重用したのも倭人の瓠公(ここう)であり、「三国遺事(さんごくいじ)」は脱解王を「鍛冶(かじ)」だったと記録しており、素戔男尊や天日槍は、脱解王もしくはその一族であると考えられます。  また、比売語曽(ひめこそ)が天日槍(=天之日矛)の下を去るとき、「親の国に帰る」と告げているように、朝鮮南部は日本の管轄下にあり、多くの日本人が住み着いていた証拠でしょう。

「三国志」や「後漢書」にも、弥生時代の朝鮮半島南部に鉄鉱石を求めて、日本列島から多くの人々が群れ集まっていたことが記されており、脱解王もそのひとりだと思われます。



よく、朝鮮半島の騎馬民族が日本を征服して大和政権を築いたというお馬鹿な話を信じている人を見かけますが、中国・朝鮮の歴史書にそのような記述は全くないのに対し、日本が新羅や百済を征服した記述は、中国・朝鮮・日本の歴史書にありますし、任那日本府の存在からも、日本側が朝鮮半島南部を支配下においていた事は間違いないでしょう。

だいたいにして、朝鮮半島からやってきた騎馬民族が日本を征服し、彼らの王は母国語の朝鮮語を捨て、日本語を学び、日本語を母国語と定め、彼らの王様は肉食をやめて、現地の日本人のように、米・魚を食べるようになり、その王様(天皇)は、稲作の祭祀王となり、中国・朝鮮・日本の歴史書に残っているように、自らの朝鮮半島を攻めたというのでしょうか、アホでなければジョークもほどほどにしてもらわねばなりません。

日本で稲作がはじまったのは、BC4000年頃に中国南部から伝わった陸稲で、日本最古の水田跡は佐賀県唐津市にある菜畑遺跡で、神武天皇が即位した年と同じ頃のBC600年頃のものです。

そして、朝鮮半島でみつかっている水稲栽培はAD500年くらいにまでしか遡れず、九州北部と栽培法が酷似していることや遺伝子学的に日本の古代米に満州から入った米の遺伝子が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明。  中国政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論が出ています。 

ちょうど、日本が朝鮮半島南部を支配していた時期とも重なることから、稲作は日本から朝鮮半島に伝わったとする一つの証拠にもなります。





日本が朝鮮半島南部を支配していた証拠資料を列挙しますと、

「宋書倭国伝」には倭王を新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸を軍事的に支配する「安東大将軍」に任じたと記述してあり、

「三国史記」には、「397年に百済は倭国に太子を質に出した、402年に新羅は倭国に王子を質に出した」と記述があり、

「広開土王碑」には、「もともとは、新羅と百済は高句麗の属民で朝貢していたが、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民としてしまった。」と公開した碑に刻まれていますし、

「日本書紀」にも日本が新羅・百済を支配していた記述があり、

全く違った系統の歴史書で話が一致しており、中国・韓国・日本のどの文献にも、日本が朝鮮に支配された記述はなく、日本側が支配していた事は疑いようがありません。





朝鮮半島の歴史書「三国史記」によれば、以下のように脱解王が紹介されています。

倭国の東北一千里のところにある多婆那国(丹波国)で、その王が女国の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。 王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。 しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。 やがて箱は金官国(のちの任那日本府比定地)に流れ着いたが、その国の人々は怪しんで箱を引き上げようとはしなかった。 箱はさらに流れて、辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺に打ち上げられた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。 このとき、新羅の赫居世居西干の39年(紀元前19年)であったという。 老婆がその男の子を育てると、成長するにしたがって風格が優れ、知識が人並みならぬものになった。 姓名がわからなかったので、箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたことから鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした、という。 長じて第2代南解次次雄5年(8年)にその娘を娶り、10年には大輔の位について軍事・国政を委任された。 南解次次雄が死去したときに儒理尼師今に王位を譲られかけたが、「賢者は歯の数が多い」という当時の風説を元に餅を噛んで歯型の数を比べ、儒理尼師今に王位を継がせた。儒理尼師今が57年10月に死去したときには、王(儒理尼師今)の遺命に従って脱解が王位についた。

脱解の産まれた場所を、倭国の東北一千里のところにある多婆那国と記述があるように、魏の時代の一里=435メートルで計算すると、倭国(北九州)から東北に一千里=435キロメートルのところには丹波のあたりになります。

また、丹後の「籠神社」には、古代にこの地から一人の日本人が新羅に渡って王様になったという伝説が残されており、話は一致しています。



私の見るところでは、新羅からやってきた王子、アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)はスサノオ(素戔男尊)やオオクニヌシノミコト(大国主神)は同一人物、脱解王もしくはその一族(すなわち日本人)で、金属の精錬や製鉄技術をもっており、日本に戻ってきた理由は、朝鮮半島での当時の火力は木を燃やして得るしかなかったので、森林伐採が過ぎて燃料不足に陥り、森林豊かでかつ火山活動が活発な日本に、製鉄拠点を移したのだと思います。  



