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2011/8/27

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梁職貢図新羅題記


韓国古代社専攻の仁川(インチョン)都市開発公社ユン・ヨング博士は去る20日西江(ソガン)大茶山館で行われた新羅史学会(フェチャン、キム・チャンギョム)第107回学術発表会を通じて中国で最近発見報告された梁職貢図題起を分析、紹介しました。

その内容は、韓国古代史研究の第1級資料の中の一つと見なされる梁職貢図から永遠に消えたと見なされた新羅と高句麗に対する簡略な説明の題記が最近発見されたもので、特に今回発見された新羅に対する題記には新羅が倭の属国という一節があり、任那日本府説とかみ合わさり、韓国で話題となっています。

今回の発見は広開土王碑や隋書倭国伝、宋書倭国伝に書かれている内容が正しいという裏付けになるものです。


だいたいにして、朝鮮の正史「三国史記」に、日本人新羅王の「脱解」、また百済王子「豊璋」が人質として日本に差し出されていた事を自ら書いてあるのですから、何ら驚くものではありません。



百済・新羅は日本の属国
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1398.html
日本の属国であった新羅と百済
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1044.html
日本人新羅王 脱解王
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1270.html
日本文明
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1082.html 





-------------------------- 梁職貢図新羅題記 --------------------------


(ソウル=聯合ニュース)キム・テシク記者=韓国古代史研究の第1級資料の中の一つと見なされる
梁職貢図から永遠に消えたと見なされた新羅と高句麗に対する簡略な説明の題記が最近発見された。

特に今回発見された新羅に対する題記には新羅が倭の属国という一節があっていわゆる任那日本府説とかみ合わさって論議がおきる展望だ。

韓国古代社専攻の仁川(インチョン)都市開発公社ユン・ヨング博士は去る20日西江(ソガン)大茶山館で行われた新羅史学会(フェチャン、キム・チャンギョム)第107回学術発表会を通じて中国で最近発見報告された梁職貢図題起を分析、紹介した。

ユン博士は今回公開された梁職貢図題記を南京博物館旧蔵本の梁職貢図版本と比較した結果、「新羅と高句麗を含んだ7ヶ国の題起は完全に新しく出現した資料で、合わせて百済と倭国をはじめとして既に知らされた9ヶ国の題起も内容で差が小さくない」と話した。

(中略)

ユン博士はこの内容中でも新羅が倭国に属したりもしたという言及が新しく現れた大きな課題であり、これをどのように受け入れるかよって歴史学界で論議が広がることがありうると付け加えた。

(以下略)



http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=103&oid=001&aid=0005224764




------------------------- おまけ  白村江の戦い -----------------------


百済最後の義慈王(在位:641年 - 660年)の王子である扶余豊璋(ふよほうしょう)は、日本と百済の同盟を担保する人質で、「三国史記」百済本紀には義慈王13年(653年)倭国と通好すとあるので、この頃に日本に来たと思われますが、いずれにせよ百済王の子供を人質にとっている訳ですから、広開土王陵碑にもあるように、日本側が支配していたと考えられます。  

しかしながら、日本側も決して扶余豊璋を人質とはいえ、粗末には扱っておらず、太安万侶の一族多蒋敷の妹を豊璋に娶わせるなど、待遇は賓客扱いで、決して悪いものではありませんでした。



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660年(斉明天皇6年)、新羅からの救援要請を受けて唐が軍を起こし、同年に唐・新羅連合軍によって百済が滅亡。  

唐は百済の旧領を郡県支配の下に置くものの、すぐに百済遺民による反抗運動が起き、済の遺臣は、鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請します。

この同盟国である百済の要請を受け、立ち上がったのが中大兄皇子(後の天智天皇)で、これが白村江の戦いです。  倭軍は661年5月に出発し、倭国の倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功します。




倭国の兵団が、難波から九州へ向かう途中、伊予の熟田津(にぎたつ)[現在の愛媛県松山市]で、額田王(ぬかたのおおきみ)が読んのが、万葉集に収められている、有名な熟田津の歌です。


「 熟田津に 船乗りせむと 月待てば  潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 」


[ 訳 ] 

熟田津に出動の時を待っていたが、明るい月も出た。 
             潮の加減も申し分ない。 さあ、全船団よ、今こそ漕ぎ出せ。



額田王
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/846.html




しかしながら、唐も増援の劉仁軌率いる水軍7000名を派遣。 倭国・百済にとって、百済王の太子豊璋王を擁立し、百済復興が戦いの目的であったにも関わらず、豊璋は高句麗へ逃亡。

この戦いのアイデンティティを失った倭国・百済軍は、唐・新羅軍に対し、雪崩を打つかのごとく総崩れとなり大敗。  豊璋は捕らえられ、唐の都に連行された後、嶺南(中国南部)地方に流刑。



白村江で大敗した倭国水軍は、各地で転戦中の倭国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐水軍に追われる中、やっとのことで帰国し、ここに多くの百済人が日本に住み着くことになりました。   



中大兄皇子は、白村江の戦いで大敗を喫した後、天智6年(667年)に大津(滋賀県)に遷都し、そこで天智天皇として、天智7年668年に即位。



これが正式に認められている確固たる歴史的事実で、百済人が日本にやってきて、日本人を征服したのではありません。



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タグ: 倭の属国 新羅 百済

2011/8/27  19:55

投稿者:Author
■広開土王碑■
百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。而倭、以辛卯年[391]來、渡毎破百殘、更□新羅、以爲臣民。
百済と新羅は高句麗の属国だったが、391年に日本が海を渡って攻めてきて百済を打ち破り、さらに新羅も打ち破って属国にした。
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■隋書 巻八十一 東夷伝 倭国 隋書 原文
右4行目から五行目
「新羅百済皆以倭為大国多珍物並敬仰之恒通使往来」
「新羅と百済は日本を大国で珍しい物が多い国だとしており、ともに日本を敬い 仰ぎ、つねに使いを送り、往来している 」
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■宋書 巻九十七 夷蛮伝 倭国■
興死弟武立 自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王(中略)…詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王
倭王武の時代に宋から使持節郡督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王の称号を受ける。
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■三国史記 新羅本紀■
倭国と好誼を通じ、奈勿王の子未斯欣を人質とした。
均貞に大阿滄を授け、仮に王子として倭国に人質として送ろうとした。
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■三国史記 百済本紀■
(阿宰)王は、倭国と好誼を結び、太子の腆支を人質とした。太子であった扶余豊は、かつて倭国に人質となっていた。
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2011/8/27  19:35

投稿者:Nishitatsu1234

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