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2013/10/29

荒神谷遺跡の銅剣  日本・天皇・神道・記紀神話
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荒神谷遺跡と発掘された銅剣



荒神谷遺跡は昭和58年(1983年)広域農道(出雲ロマン街道)建設にともなう遺跡分布調査で、調査員が田んぼのあぜ道で一片の土器(古墳時代の須恵器)をひろった事がきっかけとなり発見されました。 遺跡の南側に『三宝荒神』が祭られている事から荒神谷遺跡と命名され、翌昭和59年、谷あいの斜面を発掘調査したところ、358本の銅剣が出土しました。



これらの銅剣は、実用性がないものとされているので、祭祀用に用いられたと推測されています。


358本の銅剣は、きっちり4列にまとめて箱に納められていました。 発掘担当者は、その4列を西側からA列・B列・C列・D列と名付けました。

A列は34本、B列は111本、C列は120本、D列は93本と、同数でないことから、列ごとの銅剣の本数には何らかの意味があると考えられます。

銅剣の置き方も、列によって異なり、A列は剣先を東に向けたものと、西に向けたものを交互においています。

B列のものは谷側の4本だけが剣先を西に向け、それ以外は東に。

C列とD列では、剣先がすべて東に向けられています。



これらが祭祀用に用いられたのだとすると、これらの銅剣を祀っていた神社が在った筈で、この銅剣の数は、当時の出雲地方の神社の数と考えるのが自然でしょう。

実際、「出雲国風土記」に記された神社の総数399社で、銅剣の本数358本という数が極めて近いのです。

「出雲国風土記」にある4つの地域の神社は、意宇郡67社、島根・秋鹿・楯縫の三郡は113社、出雲郡122社、神門・飯石・大原・仁多四郡は97社であります。




「出雲風土記」には意宇郡に67社あったとしますが、国衙(こくが)がおかれた意宇郡には奈良時代に中央から移住してきた豪族がかなりいて、彼らがつくった神社も多くあります。 すなわち、A列の銅剣の数34本は、古い時代の意宇郡にあった神社の数に対応していると考えられます。


B列の111本は、島根・秋鹿・楯縫の三郡113社に対応しており、

C列の120本は、出雲郡122社に対応、

D列の93本は、神門・飯石・大原・仁多四郡97社に対応していると推察されます。



太陽信仰、銅鏡を重視する大和朝廷に、出雲が国譲りした際、大和朝廷が出雲の銅剣を荒神谷に埋めてしまい、

銅剣を祭祀の道具として用いた大国主信仰の出雲を、銅鏡を祭祀の道具として用いた天照信仰=太陽信仰に、変えて、国内統一したのではないでしょうか。





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