日本書紀によれば、スサノオは高天原を追放され、新羅に降り立ち、ますが、「私はこの土地にいたくない」 といって粘土で船を作り、それに乗って東に向かい、出雲の国の簸川の川上にある鳥上之峯に着いたと記述されています。  

また、古事記によれば、それぞれが父イザナキに任された国を治めていましたが、スサノオだけは自分の国を治めようとせず、大人になって髭が長くのびても泣きわめきます。 父イザナキが理由を聞くと「私は亡き母に会いたくて、母が住む根の堅州国にいきたくて、泣いているです」と言います。  これを聞いたイザナキは大変怒って、「ならば、おまえはこの国に住んではならない」といい、スサノオを追放した。  という話も、朝鮮半島から日本に帰りたいと願い、帰ってきたとも解釈できます。


スサノオは新羅の人だと思い込んでいる人をよく見かけますが、日本の神々の天孫から追放され新羅に着き、「私はこの土地にいたくない」と言っている時点で、スサノオは日本人で、新羅に流されたものの、日本に戻ってきたと考えるべきであると思います。


スサノオ伝説では、古代のたたら製鉄と深く関わっているとされ、出雲は日本で最初に製鉄が始まったとされ、ふいごで強風を送って高温を作り出し、良質の鉄を高度な技術は、スサノオがもたらす強風・嵐とイメージがあいます。

「三国遺事(さんごくいじ)」は脱解王を「鍛冶(かじ)」としていた事からも、スサノオは脱解王もしくはその一族である可能性はきわめて高いと考えられます。



古代新羅の「昔」王朝は、日本人の脱解がつくった王朝です。 何故、「昔」なのかは前述しましたが、朝鮮に箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたことから鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした、という事です。  朝鮮半島の正史「三国史記」に記されています。 



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2018/6/14  1:38

投稿者:Zombie
日韓の史料を見ると新羅は倭人系の国家であることが分
かります。

『三国史記』によると新羅の祖の赫居世居西干は異国人
『新撰姓氏録』によると神武天皇の兄である稻飯命が新
羅の祖(朴氏の始祖で初代王の赫居世居西干)
『三国史記』によると新羅の建国時に諸王に仕えた重臣
である瓠公は倭人
『三国遺事』によると「朴」は辰韓の語で瓠を意味する
(朴氏の始祖である赫居世居西干と瓠公は同族とする説
がある)
『古事記』『日本書紀』によると赫居世居西干の次男ア
メノヒボコが日本の但馬国に移住
『三国史記』によると昔氏の始祖で第4代王の脱解尼師
今は倭人(多婆那国の出身。多婆那国の場所は日本の但
馬あたり)
『三国史記』によると新羅三王家の一つ金氏の始祖であ
る金閼智を発掘したのは瓠公(おそらく金氏も倭人)

2015/2/20  13:36

投稿者:乗馬
日本の馬術の記録を見ると、騎馬民族は日本には来なかった、少なくと
もとも文化的影響を残さなかった、と言える。
幕末の来日記録の「シュリーマン旅行記清国・日本」に「他の国々の習
慣とは反対に日本では右側から馬に乗ることになっている」とある。戦
国時代の宣教師も同様の観察を述べている。
もし、明治時代に洋式馬術を導入しなかったならば、自転車やバイクも
右側から乗る文化になったと思う。
 

2012/6/8  20:50

投稿者:Author
ご存知のとおり、ユーラシア大陸の東端に位置する島国の日本には、北はロシアから、モンゴル、中国・朝鮮、そして南洋と様々な人々がやってきて、日本人はそれらの人々が混血し形成されています。 現在の科学で分かっている、日本人の起源と血液型についてお話したいと思います。 邪馬台国を考えるときにも、こういった科学に基づいたベースを押さえた上で、議論しなければなりません。 約2万年前頃から、黒潮に乗り、日本に漂流してきたのは、ポリネシア人の先祖と言っても良い、南方系でO型の血液をもった人々であることは確実視されており、縄文人の祖先であります。 次に、1万4000年前頃に、「インド・満州型」と呼ばれる血液型Bの多い人たちが、シベリアから樺太・北海道を経て日本にやってきました。 そして、今から5000年〜2000年前から、「湖南型」と呼ばれる血液型Aの多い人たちが江南の地からやってきて、稲作を日本に伝えてくれました。これが弥生人で、邪馬台国をつくったのもこの人たちであります。 この3度の大きな人々の移動により、日本人の原型が形成されています。

2012/6/6  14:25

投稿者:かし
非常に、興味深い記事ですね。そこで機会があれば書いていただきたいのは、騎馬民族王朝説うんぬんというよりも、端的な、半島からの移住者の跡が見えることです。古代における墓制の変化など。積石塚古墳や3、4世紀の竪穴式石室など、半島系のしるしも、また多いという事実も否定できないと思います。

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