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2006/4/2

デュポン-3  国際政治・金融・企業

デュポン一族の乗船したアメリカン・イーグル号は、大西洋を90日間かけて渡り、1800年の元旦にロードアイランド沖のブロック島の港にたどり着きました。

ある日のこと、ピレーネ・デュポンの息子エルテール・イレーネ(彼の名前が、デュポンの社名「E・I DuPont」のE・Iの部分)は、ワシントンの軍隊に加わり、歴戦したフランス人仕官と狩猟に出かける事になりました。

獲物はたくさんいて、火薬が足りなくなってしましまい、やむをえず狩りの途中で、火薬を買いにいく事になりましたが、化学を学んだエルテール・イレーネは、火薬の質の悪さに驚き、価格も非常に高い事を見抜きました。

その後、いくつかの火薬工場を視察しましたが、どれもお粗末な物ばかりであり、恐れるに足らないと思ったエルテール・イレーネは、デュポン家で火薬を作るべきであると父に提言し、父ピエールの友人である化学者アントワーヌ・ラボワジエに師事を託しました。


彼は、火薬工場の見積もりをつくり、資金や資材を用意するために、フランスに渡ります。 この頃、ナポレオン・ボナパルトはイギリスを敵対視しており、当時イギリスは各国に火薬を輸出していたので、ナポレンは「もしデュポンがアメリカの火薬市場を支配するなら、イギリスは打撃を受けるだろう」という読みで、デュポンに対し、全面的な援助を与えるよう政府当局に指示を出します。 またこの時、ナポレオン・ボナパルトからは、火薬製造機械を原価で仕入れることにも成功しました。

そうして、デュポンは豊富な資金と、物資を手に入れることになり、デラウエア州にデュポンの設立計画が始まりました。  デュポン社に、フランス政府が出資し、デュポン一族が株の30%を保有し、1802年にはピエール・デュポンと一緒に渡米した息子エルテール・イレーネが火薬の製造にとりかかりました。

火薬の製造が始まると、最大の顧客はイギリスに戦闘準備を進めていたアメリカ政府と、毛皮貿易のためにインディアン討伐に火薬を求めたアメリカ毛皮会社のアスター家でありました。

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