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2011/11/6

邪馬台国と卑弥呼-158  天之日矛 と 都怒我阿羅斯等 そして 素戔嗚尊  邪馬台国と卑弥呼
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牛角形銀製頭飾り  幅80cm×高さ84cm 中国貴州省苗族雷山点東地区

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苗族の祖、蚩尤(しゅう)


苗族は農耕を主要な生業としており、水牛は苗族にとって生活の上で欠かすことのできない重要な家畜であります。 

邪馬台国と卑弥呼-157  苗族と水牛
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1534.html

また、苗族の祖、蚩尤(しゅう)も頭に角が生えており、素戔嗚尊は牛頭天王と呼ばれますが、名のとおり頭に牛の角が生えていたとされています。 同じく加羅からやってきた都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と新羅からやってきた天之日矛(あめのひぼこ)は同一人物とされていますが、都怒我阿羅斯等にも角が生えておりました。 また、戦の神である兵主神である天之日矛ですが、苗族の祖、蚩尤も戦の神、兵主神であったことからも、天之日矛や素戔嗚尊が苗族の人であったであろう事が一致します。

邪馬台国と卑弥呼-43  苗族と素戔嗚尊
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1290.html

「唐書」に新羅は苗族の子孫で、昔の弁韓だと書かれており、弁韓は、任那のある辺りです。 新羅の初代国王・赫居世(ヒョッキョセ)王は、倭人で海を渡って来たと、朝鮮の古代史「三国史記」に書かれています。 また、後漢書、三国志によると、弁韓の南に漢族とは異なる分身の習俗を持つ倭人のいた事が記されており、その彼らの国は加羅(から)、または伽耶(かや)と称されています。

朝鮮には朴、昔、金の三王朝がありますが、赫居世は朴王朝、また昔王朝も倭人の脱解が開いた王朝である事が、朝鮮の正史「三国史記」に書かれています。 紀元前から、日本と新羅は、苗族であり、行き来をしていたと思われます。 当時の倭国の範囲は、北九州と南朝鮮一帯であります。


邪馬台国と卑弥呼-150  倭国
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1526.html
邪馬台国と卑弥呼-23  日本人新羅王 脱解王
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1270.html

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素戔嗚尊は、イザナギから新羅を治めるよう命じられますが、「母イザナミ」のところに行きたいと泣きじゃくり、その後、根の国の出雲に降り立ち、ヤマタノオロチを退治して奇稲田姫(=櫛名田比売:クシナダヒメ)と結婚します。

邪馬台国と卑弥呼-155  大和撫子
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1532.html

古代日本、そして中国南部からインドシナ北部にある歌垣というものがありますが、中国貴州省南東部のミヤオ族の場合では、歌垣はミヤオ語で遊方といい漢語では揺馬郎といい、男女が集会し相互に掛合歌をうたうことによって求愛し,あるいは恋愛遊戯をする習俗があります。 歌垣は,元来は集団的な成年式だったと考えられており、歌垣で婚約してその後、多くの場合は収穫後に結婚式を挙げるというのが古い形式であったとされています。

実は、記録に残る限り、素戔嗚尊が日本ではじめて歌垣を行った人であり、日本で最初の和歌は素戔嗚尊が詠んだものであります。 これからも、素戔嗚尊は苗族であった可能性が高いと思われます。

古事記によると、ヤマタノオロチを退治した後、老夫婦の許しを得てイナタヒメを娶ると、素戔嗚尊は新居を造るべき土地を出雲で探し、須賀(すが)の地が気に入ったので、そこに宮を建てて住みました。 そのとき、素戔嗚尊が妻を娶ったことを喜び、詠んだ歌が、

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」

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八重垣神社  島根県松江市



天之日矛に関して、「古事記」によれば、

昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、アメノヒボコと出会った。ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。

ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾神社に逃げた。 ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚したとしている。

とあるように、天之日矛の正妻であるアカルヒメは日本から新羅に行っていたことになり、前述のように、倭も新羅も中国南部からやってきた苗族がつくった国で、行き来は良くあったのだと思われます。 アカルヒメが日本に変える、また素戔嗚尊も日本に帰ってきたと記述されていますので、彼らは日本人であるということになります。

*「唐書」に新羅は苗族の子孫で、昔の弁韓だと書かれており、弁韓は、任那のある辺りです。 新羅の初代国王・赫居世(ヒョッキョセ)王は、倭人で海を渡って来たと、朝鮮の古代史「三国史記」に書かれています。 

また、その後、高句麗、新羅、百済と朝鮮半島も独立国ができますが、倭国(日本)が新羅と百済を属国にした事が、中国・朝鮮・日本の正史に書かれていることからも、日本と朝鮮半島の南部の交流は深かった事が伺えます。


一級資料見つかる 新羅は倭の属国
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1496.html
日本の属国であった新羅と百済
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1044.html


日本が朝鮮半島南部を支配していた証拠資料を列挙しますと、

「宋書倭国伝」には倭王を新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸を軍事的に支配する「安東大将軍」に任じたと記述してあり、

「三国史記」には、「397年に百済は倭国に太子を質に出した、402年に新羅は倭国に王子を質に出した」と記述があり、

「広開土王碑」には、「もともとは、新羅と百済は高句麗の属民で朝貢していたが、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民としてしまった。」と公開した碑に刻まれていますし、

「日本書紀」にも日本が新羅・百済を支配していた記述があり、

全く違った系統の歴史書で話が一致しており、中国・韓国・日本のどの文献にも、日本が朝鮮に支配された記述はなく、日本側が支配していた事は疑いようがありません。




ここで、共通しているのが、鉄器(刀・武器)に関する武人が新羅から日本に帰ってくるというものですが、



私の見るところでは、新羅からやってきた王子、アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)、加羅からやってきたツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)はスサノオ(素戔男尊)やオオクニヌシノミコト(大国主神)は同一人物、脱解王もしくはその一族(すなわち日本人)で、金属の精錬や製鉄技術をもっており、

日本に戻ってきた理由は、朝鮮半島での当時の火力は木を燃やして得るしかなかったので、森林伐採が過ぎて燃料不足に陥り、森林豊かでかつ火山活動が活発な日本に、製鉄拠点を移したのだと思います。
  




苗家美
http://www.youtube.com/watch?v=_hLaJFjqjPQ&feature=related
阿幼朵 - Keaide Miao Xiang
http://www.youtube.com/watch?v=FM74XdWTXMo&feature=related


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