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2005/5/22

額田王(ぬかだのおおきみ)  宗教・思想・哲学・文学・芸術

才色兼備で有名な額田王は、大海人皇子(=後の天武天皇)の妻で、2人の間には、
十市皇女がいました。

しかしながら、なんと大海人皇子の兄である天智天皇が、額田王を横取りしてしまいま
す。  天皇という権力の前には、どうしようもなかったのでしょう。



額田王が、大海人皇子と不仲で別れたわけでない理由に、次の有名な歌があります。

これは、天智天皇が即位し、大津宮に遷都した668年の5月に、一大行事として、全て
の貴族、豪族、女官に命令が下り、近江の蒲生野で、遊猟が行われた時の事です。

既に、天智天皇の妻となってしまった額田王と、大海人皇子が偶然出会い、額田王が詠
んだ歌が、



あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る

訳) 「紫野」に行ったら、標野に行ったり、そのときどきに、あなたが私に袖を振ります。 野守(猟場の番人、もしくは天智天皇)が見たら、どうするのですか」



そして、大海人皇子は返します。



紫の 匂へる妹を 憎あらば 人妻ゆへに われ恋ひめやも

訳) 「紫草のように匂うがごとく美しいあなたを、憎く思えるのであれば、もう既に人妻であるあなたを、こんなに恋しくは思わないだろうに」



昔から日本の風習として、着物の袖を縦に振るのは了承、横に振るのは拒否を示します。   今日でも、我々は「袖にする」「振る」という言葉を使い、「振袖」に対し、「袖を振る立場にない」すなわち、結婚している人の着物として「留袖」が作られました。



私も、額田王の歌は、艶があり好きですが、娘の十市皇女の悲劇には心を痛めます。

十市皇女は、大海人皇子の息子である高市皇子と恋愛していましたが、母が天智天皇に嫁いだ事から、十市皇女は高市皇子との関係は引き裂かれ、天智天皇の息子である大友皇子と結婚し、葛野王を生みました。

しかし壬申の乱では、十市皇女にとって、実の父である大海人皇子と、夫である大友皇
子の戦いになってしまい、夫である大友皇子は戦いに敗れました。


この内乱の後、額田王と十市皇女は天武天皇(=大海人皇子)に助け出されましたが、
既に天武天皇は後の持統天皇と結婚しており、哀れな二人の女性と幼子の居場所はありません。

三十歳の若さで、十市皇女は亡くなったとされていますが、恐らく愛する幼子を残しての、自殺でしょう。


十市皇女が亡くなったのを知った、元恋人の高市皇子の挽歌が、



三諸(みもろ)の 神の神杉(かむすぎ) 夢のみに見えつつ共に 寝ねぬ夜ぞ多き

訳) 「三輪山の神々しい神杉のようなあなた、夢にみつつも共に寝ぬ夜が、多かった事だ」



また、675年2月に額田王、十市皇女、幼子の葛野王の三人が、伊勢神宮にお参りした
時に、侍女が十市皇女に詠んだ歌が、



河のへの 斎(ゆ)つ岩群(いわむら)に 草むず常にもがもな 常処女(とことめ)にて

訳) 「河の流れに洗われて、苔の生えない岩々のように、永遠に清らかな乙女のようであって欲しい」



おそらく、若くして精神的にあまりに深い傷を負った、十市皇女を見かねての歌だと思います。  時代に翻弄され続け、あまりに悲しい運命を辿った彼女に、心を痛めずにはいられません。


シェクスピアの物語に、 「世の中に、これほど悲しい話は聞いた事がない・・・」 という一節がありますが、これは実話です。



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