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2010/12/20

邪馬台国と卑弥呼-32  安曇(あずみ)氏  邪馬台国と卑弥呼
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志賀島


黄泉の国から逃げ帰ったイザナギは、体に付いたケガレを落とす為に、九州の日向の海に入って身を清めますが、


海の底で身体を清めた時に産まれたのが「底津少童命」と「底筒男命」、
海の中ほどで生まれたのが「中津少童命」と「中筒男命」、
海面で産まれたのが「表津少童命」と「表筒男命」、

底津少童命・中津少童命・表津少童命の三神をあわせて「綿津見三神」、
底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神をあわせて「住吉三神」 といい、


綿津見三神は、「漢委奴国王」と刻まれた金印が発見された福岡県の志賀島にある、志賀海神社の祭神であります。




志賀島は、古くから玄界灘沿岸の水上交通の要地として知られており、1世紀〜3世紀にかけて、邪馬台国のライバルである奴国の領域で、奴国の航海民が祭っていた海神が、綿津見三神です。

4世紀になり、大和朝廷が九州を制圧したとき、志賀島を本拠地とする航海民は、大和朝廷に従い、安曇氏と呼ばれるようになります。  


安曇という名将は、「あま(海)つみ(津見)」が訛ったものですが、大王の下で、海の神を祭る豪族が安曇氏であります。

安曇氏は、4世紀初頭に九州から近畿地方に進出し、摂津国阿曇江(現在の大阪市)を本拠とし、それ以来、大和朝廷の水軍として活躍し、その功績が認められ、全国各地の航海民の支配者としての地位を授けられました。

当時の人々は、航海民のことを「海人(あま)」と呼んでいましたが、安曇氏の配下に組み込まれた航海民は、「海部(あまべ)」と呼ばれるようになってゆきます。

阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美半島・阿積・泉・熱海(伊豆)・安曇野市(長野県)・飽海郡(山形県)などの地名は、安曇一族が移住したことからきています。

また、安曇氏の起源は、中国大陸の揚子江流域に住む舟の上で生活する種族であったとされ、奴国を建国したとする説があります。  BC5世紀に呉越戦争に敗れた呉の国の人がボートピープルとなって日本にやってきたのでしょう。



ちなみに住吉三神を祭った豪族は津守(つもり)氏ですが、津守の名称は、摂津の住吉(現在の大阪市)の津を守ったことから名づけられたものです。






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